第9話 どうして思い出せた?



  何故かは分からないけれど、ちび龍には如月翡翠の事がすぐに分かった。

「ぼく、おにいさんのこと、知ってる。ひすいって言うでしょ?」
「……だったらさっきのようにそう呼べばいいさ。そんな気色の悪い言い方はやめてくれ」

  当の如月はしかし、ちび龍の嬉しそうな言葉にもどこか冷たい。形の良い眉をすっと上げると、「おにいさん」と呼ばれた事にとてつもなく嫌そうな顔を見せた。
  そうして、「いつものように」ぶつぶつと説教じみた事を口にし始める。

「外の騒ぎには本当に呆れるよ、目も当てられない。この辺りの氣が無駄に乱れる事を彼らは一体どう考えているのか、一度きちんと確かめなくてはと思っていたんだ。でもまさかここまで愚かだとはね。大体君も―」

  けれど如月はぺらぺらと話していた言葉をそこで一旦ぴたりと止め、同時に足も止めて振り返った。
  先刻まで従順についてきていた足音が消えていた。
  案の定、背後にいたはずの小さな龍麻は、廊下の途中で立ち尽くしたまま、ぐっと唇を噛んで俯いていた。
  如月はそんな龍麻の姿をじっと見やった後、張りのある声を放った。

「どうしたんだ。何を立ち止まってるんだい」
「………」
「…外の様子には気づいているだろう? さっさと止めに行かないと、いい加減この校舎も危ない。連中はとにかく君を見つける事しか頭にない。みっともなく我を忘れているからな」
「………」
「龍麻?」
「……ひすい」
「…何だい」

  相手のぶすくれた声に一瞬返答が遅れたものの、如月はとりあえず声を返した。

「……っ」

  するとちび龍の方はますますぐぐと拳を握りしめると、何かを堪えるように、しかし明らかに腹を立てているような感じで不満の声を上げた。

「おなか、すいた」
「………」
「おやつ」
「ないよ、そんなもの」
「おやつ食べたい!」

  むうと頬を膨らませてそう抗議をするちび龍は、ここでようやく顔を上げた。如月を真っ直ぐに見詰める顔はどこか上気しており、何かを訴えたいのに出来ないという風だ。
  如月はその面影に普段の龍麻を認めて心内で密かに途惑いながら、けれど尚も迷惑そうな声を上げた。

「空腹を満たしたいならするべき事をしてからだ。子どもだろうと君は君だろう、龍麻。分かっているのかい? 今、何故外でこんなバカ騒ぎが起こっているのか―」
「翡翠は、嫌いだ!」
「!」

  今度は確実に「いつもの」龍麻の目をしていた。

  如月は何度からしくもなく瞬きをした後、目の前の小さな姿を凝視した。確かに未だ小さな龍麻である。自分と出会う以前の、幼い、未だ何をも知りえない純粋な。

「………」

  けれど、どうしてだろう。自分に対峙しているこの龍麻は何もかも知っているような顔をして、「いつものように」冷たい自分に不満気な声を上げる。
  戻りかけている―?

「龍麻、君は…」
「翡翠、いっつも僕のことを、そうやって怒るんだ! 僕のことが嫌いなんだ! いっつもいっつも! 怒ってばっかりだ!」
「……龍麻、思い出したのかい?」
「……!」
「龍麻、僕の事が分かるのか?」
「え……あ……?」

  如月に問われて、けれどちび龍はそこで初めてハッとしたようになり、思い切り途惑った顔でゆっくりと首を横に振った。
  そうして本当に訳が分からないという風に辺りを所在なげにきょろきょろと見回す。

「あ…ぼ、僕、分からない…。分からない、けど…。で、でも……」
「……でも、僕の事は覚えている?」

  じりと少しずつ距離を縮めて如月が問うと、ちび龍はもう一度首を横に振りながら、「分からない」と繰り返した。

「ご、ごめんなさい…。で、でも…分からない、けど…。お、おにいちゃ…翡翠は…僕を、怒る」
「…何故、そう思う」
「お、怒るの、見えた。前にも…あった、こんな事。そしたら僕……僕は、いつも翡翠に、文句、言ってて…」
「………」
「でも…。仲直りすると、ね。翡翠は、いつもお菓子とお茶をくれるんだ…。苦いお茶と、甘いお菓子。……この間は―……月餅」
「そうだよ」

  いつかの光景をまざまざと思い出しながら如月は頷いた。
  それからふと自然な笑みが零れる。どうやら気を張っていたのは如月も他の仲間たちと大差なかったらしい。余裕のないままきつい態度でこんなに小さな龍麻に「いつものような」態度で接してしまった。
  それに自身で呆れながら、如月はゆっくりと息を吐いた。

「けど、僕が怒るというのは誤解だよ。僕は怒っちゃいない、怒るのはいつも君で―…、そしてそんな君に、僕はいつだって負けてしまう」
「………」
「そうだろう、龍麻? 僕が君を負かせると思うかい」
「……翡翠。翡翠は、僕の―…」

  その時、龍麻の唇が「玄武」の単語を象ったように如月には見えた。
  けれどそれをしっかりと確認する事は出来なかった。

「―…?!」
「ひっ!」
  突然、今までで一番の轟音と震動が起こり、2人のいる場所は縦に大きく揺れ、同時に視界もぶれた。《力》のある者にのみ感知出来る、異常な熱波も感じられた。
  これは本当に建物の一部が、或いは大半が…破壊されるかしたのかもしれない。

「あの莫迦共…! こんな騒ぎを起こして結界が崩れでもしたら―」

  すかさず窓際に寄った如月だが、現在地からでは、恐らく来ているのだろう真神組や他の者たちの姿を確認する事は出来なかった。
  如月は小さく舌を打った。

  火に油を注ぐ形となるかもしれないが、これはいよいよもって早いところ龍麻を連れて行かなければなるまい。この騒ぎを起こした裏密に制裁を加えたいのは自分とて同じだが、何はともあれ、今は彼らを平静に戻す事が先だ。
  龍麻を元に戻す為のヒントも掴めた気がするし…。

「龍麻―…」

  けれど如月はその思考にほんの数秒掛けた事を大いに悔やんだ。

「龍―…!?」

  油断したつもりはなかった。けれど、龍麻が自分から離れるわけはないと思った、その油断のせいで―。
  龍麻がいない。

「一体、誰が…!?」

  先の長い廊下に如月以外の人影はない。
  けれど龍麻がこの状況下で自ら消える可能性は極めて低い。というか、あり得ない。
  龍麻がまた何者かによって連れ去られたのは確実だった。

  外ではちび龍を求めた壮絶な争いが依然虚しく繰り広げられていた。


  以下次号。



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ちび龍が漢字入りの言葉で喋っているのはタイプミスではありません。
因みに如月と龍麻の「月餅」ネタは、違うSS(or企画)でやったものです〜。