メディシスの恋 |
リシュリューには、この先一生引きずるであろう悔いがある。 1.現在 「あれぇ、メディシス様。今日は宮殿でバージバル様の授与式があったはずじゃあ―…?」 「そんなもの、俺は知らん! それより早く、頼んでいたものは用意出来ているのかッ!」 城下で花屋を営んでいるマーサはいつものんびりしていて、リシュリューを無駄に苛立たせる。元々気が長い方ではないし、特に今日は早く帰りたかったから無駄な世間話に付き合う暇もなかった。 「出来てますよお。そんなに目ェ血走らせる事ないでしょう?」 それでもマーサは文官長で騎士の称号もあるリシュリューに対して決してへりくだらないし、リシュリュー自身も徹底的には強く出られない。ただの花売り娘と王都の文官であるリシュリューとでは明らかにその身分差は大きいものがあるのに、その微妙な力関係を城下の人間はいつも奇異の目で眺めている…―が、最近ではマーサのお陰でリシュリューが「思ったほど怖いお方ではない」という認知が広まっているのか、どちらかというと「またいつもの言い合いが始まった」程度で大きな騒ぎにもならない。 騒いでいるのはリシュリューだけだ。 「ご注文はこれで良かったですよね。東の国から取り寄せたフローランスローズ! 両手いっぱい!」 「そうだ! それだ、それッ!」 マーサが店の奥から運んできた深紅の花束をリシュリューは大袈裟に指差してから頷き、まるで追剥のような勢いで強引にそれを己の腕に抱え込んだ。 「ちょっと! そんな乱暴に扱わないで下さいよっ。折角の花びらが落ちちゃいます!」 「急いでいるんだ! 金はまた後で屋敷に取りに来てくれ!」 「それはいいですけど…。本当に今日申し込むんですか?」 「今日を逃したらいつするんだ!?」 「メディシス様、いつも同じようなこと仰ってますけど…」 マーサのどこか憐れむようなその声を、しかしリシュリューはもう聞いていなかった。 細身だがリシュリューは長身でがっしりとした体躯である。それでも、両手に抱えれば上半身がすっぽりと隠れてしまうくらいの大きな花束。それを一度は躊躇った後しっかと小脇に抱えこみ、リシュリューは再び勢いよく走り始めた。王宮に仕える者で移動に竜や馬を使わない人間など殆ど皆無と言って良い。竜は体躯が大き過ぎるが故に街中を飛翔することは特別の地位ある者以外は禁止されているが、リシュリューはその「特別の地位」にある者だ。 にも関わらず、彼の日常は大抵が徒歩移動だった。 「無駄に元気なんだよねぇ、あのお方……」 見た目は如何にも神経質で面倒くさがりという風なのに。 マーサは付き合いの長い遠縁の後ろ姿を見やりながら、まあ本人が今日しかないと言うのならば、「今日こそ」うまくいけばいいなと思った。 2.過去 リシュリューの一族メディシス家は、代々王族に仕え、主に国の政務を司る文官庁に所属していたが、子どもの頃から内より外で動き回る方が好きだったリシュリューは、書簡に目を通すよりも剣を振り回して竜に乗る方を好む武官タイプだった。 それ故、数年前に亡くなった父の意向で「渋々」と後は継いだものの、与えられた仕事以上の事は決してしない。おまけに普段より腰に剣を差し、暇さえあれば王宮の親衛隊を駆り出して剣の稽古をつけたがる“剣闘士”だったから、周囲は「文武に秀でた文官騎士」として彼を畏れ、崇めた。気難し屋で我がままとの陰口を叩かれる事もあったが、それは私事の部分で付き合いにくいところがあるだけで、少なくとも「公」の面においては、リシュリューは国王からも全幅の信頼を受ける、前途洋々な男だった。 「結婚〜?」 そうなると、当然の事ながら各所からの求婚者は後を絶たない。 「お前ももう23だろう。いい年頃ってものを“とっくの父さん”に過ぎてしまっているんだ、さっさとどれでもいいから適当なのを見つけてしまえ…とは、母上様からのお達しだ」 年の近い「叔父」であるジオットがそう偉そうに告げに来たのは、リシュリューが亡き父の後を継いでから半年ほどが過ぎた頃だった。 久しぶりの休暇を謳歌し、美しく整備された庭園で子飼の小竜(しょうりゅう)と戯れていたリシュリューは、「嫌な奴が来た」と思いながら胡散臭そうな視線を投げ掛けた。 「とっくの父さんって何だ?」 「最近街で流行っている洒落言葉」 「知らん、そんなもの」 「別に知らなくてもいいさ。妙なところにだけ喰いつくな」 ジオットもリシュリュー同様、この生意気な甥の事はあまり好きではないらしい。「俺だって面倒だけど来てやったのだ」という態度を隠す事もなく、彼は「とにかく」と先を続け、形の良い唇を動かした。 「才能があるってのは全くもって得な事だな。お前の場合、見目も良いから手に負えない。……まぁそのお陰で、お前のようにとてもとても嫌な性格の奴でも、美しく家柄の良いお嬢さん方がこぞって輿入れしたいと申し出てきて下さるんだ。ありがたい話だろう? そりゃあ多少政略的なものもあるんだろうが、さ? ま、そんなわけで、とにかく! ありがたあく、どれでも好きなのをちゃっちゃと選んで。で、さっさと落ち着け」 「俺は結婚などしない」 フンと鼻を鳴らしてリシュリューは再び小竜に向き合った。人間以外の生き物は好きだと思う。つまり、人間は好きじゃない。面倒臭いし汚いし、特に女は駄目だった。あのどぎつく着飾る姿が不恰好だし、香水のきつい匂いも耐えられない。横柄な母親を見て育ったから尚更そう思えた。 幸い父の死を契機に、その母は里帰りをしてちっとも屋敷に寄り付かなくなったが。 「そう言うと思ったよ。つまり、あれだ。お前は女が駄目なんだ」 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてそう言う叔父に、リシュリューはいよいよ不快な顔をして見せた。 「女だけじゃない、人間が嫌だ」 「でも特に女が嫌なんじゃないか」 「何が言いたい」 珍しくしつこい叔父に対し更にイライラが募り始めると、当のジオットはそんなリシュリューを前に、いつの間に連れてきたのか、己の背後に立つ見知らぬ少年の背をどんと押した。 「……? 何だ、そいつは…」 身なりからして平民の出ではないだろうけれど、それほど高い地位にあるとも思えない。ジオットが手荒く扱っているのがその証拠だし、何より見目が貧相だ。貴族にあるであろう気品や誇りも感じられないし、どこかオドオドしていて不快度が増す。 それに黒々とした髪の毛と瞳の色も気色が悪かった。 「異国の者か?」 「いーや。れっきとした我が国の民さ。クロスウェル家のご子息殿だ」 「クロスウェル?」 聞いた事があるような、ないような。 やる気のない脳で何とか過去の記憶を手繰ってみるが、思い当たる名とは合致しなかった。そもそもこの少年自体を見た記憶はないから、やはり気のせいだろうとリシュリューは考えるのを止めた。 「それで、その家の息子が俺に何の用だ」 「この子のお父上はお前と違って人を信じ過ぎる…と、いうか、失礼ながら考えが足りないのさ。地道に自分の家を守る事だけに心血注いでいれば良かったものを、下手に訳の分からん商売に手を出して、あっという間にお家存亡の危機を呼んだ。―…で、息子を俺の所に寄越してきた」 「はぁ?」 意味が分からず眉をひそめるリシュリューに、ジオットは「王宮勤めのお前には分からんだろうが」とバカにしたように笑い、肩を竦めた。 「俺たちの世界ではよくある事さ。だが折角の貰い物も生憎俺の好みじゃなくてね。けどそのまま返すのも勿体無い。――で、だ。ふとお前の事を思い出したんだよ。お前は最早我が国きっての有名人だし、幾ら適当な所で見繕えと言っても、婚姻前に下手な所に手を出しても厄介だろう? 母上様も良い顔はすまい。しかもお前は女が駄目ときてる。だからこの天からの……、いや、単なるクロスウェル氏からの贈り物、だ。これを利用する手はないと思った。大事な甥っ子の役に立ったとなれば、俺もこの子の父上に手を貸すのにやぶさかではないしな」 「まったく意味が分からない」 「この子には分かってる。だからここに置いて行く」 「はぁ? 何を言ってるんだ、こんな見知らぬ――」 言いかけたリシュリューに、しかしジオットは用は済んだとばかりにもう見向きもしない。さっと踵を返すと後ろ手にひらひらと片手を振った。 「まあ、気に入らないなら捨てても構わんよ。けど、美しいお嬢さんを手にする前に練習くらいはしておけ。そうしないと恥かくぜ、王都のエリート文官騎士さん」 「ジオット!」 相変わらず厭味な叔父だ。リシュリューはキッと目を吊り上げて怒鳴ったが、しかし相手はあっという間に庭園から姿を消してしまった。 「何なんだ…!」 そもそも、好きで家を継いだわけじゃない。本当は竜や馬を駆って剣を奮い、自由に生きていきたい。王宮勤めなんて退屈なのだ。そういった面倒なものを全て自分に押し付け、ジオットの家は好きな商売だの芸術だのに金を掛けて道楽に耽っているくせに、何だってこんな真似だけして、しかもそれをさも「親切」みたいに恩着せがましく言ってくるのか。 「くそっ!」 むかむかして土を蹴り、リシュリューはその怒りのまま、目の前に立ち尽くしている少年を睨み付けた。 年は幾つだろう、多く見積もっても16くらいか。栄養が足りていないのか、いやに貧相な身体をしているし、もしかすると病気持ちかもしれない。 冗談ではない。何だってこんな厄介な見知らぬ他人を自分の家に置かなくてはならないのか。 「貴様はジオットの所に返す!」 ロクに相手の顔も見ないまま横を通り過ぎ、リシュリューは依然として不機嫌全開な声で叫んだ。女が駄目だから男で「練習」しろって、そんな腹の立つ言い草があるか。女だろうが男だろうが、人間が嫌いなのだ。だから結婚もする気はないし、跡継ぎだって作る気はない。かと言って養子を取る気もない。この家は俺の代で潰してやる、そんな風にも思っている。 真面目に働いているのは、一応父親だけはそれなりに尊敬していたからで―…。 「あ、あの…っ」 その時、控え目ながら焦ったような声が背中に突き刺さった。反射的に振り返ってジロリとした視線を向けると、ジオットが置いていった「生贄」の少年が、困りきったような蒼白な表情でリシュリューを見つめていた。恐らくは、ジオットからよくよく付け入るように言い含められてきたのだろう、どこか縋るようなその弱気な目に一層腹が立った。大方、「リシュリュー・メディシスのお眼鏡に掛からなければ、お前の家もどうなるか分からないぞ」と脅されて必死なのだろう。 けれど。 リシュリューにとってはそんな事、“呆れるほどにくだらない理由”だ。そんなもので見知らぬ自分に取り入ろうとするなんて、このガキにも虫唾が走る。 「貴様、鏡見た事あるのか?」 だからだろう、ジオットへ向けられなかった怒りの分も含めて、リシュリューは目の前の少年にこれまでで最大級ではなかろうかという程の悪意ある目と声で言ってやった。 言ってしまった。 「たとえ俺が男の方が良い性癖だったとしても、だ。貴様のような不細工な作りのガキなぞ絶対に御免だ。連れて来られる前に自分の頭で! 常識で考えてみろ! 俺が貴様なんぞを例え玩具ででも使うと思ったか? 自惚れもそこまでいくといっそ憐れだぞ、この下種が!」 ……リシュリューは己の発したこの台詞を、この先一生悔いる事になる。 3.現在 「ク、クリスは…っ?」 猛烈な勢いで屋敷に駆け込み、執事に開口一番それを問い質したリシュリューは、辺りがいつもと同じように平静とした態度でいる事に猛烈な苛立ちを感じた。 何故みんなこんな風に穏やかな顔をして落ち着き払っているのか。主人の俺が今朝は出掛けから「今日決行するぞ」と言っていたのだから、周りも俺と同じようにソワソワし、落ち着かなくしているべきじゃないか?と。 しかしリシュリューのその「身勝手」な想いは、既にその“今日決行”とやらを何度も言いつけられている執事たちからすると、「またですか」としか思えないので慌てようもない。 それに、言いつけに関しては常に完璧にこなしているのだ。 「クリス様は、いつものようにお庭で花木の手入れをされております。小竜も一緒におります。彼は言わずともクリス様のお傍を離れませんので、『クリス様から目を離すな』というリシュリュー様の命も自ずと守られております」 「あいつ…主人の俺が帰ってきたというのに、最近じゃちっとも出迎えに来ないな」 憎まれ口を叩くものの、顔がにやけてしまうのはどうしようもない。執事のどこか苦笑したような様子に慌てて咳払いをし、リシュリューは今度は庭園に向かって走り始めた。 人間より竜や馬の世話をする方が好きなリシュリューは、昔から子飼の竜たちをとても大切にしていた。特に小竜は何故か生まれた時から片翼に障害があって高く飛ぶ事が出来ないし、身体も小さくて人1人がやっと乗れる程度だったが、リシュリューにとっては大切な数少ない友人だった。だからこそ王都にも絶対に乗っていかないし、子どもの頃から自分の胸の内を素直に明かせるのも彼だけだった。 だが小竜は、この頃はもうすっかり「リシュリューよりクリス」だ。クリスが大好きで離れたくないから、いつでも傍に寄り添って、リシュリューが帰ってきた事に気づいても出迎えもしてくれない。 それでもリシュリューはその事には腹が立たない。小竜が自分と同じようにクリスを好いている事が嬉しかったのだ。 4.過去 「ジオットの奴、引き取りに来られるのは10日後だと? いよいよ俺の事を甘く見ていやがる!」 勝手に置いて行った少年をすぐさま引き取りに来るよう連絡しようとしたが、ジオットは風のように、それこそ全速力で逃げるようにして竜の背に乗り、自分の屋敷がある西国へ帰ってしまった。血縁者なだけにリシュリューが取るであろう行動も読んでいたのだろう、「一応大事な取引先のご子息なのだから」と、「たとえ突き返す場合でも、俺が引き取りに来られる最低10日後までは」丁重に預かっていてくれとの置き手紙まで残していて、これにはリシュリューも余計に怒りを爆発させた。 気に喰わなかったら捨ててもいいと言っていたくせに! 大体ジオット自身、あの少年の事は殆ど性奴隷として気軽に貰い受けてきたはずだ。それを何が今さら「丁重に預かれ」だ。考えれば考えるほど己がバカにされたようで、リシュリューの気持ちは鎮まらない。…かと言って、立場上「一応」の親戚が連れてきた人間をそこらの道に放り出すわけにもいかない。最低10日間は納屋にでも何でも押し込めて目を瞑っておくしかないのだと諦めてから、リシュリューは努めて冷静なフリで庭園に置き去りのままにしていた少年の元へ戻った。 「む…!」 所在なく泣き崩れているかもしれないと思っていたその「奴隷」は、しかしその場でリシュリューの小竜と戯れていた。 「貴様…」 「あ!」 背後からじりと近づいてきたリシュリューの気配に気づき、少年は再びさっと青褪めて竜から離れた。遠目では小竜に対して小さな笑みを向けていたようだったが、その気配は今は微塵もない。悪魔か何かを見るようなその怯えた目には再びイライラの火が灯ったが、ただそれよりも気になったのは、自分の竜が少年に見せていた穏やかな態度だった。 「小竜。何故こんな奴に触らせる」 少年にではなく、小竜の方に話しかけたのは、リシュリューにとっては当たり前の事だ。竜の言葉が分かるわけはないけれど、それでも幼い頃から共にしてきたこのドラゴンは、身体こそ小さいが機敏で獰猛で、およそリシュリュー以外に慣れるという事がない。自ら人を襲うような真似はしないが、それでも竜の自由を奪う「子飼」である証のサークルは足首から絶対に外せない。危険な生き物なのだ。 それなのに初めて会ったこの少年は、その小竜の首筋に平気で触れていた。 「小竜」 友である竜を再び責めるように呼ぶ。 けれど竜はリシュリューを黙って見やった後、再び少年の方に頭を下げてもう一度首を撫でてと言わんばかりに目を細めた。 これにはリシュリューもつい大声を上げてしまった。 「貴様、こいつに何をした!?」 「えっ」 あまりの大声に少年も驚いたようだ、びくりと身体を震わせてから困ったように視線を落として黙りこむ。小竜はそれでリシュリューに怒ったような唸り声を漏らしたのだが、リシュリューとしてはそれでますます途惑ってしまった。 「な、何だ…? 何を怒っていやがる。怒りたいのはこっちの方だっ。俺は、お前が…、勝手にこいつに、触られていたから…ッ!」 「も、申し訳ありません…っ」 リシュリューの言葉に少年はたちまち深く頭を下げて、土下座するようにその場に膝をついた。 「こ、この子があんまり可愛かったから…つい…!」 「可愛い? …いや、そんな事はどうでもいい。貴様の家にも竜がいたのか? だから扱いに慣れているとか…」 「いえ…僕の家には竜を飼えるほどの位はありません。でも、馬も牛も…ヤギも。以前はたくさんの動物を飼っていましたから…」 「以前? 今は?」 「今は…父が、投資に失敗したので、屋敷を移って…それで…」 「ああ…」 それで今こいつはここにいるんだった。 それを今さら思い出して、それからリシュリューは改めてまじまじと目の前の少年を見詰めた。 同じ国の民だと言ったが、黒い髪は明らかに異国の血を匂わせる。リシュリューは濃い茶色の髪をしていて、瞳はグリーン。この国のオーソドックスな形態だ。地続きで他の国とも繋がっているから、多少それ以外の色の人間も混じっているし、それによってあからさまな差別をするような風習はないが、それでも信仰的に黒い瞳はあまり良いものと捉えられてはいなかった。 もっともリシュリューに信仰する神はいないが。 (しかしこの見目では、大したところにも売れなかったに違いない) 詰まるところジオットがこの少年をここに連れてきたのもそのせいだと思い、再び収まり掛けていた怒りが復活してくる。 正直、少年の見た目は、別段先刻リシュリューが辛辣な言葉を浴びせた程の「不細工」ではない。しかし、美しくもない。至って普通のレベルである。ただ、身体が貧相で小さい分、奴隷として売るのであればやはりその価値は低めと出るだろう。 だからこそ、「そんなもの」を自分の練習台にと連れてきたジオットが憎らしい。 ついでにこの少年も憎らしい。 「…お前、名は?」 だから、リシュリューは少年の名前になど興味がなかった。ここで動いたその口がそんな事を訊くのが信じられなかった。 どうせ10日後には突き返すモノだ。どうでもいい事のはずだ、名前なんて。 「あ…僕……いえ、私は、クリストファーと申します。クリストファー・クロスウェルです、リシュリュー様。皆は“クリス”と」 「そんな事はどうでもいい。それに俺の名前を気安く呼ぶな」 「も、申し訳ありません…っ」 ぴしゃりと言われて再び青褪めるクリスをリシュリューは冷めた目で見つめた。やっぱりびくびくとした弱気な様子にむかむかする。嫌いなタイプだ。男のくせに首筋にまで掛かっているその髪の毛も柔らかそうで軟弱な感じがするし。今にも泣き出しそうな瞳も大きくて鬱陶しい。先刻まで小竜に触っていた指先も細くて女のようで。 小竜に見せていた小さな笑顔も今は引っ込めていて。 「俺は貴様が気に喰わない」 絶対に気に入るものかと思って、リシュリューはクリスにきっぱりと言った。 「さっきも言ったが、たとえ玩具でもごめんだ。だが、ジオットが引き取りに来る10日後まではここに置いてやる。ありがたく思え」 「は、はい…」 リシュリューに気に入られなければ家が潰される。それを知っているだけにクリスの落胆は見る目に明らかだった。 しかし、そんなものはリシュリューの知った事ではない。そもそもこいつが勝手に来ただけなのだ。 「10日間はなるべく俺の視界に入らないように注意しろ。屋敷の中にも当然入るな。離れに馬舎があるからそこにいろ。食事は誰かに運ばせる」 「はい…」 素直に頷くクリスに、おもむろ小竜が再び小さく啼いて顔を寄せた。まるで落ち込むクリスを慰めたくて仕方がないというように。 むっとしたリシュリューは咄嗟に小竜を無理矢理引き離そうかと思ったが、瞬間、クリスが顔をあげて小竜を見上げた瞳にぴたりと手が止まった。 クリスはリシュリューには決して見せなかった笑顔をまたちらとだけ浮かべて「ありがとう」と小さく礼を言い、小竜の顎先を撫でたのだ。 小竜はそれに嬉しそうに目を細める。 「…………」 それをされるとまるで2人きりの世界のようでリシュリューは手を出せない。ただ、腹立たしさだけは依然としてくすぶっていて、それを掻き消すように無理矢理乱暴な足取りでその場を去った。 去り際ちらとだけ振り返ると、クリスがこちらを見ていて、また深々と頭を下げてきた。 その顔がやっぱり泣き出しそうなものだったので、リシュリューは振り返らなければ良かったと小さく舌を打った。 5.現在 「クリス!」 庭園の西側に咲き乱れるバラは最近クリスが手入れをして大きくした。赤や白のオーソドックスなものから、紫や青などの希少価値的なものまで惜しげもなく咲き乱れている。 その中央に大きな竜の尻尾がゆらゆらと揺れていたので、クリスのいる位置もすぐに分かった。 リシュリューはバラの花びらを散らさないよう、クリスが整備した細い道を慎重に渡りながら、奥まった花の群れの中へ進んで目的の人物を探した。 「クリス」 「あ…リシュリュー様」 2度呼ばれて、リシュリューの帰宅に今さら気づいたらしい。クリスはハッとして顔を上げ、しゃがみこんでいた身体を慌ててしゃんと立たせて、被っていた作業用の帽子を取った。頬は泥で汚れていて髪の毛もしんなりと濡れている。大分前から働いていたのだろう事が分かって、リシュリューは思わず眉を寄せた。 「いつも言っているだろう。こんなこと、使用人たちにやらせればいい」 「あ、あの…申し訳ありません。でも、ちょっと病気している子がいたので、どうしても診てあげたくて…」 「そ、それなら仕方がないな!」 しゅんとするクリスを見るのは嫌だ。 リシュリューは慌てて頷き、わざとらしく何回か咳払いをしてから、八つ当たりをするように傍にいた小竜の身体をばしりと叩いた。竜は主の勝手知ったる行動に慣れたようではあったが、理不尽に叩かれた事には小さく呻いて、それからぱっと飛び退った。まるで自分の仕事が終わったから、「ちょっと休憩」とでも言うように。 「今日は小竜、ずっと僕の横にくっついていたんですよ。15時のお茶の時まで。どうしたんでしょうね?」 「あいつは元々お前にべったりだろう」 時々本当に妬けるくらいだと言い掛けて、リシュリューは慌ててその言葉は飲み込んだ。 それからクリスの頬についた土を取り去るフリをして、そっと己の片手をその白い肌に乗せた。指の腹でそこを小さく撫でてやると、クリスははじめこそ不思議そうな顔をしていたものの、やがて嬉しそうに笑んで「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。 「あ、あのな。あのな、クリス…」 リシュリューはクリスのその顔を見つめるだけで心臓が爆発しそうになり、「今日決行」の気持ちが「明日決行」になりそうで、じりと片足だけ後ろへ下げた。情けない、外では誰もが認める剛毅な文官騎士なのに。 クリスがリシュリューの屋敷へ来てから、既に1年の歳月が流れている。 その間にクリスはこの庭園を花屋のマーサの力も借りてそれは見事なものに作り変えたが、彼が変化させたものはそれだけではない。 頑なな人間嫌いのリシュリューの心まで変えてしまった。 「あの…あのな、クリス。その…これを、お前にやる!」 気持ちが挫けそうになりながらも、リシュリューは小脇に抱えていたフローランスローズの花束をクリスに差し出した。散々乱暴に走り回って、大分花びらが散っている。おまけに綺麗に包んでもらったはずの薄い絹地やリボンも皺々だ。 差し出した直後、その変わり果てた惨めな姿にようやく気づいて、リシュリューはボッと顔から火が吹く思いをした。 「あ、あの無能な花屋が、こんな物しか用意出来なくて…悪い! だがお前の好きな国の花だ。好きだと言っていただろう?」 「はい! これを僕の為にわざわざ…? リシュリュー様、ありがとうございます!」 キラキラとした笑顔で礼を言うクリス。みっともない事になってしまった花束も嬉しそうに受け取ってもらえ、リシュリューの下降しかけた気持ちもあっという間に盛り上がった。 やっぱり今日こそ「決行」だ。 「クリス」 ごくりと唾を飲み込んでリシュリューは真剣な眼差しでクリスを見つめた。 どんな厄介な問題も剣での戦いでも。こんな気持ちになった事はなかった。 クリスに求婚する――。 リシュリューにとってこれほど勇気の要る事はないのだ。 6.過去 「おい! 気分が悪いのなら悪いと、何故言わない!!」 忠実なる執事が無機的な様子でクリスが熱を出した事を告げてきたのは、ジオットがクリスを引き取りに来るはずの10日などとうに過ぎ去った、一月後の事だ。 ジオットは何だかんだと理由をつけてクリスを迎えに来ない。その事に最初こそリシュリューもイライラとして何度もせっつく手紙を送っていたが、一ヶ月も経つとその書簡を送る事すら億劫になっていた。 そしてクリスを「視界に入れる」事も実に多くなっていた。 「勝手に死なれたら困る! 俺が殺したみたいだろう!」 狭くて粗末な馬舎小屋に押し込んで一ヶ月。クリスはリシュリューの言いつけをきちんと守り、なるべくリシュリューの視界に入らないよう、気分を害させないように、己の気配を消して静かに過ごしていた。 クリスは学もあり、またきちんとした礼儀も弁えている立派な青年(実は年も18だった)で、本来ならば使用人たちが利用するような所で寝泊まりする身分でもない。確かに親には売られたかもしれないが、ジオットや当のその父親がもう少しその気になれば、リシュリューのような冷たい仕打ちをする主よりは、よほどマシな扱いをしてくれる所に行けたかもしれない。仕官の話とて取れたかもしれない。 それでもクリスは己の境遇に不平を述べるでもなく、ただ与えられた運命に従っていた。 そしてその健気な態度に心を打たれた者は少なくなかった。それは人間もそうだし、小竜たち動物もそうだ。 小屋の窓から心配そうに様子を覗く小竜に目を見張りながらリシュリューが中へ入ると、じめっとした悪い空気が篭もる狭い室内に、馬の手入れをする使用人の夫婦が心配そうに寄り添いながら熱に浮かされるクリスを見守っていた。リシュリューが追い払うように2人を外へ出すと、クリスはその気配に気づいたのか薄っすらと目を開け、直後ハッとして身体を起こそうとした。 だからリシュリューはその動きを無理矢理押しとどめて先の台詞を発したのだ。 「熱があるならとっとと言え。俺だって寝覚めが悪いのは嫌なんだ。医者くらい呼んでやる」 「そんな…大丈夫、です」 「とても大丈夫には見えん。…元々お坊ちゃん暮らしだろうが、こんな所で暮らすのも限界だったんだろう?」 そんな暮らしを強要していたのは当のリシュリューなのだが、それは棚に上げて熱のあるクリスを責め立てる。 それからリシュリューはイライラしたように傍にあった粗末な木の丸椅子にどっかと腰を下ろした。 「……………」 今にも崩れ落ちそうな古ぼけた硬いベッドに横たわるクリスは、頬を赤らめて必死にリシュリューを見つめている。苦しいから眠りたいだろうに、それをするのは失礼だとでも思っているのだろう。 リシュリューの胸はじりじりと燻った。 クリスの「ここ一ヶ月の動き」を知っているだけに、それは余計だった。 「お前は一応……客人、なんだ。一応な! それを、慣れない庭仕事やら馬の世話やら、色々働いていたらしいな」 実は人づてに聞いただけではなく、リシュリューも実際その目で見ているのだが、わざとそれは隠して言った。クリスの働きぶりは当初「少しでも良く見られたい為にやっているのだろう」と悪く取っていたから、最初はそれこそ面白くもなく横目で眺めていただけだった。――が、周りにいる人間たちがあっという間に彼に親しみを持つ様子や、何より一番信頼を置いている小竜がクリスにべったりだったものだから、リシュリューとしても注目しないわけにいかなかった。 「僕…花の手入れも、馬の世話も大好きです…。家でもやっていました」 「使用人にやらせなかったのか?」 「一緒に…」 昔を懐かしむようにクリスは呟き、それから窓の外に見える小竜に笑って見せる。 またその笑顔にリシュリューはドキリとした。 「あの…ご迷惑を御掛けして…本当に申し訳ありません…。僕、リシュリュー様の目に入らないようにって…言われていたのに…」 「……別に、今は俺の方から勝手に来たんだ」 本当はクリスが努めて自分を避けようとしているのも、最近では無駄にむかついていたくらいだ。自分が命じた事なのに、避けられている事実に否応もなく苛立ちが募っていた。 それがどうしてなのかはよく分からなかったのだけれど。 「リシュリュー様…」 ふと物思いに耽っていると、突然クリスから声を掛けてきた。それがとても珍しくて、それどころか初めてのような気がして、リシュリューは思わず無意識に自分の胸が躍るのを感じた。 「何だ? やはり医者を呼んで欲しいのか? そうなんだろう?」 「いいえ…。あの、熱が下がったら…、僕は、お屋敷を出て行きます」 「何だと…?」 思いも掛けないその言葉にリシュリューは驚きに目を見開いた。けれど逆にクリスは一旦苦しそうに目を瞑ってから荒い息を吐き、小さく続けた。 「ジオット様がいらっしゃらないままに一月も経ってしまいました…。その間、ご迷惑を御掛けしてしまって…本当は、僕は…ここにいてはいけないのに。お庭や馬たちの事、勝手にやらせてもらっていたのに、それにも目を瞑って頂けて、とても嬉しかったです…。だから…リシュリュー様に、もうこれ以上迷惑を掛けたくないし…」 「……タダで働いてるんだから、別に迷惑なんかじゃない」 「あ…ありがとう…ございます…」 半ばボー然としてそう答えたリシュリューに、クリスは嬉しそうに笑んで見せた。熱の中でもそうして無理に微笑むクリスはとても可愛らしく、リシュリューは思わず息を呑んだ。 これまで他人に対して可愛らしいなどという感情を抱いた事はなかったから。 ましてや、「触れてみたい」などという事は。 「でも…もしお許しを頂けるのなら、僕は、家に戻って…家族がどうなったか心配ですし…」 「許しなど出さない」 咄嗟に言ってしまい、リシュリューはこれにも驚いた。どうして。別段、厄介者が勝手に出て行くと言っているのだから、そんなもの好きにさせればいい。 最初は追い出したくて堪らなかったはずだ。 「リシュリュー様…?」 それなのに口が勝手に動く。 「勝手な事を言うな。お前は俺の叔父に売られた身だ。それで俺の所に差し出された。それを…そんな自由が得られると思うのか? 最早お前の勝手に出来る事など何一つないんだ」 ペラペラと早口でそうまくしたてるリシュリューに、しかしクリスは面食らったように困惑した色をその瞳に浮かべた。まさかリシュリューに出て行く事を咎められるとは夢にも思わなかったのだろう。 「でも……僕がここにいる事は…ご迷惑なのでは…」 「ああ迷惑だ。だからもっと役に立て」 何を言っているのか分からない。 自分自身に翻弄されながら、それでもリシュリューは努めて冷静な風を装い、クリスの額に乗せられていたタオルを取り去ってそこへ己の掌を当てた。 熱い。酷い熱だ。疲れているのだなと思った。 「……お前」 きっと、ずっと疲れていたのだ。けれどそれを必死に隠して、周りがリシュリューに報せてくるまで沈黙を守り続けた。 ただの虚弱な少年だと思っていたのに。 「……とにかく今は医者を呼ぶ。寝所も替えさせる。子どもに瑣末な扱いをしていると知られれば俺の不名誉になるからな」 子どもという年でもないだろう、それに第一クリスは売られた身なのだ。先刻自分でも言った事ではないか。 「リシュリュー様……僕……」 「煩い。喋るな」 それでもリシュリューはもうクリスの顔から目が離せなかった。物凄く気になる。心臓の鼓動も速い。それを意識しながら、けれどぶっきらぼうな態度で、リシュリューは自らクリスの身体を抱きかかえると決して入れまいと宣言していた邸宅へ向けて歩き出した。 それを見ていた小竜がニヤリと笑ったように見えて、少しだけ癪に障った。 |
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