ひーちゃんの外法旅行(7)
風祭「へ…へ…へっくしょっ!!」
龍麻「澳継、汚い。唾飛んできた」
風祭「バカ野郎! 誰のせいでこんな…へ、へっくしょ!!」
天戒「澳継、お前も湯に浸かってくるがいい。このままでは本当に風邪を引くぞ」
風祭「くそう…そもそも何で龍麻が俺より先にあったまってんだよ…」(文句を言いながら部屋を出て行く風祭)
龍麻「だから一緒に入ろうって言ったのに」(ぼそり)
風祭「誰が入るか(焦)!!」(廊下から叫ぶ風祭。ちゃんと聞こえていたらしい)
天戒「ははは。それより龍麻、お前は大丈夫か。山の雨は冷たかっただろう」
龍麻「俺は平気。でも焦った〜。だってここの女の人たち、俺の事洗う洗うってみんなで風呂場に入ってくるんだもん」
天戒「ん……?」
龍麻「もうさ、俺は天戒と違ってああいうのに慣れてないんだから、ヘンな気回させないでよ。余計に体温上がっちゃったじゃん」
天戒「何の事だ、俺は何も言っていないぞ。屋敷の女たちは皆自ら望んでお前の背中を流しに行ったのだろう」
龍麻「は?」
天戒「お前は気に入られているという事だ」(何やら楽しそうに酒を煽る天戒)
龍麻「あ、あれって天戒、いっつもされてるわけじゃないの?」
天戒「バカを言うな。俺はごめんだ」
龍麻「ええ〜そ、そうだったのか…。俺はこの時代の偉い男の人ってのは、みんな女の人に背中流させてるんだと思ってた…」
天戒「……龍麻の話はよく分からないが、どうにも曲がった認識を持たれていたようだな」(苦笑)
龍麻「むう。でもお前の子孫もいい加減、女好きだぜ?」
天戒「子孫……?」
龍麻「あ…あはは、何でもない(焦)!」
天戒「……ともあれ、少しは元気になったようだな」
龍麻「え?」
天戒「お前の顔だよ。先刻より随分明るくなった」
龍麻「あ…うん。へへ…ご飯もいっぱい食べたしね」(恥ずかしそうに俯く龍麻)
天戒「……………」
龍麻「さっきのさ…はは、忘れてくれよな」
天戒「ん……」
龍麻「妙に愚痴っちゃったけど。俺は大丈夫だから」
天戒「………そうか」
龍麻「うん」
天戒「……………」
龍麻「……うんと。じゃあ、俺、そろそろ寝るね」
天戒「ん…そうか…」
龍麻「うん。明日また早く起きて、今度こそ翡翠を見つけに行かなきゃ」
天戒「そうだな」
龍麻「うん。あ、でも…また明日も澳継一緒に行ってくれるかな」
天戒「ああ、行かせよう。もっとも、俺が何も言わずとも、あいつは行くさ」
龍麻「そうかな〜。すごい文句言いまくりだったんだよ。『にせたんたんのせいで俺がこんな面倒臭い事を』とか何とか」
天戒「ふ…そうか」
龍麻「それじゃあ、天戒。おやすみ」
天戒「ああ、よく休むといい」
龍麻「うん」(言って龍麻は座敷を出て行った)
天戒「…………緋勇龍麻、か」(龍麻の去って行った方向を黙って見つめる天戒)
その夜。
鬼哭村を激しい雨が襲った。
地の底まで響かんほどの雷の音。屋敷中を震わすほどの強い風。そのいずれもが、暗く不吉なものの前触れのように龍麻には感じられた。
なかなか寝付けずに龍麻はごろごろと寝返りを打った。
その隣では風祭が実に気持ち良さそうな顔で寝入っている。龍麻はそんな風祭をじっと見やってからため息をついた。
みんな、どうしているだろうか。
ガタガタガタ。
戸が風に押されて音を立てる。
ザーザーザー。
雨の落ちる音が痛いほど耳に響く。
龍麻は我慢できずに、上体を起こした。
天戒「どうした」
龍麻「あ………」
天戒「眠れないのか」
龍麻「うん…」
天戒「……………」
龍麻「天戒は?」
天戒「…そうだな。俺も同じだな」
龍麻「……天戒、俺―」
天戒「外に出る事はならんぞ」
龍麻「え………」(驚いたように天戒を見上げる龍麻)
天戒「……………」
龍麻「ちょ、ちょっとだけだから。すぐ戻ってくるし―」
天戒「この激しい降りの中、一体何処へ行こうというのだ」
龍麻「……………」
天戒「この村は嫌いか」
龍麻「そういう事じゃなくて……」
天戒「龍、も―」
龍麻「え……?」
天戒「緋勇龍斗。俺の友の名だ。お前に会わせたい男」
龍麻「あ…うん」
天戒「あれもこんな月の見えない夜には、ふっと出掛けて姿を消す。戻って来た時はいつものように笑んでいるが…何処へ行っていたかは、教えてはくれぬ」
龍麻「……………」
天戒「俺は時々、そんなあいつの事をひどく恨めしく思う」
龍麻「……その人が自由だから?」
天戒「ん……そうだな」
龍麻「天戒は…自分の好きな時に好きな所へ行ったりは出来ないもんな」
天戒「……ああ」
龍麻「………時々さ。何もかも捨てて何処かへ行きたくなる事、ある?」
天戒「……………」
龍麻「何もかもどうでもいいやって思って、みんなのいない所へ行きたくなる事ある?」
天戒「………ないな」
龍麻「……………」
天戒「それはない。ここは俺の…愛すべき場所だからな」
龍麻「……そうか」
天戒「……………」
龍麻「やっぱり天戒はすごいや。俺なんかとは似ても似つかない」
天戒「龍麻」
龍麻「ねえでも…俺も緋勇龍斗に会えば、何かを見つける事ができるかな」
天戒「……そうだな」
龍麻「そうだといいな」
屋敷の使用人「御屋形様ッ! 大変でございます―ッ!!」
天戒と龍麻の会話が途切れた丁度その時、不意に渡り廊下の端から使用人が慌しく駆けてきた。
それと同時に、俄に屋敷中が、いや村全体が騒々しくなる。
天戒と龍麻ははっとして外の状況に意識を向けた。
天戒「何事だ」
使用人「はっ。先ほど村の入り口で落雷が…ッ! 見張り搭に火が移りまして、表門の方でも大木が倒れるなどの被害がッ」
天戒「怪我人は」
使用人「見張り役の者が何人か…ッ。今、男たちをかき集めて火を消しておりますが…ッ」
天戒「すぐ行く」
使用人「御屋形様ッ! そ、それにどこから出て来たのか、見た事もない異形までもが…!」
龍麻「!?」(ぎくりと肩を震わす龍麻)
天戒「………澳継を起こして来てくれ。俺は先に行く」
使用人「ハッ!」(言って風祭の寝所へ駆けて行く使用人)
龍麻「天戒、俺も行くよっ!」
天戒「………」(外に向かいながらちらりと龍麻を振り返る天戒)
龍麻「お、俺の…俺の、せいだから…ッ!」
天戒「……龍麻。俺から離れるな」
龍麻「うん……ッ」(だっと足を速めて天戒の後ろにつく龍麻)
村の外は混乱を極めていた。
雨は依然、辺り一帯に激しく降り注いでいる。その上、人々を脅かす雷光。強風。
そして、村の入り口の方ではぼうっとした赤い光が見える。火の手だ。
近づくごとに聞こえる男たちの怒号、叫び。女たちの悲鳴、泣き声。
龍麻は知らぬうちに自らの身体が震えるのを感じた。
村人A「あっ、御屋形様ッ!!」
村人B「天戒様―ッ!!」
村人C「申し訳ございません、入り口の護りが…」
天戒「構わぬ。皆、無事か」
村の子供「あーんあーん怖いよー」
村人D「もう大丈夫だよ、火ももうすぐ消えるからね」
村人E「天戒様が来て下さったら、もう安心だよ」
天戒「異形が出たと聞いたぞ。何処だ」
村人A「はっ。それが緋勇様が―」
天戒「龍が!?」
村人A「我らには一刻も早く火を消すようにと言い残され、あの化け物を村外れにまでおびき寄せて―」
龍麻「………ッ!」
天戒「! 龍麻! 待て、一人で行くな!」
龍麻は天戒が止めるのも聞かずに、一人走り出していた。
雨はより一層激しく、龍麻の行く手を塞ぐように痛いほどの雨粒を叩きつけてくる。それでも龍麻は走り続けた。
緋勇龍斗の気配を感じるままに。
龍麻「あ………」
やがて龍麻は、村から少しばかり離れた場所にうっすらと立つ人の影を見つけた。
木々に囲まれて、また雨に遮られてはっきりとは確認できない。
けれどその人物が発しているのだろう、仄かな光に龍麻は目を細めてその姿を捉えようとした。
その影は、黒髪の男。
その者は片手一つで巨大な異形の足らしき部分を一掴みにすると、そのまま、ぺしゃりと。
まるで水風船を割るように異形を潰してしまった。
血には見えない液体のようなものが、異形の潰れた身体から流れた。
男は自分の掌に流れるそれをじっと見やった後、くるりと振り返った。
そして龍麻を見た。
龍麻「……緋勇龍斗?」
龍麻はつぶやきながらゆっくりと男に近寄った。徐々に相手の姿がはっきりとしてくる。
男は振り返った当初は長い前髪の奥からじっと龍麻を見やっていたが、やがてふいと視線を逸らした。
それからどことなく他人事のような顔で異形の血で濡れた掌をぼうっと眺めた。
龍麻はたまらなくなり、再度男に声をかけた。もう龍麻と男との距離はすぐ間近だった。
似ている、と思った。向こうの方が少しだけ背が低いように見えたけれど。
龍麻「緋勇龍斗だろ?」
龍斗「…………」
龍麻「何で…応えてくれないの?」
龍斗「………お前の事を俺は知らない」
龍麻「あ………」
龍斗「相手の名前を知りたければ、まず自分が名乗る事だ。そう、誰かに習わなかったか」
龍麻「あ、習った…翡翠に…」
龍斗「翡翠が泣くぞ」(男は龍麻の言葉でうっすらと笑んだ)
龍麻「ご、ごめん。俺、緋勇龍麻って言うんだ」
龍斗「緋勇龍麻」
龍麻「う、うん。あんたと一緒だよね」
龍斗「……………」
龍麻「緋勇、じゃないの?」
龍斗「そうとも言う」
龍麻「え?」
龍斗「緋勇…。俺はその名が嫌いでね」
龍麻「え………」
龍斗「だが、生まれた時にはもうその名がついていた。全く理不尽な話だ」
龍麻「う、うん…? (それは俺もそうだけど…)」←心で思いつつも何だか言えない龍麻
龍斗「だから俺はあまり緋勇と呼ばれるのが好きじゃないんだ」
龍麻「そ、そうなんだ。じゃあ、何て呼んだらいい?」
龍斗「俺のあだ名、知りたいか?」
龍麻「え?」
「緋勇龍斗」はそれだけ言ってから不意に黙りこみ、尚も降り続く雨空を鬱陶しそうに見上げた。
そうしてしばらくしてから、戸惑う龍麻に視線を戻して言った。
龍斗「俺のあだ名はひーちゃん」
以下、次号………