小さなその手をとるために(後編) |
7年もの間、ユディヒルの屋敷はずっと堅固な鎖で扉を閉ざされ、誰一人立ち入る事のない場所になっていた。乱れきった国内、その後の王族たちの政権争いの最中で、その「不吉」な土地を貰い受ける者など現れるわけもない。当時ユディヒルに仕えていた使用人たちもそれぞれがちりじりとなり、殆どの者はその姿を消してしまった。 「アーサー様。お帰りなさいませ」 「まあまあアーサー様、お帰りなさい!」 「ただいま、スペンサー、メリル。留守の間ありがとう」 そんな中、アサヒが帰国したのと同時、待ち構えていたようにそのユディヒルの屋敷に舞い戻ってきたのが、このスペンサーとメリルだった。 スペンサーはアサヒの祖父の代からユディヒルの執事を務めていた男で、背筋のぴんと伸びた長身が特徴的な白髪の老人である。彼はアサヒたちが国を追われた時も自分がユディヒルの屋敷を管理し続けると申し出てくれたが、いつ帰れるかも分からない自分たちの為に彼を縛る事はできないと、アサヒたちはそのありがたい申し出を断った。……が、元々ユディヒルの為だけに働いてきた男が他の主など持てようはずもない。7年間は「おとなしく隠居しておりました」と言っていた男も、アサヒが帰国したと同時に、当然のように屋敷の門を叩いたのだった。 メリルもユディヒルのメイド長としてずっと働いてくれていた女性だ。その彼女も既に孫娘が2人いる程の年齢に達していたが、アサヒの帰国を知ると飛んで帰ってきた。それまでは別の屋敷で仕事を得ていたようだが、「主が信じられないくらい厭味な奴で、いつか首を絞めるかもしれないと思っていた」と半ば本気の目でおどけてみせたものだ。大柄で太めのメリルはとても剛毅で、母のいなかったアサヒたちにとっても本当の母親のように頼れる存在だった。 そんな2人がすぐに屋敷に入ってくれたからこそ、アサヒも放置しきっていた家を気にしながらも王宮に詰める事が出来ていたと言える。 「留守中、何か変わった事はありませんでしたか」 「特にはございません。山のようなお手紙の整理だけ、少々骨が折れるかと存じますが」 お茶を用意すると言ってメリルが退いた後、アサヒからコートを受け取ったスペンサーが無機的な様子でそう告げた。 「手紙?」 「アーサー様が当分王宮から戻られない旨はその都度お伝えしているのですが、どちら様も『手紙は戻られてから見てくれれば良い』と仰るので、無碍にも出来ませず」 「まあ…どんな内容かは想像がつきます」 苦く笑いながら、アサヒは外庭へ通じる開かれた一室の椅子に腰をおろした。 大方、早々に帰国して王に特別な拝命を受けたユディヒルと懇意にしようとか、王宮の内部を探ろうとか、色々な思惑がある貴族の動きに違いない。大老は母国に帰ってもくだらない覇権争いに巻き込まれるだけだと言っていたが、それはアサヒも覚悟の上だ。 ただ、自分は父のラッセルとは違う。自身を悪人だとは思わないが、お人好しでもないので、誰彼構わず良い顔をする気もさらさらないのだった。 「屋敷の中も外も…。随分と綺麗にしてくれたんですね」 気分を直し、アサヒはお茶を持ってきてくれたメリルも揃ったところでスペンサーにそう言った。厳格な執事は畏まった様子で「まだまだ、手を入れきれておりません箇所がたくさんございます」とかぶりを振ったが、メリルの方は「そうそう!」と明るい声で片手を振った。 「何せこの広いお屋敷に使用人が2人だけでしょう? うちは娘婿が庭職人だから、そっちの方は手伝わせたんですけどねえ、まだまだ中が大変で! お掃除の行き届いてない場所もありますから、アーサー様には申し訳なくって!」 「とんでもない。私はここへ戻ってきたところで、最初は誰もいないと思っていましたから。お2人が戻ってきてくれただけで嬉しかったです。屋敷の事はゆっくりで構いません。それから、使用人をどれだけ雇うかもお2人にお任せしますから」 「ほうら、スペンサーさん、だから言ったでしょう! アーサー様は人を入れていいって言うに決まってるって! アーサー様、聞いて下さいな。それなのにこの頑固なスペンサーさんは、アーサー様から直接ご許可を頂いていないからって、誰も受け入れようとしなくって。結構多いんですよ、アーサー様のお屋敷で働きたいって若い子!」 「メリル、ご主人様の前で何とはしたない。もう少し口を閉じておく事は出来ないのですか」 「いいんですよ。賑やかな方がほっとします」 「ですが、王宮にずっと詰められて働いておられたのですから。随分とお疲れなのではありませんか」 「そう見えますか?」 スペンサーにさり気なく気遣われ、アーサーは苦笑した。 するとメリルも思い出したようにぽんと手を叩く。 「ああ、そういえば。おてんばなじゃじゃ馬姫のお守り役をしているんでしたっけ?」 「いえ、姫ではなく―…」 「姫じゃないぞ!」 しかしアサヒがメリルのその言葉を否定しようとした瞬間、外庭から思い切り怒号を被せる声の主が現れた。 「まあ!」 「な…」 メリルの驚いた声にあわせて、普段は冷静沈着なスペンサーまでも絶句したように微か声を漏らす。 「……フェイ様」 そこには一体いつから後を尾けていたのだろう、その噂の当人、「じゃじゃ馬姫」ならぬ「じゃじゃ馬王子」が鼻息荒く立っていた。 そうして呆気に取られる3人には構わず、ずんずんと中へ入ってきて、メリルに向かって指をさす。 「何て無礼な女だ。主が仕えている王族の人間が姫か王子かも知らないなんて。いいか、アサヒの主はこの俺、フェイだ。ギルバドリク王国第四王子のな!」 「まあまあまあ……」 「……おい。分かっているのか?」 メリルのぱっちりと開いた目はただ目の前のフェイを凝視している。そうしてその口以外は、何故か大柄な身体がぴくりとも動かない。それでさすがに勢いこんで叱り飛ばしたフェイも、メリルの様子に眉をひそめる。 「何て可愛らしい王子様!」 けれどメリルは次の瞬間そう言って、感動しきったように両の手を胸の前で組み、目を潤ませた。 「まあまあ、アーサー様のお守りなさっている王子様がこんなに愛らしい方だったなんて! 王宮は何故一度も国民の前に王子様をお披露目なさらないのです? それとも鈍臭い私がご存じなかっただけかしら? このように可愛らしい王子様がいらっしゃると知っていたのなら、うちの孫娘たちをどんな手を使ってでも王宮勤めに志願させますのに!」 「……おいアサヒ。こいつ、何を興奮しているんだ?」 「聞いての通り、フェイ様のお姿に感動しているのですよ」 それよりもと、アサヒは呆れたように己の王子の傍に近づき、先刻自らが腰を下ろしていた椅子に王子を導いてから、膝を折って視線を同じにした。 「このアサヒ、一生の不覚です。一体いつから後を尾けておいでですか。王宮を出る時は用心していましたのに」 「甘いな。それが分かっていたから、はじめから途中の道程で尾行をしようと決めていたんだ。お前が城を出る前に俺はあそこを抜け出ていたんだ」 「そのような事を得意気に話されないで下さい」 ハアと思わず溜息をついたアサヒは、おもむろにフェイの両手を取った。その所作にフェイは最初こそびくんと驚いたように身を竦めたが、以前ほどこういった接触を嫌がる素振りは見せなくなった。 だからフェイが自分の話を聞く体勢になっている事を確認した後、アサヒは言い含めるように口を開いた。 「勝手に城を出ては皆が心配致します。何度も申し上げましたでしょう」 「フン、誰も心配なぞするものか。皆、せいせいする。俺がいなくなれば」 「フェイ様」 「お前だって、やっと俺から離れて家に帰れると喜んでいただろう。知ってるんだぞ!」 話す毎に感情的になっていくのだろう、フェイの目の色が潤みを帯びてきた。アサヒはそれを不思議な気持ちで見やっていたが、未だフェイの手を離さないまま、スペンサーとメリルへそれぞれ視線を向けた。 「……スペンサー。誰か王宮に人をやって王子の所在を知らせて下さい。メリルは王子にお茶を」 「畏まりました」 「すぐにお持ちしますね。とびきり美味しい焼き菓子もありますよ」 「アサヒ!」 「はい」 「し、城に知らせなどやるな!」 「駄目です」 「駄目じゃないっ。俺っ、俺も……ここにいるっ!」 「フェイ様……」 不意に自分の手に新たな感触がのってきてアサヒはどきりとした。気付けば自分だけが一方的に握っていたはずの手を、フェイもぎゅっと指先に力を込めて握り返してきているのが分かった。 「つまらない…っ。城にいても、独りでつまらない!」 それからフェイはキッと睨みつけるようにしてアサヒに尖った声を向けた。 「お前は俺の家臣のくせに、主の言う事が聞けないのか!? 俺もここに泊めろ!」 「……この屋敷は7年もの間誰も人が住んでいなかったので大変荒れているのです。とても王子をお泊め出来るような場所ではありません」 「そんなこと…。俺は、お前が来る前は森の中で一晩過ごした事だってある」 「それは……本当ですか?」 「嘘などつかない。次の日戻っても、誰も何も言わなかったっ」 「それは……」 あの兄王も弟王子を心配しているという割には放任が過ぎるのだなと呆れてしまう。確かに混乱しているのだろうが、なるほどそこまで眼中にないとなれば、確かにこの愛に飢えた王子が寂しさで勝手な振る舞いをするのも頷ける。 だからアサヒがたった一日城を空けるのでも寂しく思うのだろう。そこまで心を許してくれているというのは素直に嬉しかったが、しかし言わねばならない事もある。 「王子。今後、このような事は二度となさらないで下さい」 「俺に説教する気か!?」 「危険な事をして頂きたくないだけです。王子は優秀な者が国を統べるべきだと仰った。しかしこのような振る舞いは、一国を担う責ある人間のする事ではありません」 「……別に、俺は王位などどうでもいい」 「王子」 「煩い! 王子などと呼ぶな! 俺はフェイだッ、ただのフェイ! どいつもこいつも、俺のことなどどうでも良いくせに、王子という肩書きだけで都合の良い時だけ寄ってくる! ウンザリだ!」 「……私もそうだと?」 「お前も…そうだっ。どうせ、王族を恨んでいるんだろう!? 理不尽な罪で父親を殺されたんだ、お前たちも国を追われた。どうせ復讐に帰ってきているんだ! オーリエンスで厚遇されていたお前が、こんな荒れた国にわざわざ戻ってくるなんて、それ以外に考えられな―…げほっ…が、こほっ!」 言い掛けて、フェイは突然息を詰まらせ激しく咳き込んだ。興奮したせいで呼吸もままならなくなったのだろう。アサヒは慌てて立ち上がるとフェイの背中を何度も擦り、落ち着かせようと「大丈夫です」と繰り返した。 「大丈夫……大丈夫です、フェイ様。ゆっくり、息を」 「はっ…げほ、ごほっ」 それでもなかなかフェイの咳は収まらない。不意にきゅっと服を掴まれてアサヒは驚いて目を見開いた。咳き込み過ぎて目に涙を溜めているフェイが縋るようにアサヒを頼っている姿が酷く痛々しかった。 まるであの時のようだと思った。 「……大丈夫ですから」 だからアサヒは身体を屈めてフェイの小さな身体をゆっくりと抱きしめた。 「大丈夫です」 そのまま続けて背中を擦り続けてやると、ようやくフェイの呼吸は整い、やがて静かになった。 勝手に抱きしめたから怒られるかと思ったが、意外やフェイはそのまま暫くアサヒに抱かれたまましんとして何も言わなかった。 「フェイ様」 だからアサヒの方が先に身体を離し、声を掛けた。 「今度アサヒの家に泊まりたいと思われた時は、事前に一言お申し付け下さい。スペンサー達も途惑います。王子を迎えるのに何の準備もないというのはいけません」 「……なら、前もって言えばいいのか?」 掠れたようならしくない声が響く。アサヒはそれにニコリと微笑んでから頷いて、フェイの頬をさり気なく指でなぞった。ぽろりと落ちていた涙の後を拭う為だった。 「アサヒの元にはフェイ様に喜んで頂けるものは何もありませんが……呼べば竜のランガーだけはすぐに参りますよ」 「じゃあ、今すぐ会う!」 途端ぱっと明るい笑顔になったフェイに、アサヒはほっとした。やはりまだ子どもだ。可愛いなと思い、アサヒはこの国に帰ってきて本当に良かったと思った。 だからメリルがとびきり美味しいと自慢するお茶菓子と紅茶にフェイが大喜びした時も、「普段の自分にはここまで無防備には笑ってみせないのに」という恨み言を心の中に仕舞って飲み込めた。 ユディヒルの夜はとても静かだ。 (以前いた場所とはとても思えない……) 今や見慣れぬ風となってしまった庭を眺めながら、アサヒは心の中で独りごちた。 元々人恋しがる柄でもないが、以前のこの屋敷はとても賑やかだった。礼節を重んじるスペンサーがいつも眉をひそめてしまう程、メリルをはじめとした使用人たちとアサヒら兄弟はしょっちゅう気軽なお喋りを楽しんだ。ユディヒル家では屋敷にいる人間たち全員が、それこそ家族のようにいつでも和気藹々と接し合っていた。笑顔の耐えない場所だったのだ。 それがどうして、こんな事になってしまったのか。 お前も王族を恨んでいるんだろう! フェイはそう言ったが、アサヒにそういった感情はもうあまり残っていない。岩牢に閉じ込められている時だけは全てを呪っていたけれど、幸いにして父以外の家族は皆助けられた。そして皮肉な事にアサヒたちを救ってくれたのも、異国とはいえオーリエンスの「王族」の血を引く者たちだったから。 兄弟たちはアサヒが母国へ帰ると言った時、みんな反対した。故郷を懐かしむ気持ちが全くないと言えば嘘だけれど、家族のいる場所が故郷なのだとしたら、もうギルバドリクには何もない。オーリエンスに残り、ここを新しい故郷として愛した方が、辛く苦しかった過去のしがらみも全て忘れられるに決まっている、と。皆が口を揃えてそう言ったのだ。 結局、「忘れたくなかった」アサヒだけがこの国に戻った。 そして今、いつまでも落ち着きを見せない王都の腐敗ぶりに溜息が漏れる。この一月の間でシリウス王が決して愚かな人物ではない、むしろ傑物ではないかと思わせる場面には何度も出くわしているのだが、当初彼が言い放ったように、彼はこの国を愛してはいない。人には気さくに愛想良く話すけれど、結局いつもどこか違う場所を見つめていて、ニセモノの笑顔を張り付かせている。王はこの王宮は病んでいると言っていたけれど、本当にそう思えた。ただ正しい方向へ行きたいとさえ望めば、きっとまた再生できる国であるはずなのに。 「アサヒ」 物思いに耽っていたせいだろうか、いつの間にかフェイが部屋に入ってきていた事にアサヒは気づかなかった。驚いて立ち上がると、フェイはさっさとアサヒのいる机の前にまでやってきて、「何をやってるんだ?」と興味なさそうに呟いた。 「手紙の整理をしていたのです。屋敷を留守にしている間に、知己の者や王侯貴族の方々から、帰国を喜ぶ挨拶の書簡をたくさん頂きましたので」 「ふうん…」 山のように積まれているそれに納得したのか、フェイは気のない返事をしながらつまらなそうにそれらの一つを手に取った。 それからさっと文字を追い、嫌なものを見たという風に眉をひそめる。 「これはお前に結婚を勧める話みたいだな」 「そういうものも多くありますね」 「なるほど。兄王に目を掛けてもらっているお前に取り入ろうと、そこらの貴族が自分の娘を差し出そうと言うわけか」 くだらないと吐き捨てるように言い、フェイは途端不機嫌になった様子でその手紙の一つを投げ捨てた。 アサヒはそれを黙って見つめてから、「フェイ様」と王子を呼び、その目の前にまで歩み寄った。 「もうお休み下さい。明日は早くに王宮へ戻りますから」 「眠れない」 「ベッドが硬かったでしょうか。申し訳ありません。客室はまだあそこしか手入れされていないとの事で」 「お前の寝る所は?」 「は? この隣……ですが」 「なら俺もそこで寝る」 「……………」 思わず何と言って良いか分からず、アサヒはぴたりと動きを止めて目の前の王子をまじまじと見つめやった。 メリルにさんざん構ってもらうのを鬱陶しがっていた割に、湯浴みの手伝いはさせるし、いつもは良いと言う着替えまでフェイはアサヒに手伝わせた。スペンサーやメリルはそんな我がまま王子に驚いたり苦笑したりだったが、「主は王子に大変気に入られている」という事実が当面一番重要なのか、特には何も言わなかった。 けれど、アサヒにしてみればそういうわけにもいかない。 まるで日を追う毎に幼くなっていくような王子に心配になる。甘やかし過ぎたのだろうか、愛を知らない可哀想な王子だからと、親切にし過ぎたか。それは時に必要な事かもしれないが、あまり無防備に過ぎれば、それはそれでまたこの王子にとって決して良い事とは言えない。 それに何より、自分自身も困る。何故ってアサヒはフェイ王子をとても可愛いと認識してしまっているから。 「何を黙っているんだ」 アサヒが何も言わない事に痺れを切らせたようになり、フェイがイラついたように声を出した。アサヒはそれではたと我に返ったようになり、「フェイ様」と一旦息を大きく吸い込んだ後、一気に言った。 「一緒に…というわけには、さすがに参りません」 「何故?」 「フェイ様はこの国の王子殿下であらせられるからです。一介の騎士風情と寝所を共にするなどと」 「ここには俺とお前しかいないだろう? メリルは帰ったし、あのスペンサーが何か言うとも思えない。俺たちが黙っていれば誰にも分からない事じゃないか」 「ですが――」 「とにかく、俺はあそこでは眠れない! だからお前の所で寝る!」 「……分かりました」 仕方がない、それでは自分が移動しようと思いながら、アサヒは早くと急かすフェイを伴って自らの寝所へ向かった。ランプがないと暗い室内だが、アサヒには慣れた場所だし夜目が効く方なので、ついすいすいと歩を進めてしまう。……が、ふと気付くと後からついていたフェイが実に心細そうにアサヒの服の裾を掴んでいる事に気がついた。思えば、幾らここが王宮にいる人間の目に届かないとはいえ、寝着のままでフェイが部屋を出る無作法をするなど勿論初めての事だ。これまで眠れないからと言っても、こんな風に慌てて出て来たような様子を見せる事はなかった。アサヒはようやく思い当たるものを感じて得心した。 無論、それを口には出さなかったが。 「ランプを持って参ります。少し明るい方が宜しいでしょう?」 「いい……」 ベッドまで来て、アサヒが自分を置いて部屋の外へ行ってしまう事を察知したのか、フェイが振り絞るような声でそう言った。見るともうアサヒの手首も掴んでいる。アサヒは踵を返した体勢を再び元に戻して、遠慮がちにフェイの手を振り解こうとした。 「フェイ様。すぐに戻りますから」 「要らない…。お前がここにいればいい…」 「……では、フェイ様がお休みになるまでこうしています」 アサヒはすっかり諦めてベッドの端に腰をおろし、ゆっくりとそう言った。 けれどこの時のフェイはどうにも頑固で、気弱な顔を見せるくせに偉そうな口調だけは直らなかった。 「駄目だ。ちゃんと……ほら、中に入れ! お前も一緒に眠るのだから」 「フェイ様」 「命令だ…っ。早く、アサヒ!」 「ですが」 「そんなに……」 それでもどうしてもアサヒが動かないのを見たフェイは、急に唇を噛むと何かを堪えるような様子を一瞬見せた後、涙の入り混じったような声で言った。 「そんなに俺の事が嫌なのか? ただ…ただ、隣にいるだけだ…っ」 「嫌なわけではありません。ただ、フェイ様のお立場を考えると――」 「そんなの要らない!」 好きでこうなったわけじゃないのに、と。言外に訴えるようなフェイの瞳に、アサヒはいよいよ根負けした。 「フェイ様は本当にアサヒを罷免されたいようですね」 観念してフェイのいるベッドの中に身体をもぐりこませて横たわると、フェイはアサヒの呟きなど何ほどの事もないらしく、待っていたと言わんばかりにすぐにきゅっと抱きついてきた。アサヒはあまりにストレートな甘え方をするそんなフェイに当然面食らったが、余程怖かったのかと思い、黙ってフェイの頭を撫でた。漆黒の髪にそっと唇を寄せると、しっとりとした花のような香りが鼻先をくすぐった。 「内緒だぞアサヒ……お前も昔は知っていたから、だからお前には教える……」 するとアサヒの胸に顔を押し付けたままでフェイはそう言った。 「俺は暗闇が怖いんだ」 ハッとしてそんなフェイの顔を覗きこもうとしたが、それは許さないとばかりに一層顔を擦り付けられてアサヒは動きを止めた。 「何も見えないのは嫌いだ。嫌なものばかり余計聞こえやすくなって、いつも俺を苦しめるから。背中を押されても分からないし、下に落とされたらもう戻れない。だから……ずっと、暗いのは嫌だった」 「フェイ様……」 それは過去のあの事を言っているのだろうか。心臓の音がどくんと高く鳴り響き、アサヒはフェイの見えない顔を覗きこみたくて堪らなくなった。 それでもフェイはアサヒに胸を押し付けたまま動かない。 「でもあの時……暗くて怖くて、どうしようもなかった時…。1人だけ、声を掛けてくれた奴がいた。どうしたって。早く戻れって。手を握って励ましてくれたんだ。あの暗い世界で、闇の中で、俺にはそれだけが全てみたいに思えた。でも……」 きゅっとアサヒの胸に縋りつく手を強くし、フェイは押し殺した声で言った。 「俺が王族だって分かったら……そいつも、手を離した」 「フェイ様」 「助けてって言ったのに。助けてくれなかった。だから俺は誰も信じない。母上は勿論、兄上だって他の兄弟たちだって誰も信じない。信じて、騙されて殺されるなら……最初から信じない方が楽だから」 「フェイ様……」 「なのに……どうして……どうして、今さら、戻ってきたんだ」 不意に顔を上げてフェイがアサヒを見つめてきた。ぎくりとして思わずその瞳を凝視すると、あのいつも強気な赤い瞳はゆらゆらと弱々しく輝いて涙に濡れていた。 「どうせ覚えていないだろう。忘れているくせに…っ。なのに、お前は戻ってきた。自分の家を再興する為だけに。お前が戻ってくると知って、俺がどんな気持ちになったかも知らないで…!」 「フェイ様――」 「動くなっ。まだ…このままっ」 アサヒが身じろぐ事すら許さず、フェイは涙声のままアサヒの胸倉を強く掴んで再度顔を押し付けた。 アサヒはそんな幼い王子の震える身体を抱きしめながら、ただボー然とした想いでその姿を見据えていた。 覚えていた。 この王子も自分とのあの岩牢での出来事を覚えていた。 あんなに些細な、本当にほんの僅かな触れ合いだったのに。 《クルオオォォ―……》 その時、窓のすぐ傍で竜の小さな呻き声が聞こえた。 はっとしてアサヒがそちらへ視線を向けると、闇の向こう側、自身の子飼であるランガーの羽ばたくシルエットがちらりと見えた。 「アサヒ…?」 「静かに…」 フェイがアサヒの緊張した空気を感じ取って声色を変えてきた。けれどアサヒはそれを制してさらりとフェイの髪の毛を撫でた後、言外にそのままでいるよう伝えて自らはさっと窓際へと移動した。 ランガーは元来、大人しくてとても賢い雌竜である。こんな夜更けに、例え遠慮がちにでも無駄に啼いて主人を煩わせるような真似はしない。 知らせてきているのは、何かが起きているから。 「アサヒ…どうしたんだ」 「どうかそのまま。決して動かないで下さい」 フェイが言う事を聞くとは思えなかったが再度そう言い、アサヒは気配を消したまま窓の外を窺った。 「……っ」 すると屋内にいるはずなのにさっと一陣の風が通り過ぎたような感覚が襲い、瞬間、夜空を大きな黒い影が過ぎったのを見た。急ぎ剣を取って書斎の方へ移動し、フェイがついてくる間を与えずにテラスへ通じる窓を開けて自分だけが外へ出る。 「お前は…」 《グオオオォォ―……!》 アサヒは思わず目を見張った。 夜空には斑模様の入った大きな緑竜が、地を這うような声を上げつつ屋敷の上空をぐるぐると飛翔していた。 《クオオオォォ―ッ。クオッ…!》 その周辺を緊張した様子で飛んでいるのはアサヒの子飼であるランガーだ。己の領域を荒らされている為、気が立っている。幸いユディヒルの屋敷は街中から少し外れた場所に位置しているが、さすがに2匹の成竜が争うような事になれば大変な騒ぎになるだろう。 「アサヒ…」 「…っ。フェイ様、お願いですから、中にいらして下さい」 そんな一触即発状態にアサヒもヒヤリとしているところを、案の定フェイが後を追ってきて声を掛けてきた。さすがのアサヒも露骨に眉をひそめてしまい、片手で制するようにしてフェイを中へと押し戻そうとする。 「危険です。どうか中へ」 「あいつはこの間の奴じゃないか」 「そうですね」 フェイの言葉にアサヒも知っていたと言う風に頷いた。 病気のような模様の入ったこの緑竜は、アサヒが7年ぶりにこの地へ戻ってきた時に突如として襲い掛かってきた竜に違いない。あの時はフェイが竜の目を焼ききろうとして追い払ったが、まさかその時の事を覚えてここまで来たとは考え難い。 けれどどうしてだろう。緑竜はどこか切羽詰まった様子で絶えず啼き、アサヒの屋敷上空から去ろうとしない。 かと言って襲い掛かろうともしない。 「アーサー様、これは…!?」 騒ぎを聞きつけたスペンサーも部屋に入ってきて焦った風な顔を見せた。アサヒはそのスペンサーにフェイを屋敷奥に連れて行かせようとしたが、フェイはそれを振り切ってテラスの手摺りに身を乗り出し、「多分あいつは」とどこか苦しそうに言った。 「あいつ、俺を狙ってきてるんだと思う」 「どういう事ですか?」 アサヒが驚いて問い質すと、フェイは少しだけ気まずそうな顔をした後、項垂れた。 「前から……あいつ、俺の周りをうろちょろしてた。俺はそれが怖くて……俺が欲しいのはもっと小さな竜だったから、いつもガラス玉や煙玉を使って追い払っていたのに、何故かあいつはいつも俺の周りをうろつく。それに……」 「それに…、何です?」 確かにフェイが姿を現してから、あの緑竜の動きが鈍ってきたように思う。 アサヒはフェイに近づき、何か言い辛そうにしているフェイの手をゆっくりと取った。 「教えて下さい。あの竜が苦しそうにしている理由がお分かりですか?」 「分からない…っ。分からない、けど…。けど、俺があいつを避けるようになってから、あいつに変な模様が出来始めた…!」 「……それは」 「何なんだあいつ! いつもしつこく、気付くと俺の居る場所を割り出してくる!」 「それは……あれにはそういう力があるからでしょう」 アサヒはどっと脱力する想いがして、改めて目の前のフェイを見やった。 《クオオォォ……》 緑竜が啼く毎に、それに呼応するように、いつの間にかランガーもじりじりと切ない鳴き声を上げている。アサヒはそちらに視線を向け、それから「もう心配はないから」とスペンサーに目だけで合図し、その場にフェイと2人だけ残った。 「あんな竜、俺は要らない……」 アサヒの様子の変化に気づかず、フェイが萎んだ風船のように頼りない声で言った。 「あいつも俺を殺そうとしてる。俺の事が憎いんだ。兄上が差し向けたやつなのか? こんな所にまで追ってきて……どうしてあんな眼で俺を見るんだよっ」 「フェイ様…。あの竜はフェイ様を憎んでいるのではありません」 「嘘だ! あれも兄上と同じだ! それに…お前と同じだっ。俺のことを嫌ってる!」 だからあんな風に嫌な声で啼くんだ、と。フェイは遂に泣き出して、けれどアサヒの手を振り解く事もせずにぼろぼろと透明の涙を足元へと無造作に落とした。 《グオオオオ!!》 緑竜がそれに反応したように吼えた。アサヒはそれを何とか諌めようとまずは共に興奮し始めているランガーに口笛で飛ぶ事を制し、それから改めてフェイと向き合った。 「フェイ様、竜は本来人間には傅きません。人を主に選ぶ事があるのは、己の爪が人の持つ剣に負けた時だけです」 「そんなの知ってる…。だから強いお前はランガーを持ってる」 「いいえ。真に強き者は、力を使わずとも竜の心を奪います。先々代の王も、それ以前の王も。ギルバドリクの王たちは皆そうして、剣を用いずこの辺りで1番の竜を友としたとか」 「……何の話をしている」 「あの竜はフェイ様を慕っているのです」 アサヒが笑んでそう言うと、フェイは流していた涙を拭いもせずに、不審な眼差しのままアサヒを見返してきた。 そうして俄かには信じられないという顔をして頬を赤らめる。 「そんなの…嘘だ」 「嘘ではありません。現に、あれはフェイ様を襲ってはこないでしょう? ……あぁ、ただ、このままでは私の身が危い。フェイ様を悲しませているのが私だと誤解されたら、あの竜に恨まれます」 恐らくあの時緑竜が門兵や自分を襲ったのもそのせいだったのかもしれない。 フェイはあの時、入国してきたアサヒの事を気にしてそっと後を尾けていた。警戒するようにアサヒらを盗み見していたフェイを見て、緑竜がアサヒたちを敵だと認識した可能性は大いにある。 あの緑竜はフェイを慕うがあまり、フェイの近くにいる人間を襲うのだ。 そうして、恐らくはここら一帯の主であるあの緑竜がぴりぴりしているが故に、他の竜も落ち着かずに乱れているのではないか。 「鎮めて下さい。フェイ様ならあの竜を大人しくさせる事が出来ます」 「どう、どうやってっ」 「竜は賢い。そのまま命じれば良いのです」 「……俺は……分からないっ」 「出来ます。フェイ様なら――」 「嫌だっ」 フェイはアサヒにぎゅっと抱きつき、駄々っ子のように更なる涙声を上げた。 「分からないっ。そうやって適当にうまい事を言って、俺を煽てるのはやめろっ。アサヒなんか、俺のこと嫌いなくせにっ」 「お慕いしていると申し上げました事……お忘れですか?」 「嘘だっ。俺のことなんか忘れていたくせに! 俺はアサヒのこと忘れなかったのに! ずっとずっと、待っていたのに! なのに…アサヒなんか、嫌いだ!」 《グオオオオオォ!!》 竜がいよいよアサヒを睨みつけ、激しく大きな翼をばたつかせる。 アサヒは困ったようにフェイの背中を撫でながら、自分にしがみ付いて離れない王子のしゃくりあげる身体を必死に抱きとめた。 確かに、いきなり何の力もなく竜を諌められるのだと言われても俄かには信じられないのだろうが。 それでもフェイの繊細に過ぎるこの心は、きっと何もかもあの時から現在に至るまでの孤独な日々が作り上げてしまったものに違いない。…そう考えると、その一端を担ってしまった自分の責任を今さらながらに痛感してしまう。 だから、繰り返すしかない。 「フェイ様。あの竜だけではないのです」 私ももう、とっくに貴方に囚われてしまった。 「お慕いしております。フェイ様」 アサヒは言ってフェイの額に唇を押し付け、それに驚いて弾かれたように顔を上げたフェイの瞼にも、ゆっくりとした口づけを落とした。 「ア、 アサヒっ」 「あの竜と同じ気持ちですよ。貴方のお傍にいたいから、私は戻ってきたのです」 「アサヒ―…」 ぼっと顔を赤らめるフェイに構わず、何度も唇を寄せる。フェイは驚きと衝撃で固まったように動かなかった。あまりに良いようにキスさせるものだから、アサヒもついつい歯止めが効かなくなってしまう。 だから闇夜の中で緑竜が怒ったように啼いていても。 「フェイ様。このアサヒがずっとお傍におりますから」 アサヒは何度もそれを繰り返し、そうしてフェイが何かを紡ごうと口を開きかけたそこにも、そっと自らの唇を重ねた。 「……っ」 予期せず口を塞がれたフェイはそれでますます言葉を失ってしまったのだけれど、アサヒを振り払いも罵倒もしなかった。 「ば…ば…馬鹿者っ!」 けれど暫くしてからそれだけは言って、フェイは涙に赤くなった目元をそのままに、再びアサヒに抱きついて周りも気にせずわんわんと泣き始めた。 そしてアサヒの事はこれまで散々、「嫌いだ」と言っていたのに。 「アサヒ…アサヒ、アサヒ、好き…っ」 しゃくりあげながらそう言って離れない。フェイは外聞も何も構わず、ただ堰き止めていたものが瓦解したようにアサヒにしがみ付いて「好きだ」と繰り返した。 「私もフェイ様をとても大切に想っています」 だからアサヒも健気な王子にすっかり胸を射抜かれながらも、そのこみ上げるものを堪えてそう答えた。泣きじゃくるフェイの唇にも何度も伝えるようなキスをした。 そのせいでフェイの泣き声はますます大きくなっていったのだが―…。 あれほど啼いていた緑竜は何故かその頃にはすっかり静かになり、いつの間にか地上でランガーと共に大人しく丸まっていた。 また驚いた事には、あれ程目立っていた斑の模様もこの時には綺麗に消え失せ、竜は元来のものであろう、美しい青緑の皮膚へと変化していたのだった。 |
and… |