小さなその手をとるために(中編) |
けれどアサヒがフェイの事を知るのは、その僅か10日後の事だった。 「よく戻ってきたな、アーサー・ユディヒル」 アサヒが7年もの間放置されていた屋敷内の整理に手間取っているうちに、王宮からの使者がアサヒの登城を命じてきた。元々1年前に即位した新王が直々にユディヒルの再興を許してくれたからこその帰還だ、近いうちに呼び出しを受けるだろうとは思っていたが、こうも早く声が掛けられるとは思ってもみなかった。 「国王陛下に置かれましては、この度我がユディヒルへの恩赦を賜りまして、深く感謝致しております」 「堅い挨拶などいらぬよ。俺には俺の利益があってお前を呼び戻した。それだけの事なのだから」 顔を上げよと言われて、アサヒは初めて玉座の前にいる人物に視線を向けた。 若い王とは聞いていたが、本当に若い。未だ20代も後半に差し掛かるか否かといったところだろうか。アサヒも今年で23を迎えるが、国を追われて根無し草に落ちてからずっと、オーリエンスの雇われ騎士でい続けたしがない身だ。目の前の華やかな雰囲気を持つこの人物とは大分違うなと思う。……そもそも王族と己の身の上を比べるなどと、愚かにも過ぎる話ではあるのだが。 「父王が病で玉を去られ、身罷られてから僅か1年。あまりにも一度に様々な事が起きたので、この国は今、相当に荒れている」 現在のギルバドリク王・シリウスはそう言ってニヤニヤとした笑いを浮かべた。一体何が楽しいのかはさっぱり分からない。けれどその秀麗で不敵な笑みは、いつぞやの少年とどこか似ているものがあると感じた。瞳はあのルビーではなく、ぎらついたアイスブルーであるけれど。 本来このシリウス、「不義の子」として前王からは忌み嫌われ、次の王位継承者としても名は挙がっていなかった。本命は王と王妃の正当な血を引く第二王子のハルベルトであったはずだ。……が、蓋を開けば、王が死んで玉座を握ったのは、8人いる王子王女の中で一番年上のこの男だった。 そうして、王位を担うと目されていた第二王子のハルベルトは、王妃と共にシリウスを討たんとした罪で遠方へ蟄居を命じられ、残り6人の王子らも、シリウスの不興を買うまいと小さくなっていると聞いた。 「俺の周りには味方が少なくてね」 そのシリウスは飾りのついた長い黒髪を指先でくるくると巻きつけて遊びながら、ぞんざいな仕草で足を組み、玉座の下に膝をつくアサヒを見下ろした。 「そこで思い出したのが、オーリエンスの客人騎士として高名を馳せている、嘗て我が国の支柱を担っていたユディヒル家の長子・アーサー、お前だ。思えば父君には本当に気の毒な事をした。我が父の我がままのせいで、無駄死にしたのも同じだからな」 「……父は王に忠誠を誓っておりました。どのような結果であれ、悔いはありませんでしょう」 「無駄死にと言って気分を害したか? すまぬな、俺は口が悪い故。気にしてはいけないよ」 深々と礼をしてその場を流したが、「嫌な感じだ」というのが、率直なアサヒの感想だった。 元々諸手を挙げて歓迎されるなどとは思っていないが、これは面倒な事になりそうだと思った。恐らくは汚名を着せられたまま他国へ「逃げた」裏切り者を、新制になったばかりで混乱の続く王宮で都合良く使おうという腹積もりなのだろう。 まぁ、それはどちらでもいい。自分の目的が達せられるのならば。 アサヒが心の中でそんな算段を組んでいると、シリウスが頬杖をついた格好ながら再び形の良い唇を開いた。 「話を元に戻そう。先ほども言ったように、俺には味方が少ない。王宮の内外どこでも、未だ新王は俺ではなく、ハルベルトであるべきだと信じている輩もいる。だから俺がそのハルベルトを力で遠ざけたように、今度はこの俺自身がいつ寝首をかかれるやも知れない。今はそれほど不安定な状況と言う事だ」 「王が入れ替われば、どこの国でも数年間は落ち着かないものです。王が善政をお布きになれば、無用な雑音も直収まる事でしょう」 「なるほど、道理だな」 だがなとシリウスは急に立ち上がると、さっとアサヒに歩み寄り、身体を屈めて囁くように言ってのけた。 「だが、俺は善政を執る王にはなるまいよ。俺は自分の事しか可愛くない」 「は…?」 「今回の事とて、俺は自分の身を守っただけだ。そうしたらこういう結果がついてきた、それだけだ。分かるか、アーサー? 異国に留学していた俺にとっては、7年前この国がどうだったかはとんと知らぬが、少なくともあの父王は明らかにあの頃から壊れておられた。……否、この王宮全体が病に冒されていた。俺はそう考える」 「病に……」 「オーリエンスと繋がりがあってここを脱出出来たのは、ユディヒルの遺された子どもらにとっては、これ以上ない幸運だっただろう。けれどお前は帰ってきた。正直、親書を送っても戻るとは思わなかった。この国と心中するつもりで舞い戻ったか?」 「……私は父の意志を受け継ぎ、ユディヒルをこの国で再興したいと考えているだけです」 「再興させてやるさ。俺の言う通りに働くのならな」 そこまで話した後、不意に姿勢を正すと王は再び玉座に戻り、「フェアリィ」と何者かを呼んだ。アサヒはぴくりと肩先を揺らした。それはこの国の第四王子である少年の名に違いなかった。 「……!」 けれどその王子の顔を認めて、アサヒは思わず声をあげそうになるのを寸前で止めた。 目の前に現れたのは、この国へ戻ってきた日に出会った「フェイ」という不遜な少年だった。 内心で驚くアサヒには気付かず、シリウスは言った。 「我が弟のフェアリィだ。可愛い名にふさわしい、可愛いらしい顔をしているだろう?」 「兄上、からかうのはお止め下さい」 「ははは、そうやってムキになるところもまた可愛い」 シリウスはむっとする弟王子の反応などまるで構う風もなく、彼を片手で傍に引き寄せると改めてアサヒを見つめやった。 「多くいる兄弟の中で、俺が唯一信じるのがこのフェアリィだ。アーサー、お前にはこれの守り役を命じる」 「は……」 「剣の腕が確かな事は、あのオーリエンスの英雄、リシュリュー・メディシスから一本取ったという事で証明済みだな。竜を狩れる腕も持つと聞くぞ」 色々教えてもらえと弟王子に向き合って言い、シリウスは再びアサヒに凛として言い放った。 「仮に俺が討たれれば、自動的に次の王になるのは第三王子のモリスか、或いは蟄居を命じられているハルベルトが舞い戻るか。だが、俺はそういう血の正統性によって王を決める慣わしを忌まわしく思っている。そんなバカバカしい風習は捨て去るべきだな」 だからと、再び自らの艶やかな黒髪を弄りつつ、シリウスはニヤリと口の端を上げた。 「実力のある者が王位に就けば良い。……だが、幼いが故にその本来の能力を発揮できぬうちに殺されてしまう例もあろう。それはとても不幸な事だ。だからお前を呼び寄せた。フェアリィが成人し、己が身を守れるようになるまで、お前が弟の盾となるのだ」 「兄上。私はもう、自分の身は自分で守れます」 フェアリィが不満そうにそう口を挟んだが、シリウスはそんな弟の声を軽く黙殺し、ひたすらアサヒの反応だけを窺っていた。 そうして何も言わないアサヒに痺れを切らせたように眉を吊り上げる。 「どうした。我が弟のお守りでは不満か?」 「とんでもありません」 アサヒはすぐにかぶりを振り、恐縮したように頭を垂れた。 「ただ…、大罪人と称された父を持つ私に、帰国後すぐ弟王子の守り役をご命じになるとは露ほども思わず…」 「俺にしてみれば、だからこそ、だよ。この国の微温湯に浸かっていた騎士団に弟は預けられない。お前の方が余程信頼に足ると思ったまでだ」 「ありがたいお言葉です」 「話はここまでだ。後はフェアリィに何なりと聞くが良い」 シリウスはそう言うとさっと立ち上がり、その場を下がって行った。 フェアリィの命でもあったのだろうか、すぐにその場はアサヒと「フェイ」の2人だけとなり、広々とした王の間で酷く重たい沈黙が落ちた。 「アサヒ」 どれくらい経ったのだろうか。フェイがアサヒを呼んだ。 「はい」 だからアサヒも顔を上げると、フェイは憎々し気な顔でアサヒの事を睨みつけていた。 そして一定の距離を保ったまま、吐き捨てるように言う。 「以前に教えたな。俺はフェイだと」 「はい」 「本来の名で呼ぶ事は絶対に許さない。分かったか」 「フェアリィ様、ですか?」 「……っ。呼ぶなと言っているそばから呼ぶな、馬鹿者!」 「失礼しました」 思い切りわざとだったのだが、まんまとムキになって怒るものだから、アサヒも意図せず破顔してしまった。 “フェアリィ”は、ギルバドリクで清廉な森の精霊として崇め奉られている存在だ。故に余程の位である家の子にしかつける事が許されない至高の名である。美しい容姿のフェイにはとても似合っていると言えたが、大抵が女子につけられる名前だから恥じているのだろう。初めて会った時のあの殺気立った眼には一瞬気圧される想いも抱いたが、慣れてみるとそういう意地っ張りな面は王の言うように可愛らしく映った。 「何を腑抜けた顔をしているんだ。それよりアサヒ。お前、俺があの時言った言葉は覚えているな!?」 「はい。余計な事はせず、大人しくしていろと仰いました」 「まるきりの馬鹿ではないようだな。良し。では、俺の事は構うな」 「お傍に控えている事は構いませんか」 「何」 アサヒの言葉に途端フェイの目がつり上がる。 けれどアサヒにしてみれば、フェイを守る事を命じられたのだから、幾ら主となった幼い王子に「放っておけ」と言われたからとて、「はい、そうですか」とその通りにするわけにもいかない。結局のところアサヒの雇い主はこの国の王・シリウスなのだ。 「フェイ様の御気を煩わせるような真似は致しません。この身が視界に入らぬよう、一定以上の距離は保ちます。フェイ様の御身をお守りするよう命じられましたので、お傍を離れる事だけは致しかねます」 「フン……俺の身を護るなどと……」 フェイは何か含むようにそう呟いたが特には言わず、ややあってから急に怒り出して「本当に俺の気を煩わせたら、即刻また国外追放だからな!」と言い捨てて足取り荒く歩いて行ってしまった。 「やれやれ…」 アサヒはそれに軽く肩を竦めたが、実際のところこうもうまく話が進むとは思わなかったので、己の幸運に身震いしてしまった。 王が一体何を考えて自分をあの王子に付けたのかは皆目読めない。けれど、これこそが己の本来の目的だったのだからと、アサヒは気を改めて去って行った王子の後を追った。 そう、フェイがあの時のフェアリィだとは気づかなかったけれど。 アサヒはこの国の第四王子に再会したくて、この国に帰ってきたも同然なのだ。 それから一月ほどして、フェイもアサヒという存在に慣れてきたのだろう。 「アサヒ! アサヒ!」 それとも元から独りきりで退屈していたのだろうか。当初こそ「自分の気を煩わせるな」などと言っていたくせに、気付けばフェイはいつでもアサヒの事を呼びつけるようになっていた。 「お呼びでしょうか」 「別に、用なんかない。本当にそこらにいるのかと思って呼んだだけだ」 「……左様ですか」 万事が全てこんな感じで、フェイはアサヒを困惑させる。 嫌がると思うからこそ気配を断って目につきにくいところに控えているのに、フェイは何かと言うとアサヒの所在を気にして急に呼びつける事が多くなっていた。 思うに、フェイは未だ14歳と未熟な年頃なのに、近い年の友人もいない、傍仕えの侍女も最低限の人数で、おまけにその全ての者に心を閉ざしている。宮廷内の教師ともうまくいっておらず、しょっちゅう城を抜け出してはあちこちの森へ遊びに行ってしまう。剣術指南の騎士にもあまりに懐かず逆らってばかりなので、結局この仕事だけはアサヒがそのまま受け継ぐ事にしたくらいだ。 要はフェイという第四王子は、利発で優れているところは多々あれど、我がままで、少しでも気に入らない事があると癇癪を起こす情緒不安定な子どもだった。 「アサヒ、竜を狩りに行くぞ」 そうしてフェイは朝と夜となくアサヒを好きに呼び出しては、自分の遊戯に付き合わせようとした。アサヒが任じられたのはフェイの護衛であって教育係とは違う。だから努めて煩い事は言わないでおこうと思うのだが、その任を持つ正当な教育係が匙を投げているから、結局全ての仕事がアサヒに回ってくる事となった。 因みにアサヒはもう一月もこの城に入っているのに、他の王子王女と顔を合わせた事が一度もない。フェイが無駄にあちこち動き回るから忙しくてそういった事に気を配る暇がないからと言えばそれまでだが、幾ら王政が変わったばかりの王宮内で忙しないとはいえ、この城内の静けさと異様なよそよそしい空気は一言、「不穏」と言えた。 そんな中でフェイだけが能天気に動き回っているのが、いっそ痛々しいくらいだ。誰もそんなフェイに気を向けようとしないのに。 「ほら、モタモタするな! 早く出掛ける支度をしろ!」 「フェイ様。今一体何時だとお思いですか」 「さあ? 深夜の1時くらいか?」 「もうお休みになる時間をとっくに過ぎています。竜はまた今度に致しましょう」 アサヒの当然の主張は、しかし主のフェイに一蹴された。 「お前はいつもそうやってはぐらかす。知らぬ間に勝手に子飼を連れて来たり…。俺は自分の手で竜を手に入れたいんだ。お前一人が取ってきたやつなど要らない!」 「それはフェイ様がいつも約束を破られるからです。きちんと勉強をされたら、きちんとお食事を取られたら、きちんとお休み下さったらお連れしますと何度も申し上げているでしょう?」 「きちんきちんと、お前はいちいち煩いな! お前の剣術の稽古はちゃんと受けてやってるじゃないか!」 「それはフェイ様が剣術の稽古だけはお好きだからでしょう」 「とにかく、お前が行かなくても俺は行くぞ!」 「フェイ様」 さすがに夜中に城を出られては困る。こんな事は一度や二度ではないが、アサヒは困ったようになりつつ、フェイの腕を遠慮がちに取った。 「無礼者! 俺に触れるな!」 「申し訳ありません」 そう拒絶される事は分かっていたが、それでもそうしないわけにもいかない。「失礼します」と断った後、アサヒは慣れたようにフェイの小柄な身体を抱え上げてしまうと、そのまま早足で王子の寝所へ足を向けた。 「馬鹿アサヒ! 俺はまだ眠くなんかない!」 じたばたと暴れられて頭を叩かれたが、それでもフェイが抱え上げられる事で多少静かになる事はこの一月で学んだ。同列に扱ったなどと知れたら大変だが、コツは自分の弟妹たちと同じ要領であやしてやる事だとアサヒは了解していた。 往生際悪く悪態をつく主に適当な返事をしながら、アサヒはフェイを寝所へ連れて行き、着替えもさせないままとりあえず大きなベッドの上にその身体をそっと下ろした。 「アサヒは我がままな家臣だな」 すると自分の事を完全に棚に上げて、フェイはふいとそっぽを向き、いじけたようにそう言った。 「俺の臣下であるはずなのに、俺の言う事などまるで聞かないじゃないか。こんな不便な奴は要らん。兄上に言ってクビにしてやるっ」 「それは困りました」 ちっとも困った風でもなく答えながら、アサヒはこれまた慣れたようにフェイの着替えを用意し、それを手渡した。本来なら侍女が介助する事だが、フェイがそれを好まない事はもう知っている。 アサヒは室内のランプを手にかけてその火を消してから、「もうお眠り下さい」ともう一度頼んだ。 「竜のことはフェイ様が明日一日、きちんとこれまでの勉強の遅れを取り戻して下さったなら考えましょう。森は危険ですから、王の許可を取りませんと」 「危険な所なら兄上は喜んで俺を行かせるさ」 「………」 「アサヒは未だに自分の本来の責務を分かっていない」 「そうですか」 この手の会話も一度や二度ではなかった。アサヒは無感動にそれらの会話一切を流してしまうと、もう一度フェイの寝着に手を触れて「必ずお着替え下さい」と繰り返した。 一月でよくよく分かった事だが、国王のシリウスをはじめ、第四王子のフェイも常に疑心暗鬼に囚われている。恐らくはちっとも姿を見せない他の王子王女もそのせいでなりを潜めているのだろうが、つまりは誰もが「いつ自分は殺されるのか」と怯えて王宮暮らしをしているのだ。それは1年前にあったらしい覇権争いの末に残った王族たちの心の傷なのだろうが、それにしても王から「唯一信用している」と言われているフェイでさえ、「自分も兄上から命を狙われている」と言って憚らなかった。 そしてアサヒは本来、フェイを殺す為に呼び戻されたのだとも主張する。 「折角売国奴のユディヒルを傍に呼び寄せて俺につけたのに、この一ヶ月間、お前が馬鹿みたいに表立った命令通りの事しかしないから、きっと兄上は痺れを切らせてる。兄上はお前が俺を殺してくれるのを望んでいるんだ。兄上は誰も信じていない。元々自分がハルベルトを追いやって玉座を手に入れたから、周りも皆そうだと思っている。特に俺は兄弟の中で一番優秀だから。だから、俺を一番恐れているんだ」 「一番優秀だからこそ、ご自分の右腕として国政を担う存在になって欲しいと願われているのですよ」 「違う。兄上は、一番の人間は王に就くべきだと思っている。一番なら、長兄だろうが、王の血を引こうが引くまいが関係ない。上に立って然るべきだと考えておられるのだ。……それは正しい考えだと、俺も思う。能無しの兄弟や、父に媚を売る事しかしなかった母上や他の妾妃どもも同様だ!」 「……もうお休み下さい」 まだ14歳なのにすっかり擦れてしまっている。アサヒは暗闇で己の表情を読まれないで済む事がありがたかった。 こういう環境に身を置き続けてきたのだから仕方がないが、「あの時」はここまでひねくれていなかったと思う。折角こんな可愛らしい容姿で根も純粋なのだから、これ以上ドロドロした世界を覗いて荒んで欲しくはないのに。 「国王はフェイ様を愛してらっしゃいますよ」 それでもそれは「多分」真実だろうから、アサヒは慰めにもならないと思ったが一応そう付け足しておいた。 あの国王がフェイの言う通り、実弟フェイを暗殺したがっているとは想像し難い。むしろあの倣岸不遜な王は、いつしか誰かが自分をあの玉座から引きずり降ろしてくれるのを待っているようにも見える。それが何故かはアサヒにも分かりかねたが、それでも他の兄弟よりフェイを優遇し大切にしているのは、アサヒをわざわざ呼び寄せて護ってやれ、剣を教えてやれと言った事からも明らかであると思われた。 「つまらない嘘は要らない」 それでもフェイはいつものようにそう言って、乱暴な所作で着替えを済ますと脱いだ衣服をアサヒに投げつけ、そのまますっぽりと布団の中に潜り込んだ。 「だからアサヒは嫌いだ……」 「お休みなさいませ、フェイ様。良い夢を」 アサヒがそう言ってフェイの衣服を持って傍から離れようとすると、不意にフェイがアサヒを呼び止めた。 「アサヒ」 「はい」 「……明日は、屋敷に帰る日だな?」 「はい。お休みを頂いております」 フェイの守り役になってから屋敷には全くと言って良いほど戻れていなかった。何しろ24時間息継ぐ間もないくらい振り回されるし、どうやらアサヒ以外の護衛団は形式上フェイについているだけで、フェイ自身全く心を許していない。……だからといってアサヒが懐かれているというわけでもないのだが、少なくともこうして寝所に入る事を許されたり、フェイの目につく所にいても怒鳴られなくなったのはアサヒだけと言えた。 だからたかが1日と言えども、アサヒがフェイの傍を離れるのはこの役に就いてからまだ二度目だ。 「街にも寄りますので、何か入用の物があれば仰って下さい」 「別にない。それに、欲しい物があれば自分で買いに行く」 「ですから、それはお止め下さい」 また勝手に脱走しそうだなとアサヒは思ったが、まあそれも自分が任務外の時なら咎めもそう大きくはないだろう、と。フェイを大切に思う一方で、そんな不遜な事も考えてしまうくらいには、アサヒもこの7年の間で大分したたかな男になっていた。 「お前が勝手に傍を離れるのだから、その間に俺が何かしたらお前のせいだな」 それでもフェイは意地悪くそんな事を言う。そうして大きな目を目一杯開いてアサヒの事を見据える。アサヒはこのフェイの瞳が好きだった。王族の中でも珍しい存在だろう。この血のような瞳の色は、禍々しく感じる事もあれば、逆にとても神々しく特別なものに感じる時もある。そもそもどうして気付かなかったのだろう。「あの時」はここまでこの瞳に引きつけられる事はなかった。暗闇のせいで満足に互いの顔を見る事も出来ない状況だったからだが、それにしても再会したあの時すぐに「あの王子だ」と分かりたかった。 あの時の頼りなく弱々しい涙声は、未だアサヒの耳にこびりついて離れない。 アサヒは7年前、未だ7歳のフェイと1度だけ言葉を交わした事があった。 「そこで泣いているのは誰だ…?」 あの頃は、アサヒもまだ大人になりきれていない16歳だった。父であるラッセルが国王の度重なる重税やそれに逆らう市民への処罰に諫言したという「反逆罪」で、アサヒは兄弟共々城下の外れにある地下の空寒い岩牢に閉じ込められた。牢にはアサヒたちのように理不尽な罪で収監された者たちで溢れかえっており、あちこちで啜り泣きや怒りに満ちた叫び声が響き渡り、地獄のような有様だった。 即位して僅か3年。穏やかで争いを好まぬ王として評判だったのも最初のうちだけ、次第に王妃をはじめとした美姫に次々と溺れ始めた王は、贅沢三昧、政治も二の次の堕落した愚王となっていた。 周囲は早くも次の王をと望み、王の弟であるシュバルツの擁立や、グレキアへ留学しているという長子シリウスの帰国を願った。――が、それが余計王の怒りを買い、シュバルツとの内紛やシリウスを遠ざける事にも繋がって、王城内はより一層の混乱を極めたのだった。 そんな中、武官長補佐のラッセルが王に耐えかねた末の「当然の進言」をしたのは、多くの者の溜飲を下げた事になったが、そのせいでアサヒたちは父を失い、自分たちの命も消しかける事態に陥った。 アサヒは幼い弟妹たちや病弱な姉の身が心配だった。バラバラに収監されたから、彼らが何処で苦しんでいるのか分からない。牢兵は乱暴な輩ばかりだ。姉が酷い目に遭わされる事はないだろうか、弟妹たちに怪我はないだろうか…。そちこちから聞こえる泣き声が兄弟たちのものかもしれないと、アサヒは擦り切れそうになる神経の中で必死に耳だけ澄ませていた。 そこに聞こえてきたのが、何とも弱々しい、今にも命の火を消してしまいそうな子どもの泣き声だった。 「そこにいる……泣いているのは誰だ」 すぐ近くのはずなのに姿が見えない。隣の岩牢に閉じ込められている者だろうかと思ったが、やがてその声の主はアサヒの言葉に反応してゆらりとその影を揺らした。 驚いた事にその声の主は牢屋に入ってはいなかった。どこから紛れこんできたのか、格子の向こう側に鎖もつけずボー然と立ち尽くしている。 「子ども…」 まだ幼いそのシルエットにアサヒは目を見張った。暗くて良く見えない。けれどその少年らしき人影が涙を拭うように両手を目のあたりに持っていき、しくしくと未だ情けなくすすり泣いているのはよく分かった。 アサヒはどこかで閉じ込められている弟を想い、少年に無意識に手を差し伸べた。 「どうした、こんな所にまで下りてくるなんて……親が捕まりでもして、忍びこんだのか? 見張りの人間が来る前に早く上へ戻るといい」 「いやだ……。わからない……道、わからない……」 「来た道を戻ればいい。周りは気にせず、上へ向かうんだ」 「いや。いっしょにきて」 格子の間から手を差し入れてきて、子どもは縋るようにアサヒの手を求めた。アサヒは思わずその頼りない手をぎゅっと握ったが、かと言って囚われの自分がこの子どもを助けてやれるはずもない。 言い聞かせるように、もう一度ゆっくりと繰り返す。 「いいか、俺は一緒に行けないんだ…。お前は動ける。お前は自由なんだよ。だから逃げろ。こんな所にはもうニ度と来ちゃいけない」 「いやっ。だって上も……母さまが、下へいけって言ったんだ!」 「何……?」 「ここへ落とされた。ここにいろって言われた。でも、わからない……。どうして? ここでどうしていたらいいの? みんな泣いてる……こわい。こんな所は、こわい」 子どもはいよいよしゃくりあげるように泣き出し、そうしてついには膝を折るとアサヒの手を自分からも必死に握り返して「たすけて」と言った。 アサヒは子どもの言った意味が全く分からなかった。母親がここへ行けと言って落としたというのは何だろう。そんな事あり得るだろうか。きっとこの子どもが誤解をしているのだろうけれど、それでもアサヒは嫌なものを感じて、子どもに再度話しかけた。 「泣くなよ。男だろ? お前、名は何と言う?」 「……フェアリィ」 「フェアリィ? 精霊の名前じゃないか……それに」 この国の第四王子と同じ名でもあると気づき、アサヒはぎくりとして思わずその手を離した。 王族の人間? まさか、こんな所にいるわけはないのに。 「おにいちゃん……? うぅ…手、にぎってっ」 突然露骨に避けられた事で、フェアリィと名乗った少年は怯えたようにぶんぶんと手を振り、アサヒの手を望んだ。 それでもアサヒはその手を伸ばせず、もうフェアリィの手を握る事は決してしなかった。 何故って、父を殺した王族の手など。 「おにいちゃん……おにいちゃん……」 酷い泣き声でその存在にようやく気付いた衛兵が慌ててフェアリィを地上に連れて行ったが、その間もフェアリィはずっとアサヒを「おにいちゃん」と呼び、声を上げて泣いていた。 あんな小さな子どもを無碍にし、その手を離した。それに罪悪感が残ったけれど、自分たちをこんな目に遭わせた王族かと思うと、申し訳ないと思った気持ちもいつしかゆっくりと薄れていった。 だから奇跡のように助け出され、異国の地オーリエンスに来てからはもう、思い出す必要もない事だった。 全てを忘れようと思った。あの悪夢のような日々は。 けれどどうしてか、いつでも「忘れなければ」と思いながら日々を過ごし、気付いた時にはあの幼い王子に「もう一度会いたい」と強く願うようになっていた。 悪い事をしたというのとは違う。好奇心から再び会いたいと思ったのとも勿論違う。 ただあの暗い岩牢の中で、偶々自分の目の前に立ち尽くして助けを求めた王子の泣き声だけが、どうしてもアサヒの心を捉えて離さなかったのだ。 「アサヒ」 今度こそ寝所を後にしようとするアサヒにフェイが再び声を掛けてきた。 アサヒが黙って振り返ると、フェイは一瞬躊躇したような顔を見せたが、静かな囁くような声で言った。 「兄上は俺を愛していると言ったな」 「はい」 「ではお前は……どっ、どうなんだ?」 「フェイ様…?」 「お前は俺を…愛しているのか?」 再会してみれば何という事はない、フェアリィ王子は、愛情に飢えたただの子どもだった。それはあの7歳の頃と何も変わりはしない。否、多感な年頃になってその孤独をより一層深めた複雑な生き物になっている。 「勿論です」 それでもその複雑さをアサヒは愛しいと思った。 「畏れながらこのアサヒも、フェイ様をお慕いしております」 だからアサヒはゆっくりとそう言って微笑んで見せた。あの頃にそれは出来なかったけれど、今は違う。 この王子の心の間隙を埋める仕事は悪くないと思っていた。 |
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