第3話 血の海地獄



「くれはのおにいちゃん」
「紅葉でいいよ。龍麻」
「……くれは?」
「そうだよ」

  ふかふかの白いタオルで、壬生は龍麻の埃に塗れた顔を丁寧に拭いていた。
  龍麻が心配で、どうしても放っておけなくて。美里葵の後をつけた。真神の連中も影でコソコソ動いていたから何かやらかすだろうと思っていたが、彼らはとんでもない事に、龍麻の部屋に閃光弾と発炎筒を投げ込んだのだ。

「まったく…。幾ら何でもやり過ぎだよ。龍麻に何かあったらどうするつもりだったんだろうね」
「なに?」
「ん…。何でもないよ」

  恐らくはその時のドタバタでここまで汚れてしまったのだろう。煤っぽい顔だけでなくボサボサの髪の毛も丁寧に指先で梳いてやりながら、壬生はちらと背後の扉に目をやった。
  ここは一度も使った事のない郊外のビジネスホテルで、尾行されたなどという事がない限り、誰に気づかれる心配もない。
  それでも壬生は警戒の念を緩められず、自然厳しい顔をしてしまった。

「おにいちゃん……」
「!」

  そのただならぬ雰囲気は敏感な龍麻にも伝わってしまったらしい。
  不安そうな顔をして泣きそうになるちび龍に、壬生は焦ったように何度か瞬きした。

「ごめん、龍麻。何でもないんだよ」
「……うそ」
「なん…で、そう思うんだい?」
「みさとおねえちゃんも、ほかのおにいちゃんたちも。さがしてるもん」
「分かるの?」

  驚きに満ちた目で幼い龍麻を凝視すると、龍麻はひくっと喉を鳴らしてから再び怯えたような顔をして頷いた。

「………だからって」

  健気な龍麻を見ていると今すぐ抱きしめたくなる。壬生は思い切り途惑った風になりながら精一杯平静を装って微笑んだ。

「龍麻を誰にも渡しはしないから。龍麻を怖い目にも遭わせない。約束する」
「……おにいちゃん」
「紅葉」
「く、くれは…」
「そう」
「……まもる?」
「そうだよ」

  同じ目線から優しく頭を撫でてやると、龍麻はようやく緊張で強張らせていた肩から力を抜いたようだ。未だ壬生を不思議そうに見上げてはいるものの、もう「帰る」とは言い出さなかった。

「そうだ、龍麻。顔拭いただけじゃ綺麗にならないし。お風呂入る?」
「おふろ?」
「そうだよ」

  因みにこの時の壬生に、美里葵やその他の真神メンバーのような「邪な考え」というものは存在していない。壬生にとって緋勇龍麻という存在は己の遥か頭上、輝かしい不可侵な場所に君臨している「特別」である。
  ……もっとも、壬生が如何にそのような事を主張したとしても、他の仲間たちは皆一様に「お前は自分を偽っている!」と叫んだであろうが。

「うん。おふろはいる!」

  ただ、そんな壬生に龍麻も美里に感じたような不穏なものは一切抱かなかったのだろう。無邪気な顔をして勢いよく頷くと、にっこりと笑った。

「くれはのおにいちゃんもいっしょ?」
「え?」
「いっしょにはいる?」
「………………」

  壬生が石化して暫し動けなくなるのをよそに、龍麻の方は元気を取り戻してきたようだ。はじめこそ人見知りをしたように壬生を恐る恐る窺い見ていたものの、「ここが安全」という事は風呂を使えばという提案によって信頼に足るものだと思ったらしい。

「わあい」

  にこにことはしゃいだように笑った龍麻はやっと小さな子どもらしく部屋の周りをバタバタと駆け回ると、一足先に浴室へ走って行ってしまった。

「あ…龍麻」

  壬生が我に返ったのはその時だ。
  そうだ、何を途惑う事がある。龍麻はあんなに小さいのだし、その小さい龍麻に自分が欲情するわけもない。確かに同じ年の時の龍麻には崇高な念と同時に時折恋というか愛にも似た感情を抱く事があるけれど、幾ら何でも自分はあの真神の連中とは違う。
  小さい子どもと風呂に入る事に臆するなんてどうかしている。

「龍麻、一人で行ったら駄目だよ」

  ようやく自身を納得させた壬生は、そこまで考えると慌てて浴室へ向かい、龍麻に声を掛けた。

「………ッ」
「くれはおにいちゃんー。ぼく、さきにはいるー」

  龍麻は壬生がドアを開いて入ってきたのを認めると、またしても無垢な笑顔でにこりとし、その後勢いよく浴室内への扉を開いた。どうでもいい話ではあるが、ちびでも良い子な龍麻は、脱いだ衣服もきちんとたたんで傍にちょこりと置いている。
  もっともこの時の壬生に龍麻以外のものなどまるで目に入っていなかったのだが。 

「……ぅ…!」
「!! お、おにいちゃん!?」

  突然がくりと膝を折った壬生に龍麻がハッとして声を掛けた。開けかけたドアから手を離し、急いで傍に戻ってくる。
  戻ってこなくていいのに。
  というか、それこそが壬生の為なのに。

「くれはおにいちゃん、どうしたの!?」
「何…何、でも…!」
「ち! ち、ちがでてるよっ。い、いたい? いたい?」
「……っ」

  大丈夫だと声を出してやりたいのにそれどころではない。壬生は鼻先を抑えたまま見事に絶句した。
  そう、不覚にも壬生は鼻血を出してしまったのだ。カッコイイ男が台無しである。

「おにいちゃん、くるしい? ひぐっ…。どっ…、どうしようどうしよう!」

  ああ、龍麻が困っている。もう涙を浮かべてオロオロしている。
  平気だよと言ってやりたいのに出来ない。というか、多分龍麻がその「すっぽんぽん」な状態を自分に見せずにどこか離れていってくれれば、この出血もすぐに治まると思うのに。

  ↑等々壬生は思うのだが、やはり声が出ない。

「ぼくっ。おいしゃさんよんでこようか?」
「!」(ぶんぶんぶんっ)

  激しく首を横に振った壬生はそれで更に出血し、堪らず外へ飛び出した。

「あ! おにいちゃん!」

  けれど龍麻はよもや壬生のその「怪我」が自分のせいとは露知らず、自分も慌てて追いかけた。壬生はその龍麻の必死な姿に振り返りざまぎょっとして更に窓枠の方へとじりじり逃げる。もっともそう高くもないビジネスホテルの一室だ。そうそう逃げる場所もない。
  壬生はあっという間に壁際に追い詰められた(ような格好になっているが、状況としてはとてつもなく異様である)。

「くれはおにいちゃ……どうしたの……。おけが、おけが、くすりぬらないと!」
「龍麻……待っ……」
「……なんでにげるの?」

  そして龍麻はここに来てようやく壬生が自分を避けているという事に気がついた。
  元々物心ついた頃から普通の人にはない《力》を持っているという事で、多くの人間から敬遠されてきた。
  その傷が浮かび上がってきたのだろう、龍麻はまたみるみるうち大きな瞳に涙を浮かべて、申し訳なさそうな顔をした。

「おにいちゃんも…ぼくが、こわいの?」
「違…っ」
「ぼくのせいでおけがしたの…?」
「!」

  それはある意味その通りなのだが、決して龍麻のせいではない。それを何とか言ってやりたくて壬生は依然として鼻先を掌で覆いながら、首を振りつつ龍麻に近づいた。
  すると今度は龍麻がじりと後ずさりした。(ところで龍麻は勿論未だすっぽんぽんである。念の為)

「龍麻……違うんだよ(汗)。ぼ、僕は……」
「いやだ…ごめんなさい…。ぼく、すぐみんなにけがさせちゃう…」
「だから、違……」
「ぼく、いなくなったほうがいいね? ぼく…!」
「! 駄目だよ龍麻っ!」
「ひっ!!」

  龍麻が出て行く所作を示したせいだろう、ここにきてようやく壬生が素早く動いた。

「いたいっ…」
「ごめん龍麻! 全然、君のせいなんかじゃないんだよ、これは!」

  もう血が滴り落ちる事も構わず壬生はめいっぱい声を張り上げた。力任せに小さな龍麻をぎゅっと抱きしめ、何だこうすれば龍麻の身体を見なくても済むから、早くそうすれば良かったなどと片隅で思う。

「僕は大丈夫。だから、だから出て行くなんて言わないで」
「おにぃ……いたいっ。いたいよっ」
「龍麻を護らなくちゃならない僕が何をやってるんだろうね? 失格だな…」
「はなし…!」
「! ご、ごめんっ!」

  きゅうと締め付けられて息を奪われた龍麻に壬生がやっと拘束を解いた。
  それでも龍麻は勢い余ってそのままベッド下の床にころんと倒れ、ハアハアと息を吐いて苦しそうな顔をしている。壬生にめいっぱい抱きしめられてよほど苦しかったのだろう。

「龍麻、大丈夫っ!? ……はっ!?」

  壬生が焦った風に龍麻を覗きこむ。
  しかし自然それが押し倒したような格好になり、壬生がぎくりとすると。

「……おにいちゃん……ひどいよ」
「!!」
「すごく…うぅ…すごく、いたかった…っ」

  うるうると涙目の龍麻の上に、壬生の驚愕した瞳が見開かれる。
  そしてその直後。

  ボタボタボタ…ッ!!

「ひ…!?」
「……う!」

  「それ」が何なのか、2人が認識するまで、およそ3、5秒。

「うわあ―!」
「……ッ!!」

  悲鳴をあげる龍麻に絶句の壬生(というかもう気絶寸前)。
  そんな悲鳴をあげる龍麻の顔や身体に壬生の戦闘で作ったんでも何でもない鮮血が容赦なく落ちまくる。
  まさにあらゆる意味で「血の海地獄」と化したホテル内一室。


「えーんえーんえーん!!」


  あまりの恐ろしさに龍麻はその後なかなか泣き止む事がなかった。


  壬生はこの数十分後。自分が龍麻を預かる事を諦めた。



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壬生好きの方、ホントすみません…。いや私も壬生大好きなんですけど…汗。