イオの薬(前編)



  イオが父親からあてがわれる仕事はロクでもないものが多かったが、物心ついた頃から同い年の子どもらより色々な世界を見てきた分、大抵の事には耐性がついていたし、しぶとく生きてこられたという自負もあった。
  学校へはあまり通わせてもらえなかったから難しい文字が読めずに困る事もあるが、分からないものは仕方がない。それに仕事はきついけれど、働いていると周りの子どもたちより早く大人になれる気がするから、それなりに遣り甲斐もあった。
  イオは早く大人になりたかった。酒好き、女好き、下手なくせに賭け事好きな父親は、何かと言えばすぐイオに手をあげるし、汚い言葉を投げつける。お前なんかいなけりゃ良かった、お前のせいで母さんは死んだんだと言われれば当たり前に胸は痛んだし、どんな顔をしたらよいか分からない。この、どうひいき目に見ても良い親とは言えない男に、けれど自分も酷い事をしてしまったのだと考えると、イオはどうしたって申し訳ない気持ちになった。
  だからもう、互いに離れた方がいいと思う。早く一人前になって家を出たい、そればかり考えていた。

  けれどイオが十五になる年、その父親が重い病にかかった。



  ******



「物乞いか」
  目の前に立った背の高い男が呟くようにそう言ったものだから、イオは思い切りむっとしてしまった。
  客商売ではいつでも「とりあえず笑え」と教わっていたが、イオはまだそういう領域に達していない。つい言い返したり、今日のように露骨に不機嫌な顔を見せて、父親のような酔っ払いから殴られたり、店から預かった品をめちゃくちゃにされる事も一度や二度ではないのだ。
「そんなんじゃない……」
  それでも懲りないイオは自分を乞食と見なした男の態度がどうにも悔しくてそう言った。
  確かに、この寒い街中の片隅で粗末ななりをした自分が籠一つだけ置いて座りこけていたら、そんな風に間違われても致し方ない所はある。
  けれど売っている物自体はそれなりに立派なのだ。特に今日は雇い主から渡された品だけでなく、自ら森に入って採ってきた上物もあった。
「物乞いじゃなきゃ何なんだ。それが売り物か。道端の草か、それは」
  しかし男は横柄な態度を崩さず、さっと屈みこむとどことなく不機嫌な様子で籠の中身を覗き込んだ。
  男と視線が同じになった事でイオは初めてまともに相手の姿を認めた。一目で高貴な身分と分かる。この格好ならば都に住む貴族か豪商か。剣は携行していないようだから王都の警備兵や騎兵隊の類ではないだろう。しかし身に纏う威圧感とでも言おうか、静かな迫力ある風貌はただの苦労知らずの金持ちとも違う。それに、漆黒の髪と怜悧な瞳はこの国の人間皆が持つ代わり映えのない色であるはずなのに、その鋭さ故か、他とは一線を画して異彩を放っていた。つまり、男は路上に座り込んでいたイオを奇異の目で見たけれど、むしろこんな寂れた道端においては、この男の方こそが異端だった。
「これは薬草だよ」
  イオは仕方なく男に教えた。都の薬はこれとは全く違う上等な物だから男が分からなくとも不思議ではない。
「これは擦り傷用でこっちは胃腸の薬。このヤクモソウは煎じて飲めば身体が温まるんだ」
「ふん。ならお前が飲んだ方がいいんじゃないか」
「え?」
「そんな格好でよく寒くないな」
  別段厭味とも取れぬ口調で男はイオに言った。
  イオの方は一瞬何を言われたのか分からずぱちぱちと瞬きしたが、やがて焦った風にまくしたてた。
「これは売り物なんだからそんな勝手なこと出来るわけないでしょ。薬師の先生と契約しているんだから、俺は。ちゃんと」
  もしかしなくとも「偉い身分の人」かもしれない相手にこんな口のきき方はまずいかもしれない。ちらりとそう思ったが最早手遅れだろう。それに間違った事を言ったとも思わなかった。イオはこの薬草売りの仕事が好きで自分なりに勉強もしていたから、軽く見られるのは心外だったのだ。
  だからイオはその後も必死になって男に薬草の説明をしてやった。男は男で、大して感じ入った様子ではなかった割に「こっちの赤いのは何だ」とか、「どういう効能があるのか」といった事を頻繁に訊ねて、いちいち本当かと疑うような、興味のあるような反応を示した。それはやはり随分と横柄なものだったのだが、イオにしてみれば「これは幾つか買ってくれるつもりなのかもしれない」と、説明にも俄然力が入った。
  けれど。
「ダメだな」
「え?」
「どれも要らない」
  さんざっぱら喋らせたくせに、男はばっさりきっぱりと、実に容赦なくそう切り捨てた。
  切り捨てて、突然立ち上がると男は言った。
「第一、お前は汚い」
「え」
「お前みたいな汚いなりをした餓鬼が売る薬草など信じられんし、こんな寂れた街角で買うくらいならきちんとした店へ行って買う。お前がここに座り込んでこれらを売る意味とは何だ? こんなやり方で本当に儲かるのか?」
「そっ…そりゃあ、あんまり……儲からない、けど」
「けど、何だ」
「けど――」
  何故か急かされるように問われてイオは流されて口を動かした。実際答える義務などなかったのにと腹を立てたのは男と別れてから後の事だ。
「先生が……薬師の先生が、ここで売ってくるよう、言ったから。あんたみたいな金持ちのいる街の中央は先生の店があるからいいけど、こっちはそういう店自体ないし。中央の方へ寄り付きたくないって人も多いから」
「そうなのか。何故だ」
「それはたぶん……」
「多分?」
「……あんたみたいな意地悪な金持ちがいるからだ」
  殴られるか蹴られるかするかもしれない、そう思ったけれどイオは気づいたら思ったままを言っていた。大体、全て本当の事だった。確かにこの辺りは街の中央と比べれば活気もないし、貧乏人が多い。だから雇い主である薬師からここで売ってくるようにと渡される品も、店で出すような高価な物はなく、値の張らない物が中心だ。
  それでも父親のような酔っ払いが酔い覚ましの草を買って行って「助かった」と言ったり、熱のある子どもの慰みにと安価な草を求めにくる母親から「ありがとうね」と言われれば嬉しい。だからイオは数多くこなしてきた色々な仕事の中で、この薬草売りを一番気に入っていた。
  薬の勉強をすれば病床の父親にも役に立つし。
「俺のどこが意地悪だ」
  ところで男はイオを殴らなかった。蹴りもいれなかった。
  けれど代わりに、如何にも失礼だと言わんばかりに眉をひそめた。そしてその腹立ちまぎれのまま立ち去りかけて――ふと、男はまた振り返って、おもむろに籠の中の物を指さした。
「その赤い葉」
「え?」
  それはイオが今朝方森で見つけたクロースという名のひし形の葉だった。これに限っては薬用ではなく、祭りや祝い事の際に縁起物として飾られるものだ。今は祭りの時節ではないし、さり気なく籠に収まっていたこの葉の存在に気づく者はなかったから、もしもこのまま売れ残ったらイオは自分の家に持ち帰って父親のベッド脇に飾るつもりでいた。
「それを買ってやる。幾らだ」
  それなのに、この目の前の男が。
「………これを?」
  どうせ売れてしまうなら、もっと不幸そうな人がいい……。それはイオの率直な想いだった。この男は美丈夫で如何にも裕福で、この偉そうな態度からしても普段から何不自由ない暮らしを営んでいるに違いないのだ。この上希少なクロースを手に入れてどんな幸運を得ようというのか、少し贅沢な気がした。
「俺には売れないって言うのか」
  イオの躊躇うような顔を見て男はますます不快な顔になったが――、嫌がられて余計欲しくなったのか、「とにかくそれは貰う」と衣服のポケットからごそごそと金を探り、取り出したそれをぎゅっとイオに握らせると、すぐさま籠に手を伸ばした。赤いクロースは忽ち男の手の中だ。
「あ」
「何が『あ』だ。きちんと買ったぞ、俺は。お前は客商売に向いていない」
「だ、だって…あんたが、急に」
「向いていない。餓鬼は餓鬼らしく、やかましく外で遊んでいろ」
  男は吐き捨てるようにそう言い放つと、後はもうさっさとその長い足でもって通りの向こうへと立ち去ってしまった。
  イオはぶつけられた言葉にただただ唖然としてその場で棒立ちになってしまったが、視界の隅には消えた男を慌てて追う警護兵らしき格好の男が数人映った為、「ああ、やっぱり高い身分の人なんだ」とは心の奥底で思った。
「はあ……」
  無意識に漏れたため息にイオは自分で驚いた。
  ほんの僅かなやりとりだったのに妙に疲れている。街の酒場や手紙屋などで働いた事もあるから、偉い人間の相手をするのは初めてではないのに。やはりあの男の威圧感は半端ではなかったのだと思い、大嫌いな大人を相手に無駄に緊張した自分がイオは何だか情けなかった。
  だから男から無理やり握らされた硬貨がピカピカの金貨だと分かったのも、ずっと後になってからだった。



  *****



「よう、物乞い」
  それから5日ほどして、イオは再びあの時の男と再会した。
  男は相変わらず身綺麗な格好をしていたが、今日は何故か前回惜しみなく晒していた黒髪を不自然に黒い布で巻いて隠し、イオの国には珍しい、異国の眼鏡までかけていた。
  それでも男がこの間の男だとは一目で分かる。男は実に際立つ容姿をしていたのだ。
  それに前回と変わらずの、このふてぶてしい態度。
「だから、俺は物乞いじゃないって言うのに」
「この間の赤い葉な。全く効き目がないぞ」
「は?」
  通りに座り込んでいるイオに合せるように自らもさっと屈んだ男は、別段怒った風ではないが、そう文句を言って前回と同じように籠の中を覗き込んだ。
  そうしてきょとんとしているイオに繰り返す。
「家に飾れば良い事があると言っていただろう。良い事どころかとんでもない災厄続きだ。どうしてくれる」
「どうしてくれると言われても……あれは、あくまでも縁起物で――」
「お前、薬売りはやめてなかったのか」
「え?」
  突然話を変える男にイオは言いかけていた言葉を飲み込み、まじまじと男を見やった。
  男は依然として籠に目を落としていたが、イオの動きが止まった事に気づいてちらりとあの鋭い眼光を向けた。闇色の瞳なのにいやに透き通って見える。
  イオは引きつけられたように自らも男を見つめ返した。
「この数日、ここに来ていなかっただろう。もうやめたのかと思っていた」
「来てたの? ここに?」
「ああ」
「え……あの、俺を探して?」
「何だって?」
「え? いや、だから……俺のことを探していたのかって……」
  イオの躊躇うような言葉に、男の方も少し惑った風な表情をちらつかせたが、意外やすぐに頷いた。
「まあ、そうだな。一度文句を言ってやらなきゃ気が済まないと思ったからな」
「文句……」
「ああ。全く酷い品だったし」
「………」
  言われてイオは一気に暗い気持ちになった。売った物にケチをつけられるのは別段これが初めてではない。というよりも、そんな事はしょっちゅうある。ちっとも効かないじゃないか、金を返せ、金がないなら代わりにそれらを置いて行け――。酷い嫌がらせも大分受けてきた。また言いがかりをつけられるのだろうか。この男は特にしつこそうだ、金持ちはケチが多いし――。
「いっ…!」
  けれど心の中で悶々と考え始めていたら、いきなり男にばしりと頭を叩かれた。
「ちょっ…」
  驚きから抗議の声こそ出したが、痛くはなかった。けれど何故こんな真似をされなければならないのかは分からないから、イオは不機嫌そうな男同様、当然の権利として自らもむっと唇を尖らせた。
「何するんだよ」
「お前がおかしな顔をするからだろう」
「おっ…おかしいのはどっちだよ。いきなり叩いてっ。金持ちって変な奴が多いけどあんたは特に――」
「はぁ? 何故俺が金持ちだと決めつける?」
「え? えぇ? だってそれは、こんな偉そうだし……」
「偉そうにしている貧乏人なんてそこら中にいるだろ」
「それにほら、その服! 一目で高価だって分かるし。あ、それに」
  イオははたと思い出して懐から紙に包んで持っていた金貨を取り出した。先日男が強引にイオに握らせたものだ。イオはその金ぴかに輝く硬貨をまじまじと見やってから、ついと男へ向かって差し出した。
  男はそれに怪訝な顔をして「何だ」と憮然とした。
「これ返す。返します」
「何故」
「だっておつりが払えないもの。こんなには貰えないよ」
「あの葉はとても貴重でなかなか採れないと言っていただろう。それなのに、それで多いのか」
「断然多いよ。それにこんなの、この辺りの店じゃ使えないし……確かにクロースを採るのも大変だけど、この金貨を手に入れる方が俺にとっては百倍くらい大変な事だ。びっくりしたよ、こんなの渡されていたから」
「百倍? そうか……それなら返したくもなるか」
「……? うん。あ、はい」
  何を持って納得したのかいまいちよく分からなかったが、イオは急に静かな表情になった男に調子を崩されて自分も黙りこくった。
  多分、父親がこの男とのこのやり取りの事を知ったら「やっぱりお前はバカだ」と怒るのだろう。周りの大人たちも口を揃えて哂うかもしれない。バカだな、折角金持ちが気紛れで放ってきたものを返そうとするなんて。貰っておけばいいんだ、奴らにとっては金貨の1枚や2枚、どうって事はないのだから。物乞いと間違ったくらいだから、子どものお前に同情したのかもしれないし、そんな情けをかけてもらえるのも子どものうちだけだろう。だから黙ってしまっておけば良かったんだ、と。
  お前は子どもなんだから、その幸運を素直に喜べば良いものを。
  バカな子ども。
(嫌だ……俺は、子どもは嫌だ。俺は早く大人になりたい)
  けれどイオが心の中でそんな事を悶々と考え込んでいた時だった。
「餓鬼」
  目前の男が不意にそう言ってイオが差し出した金貨を押し戻した。
「お前の気持ちは分かったが、一度受け取った物を返そうとするな」
「な…何で、でも――」
「でもじゃない。確かに俺はあの葉で幸運になるどころか厄介な目に遭っているが、俺が買うと決めてお前に金を払ったのだから、それはもうお前の物だ」
「そんな、そんなのはおかしい!」
「ちっともおかしくない。だからあの厄介な葉も俺の物だ。今さら返せと言われても返せない」
「べ……つに、それはいいよ。あれはもういいんだ、あれはあんたにあげるから」
「は…? 何故俺がお前みたいな汚い餓鬼に物を貰わないといけない?」
  心底分からないという風に男は怪訝な顔を見せ、それからすっと立ち上がるとついと遠くを探るように目を窄めた。つられてイオも立ち上がりながらそのその視線を追ったが、なるほど、尾行にしてはあまりにあからさま過ぎる、前の時にもいた警護兵らしき男らが数名、遠巻きにこちらを見やっているのが分かった。
「あの人たち……何なの?」
「さあな」
  男は実にしれっとしらばっくれた。
  それから再び視線を戻してイオをまじまじと見つめる。
「ところでお前はこの5日間、何をしていたんだ。餓鬼らしく遊んでいたのか」
「違うよ」
  それより、自分のことを餓鬼というのをやめて欲しい。そう訴えたかったが、何故かイオはなかなかその想いを口にする事が出来なかった。
  確かに男は30前後の風貌だから、イオなど小さな子どもに見えるのだろう。男はイオより大人で、イオが男より子どもなのは間違いない。それでもこんな風に小さな子ども扱いされる謂れはなかった。
  俺はきちんと働いている。きちんと生きている。気持ちはもう大人なのに。
「俺、この仕事は5日に1度位しかしないから」
  それでもイオはそうした心の中の文句を心の中だけに留めて男に答えた。
「後は違う所で違う仕事してる」
「違うって何を。何故遊ばない?」
「金ないし。遊んでいる暇なんかないよ、働かないと食べていけないから」
「親は?」
「病気」
「両方とも?」
「ううん。母親は俺を生んですぐに死んじゃったから父親だけ。その父さんも、酒の飲み過ぎで身体を悪くしちゃってずっと寝てる。薬師の先生はもうすぐ死ぬだろうって」
「そうか」
  イオが平然と世間話のように話したからか、或いは元から他人の事情に心を配るような性格ではないのか。男もまた平然と返し、イオに「訊いて悪かったか」というような申し訳なさそうな顔も、「可哀想にな」と同情するような目も見せなかった。
  だからこそイオは男を前にして初めて窮屈な想いをせずに済んだのだけれど。
「まあ気にするな」
  しかも男はそう言ってからイオの頭をぽんと叩いた。叩くというよりは撫でる、というものに近かったかもしれない。
「お前は見たところ、それなりにしっかりした餓鬼のようだ。父親もお前のような息子なら後に残しても別段心配はしないだろう」
「……そうかな?」
「俺はそう思う」
「あ…ありがと……」
  イオが素直に礼を言うと、男は少し困ったような顔を見せた後、「もう行く」と言った。
  イオはそんな男に対し、本当に金貨を返さなくていいのかと再度問おうとしたが寸ででやめた。多分、そう言って引き止めたらこの男は怒るだろうと思ったから。
  まぁこの金貨はどうせ使えないし、お守りとして大事に懐にでもしまっておこう。この間採ったクロースの代わりだ。
「あ……そういえばクロースのせいで起きたって言ってた災厄って何? 大丈夫? 結局文句、あんまり言われてないけど」
  既に背を向けて去りかていた男にイオははっとなって声を掛けた。そう、男は文句を言わなければ気が済まないからとイオを探していたはずだ。イオから買った縁起物のクロースが、幸運を招くどころか災厄を招いた、どうしてくれると男は言っていたのだから。
  すると声を投げられた男は途端足を止めてちらりとイオを振り返り見たが、「いや……」と口ごもるように呟いてから首を振った。
「文句はもうどうでもいい。だが恐らく……、大丈夫では、ないだろうな。大丈夫だと思いこもうとしていたが……今日、確信した。俺はきっと、ちっとも大丈夫じゃないんだろう」
「そんな……何なの? 家族が病気とか…? 仕事が失敗したとか? あ、あなたが何かの、病気とか」
「病気……ああ、そうかもな。そうなんだろうな、これは」
  男はイオが次々繰り出す予想に空を仰いでいたが、最後のそれには妙に得心したように頷いた。
  それに焦ったのは勿論イオだ。
「具合が悪いの? なら今日は薬があるから――」
  籠の中には薬師から託された薬草がある。胃腸の薬、頭痛の薬。不眠の時に飲む草などもある。
「もっと良い薬は先生の店にあるけど、もしこの中で症状にあうものがあったらあげるよ」
「くれるのか?」
「うん、どうせ小さなお金は持ってないんでしょ? 悪い病気だといけないから、必要な物があれば今あげる」
  子ども扱いされた事には腹も立ったけれど、それと具合の悪い人間を放置する事とは別問題だ。
  それに男はただぶっきらぼうで口が悪いだけで、実はそれほど悪い人間ではないかもしれない。またそれ以外でも、イオは父親のように困った大人や、病気で弱っている者を前には手を貸したくなる性分だった。父親のことなど嫌いだし、勝手な大人も大嫌いだ。けれどやはり見捨てる事は出来ないし、あの父親に限っては死に水を取れるのも自分だけだから、イオは今ではこの街から出て行こうとは全く思っていない。
  男が言うように「やかましく」遊べなくても全く構わない。
  それが待望している大人に近づく事でもあるのだ。
「それで、どんな症状なの?」
「症状……。そうだな。胸が痛い」
「胸が」
「それに気のせいか頭の裏側が熱くて……いや、熱いのは全身だな。どうにも火照った気持ちがするし、心臓の音も早い気がする。……だがこの先の事を考えると足の沁から冷える気もする」
「熱があるんだよ、きっと」
  これは重症だ。そんな風には見えないが、イオはいよいよ男の事が心配になった。
  ところが男はそんなイオをまじまじと見つめると、突然バカな事を言い出した。
「お前はそうやって人の心配をしていると、とても可愛らしく見えるな」
「………は?」
「汚い餓鬼のはずなのに。綺麗に見える」
「は、はあ? え? それってどういう―ー」
「どうやら俺は目も悪くなったらしい。耳もか。お前の声もいちいちとても愛らしく聞こえる」
「そ……それは……確かに、重症かも……」
  頭がおかしくなるのを止める薬なぞあっただろうか。
  たらりと冷や汗が流れる想いをしながらイオは思い切り引き気味に男を見たが、男は男ですっかり困惑しているようで、イオを「可愛い」と誉めた割には一方で何か恐ろしいものでも見るような目を閃かせていた。
  だからイオと一定の距離を取ったまま、近づこうともしない。
「……あの」
  それでイオも何だか居た堪れなくなり、落ち着かない様子で身体を揺らした。男の視線が痛い。何がどうして、急にこんな事になっているのかよく分からない。
「あの、症状に合う薬、ないみたい」
  仕方なくイオは自分から口を開いてそう切り出した。
「ちゃんとした医者に行った方がいいと思う。心臓が痛いのは……もし悪い病気だったら大変だし」
「……そうだな」
「あの、金貨ありがとう。あんた、意外にいい人だね」
「いい人?」
「うん。クロースに効き目がなくても俺のこと責めなかったし」
「いい人なんて言われたのは初めてだ」
「そう…なの?」
「ああ。俺は多分、あまりいい人じゃないからな」
「ふ……ふうん?」
  男は相変わらず淡々としていたが、イオには男が自分を見つめる眼差しが段々と強くなっている気がした。
  それで本当にいよいよ居心地が悪くなり、イオは籠を持ち上げると自分から男と少し距離を取った。
「俺、今日はもう帰るよ。お大事に……」
「また」
「え?」
「また、来るか。ここには」
「あ……うん。たぶん、5日後」
「そうか」
  男はイオからそれを聞くと、そのまま自分が先に踵を返した。すると立ち去っていく男の後を、例の警護兵らしき男たちが慌ててバラバラと追い縋るように走って行った。
「何あれ……」
  イオはどことなく必死な様子の男たちを見送りながら何ともなしにそう呟いた。




後編へ…