小さなその手をとるために(前編)



「このままオーリエンスに残っておれば良いものを」
  アサヒにその台詞を言って溜息をついて見せたのは、この目の前にいる大老・シュンエイだけではない。後見人だったヴァージバルを入れれば、それは既に両の手では数え切れないほどの大人数にのぼっていた。
「貴様の兄弟は皆こちらに残ると聞いたぞ。それも道理……今、あの国に戻ってユディヒルの人間が得をする事なぞ何もない。またくだらぬ覇権争いに巻き込まれて、貴様の親父と同じ道を辿るのが落ちじゃ。……どうしても行くのか?」
「どうしても」
  こんな会話をもう何度繰り返した事だろう。
  それでもアサヒは自分の身を案じてくれる大老へ感謝するように穏やかな微笑を向け、深く礼を取った。
「大老にはこの7年もの間、言葉に尽くせぬほどのお世話を御掛け致しました。このアサヒに心を砕いて下さったこと、生涯忘れは致しません」
「相変わらず堅い奴じゃ。そんなつまらん挨拶なぞいらん」
  ただ貴様はこの国に残っておればいいんじゃと片手を振った小さな老人の顔は、けれどもうアサヒの目に映る事はなかった。涙を見られたくなかったのだろう、普段は頑固に過ぎる大老は、「莫迦者めが」と言ったきり、くるりと背中を向けてしまった。
「大老」
「アサヒ、ごめんなさい。お爺様は貴方が国へ帰ってしまう事が悲しくて堪らないの。それは勿論、僕もそうだよ?」
  最後の見送りも放棄して足早に屋敷へ戻ってしまう老人を尻目に、隣にいた孫娘のルシフィルがそう言った。少女はオーリエンス人の標準形態である茶色の髪に緑の瞳を有している―…が、快活そうなその目は、この時アサヒとの別れを思ってか、しっとりと潤んでいるように見えた。緑は冴えないブラウンの瞳を持つアサヒにとってとても好きな色だ。それが己のせいで濡れてしまうのは単純に悲しい事だった。
「ヴァージバル様も表面上は平静を装っているけれど、アサヒがいなくなるのはとても残念だって仰ってた。貴方がいなくなったら、また今度の剣技会でもリシュリュー様が1番を取ってしまうからって。『あの俺様文官騎士が調子に乗るのはどうしても我慢ならないのに』って」
「リシュリュー様はこの国の英雄だ。私なぞが敵うわけもない」
  ルシフィルの言い様から冗談だというのは勿論分かったが、オーリエンスの根幹を支える高名な文官騎士まで引き合いに出されて、アサヒは途端困ったようにかぶりを振った。
  周囲の自身に対する賞賛や惜しむ声はとてもありがたかったが、一方で困惑する気持ちも強かった。あまり引きとめられると、この国を発つ決意が揺らいでしまう。オーリエンスには母国を追われて死に掛けたアサヒたち兄弟を拾ってくれた心優しい人たちがたくさんいるのだ。だからアサヒとて、最初からこの国を出る事に全く躊躇いがなかったわけではない。
「ギルバドリクが嫌になったら、またいつでも帰ってきてね! オーリエンスはアサヒの第二の故郷でもあるんだから!」
  そう言って何度も手を振り見送ってくれたルシフィルに、アサヒは笑顔で頷いてみせた。
  ―……けれど心の中では、「一度あの地へ戻れば、もう早々こちらへ来る事もできまい」と覚悟を決めていた。

  アサヒたちユディヒルの人間が「国外追放」の命を受けてから7年の月日が経つが、新王の恩赦によって母国への帰還を許すとの報せが来た時、それを受けると言ったのは長兄のアサヒだけだった。姉のユリーは既にこちらの子爵と婚姻し子どもをもうけていたし、下の弟妹たちもそれぞれが後見人ヴァージバルの厚情によって好きな道へ進む事を許されていた。同じ王制にあっても、オーリエンスはアサヒたちが生まれ育ったギルバドリクとは違い、異国人も鷹揚に受け入れ、際立った差別もしない拓けた国だ。だからユディヒルにとっては、“理不尽な理由”によって実父を“大罪人”として死に至らしめた憎き母国より、恩義あるオーリエンスに永住したいと願うのが普通の考えだった。
  それでもアサヒが母国へ帰ろうと思ったのは、「長兄としてユディヒル家を潰すわけにはいかない」との実直な性格からくる義務感と、あとは―…誰にも言えない目的の為だった。
  “それ”がすぐ叶う事になるとは、アサヒ自身全く想像だにしていなかったのだが。





「通行証を」
  無機的な様子で慣れたように言う門兵に対し、アサヒは馬を降りて用意していた通行証と王宮からの信書を差し出した。門兵はその信書に一瞬不審な顔をしたが、すぐにそれを受け取ってさっと目を落とし、「貴様が…」と驚いたように呟くと、もう一人の門兵の元へと駆け寄った。
  アサヒはその間、国境沿いと言えど一度も近づいた事のなかった母国の関所を見上げて感慨深い気持ちでいた。
  7年も経つのに、この辺りの長閑さは何も変わっていないように思える。静かで、山と森以外には何もない。
「ユディヒル家の長子、アーサー・ユディヒル殿でしょうか」
  関所の奥から先刻の2人の門兵と共に姿を現したのは、一つ格上の兵団長らしき中年の男だった。これまでオーリエンスにおいてはアサヒの黒髪は割と珍しかったが、ここでは皆がその色をしている。改めて同じ国の人間と対面し、アサヒの気持ちは喜びで僅か揺らいだ。
「そうです」
「お待ち致しておりました…。よくぞ帰国の決意を」
  兵団長はそう言って自らも感嘆したように礼をし、「ご高名は我が国にまで轟いておりましたぞ」と付け足した。
「城下までこの者が供に付きます。何なりとご命じ下さい」
「え…? いえ、私は一人でも」
  最初に信書を受け取った門兵が何故か憮然とした顔つきながらも一歩を踏み出し、敬礼してきた。アサヒはそれに軽く恐縮したが、兵団長は「いいえ」と頑なに首を振り、さっと眉をひそめた。
「最近はこの辺りにも頻繁に竜が出るので危険なのです。慣れた者をつけて、少しでも安全な道を行きませんと」
「竜が?」
「いざとなればこの毒矢で足止めを。僅かながら逃げるまでの時間稼ぎくらいにはなりましょう」
「………」
  オーリエンスでは竜が山間で暴れて人に危害を与えるなど聞いた事もなかった。むしろ騎士や狩人は自らの剣や弓で竜の爪と対峙し、その戦いで相手の心を奪えば子飼にする事も出来た。無論、神の御遣いとも称される竜を自らの物にするにはそれ相応の腕が必要で、要は選ばれた者だけに許された「離れ業」だったが、仮に子飼に出来ずとも、互いの領域を荒らさず侵さず共存するというのは、太古より人と竜が成してきた慣わしだった。
  それは7年前のギルバドリクでも同じであったはずなのに。
  少し嫌なものを感じたが、とりあえずアサヒは無言のまま弓矢を手に取り、それを馬の背に括りつけた。
「お気をつけて」
  兵団長と門兵の一人が畏まった敬礼をしてアサヒたちを見送る。アサヒは先を行く門兵に置いて行かれそうになりながらも、2人に向かって律儀に礼をして別れた。
「この辺りの竜が人を襲うようになったというのは、いつからなのですか」
  門兵の背にアサヒがそう語り掛けたのは、数キロほど進んだ後だ。
  別段アサヒは他人と言葉を交わさないままでも苦痛を感じるタイプではなかったが、どうにもこの門兵はこちらに含むところがあるような気がしてならなかった。
「以前のギルバドリクにはそのような事は起きていなかったはずですが」
「余計な会話をしてはならぬと、兵団長殿より命じられておりますから」
「は…?」
  アサヒは怪訝な顔をして問いかけたが、門兵はちらとも振り返りはしない。目に見えない強固な壁をアサヒの前に作り出し、「これ以上話しかけるな」というオーラをこれみよがしに発している。――まぁ、元は大罪人の息子として国外追放を受けた身だ。先刻の兵団長のような態度の方が珍しいのであって、この門兵の態度ももっともだと納得し、アサヒはそれ以上の会話を望むのをやめた。
  けれど竜に関してはもっと訊くべきだったと瞬間後悔する。

《グルルルル……!》

「出たかッ!」
  門兵が身構えたように神経質な声をあげ、声の聞こえた上空を見やった。
  アサヒも倣ってそうすると、両翼に斑の模様が入った緑竜が酷く血走った眼をして鋭い爪と牙を向けてくるのが目に入った。
「何だあれは…」
「ぼさっとするな! 弓を放てえッ!」
  ボー然とした声を出すアサヒに、門兵が怒鳴り声を上げながら自らの矢を放った。けれど叱咤する声とは裏腹に、恐怖で相当取り乱していたのだろう。矢は襲いかかる竜とは全く別の方向へ飛んで行き、焦りのせいで門兵は馬からも転げ落ちてしまった。
「ひいいっ」

《ブオオオオオッ!!》

  竜が怒りで嘶いた。
  掠りもしなかったとはいえ、自分に向けて矢を放たれた事は分かったのだろう。怒りによって更に眼を赤黒く燃え立たせ、緑竜は門兵に向かって両足の爪を突き刺さんばかりに降り立ってきた。
「くっ…!」

《グオオオオオ!》

  竜がこれまでで一番の咆哮を上げる。
  それもそのはず、門兵の身体を串刺しにするはずだった自らの爪を、竜は突然横から飛び出て来たアサヒの剣によって弾かれてしまったのだ。

《グアアアアアッ!》

  竜は一旦横に避けてアサヒと距離を取ったものの、素早くターゲットを移し変えて今度はアサヒに向かって飛びかかってきた。
「鎮まれ…ッ!」

《ギャアアアアッ!》

  その美しい翼を傷つけないよう刃の向きを変えながら、アサヒは硬い鱗に剣を立て、竜を力任せに押し返した。竜は軽くあしらわれたようなその所作に余計怒り狂い、バタバタと巨大な両翼を揺らしながら、更に二度三度と、アサヒに向かって爪を向けてきた。
「鎮まれ!」
  それでもアサヒは冷静に同じ事を繰り返した。竜を狩るのは初めてではない。斑模様のこれは病気のようにも見えたが、竜が凶暴になるには理由があるはずだと知っていたから、それが分からないうちにただ斬り捨てて殺してしまうのは忍びなかった。
「な、何をやっているんだ! 早く仕留めろ! 毒矢を使え!」
  けれどアサヒのその所作によって冷静になったのは門兵だ。馬から落ちて腰を抜かしたようになっていたものの、はたと我に返って這うようにアサヒの馬につけていた弓矢を手に取る。
「どけ、どかんかっ! さもなくばお前ごと射抜いてやるぞッ!?」
  門兵はぐらぐらとした手つきながら竜と相対しているアサヒの背に向かって弓矢を向けた。アサヒはちらと振り返ってその如何にも危なっかしい兵の手つきに舌打ちしたが、竜への攻撃をかわすのに忙しく、彼を制する余裕はなかった。自分一人だけこの場から一旦離脱する事は出来るが、それはどうしたって嫌だ。
  帰還早々、とんでもない目に遭ってしまった。

《グオオオオオ!》

  その時、竜がちらりと、アサヒと同様門兵の方へと視線を向けた。どうやら自分が狙われている事に気づいたらしい。
「ひ、ひいぃっ。討つぞ、本当に討つぞおッ!?」
  それに門兵も気付いた。また自分が襲われると思い、いよいよ弓を引く手に力が篭もる。
  けれどその刹那だ。
「やめろ、この愚か者め!」
「がっ!?」
  突然、、どこからか声が降ってきた。
「……がはっ」
  ドサリと大きな音が聞こえてアサヒがはっと振り返った時には、もう門兵はその場に崩折れるように地に伏せてしまっていた。

《グオオオオオ!》

「行け! 眼を焼ききられたいか!?」

《グオオオ…!!》

  そしてアサヒが再び竜に視線を向けると、門兵を気絶させた人間が絶叫する竜の眼に何かを当てているのが見えた。ぎくりとして再度その者を振り返る。少年だ。まだ幼い表情の残る、恐らくは10代前半の少年。その者が、手にした小さな光玉を太陽に当てて、竜の眼に光の線をぶつけたのだ。

《グオッグオ……》

  竜は苦しそうな顔をして嘶くと、暴れるように翼をばたつかせた後、遥か上空へと消えて行ってしまった。
「あはは、馬鹿め。大きな成りで情けない声を出して!」
  少年は嘲笑うようにそう言ってから光玉を懐にしまい、それから意味もなくその場に倒れ伏している門兵の頭を蹴り付けた。アサヒが止める暇もなかった。少年は楽しそうな顔をしてフンと鼻を鳴らすと、そんな門兵にはもうすっかり興味を失ったようになり、真っ直ぐな眼をアサヒに向けてきた。燃えるような赤い、血の色をした瞳だ。髪の色はアサヒと同じ漆黒だけれど、この毒々しいまでの眼の色はどうだろう。先ほど血走っていた緑竜と全く遜色のない、殺気すら感じさせる眼。
  ただの少年でない事はそれだけで分かった。
「この馬鹿と同じ事を言うのも癪に障るけどな。お前。何故すぐ殺さなかった」
  その少年がアサヒに向かってぞんざいに語り掛けてきた。「この馬鹿」というのは地面に伏したまま意識を戻さない門兵の事だろう。少年がどうやってこの兵を気絶させたかは謎だったが、手にした長剣の柄で後頭部を叩き落としでもしたのかもしれない。
「あのように軽くあしらえる程の腕があるのなら、奴の眼を潰すなり翼をもぐなり、方法はあったはずだろ。何故殺さなかった」
「理由がありませんでしたので」
「理由? おかしな事を言う。お前たちは奴に襲われていただろう」
  少年の稀有な目でこちらを見るその顔が如何にも横柄で、アサヒはそれを表に出さないまでも「困った子どもに絡まれた」とは、率直に感じていた。その口調や立派な身なりからして、どこぞの王宮貴族の子息か何かだろうとは容易に想像出来たが、門兵を迷いなく殴り倒した事や、竜の眼を焼ききろうとするその態度は、個人的に好ましいものとは思えなかった。 
「よく見ればこの辺りには竜の縄張りである事を示す爪跡がそこかしこについています。それを認識せず、無断で入りこんでしまった我らの落ち度。あれだけ殺気立っていたのも、近くにあれの子どもでもいるのかもしれません」
「フンッ…縄張り? この辺りの領地は全てがギルバドリク王国のものだ。血生臭い獣が所有出来るものなど何もない! 人間である我らを蹂躙せんと暴れる竜を殺す事が、この国の兵であるお前たちの勤めではないのか?」
「無用な殺生はより一層の危険を招くだけです」
「お前…気に入らないなっ」
  少年は更に鋭い眼光をアサヒに叩きつけ、それから八つ当たりするようにもう一度門兵を蹴り飛ばした。アサヒがそれに露骨に眉をひそめると、少年はいよいよ苛立ったような声を上げた。
「何故そんな顔をする? お前たちの事は関所の方から見ていたが、こいつはお前が通行証を出した時も、兵団長に“隣国から戻ってきた売国奴”と言っていたぞ? なあ、アーサー・ユディフィル。お前がこの国に居られる場所などあると思うのか?」
「王からは正式に帰国を認められました。家の再興もお許し頂けると聞いています」
  何も正体の知れぬ少年にそこまで話してやる必要もないと思ったが、どうやら自分の事を知っているらしい人間をそうそう無碍にも出来ない。
  アサヒは倒れている門兵を担ぎ上げて馬の背に乗せると、自らの馬も引き寄せてから少年の事を改めて見つめやった。赤い瞳にこそ当初は驚き怯みもしたが、よく見れば整った美しい顔をしている。小柄ながら全身に自信が満ち溢れている風なのも、間違いなく高貴な者の出だと想像させた。
「とりあえずいつまでもここに留まるのは危険です。我らは先を急ぎますが、貴方もご一緒致しますか」
「何故」
「お一人でこの森に居られるなど、危険でしょう」
「お前は…俺が誰だか分かっているのか?」
「……? いいえ」
  だが、「偉い」位の人間なのだろうと思うからこそ、丁寧に接している。勿論、それも顔には出さなかったが、「最初から失敗するなよ」とは、後見人だったヴァージバルからも口を酸っぱくして言われた事だ。そう、この国に戻ったからには、アサヒに失敗は許されないのだ。父の「大罪」をも拭い去るべく、この国で大きな働きをして家を守り立て、ユディフィルの名誉を取り戻す。そうして、もう一つの「目的」を果たす為に自分はきっと成り上がるのだ。
「何だ。俺のこと…知らないのか」
  それでも少年はそう言って不愉快そうに眉を吊り上げる。アサヒは困ったようになりつつも努めて静かな口調で答えた。
「私は今しがた、7年ぶりにこの国の地を踏んだばかりです。申し訳ありませんが、分かりかねる事が殆どです」
「俺はフェイだ」
  意外にも少年はすぐにアサヒに名乗ってくれた。そうして、はっきりと一緒に行くと言わないまでも、アサヒの馬の尻を叩いて勝手に進ませ、当然の如く自分もそれに着いて行く。少年を独りきりにして先を急ぐのは本意ではなかったから、これにはアサヒもほっとした。
「フェイ様、ですか」
「ただのフェイだ。様などいらない」
「しかし、そうはいかないでしょう」
「何故」
  フェイは心底不思議だという風な顔で先を回り込み、アサヒの顔を覗き込んだ。その瞳には未だ先刻ちらつかせていた横柄な光が宿っていたが、単純にアサヒの返答に途惑っている色も宿しているのが分かった。
  それでアサヒも少年の事を初めて少しだけ「可愛いな」と思った。
「お見受けした限りでは、とてもただの平民には見えません。そのご立派な身なりからしても、どこか高名な貴族のご子息なのではありませんか?」
「ハンッ…。だったらどうだと言うんだ。お前も他の者と同じように、俺の何が分かるわけでもないのに、意味もなく平伏して媚びへつらうのか?」
  フェイが何故いちいち突っかかってくるのかは分からなかったが、普段より反抗期な弟や子どもっぽい大老の我がままを聞いていたせいもあり、アサヒは己の言動に噛み付かれた事にも慣れたように肩を竦めた。
「意味もなく平伏はしませんが、最低限の礼は尽くします。それは普通の事でしょう」
「だが、平民にはそれをしないだろう」
「様はつけないかもしれませんが…、あぁ言い方がまずかったですね。誰に対しても、礼を尽くすのは当然の事です。初対面の方なら、それは尚更ではないでしょうか」
「それは誰に習ったんだ?」
「は…? 誰にと言われましても……恐らく、1番は親からですね。私の父親です」
「あぁ、大罪人のラッセル・ユディフィルか」
  そう言われた事にアサヒは思わず反応を返せなかったが、逆にフェイは調子に乗ったように口角を上げた。
「知ってるさ。お前の父親は前王の武官長補佐だった男だろ。王の執政に偉そうに意見したせいで、無駄に王やその取り巻き連中の怒りを買って処断された。奴の家族も一度は皆投獄されたが、生前ラッセルが深い繋がりを持っていたオーリエンス王の計らいで、奴の子どもらは国外追放で難を逃れた」
「……よくご存知ですね。私はその難を逃れた息子の一人です」
「ギルバドリクもさすがに大国オーリエンスに出られたら引き下がるしかない。それに、元々前王の執政には疑問を抱いている者も多かった。ラッセルは当時の狂王からとばっちりを受けた“不運な武官長補佐”という意見も少なくないな。―…だが、どんな王であれ、主に逆らうなど家臣としては失格だ。だから、この国にいる奴らのユディフィルへ抱く印象は真っ二つに分かれるんだ」
「なるほど…」
  だから関所にいた兵団長と、この気絶している門兵2人だけを取ってみても、ああも態度が違ったわけか。
  母国での自分の微妙な立場を知り得た事で、アサヒは意地悪な物言いをされたとは言え、フェイには単純に感謝した。
「詳しく説明して下さってありがとうございます。フェイ様はこの国の政治に興味がおありのようですね」
「なん…っ。ば、馬鹿にしているのか!?」
「まさか。感じた事を申し上げたまでです」
「興味があるのは当たり前だ、俺は――」
  けれど言い掛けてフェイは口を噤み、それから急にアサヒの背をばしりと叩き、「今度はお前の番だ!」と怒鳴った。
「私の番…と、言いますと?」
「今度はお前がオーリエンスの事を教えろ。あっちに7年もいたんだろう。どうだった?」
「オーリエンスに興味がおありですか」
「異国はどこも興味の対象だ。自国だけ見つめていても視野が狭くなる」
「そうですね。ご立派です」
  にっこりと笑って誉めてやると、フェイは急に目を大きく見開いて驚いた顔をして見せた。また「馬鹿にしているのか」と悪態をつくと思ったからこれにはアサヒも驚いたのだが、少年のフェイが「偉い事を言った」と感じたのは嘘ではなかったので、アサヒはもう一度笑んで見せた。
「嘘ではありませんよ? 私にもオーリエンスにフェイ様と同じ年程の弟がおりますが、まだまだ子どもで、聞き分けもよくない。フェイ様のように聡明でもありません」
「俺と同じ年程と言っても、そもそもお前は俺を何歳だと思っているんだ?」
「そうですね…。13歳くらいですか?」
「違う! 14だ!」
「やっぱり、そう変わらないじゃないですか」
「馬鹿、全然違う! この俺を、お前の何も知らないガキの弟と同じにするな!」
  あまりにムキになってそう喚くので、アサヒも可笑しくなって「それは申し訳ありません」と素直に謝った。
「……ま、まあいい」
  するとフェイはすぐに大人しくなって何故か急に決まり悪そうになってから、ふっと押し黙った。
  そして急にアサヒの名を呼ぶ。
「アーサー…」
「フェイ様。私のオーリエンスでの友人は、皆私の事を“アサヒ”と呼びます」
「アサヒ…? 何故?」
「オーリエンスで“アーサー”と言うと、古代の名王と、謀反を起こし玉座を得たアーサー・オーリエンスという大人物2人の事を指すのです。ですから、向こうの人間は自分の子どもにアーサーという名を付けません。折しも私は大罪人の息子としてそのオーリエンスを頼った身ですから、アーサーはあまりにも縁起が悪い」
「それで改名を?」
「ただの通り名ですが。後見人の一人でいらした大老が東国出身の方で、そちらに縁の深い“アサヒ”という名を下さったんです」
「ふうん…。アーサーはギルバドリクでは何という事もない、平凡な名だけどな」
「そうですね」
「だがアサヒか…。そちらの方がいいな。それは気に入った」
  ではアサヒ、と改めて呼び、フェイは急に不敵な顔をするとアサヒの目の前に再び踊り出て言った。
「お前とはまた近いうちに会う事になると思うが…。これだけは覚えておけ。俺はお前の事が大嫌いだし、絶対に信用しない。獣に対して甘いところも嫌いだ! だから、いいか。余計な事はするな。言うな。大人しくしていれば王の言う通り、お前のところの貧相な家の再興くらいは目を瞑ってやるさ」
「フェイ様?」
「じゃあな、間抜けなアサヒ!」
  気付けばもう城下の麓にまで来ていたようだ。
  賑やかな街並が一望出来ると認識したところで、フェイはそう言うと風のように軽やかに飛び跳ねてその場を去って行ってしまった。
「獣が嫌いという割には……自分こそが獣のような俊敏さだ」
  アサヒは半ば呆れながらそう呟き、ようやく意識を取り戻しかけてきたような門兵に苦笑して溜息をついた。どうせならあの少年がどこの貴族の子どもなのか、この男に認識してもらいたかったのに。
  望む事とはなかなかうまくいかないものだなと、アサヒは達観したように心の中だけで呟いた。




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