メディシスの恋(中編)



  7.過去


「……リシュリュー様。どうかなさいましたでしょうか」
  老執事がのんびりとした口調でリシュリューにそう声を掛ける。
  先ほどから邸内を所在なくうろうろと動き回る主の姿には、この老執事だけでなく、そこを通る何人もの使用人が目撃し、声を掛けるべきか否か逡巡していた。元が気難しい主であるから、余計な事を口にすればどんな叱責を受けるか知れない。けれど、今の主の「これ」は明らかに挙動不審だし、そのまま素通りして良いものかどうか判断に迷う。
  そんなわけで、邸内の安寧を守る総責任者であり、リシュリューを幼い頃から知る老執事に白羽の矢が立ったわけである。
「何か問題でも?」
「べ、別に…」
  リシュリューはいつもハキハキとして、思った事は真っ直ぐ口にする男である。むしろ要領を得ない喋り方をする奴は大嫌いだと公言しているくらいで、今まさにそんな「嫌いな奴」を体現している本人に、老執事はゆっくりと首をかしげた。見るからに落ち着きのないその様子はいっそ痛々しいくらいだ。こんな主はついぞ何年も、否、初めて見るかもしれないと思いながら、老執事は若い主を前に「クリス様なら」とまたしてもゆったりとした物言いで口を切った。
「先ほど医師からの薬も飲まれて、今はお休み中ですが」
「そ! そんなことは知っている! 別にあんな奴の事はどうでもいいッ!」
  ――とは言っても、リシュリューがうろついているまさにその場所は、数刻前にリシュリュー自らがクリスを運んだ客人用の部屋の前である。
  一月前はあれほどカリカリとして、“クリス”というその名すら呼ぼうとはせず、「一切構うな、最低限の食事だけ与えておけば良い」などと冷酷に言い放っていたくせに、今や180度態度が違う。医者を呼べ、着替えをさせろ、食事を摂らせろとそれは散々騒ぎ立てて、クリスが荒い息を治めた今、ようやっと落ち着いたところだ。
  本来、リシュリューという人間は、たとえ周りに貴族の位から親に売られるまでに身を落とした青年がいたとしても、気安く「同情」するようなタイプではない。特に今回に至っては、「叔父の気紛れでとんだ迷惑を被った」くらいに思っていたのは間違いないから、この豹変ぶりにはさすがに周囲の人間たちも目を見張った。クリスの人となりを知ってすぐに心惹かれた使用人たちにしてみれば、「主も遂にクリス様の魅力に気づかれたか」と思わないでもないが、ここ数日は気にしているくせにぶっきらぼうな態度でわざと知らぬフリをしていた主だから、こうも露骨に「様変わり」されると、密かに苦笑を禁じえないところだ。
「左様でございましたか。それは差し出がましい事を申しまして」
  けれどもそういった「苦笑」の感情を勿論見事に覆い隠して、老執事はゆるりと礼をして去ろうとした。
「おい」
「は…」
  しかしそれを止めたのはリシュリューだった。暫し躊躇したような顔を見せ、それでも辺りに誰もいない事を確認すると、こそこそと執事に耳打ちする。
「本当にあいつは大丈夫なんだろうな」
「クリス様でございますか」
「他に誰がいる!」
「医師の話では過労との事でしたから、食事と休息をたっぷり摂れば大事には至らないだろうと」
「過労……」
  考え込むリシュリューに、老執事はまじまじとした視線を送った。
「これまで過ごされていた環境と大分変わられましたから。この一ヶ月、お食事もあまりお召しになっておりませんでしたし」
  執事の平静としたその台詞にリシュリューはさっと眉を吊り上げた。
「何故だ? 俺はあいつに飯をやるなとは言っていないぞ。あんなに痩せて、あれじゃまるで俺があいつに食事をさせていないみたいじゃないか」
  リシュリューの詰問に、しかし老執事は動じない。
「食事は最低限に、という仰せでしたので。普段よりお越しになるお客様のようなもてなしは一切しておりませんでした」
「……っ。もういい」
  要は、クリスが熱を出して倒れたのはリシュリューのせいなのだ。リシュリュー自身、そんな事は重々承知している。
  ただ、そんな主をフォローしようと思っているのかいないのか、執事は依然として感情の見えない様子で、クリスがその最低限の食事すら遠慮してあまり取ろうとしなかった事、庭師や馬舎の使用人たちが恐縮するのも説き伏せて過度に働いていた事などを淡々と告げて去って行った。
「…くそっ」
  独りその場に取り残されたリシュリューはざわついた気持ちのまま舌を打った。
  落ち着かない。ここにいつまでいても仕方がないのに、離れる事が出来ない。
  じいっと恨めしそうに部屋の扉を睨み据えたまま、リシュリューはその日遂に王宮へちらとも出仕しなかった。

  そしてそれから数日間。
  リシュリューの1日は、王宮へ行く前に必ずクリスの部屋を訪れるところから始まった。

「クリス、起きているか」
「あ、はい! リシュリュー様、おはようございます!」
「わざわざ起き上がらなくていい。いつも言っているだろう」
  クリスは医者から「暫くベッドで安静にしているよう」言い付かった為、リシュリューが最初に連れてきた客人用の部屋に留まっていた。クリスはそれに酷く恐縮して、毎朝リシュリューと顔を合わせる度に、「もう良くなったから屋敷の仕事をさせて欲しい」と頼んだが、リシュリューはそれを頑として聞き入れなかった。
  だからここ数日は2人のそういった不毛な会話が毎朝繰り広げられている。
「あの、リシュリュー様。僕もう、本当に良くなったと思うんです」
「駄目だ。その生っ白い顔色と痩せた身体が健康なそれに戻るまではここで寝ていろ」
「ぼ、僕のこの色は元からですしっ。身体も元々痩せてるんです!」
「とにかく駄目だ。お前、いい加減学習しろ。毎朝同じ事を言わせるな」
「す、すみません…」
  しゅんとして項垂れるクリスにリシュリューは途端胸をちくりと痛ませて眉をひそめた。
  ここ数日、クリスと「これ以外」の他愛もない話をしている時は、クリスもよく笑顔を見せてくれるし、彼の真面目で優しい人となりもよく分かってとても楽しいと思える。
  けれど「もう大丈夫だから元の馬舎に戻して欲しい、こんな豪華な部屋は自分には勿体無いから」と繰り返される度に、リシュリューは「駄目」以外の台詞をうまく発せられず、どううまく返して良いか分からなくなった。そんな自分に途惑いも覚えた。
  いつの間にかクリスを屋敷の外で住まわせるなどと、全く考えられなくなっている自分に気づく。
「そ、そろそろ出掛ける」
  けれどそれを素直に言うのも憚られる。あれだけ酷い態度を取ってきたし、酷い言葉も散々に言い放っていたから。
「……帰りに、何かお前の好きな物を買ってきてやる。欲しい物はあるか」
  話題を変えたくてリシュリューはごほんと一つ咳き込んだ後、何でもない事のようにそう言った。当人たち以外の全員がとっくに気づいている事であるが、リシュリューはクリスにきつい物言いをしているようでいて、実際にやっている事はとてつもなく「甘い」ものとなっている。何かと言えばたまたま目に入ったから、知り合いがくれたからと理由をつけて、リシュリューはクリスに色々な物を買い与えた。気になって仕方のない相手の注意を引くべく、物で自分の存在をアピールしようとしている主の様は、これまで他者にまるで関心を示さなかった彼をよく知る使用人たちにとってはとても驚くべき事だった。
  無論、誰もそんな主の滑稽さを指摘出来ないが。
「とんでもありません! もうこれまでにもたくさん頂きました! これ以上リシュリュー様から何か頂くなんて、僕には出来ません!」
  対するクリスのリアクションも「こう」だ。リシュリューの突然の奉仕に途惑うのは当然としても、元から遠慮深い性格なのだろう、むしろそうしてもらう事が苦痛だとも見える恐縮さで、クリスはぶんぶんと首を横に振って、懇願するようにリシュリューを見つめた。
「……っ。別に、お前の為なんかじゃない!」
  クリスの黒々とした、どこか潤んだような瞳で見つめられてリシュリューは一瞬言葉を詰まらせた。どうしてか分からない、あの馬舎で熱に浮かされたような、それでも必死に自分を見つめるクリスを直視してしまってから、自分は明らかにおかしくなってしまったと思う。ドキドキと胸は異様に高まって、心なしか身体が火照ったように熱くなるのを感じる。いけない、そんな無様な様子は見せられないと必死に平静を保とうとするのだけれど、今やこうして毎朝クリスの顔を見ていかないと、言葉を交わしてからでないと、リシュリューはあの退屈な王宮で1日を過ごす事が出来なくなってしまっているのだ。
「お、俺は、人に物をやるのが好きなんだ!」
  ごほごほと咳き込みながらリシュリューは苦しい言い訳をした。人に関心のないリシュリュー・メディシス。金や名声に興味はないから、「ケチ」ではないが、だからと言ってそれをほいほいと他人にも分け与えるかと言えば、決してそんな事はしない。そういった事に煩い両親の教育によるところも大きいのかもしれないが、リシュリューが『贈り物をするのが好き』などと、周囲にとっては失笑以外の何物でもないのだ。
  それでもリシュリューはクリスと2人きりなのを良い事に、実に適当な事を吹き続けた。
「お前は妙な勘違いなどしなくてもいい。別にお前だけにしているのでもない。こうするのは俺の趣味の一つで、ここの屋敷の奴らは、何がしかいつだって俺から物を貰っているんだ」
「そう…なんですか?」
「そうだ!」
  ぱちくりと瞬きをするクリスに、リシュリューは半ばやけくその体で力強く頷くと、さり気なくクリスの柔らかな髪の毛に触れて、がしがしと乱暴に撫で付けた。
「だから言ってみろ。何が欲しい? お前は俺が買ってくる物をいつだって何でも好きだというから、本当に何が一番好きなのかが分からない。正直に言ってみろ」
「僕、リシュリュー様が下さった物なら、何でも大好きです」
「だっ…、だから、そういうのが困ると言うんだ!」
  言われた台詞には飛び上がりたいくらい嬉しかったが、それでもクリスが遠慮してそう言う風に答えているのだろうという疑念も消しきれない。何せクリスはジオットからの命令で、家を救う為にメディシス家に遣わされた身の上だ。どこからどこまでがクリスの本心なのかは分からない。
  それを最近では本当に癪に障ると無意識下で思いながら、リシュリューは一瞬だけ物憂げな表情を浮かべた。
「ほら、早く言え。何が欲しい」
「あの……僕、それじゃあ――」
  するとクリスは暫し迷った風に俯いた後、意を決したという風に顔を上げた。
  リシュリューはそのどこか凛として強い光を宿す眼にハッとして動きを止めたが、それにたじろぐ間もなくクリスからの言葉を聞いた。
「本を読みたいです」
「……本?」
  リシュリューが驚いて聞き返すと、クリスは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「父が家を潰しかけてしまって、これまで通っていたアカデミアも辞めるしかなくなりました。それからずっと本を読んでいないので…。あ、借用書に関する冊子なら幾つか読みましたけど…はは…」
「……お前は学舎で何を勉強していたんだ?」
  もうそろそろ王宮へ行かなくてはならない時間だ。外では執事や他の者たちもやきもきしてリシュリューが部屋から出てくるのを待っているに違いない。
  それでもリシュリューは傍にあった椅子に腰を落ち着けてしまうと、クリスと目線を合わせてそう訊いた。
「専門は…1年前からグレキア語を始めたので、元の専攻である古典文学を中心としたオーリエンス文化を併せれば2つです。専攻を一つ増やしたいと言ったら、先生から夜学に行かなきゃまかなえないと言われたので、この1年は本当に…、それこそ、1日中学舎にいました」
「へえ…。何がそんなに楽しいんだかな」
  リシュリューの本職は文官庁の役人なので、彼こそ父親の後を継ぐまでは、それこそそれに関した勉強を嫌というほどさせられてきた。友人も作らず本の虫だったし、勉強の虫だった。
  しかし本来リシュリューは机上の文官より剣を振るう方が好きだから、本心では王宮勤めが必須だと言うのならば騎士団に入る方が良かったし、それが駄目なら世界を飛び回る視察団に入って竜兵長になりたかった。
  王宮にはリシュリューほど剣に優れた騎士もおらず、リシュリューほどグレキア語を始めとした異国語に堪能な優れた外交手腕を持つ人間も少ない。いつでも面倒な仕事は自分にばかり押し付けられる。こんな事なら学生時代、もっと不真面目に生きれば良かったと後悔しているくらいだ。
「学校は楽しかったか」
「はい。とても」
  力強く頷くクリスに、リシュリューはさっと眉をひそめた。世の中に親の都合で十分な学を得られない者など掃いて捨てるほどいる。それにいちいち心を揺さぶられる自分ではない。
  こんな話、どうでも良い事のはずだ。
「前の戦争の影響でグレキア語を話せる奴は少ない」
  何やら嫌な予感がしたから、リシュリューはもうこの会話を止めたかった。
  それなのに気づけば自分から口を動かしていた。
「我が国から必履修言語として外されたのも随分と前の話だしな。そのくせ、交易や外交でこの言葉が分からないのは厄介だ。グレキア語が話せるのなら職には困らないだろう。王宮勤めだって夢じゃない――」
  言い掛けてリシュリューはやっとぴたりと口を閉ざしたが、今度はそれに気づかずクリスが激しくかぶりを振りながら答えた。
「まだ勉強不足で、僕なんて日常会話がやっとです。簡単な物語ならともかく、向こうの難しい論文なんてさっぱりですし。それに、王宮勤めなんてとんでもないです。僕の家の位じゃ、その資格自体ありませんから」
「……それでか」
「え?」
  クリスが不思議そうに顔を上げると、リシュリューはふと思い至って「しまった」考えから離れられなくて、僅かの間ボー然とした後、目の前の青年を睨みつけた。
  どうした事か、急激に身体が冷えて悪寒がし、その一つの考えにしか思考がいかなくなってしまったのだ。
「自分の位じゃ王宮勤めが叶わないもんで、それで俺のコネでも利用しようと俺に近づいてきたわけか? ジオットがどう思ってお前を送りこんできたのかは知らないが…、バカにされたものだ。少しは話せる奴だと思ったのに、こんな卑怯なガキだったとは、がっかりだ!」
「リ…リシュリュー様…?」
  さっと顔を青褪めさせるクリスをリシュリューはもう見ていなかった。
  「裏切られた」――、勝手にそう思って、先刻の寒気から一転、不意に胃の中がぐらぐらと熱く沸き立つ思いがした。
「俺はそういうのが一番嫌いなんだ!」
  これまで自分の地位や名声を利用して下心ありきで近づく人間が多過ぎたせいかもしれない。いつの間にかリシュリューは簡単に人を信じる事が出来ない、逆に人を疑ってかかる性格に成り下がっていた。芯からそうなってしまっていた。
「身体が回復したら、さっさと出て行け」
  驚きで何も言えなくなっているクリスを振り切るようにしてリシュリューは言い捨てた。
「もうお前の顔など二度と見たくもない!」





8,現在


「あの…あのな、クリス。あの…」
  情けない。クリスを前にすると満足な言葉が出てこない。
  リシュリューはバラ園の中で己を激しく叱咤しながら、それでも思うまま言葉が出て来なくて、たらりと額から汗を流した。クリスがそれに不思議そうな顔をして首をかしげる。そんな姿も愛くるしいと思ってしまうから、今のリシュリューは手に負えない。じっと見つめているとクリスが困ったように微笑みながら、リシュリューの額から零れた汗を拭おうと白く綺麗な布を取り出した。
「リシュリュー様、またお城から走っていらしたんですか?」
「あ…ああ…」
  クリスの手は優しい。そっとその柔らかい絹で汗を拭われて見つめられ、リシュリューはどぎまぎとして視線を逸らした。
  1年前はあれほど横柄な態度でクリスに接していたくせに、今は完全にその勢いはなりを潜めている。
  使用人たちの手前、努めて厳しく接しようと心掛けてはいるが、どうやら周りにも今のリシュリューの気持ちは「バレバレ」で、逆に無理に演じている偉そうな態度は苦笑というか、憐れみを誘う以外ないらしい。
  クリス自身は、どんなリシュリューに対しても誠実に、そして素直に向かっているだけなのであるが。
「今日はお城でバージバル様の授与式があると伺っていました。だからリシュリュー様もお帰りは遅いのだろうと思って…お迎えに出られなくて申し訳ありません。おまけに僕、またこんな格好で…」
「ああ…なるべくこういう仕事はお前にやらせたくない。今日だけは大目に見てやるが、次からはきちんと俺が与えた服を着ろよ?」
「はい」
  にっこりとして素直に頷くクリスは本当に可愛い。自然ふにゃりと頬が緩み、リシュリューは慌ててまた咳き込んだ。
「仕事は、奴の授与式があったからこそ、抜けてこられると踏んでいたんだ。ああいう大袈裟で無駄なイベントは普段なら鬱陶しいだけだが、今日に限っては使えた。俺の仕事は他の奴に任せてあるし、今日は…その、ゆっくりクリスと食事を取りたかったから」
「お食事をご一緒できるんですか?」
「だから早く帰ってきたんだろう」
「嬉しいです! リシュリュー様とご一緒できるの、久しぶりだから」
「そ、その! ま、まあ、な…。ずっと忙しかったしな…っ」
  思った以上に喜んでくれるクリスにリシュリューはいよいよ緊張がピークに達した。
  こんな風に笑ってくれるのだ。こんな風に自分といる事を嬉しいと言ってくれるのだから、大丈夫に決まっている。
  確かに過去の自分はとんでもない過ちを犯した。クリスをよりにもよって不細工だの下種だのと信じられない汚い言葉で罵った上、俺の視界に入るな、などと。おまけに、その仲をほんの少し修復しかけた矢先、また自ら墓穴を掘って「さっさとここから出て行け」と怒鳴り散らした事もある。
  それらを考えると過去の自分を思いきり殴りつけてしまいたい気持ちなのだが、その罪は墓場まで持って行く覚悟は出来ている。
  だから…というのは、とても虫が良いとは分かっているが、だからクリスに請いたかった。
  どうか自分を受け入れて欲しいと。
「クリス」
  自分がやったはずの花束を邪魔だと言わんばかりに再び奪い、それを足元に置いた後、リシュリューは驚くクリスの両手を取って真剣な眼差しを向けた。
「お、俺と。おおお俺と、俺と……」
「リシュリュー様……?」
  クリスが心底不思議そうに目を瞬かせる。いかん、心臓が破ける。そう思ったけれど今日こそは止めない。いつも結局やっぱり明日にしよう、明後日決行しようと言って、先延ばしにしてきた。その間、クリスには「仕方ない客人」から「大事な客人」にまでなって、今ではさり気なく「うちの人間」とまで言ってしまっているけれど。
  でも、正式に言わなくては。今ではもう、この目の前の青年がリシュリューは欲しくて欲しくて仕方がないのだから。
  己の過ちのせいで、なかなか手を出す事が出来なかったのだけれど。
「クリス。俺は、俺はお前が……だから……俺と…一緒に…」
  肝心なところが言えない。
  一緒になってくれ、婚姻の契りを結ぼう。たったそれだけが何故言えない!
「はい、ご一緒します」
  するとクリスが突然にこりと笑って頷いた。
「は!?」
  リシュリューがぎょっとして目を剥くと、両手を握られたままのクリスはにこにことして再度繰り返した。
「喜んでご一緒します。リシュリュー様とのお食事、楽しくて僕は大好きです」
「……いや、だから。それは違うだろう……」
「えっ? ご一緒出来ないのですか?」
「いや。だから。それはする。それはするがな…」
  花束まで持ってきているのだから、そんな食事くらいでここまで改まるわけないだろう。クリスも少しくらい察してくれればいいのに。
  花束と指輪が揃えば、それは婚姻の契りを告げるものだと相場が決まっている。それなのに。
「………ん? ……あーッ!!」
「わっ」
  突然大声を上げたリシュリューに、クリスも驚いて声をあげた。すぐ上空を飛んでいた小竜ですら、何事かと首を下にずらしたほどだ。
「わ、わ、忘れた……。指輪……」
「指輪?」
「はっ? な、何でもないっ。しょ、食事だ! 食事するぞ、クリス! 来い!!」
「は、はいっ」
  突然リシュリューの顔つきがキリリとしたものに変わり、ぐいぐいと手を引かれて歩かされるものだから、クリスも途惑った声をあげる。
  けれど当のリシュリューはそんなクリスを振り返れない。ただ強引にその手を掴んだまま歩き、顔からはもう既に火が吹き出ている程に真っ赤だった。
  バカだ。指輪を取りに行くのを忘れるなんて。
「リシュリュー様。宝石商のエドモンが見えておりますが…」
「タイミングが悪い! 決行は明日に延期すると告げておけ!」
「またですか……」
「何か言ったか!?」
  ぽつりと呟く執事に逆ギレしながら、しかしリシュリューはクリスの手をがっしりと掴んだまま、ただ息巻く事しか出来なかった。
  何しろ初めての恋、なのだ。失敗を重ねるのは仕方がないではないか。
  そんな言い訳めいた思いを既に何十回も繰り返しながら、リシュリューは今日もクリスに曖昧なままでいてしまったと後悔しながら、断られなかった安堵感も抱きつつ、その手をきゅっと握り直した。
  背後の上空ではそんな愚かな主の姿を見下ろしながら、小竜が溜息のような大きな息をゴウと吐いて、くるりくるりとその周囲を旋回していた。





9.過去


「よお、エリート文官騎士さん。随分と御機嫌ナナメのご様子で」
  リシュリューは王宮内でもイライラとした気持ちを隠せず、執務室に篭もって悶々としていた。そんな彼に近づける者など、この国には1人もいない。唯一対等に口をきける母親は実家に帰ったきり音沙汰がないし、唯一リシュリューが尊敬している父親も今はこの世の人ではない。
  だから悠々とした顔でそう声を掛けてきたのは、「隣国」グレキアで商才を発揮しているリシュリューの母の弟―つまりはリシュリューの叔父にあたる―ジオット、その人であった。
「…っ! ジオット、貴様――」
「まぁ待て」
  そのジオットは自分の顔を見るなり椅子を蹴って立ち上がった甥を前に、さっと身構えるようにして片手を差し出した。そうして、言いたい事は分かっていると言わんばかりの様子で対面に置いてあった椅子に腰をおろし、わざと余裕のある動作で豪奢な服からパイプを取り出す。「お前もやるか」と訊いたものの、ジオットはリシュリューが今にも自分を射殺さんばかりの眼で睨み続けているのに苦笑して、両手を挙げ降参のフリをすると、そのパイプを再び懐にしまった。
「なかなか来られなくて悪かったよ。商人という職業はな、お前と違って忙しいんだ」
「ふざけるな…!」
  好きでやっている事じゃないかと続けそうになり、けれどリシュリューはぐっと言葉を飲み込んだ。今話したいのはそんな事ではない。今日、否、これまでの約一ヶ月間、自分の心をざわつかせたあのクリスを連れてきたのはこのジオットだ。訊きたい事は山ほどあった。
「一体何を企んでいる」
「はぁ? 何の話だい」
「とぼけるな! あのガキの事だ! すぐに引き取りに来いと言ったのに、こんなにも長い間知らんフリをしやがって…! その間、俺が、どれだけ――」
「あのコは何かお前に迷惑な事をしでかしたかい」
「迷惑だらけだ!」
  吐き捨てるようにそう怒鳴るリシュリューに、ジオットは実に興味深気な顔をしていたが、やがてふうと溜息をつくと軽く肩を竦めた。
「それは悪かった。心から謝るよ。俺は良かれと思ってやったんだがね」
「何がだ! あんな卑怯なガキを“練習台”とやらにする事が、お前の考える良い事か!」
「卑怯?」
  ぴくりと眉を動かし、ジオットはむっとしたような目をリシュリューに向けた。
「クリスのどこが卑怯なんだ」
「あいつは俺に取り入って自分の家を建て直そうとしただけでなく、己の出世にも俺を利用しようとしていたんだ。全く腹立たしい、これだから貴族は嫌いだ…っ」
「あのコがそういう風に言ったのかい」
「何がだ!?」
「だから。お前に取り入って出世しようと思ってた、とかさ。言ったのかい?」
「言わなくても分かるだろう! 現に、あいつは俺を――」
「随分と気に入ったんだな?」
  探るような目を向けてきっぱりとそう言ったジオットは、再度息を吐いた後、大袈裟にかぶりを振った。そうしてリシュリューがそんな自分の態度に毒気を抜かれて一瞬押し黙った隙をつき、口を開いた。
「お前がどこをどういう風に勘違いしたのかは知らないが。クリスをお前の所へやったのは俺の意向だよ。あのコはこんな事、微塵も望んじゃいなかった。言っただろう? 父親の借金の形として俺が貰い受けたんだ。あのコは実の親に売られたんだよ。そこに自分の意思などあろうはずがない」
「……! だ、だがあれは――」
「お前に取り入って出世だって? バカな事を言う。そんなもの、それこそお前の胸一つじゃないか。あのコがどうにか出来るものじゃない。お前が割り切って、俺が言ったような用途のみであれを使うだけなら、そんな風になろうはずもないじゃないか。それとも」
  敢えて一旦言葉を区切り、ジオットは続けた。
「それとも、鋭敏でお固いエリート文官長さんであるはずのお前さんが、そんなありえない想像をしてしまうくらいにあのコにのめりこんだって事かい」
「バ、バカ言うな…!」
「実際食べてみてどうだった? 可愛い男の子というのも意外にイケるだろう」
「不埒な想像するな! 俺は手など出していない!」
  外の通路にまで聞こえてしまうのではないかという大声をあげ、リシュリューはここでハッと我に返り、慌てて叔父に背中を向けた。
  何を取り乱しているのか。みっともない、もっと冷静に相手をしなければまたこの底意地の悪い叔父に足元をすくわれてしまう。ただ厭味の一つも言ってあの青年をつき返せばいい、それだけなのに。
  そう、それだけなのに。
「まぁ、お前さんの役に立たなかったというのなら、そこは素直に謝るよ」
  一ヶ月もあって手を出さなかったなんてとても信じられんが、と。
  ジオットが逆に厭味を言ってきたものだから、リシュリューは再びキッとしてくるりと前に向き直った。それでもそうするだけで、何故か言葉は出てこない。カリカリとしているリシュリューに対し、ジオットの方はどこか冷たい面もちで落ち着き払っていた。
「クリスは俺が連れて帰る。なかなか素直な良いコだし、堅物のお前でも合うかと思ったんだが、見込み違いだったようだな」
「……とんだ見込み違いだ」
「そうだな」
  ふふんとジオットは笑い、それからすっくと立ち上がった。
「連れて帰るよ。先に屋敷に寄らせてもらったが、随分と良い部屋を与えてもらっていたんだな。礼を言う。一応元商売相手のご子息だし、傷がついていては後の交渉にもケチがつく」
「ど…っ! あいつを…どうする、気だ?」
  今にも去ろうとするジオットを逆に引き止め、リシュリューは思わず訊いていた。
  おかしい、どうでも良いはずなのに。今朝方クリスにも自らの口で、「もうお前の顔など二度と見たくもない」と言ってきたのに。
  クリスの笑顔や、あの泣き出しそうになっていた蒼白な顔が次々と脳裏を過ぎる。
「どうするって、当然、別の所へ売りつけるさ」
  ジオットはそんなリシュリューをよそに淡々と告げた。
「言いつけを守れず、お前に奉仕できなかった役立たずだ。今度はもっと手荒く調教してくれる所を選ぶとしよう。勿論、あいつの家も取り潰しだ、わざわざ助けてやる義理もないんでね。全くお前には迷惑を掛けたよ。元々あれの親父さんとは付き合いも長かったんで、最後のチャンスのつもりだったんだが…、俺の顔に見事泥を塗ってくれたというわけだ」
「な、何を、別に、あいつは……」
「お前をそこまで怒らせて、どうせあの豪奢な部屋で今までのうのうと過ごしていただけなんだろう? しかもお前に取り入ってるように見えた? とんでもないクソガキだ。無駄に媚を売ってお前をイラつかせたんだな、本当にすまない」
「あ…あいつは別に、媚など売ってない!」
  そう口にして初めて、リシュリューは自分が二度目の過ちを犯した事を知った。
「…………あいつは」
  今まであまりにも他人と言うものを信じてこなかったリシュリューにとって、クリスのような存在は珍しいを通り越して奇異の生き物だった。あんな理不尽な境遇に置かれても文句一つ言わず、誰にでも平等の笑みを振りまき、嫌な顔も見せずに身体を売れと言われた屋敷で黙々と働く。本来は身分違いも良いところの人間たちとも分け隔てなく付き合い、普段は自分と同じように人間に慣れないあの小竜でさえ虜にしてしまった。今、あの邸宅でクリスに心を開いていないのはリシュリューだけだ。
  たった一月なのに。そんな短い期間なのに、皆に好かれてしまったクリス。
  そんな人間がこの世にいるわけがない。リシュリューの根本での疑問はそれだった。
  何か裏があるのだ、あの笑顔には。あの純粋さはきっとどこかで演技しているのだと。
  無条件に惹かれているのを自覚しているのに、心のどこかでそれを疑って、そんなわけはない、こんな奴がいるわけがないと思い込んだが故に、たったあれだけの会話で、過ぎった疑心をクリスに思い切りぶつけてしまった。
  しかしジオットの言う通りだ。クリスはリシュリューに訊かれた事に答えていただけで、リシュリューに取り入って出世うんぬんなど、そもそもリシュリューが相手にしなければ何も関係のない事なのに。
  自分がクリスに惹かれている事に動揺して、その戸惑いをクリスにぶつけた。
「媚を売っていると、お前が言ったんじゃないか」
  動きを止めているリシュリューにジオットが追い討ちを掛けるように言った。
  しかしリシュリューがそれに答えられずにいると、ジオットはふと思い出したという風に付け足した。
「そうそう、そりゃあ家を潰されたくないという気持ちがあった事は間違いないだろうが。たとえば、お前が考えているような王宮勤めなど、あのコが望むわけはないぞ。あのコの将来の夢は、グレキアに住む事なんだからな」
「何…?」
「まあ、お前にはどうでもいい事だな?」
  邪魔をしたなとジオットは手を挙げ、部屋を出て行こうとする。
「あ…!」
  これからリシュリューの屋敷へ戻り、クリスを連れて行くのだろう。次はもっと厳しい所へ売ると言っていた。調教? おぞましい想像が頭を過ぎり、リシュリューは焦った拍子に傍の椅子を蹴倒してしまった。
「ジオット!」
  そうして、気づいた時にはもう大声を張り上げていた。
  相手がそれにニヤリとした笑みを浮かべた事に、必死になっていたリシュリューは気づこうはずもなかった。





10.現在


「何でお前がいるんだ…」
「おいおい、俺は客人だぞ? その嫌そう〜な、迷惑そうな顔はどうにかならんのかね?」
「ジオット様!」
「やあクリス。相変わらず可愛いね」
「クリスに触るな!」
  こんな遣り取りは最早日常茶飯事だ。
  リシュリューの叔父であるジオットは隣国グレキアに住んでいる為、1年前までは滅多にここへ来る事がなかった。…―が、クリスをこの屋敷に連れてきてからは、「リシュリューがクリスをいじめていないか心配だから」と、何かと理由をつけては遊びに来る。
  それに対してリシュリューは「邪魔だ」という態度を、クリスは「嬉しい」という気持ちを隠さない。
  その為、先のようなドタバタが繰り広げられる。
「今日は『ようやっと』記念すべき日になると聞いて、仕事の後わざわざ竜を駆ってこうして来てやったんだ。何せ可愛い甥っ子、一世一代の晴れ舞台だ。その発起人である俺が見届けてやらなきゃ」
「……? 今日はリシュリュー様の…何か、記念の日なのですか?」
「んん?」
  きょとんとしてそう訊いてくるクリスに、ジオットが怪訝な顔をして眉を寄せた。
  リシュリューは途端咳き込んで誤魔化すようにクリスを自分の背後に押し隠すと、「余計な事は言うな」と凄んで尚も咳き込んだ。
「きょ、今日はやめたんだ。明日にした!」
「……また?」
「う、煩い! タイミングが悪かったんだ!」
  真っ赤になって怒る甥の姿に、ジオットはほとほと呆れ果てたという風に軽く両手を広げて見せた。
「お前。いい加減にしないとお前の息子が枯れるぞ? 何せお前はこの1年もの間、ずっとクリスに手を出せず――」
「わ! わーわーわー!!」
  子どものように大声をあげて声を掻き消そうとするリシュリューに、ジオットは笑いを堪えきれずに噴き出した。それに対して傍の老執事やメイドたちまで困ったように笑いをかみ殺しているものだから、リシュリューとしても立場がなかった。
  リシュリューの背後にいるクリスだけ、訳が分からず困惑している様子だ。
「と、とにかく、今日はやめたんだ! だからジオット! とっとと帰れ!」
「お前なぁ、遠方からわざわざやってきた叔父に対してそれはないだろう? せめてクリスと夕食を共にするくらい良いだろうが。なぁ、クリス?」
「あ…、はい! 僕は…ジオット様とお食事出来るの、とても嬉しいのですが…」
  ちらと遠慮がちな視線を向けてきたクリスの顔を、リシュリューも動揺したように見下ろした。クリスのこういう顔にはとんと弱い。けれど、クリスがジオットに懐いているようなのは面白くない。
  それでもその複雑な気持ちを押し隠して、リシュリューは乱暴に使用人たちに声をかけた。
「仕方ないから、末端にこの叔父の席も用意してやれ」
「ありがたい」
  末端の席と言われて動じるジオットではない。心底嬉しそうに笑んで、彼はクリスに悪戯っぽいウインクをしてみせた。元々貴族の位を捨てて自ら商家に入り、自国の経済を潤わせた功績を持つ“名誉貴族”の称号を持つ男だ。身分差とか体裁と言ったものに囚われる性格ではなかった。
  にこやかに楽しい話をしながら食事をするジオットをリシュリューは恨めしい気持ちで見つめやった。クリスもジオットの話にはいつもとても嬉しそうな顔をする。ジオットは気も利いて話も面白いから退屈しないのだろうが、リシュリューにはこういった話術はない。クリスは自分などよりジオットの方が好きなのだろうか、そんな風にも思ってしまう。
  何せジオットは潰れかけたクリスの家の再建を手助けしている恩人でもある。
「リシュリュー様…? どうかされましたか?」
「えっ…。あ、いや…。別に…」
  嫉妬に駆られて押し黙っていたリシュリューに、クリスが気にしたように声を掛けてきた。
「御身体の具合でも悪いのですか」
「気にするな、クリス。こいつは明日に延期となった“記念日”について、エロな妄想をしているだけなんだ」
「は…?」
「ジオット! 貴様、それ以上言ったら本当に叩き出すぞ!」
「ははは、分かった分かった」
「ったく…!」
  クリスにバレたらどうしてくれる。焦る気持ちに苛まれながら、リシュリューは浮かしかけた腰を再びどかりと椅子に戻した。
  同時、じくりと身体に熱が篭もるのが恨めしい。
  そう、ジオットに指摘されるまでもなく、「そういう想像」が頭を過ぎる事も珍しくはない(今は違う事を考えていたわけだが)。
  クリスを欲しいと強く願うようになって、それでも手が出せないまま今に至ってしまった。
  クリスとてリシュリューの気持ちには気づいても良さそうなものなのに、生来の鈍感さ故か、はたまた奥ゆかしい性格故に「そんな事(=リシュリューからの求婚)など、絶対に天地がひっくり返っても有り得ない」と想像もしないのか。
  恐らく正解は後者なのだろうが、ジオットに対して無邪気な微笑を向けるクリスに、リシュリューの我慢も限界に差し掛かりつつあった。
  早くクリスを自分だけのものにしたい。この腕に強く抱いて、あの小さく柔らかな唇に何度も愛の接吻をするのだ。
「あ…!」
  ガッシャーンと。
  妄想が先走り過ぎて現実の世界がよく見えていなかったリシュリューは、手にしていたナイフとフォークを思わず取り落とし、ピカピカに磨かれた銀の皿にそれを思い切り落としてしまった。
「リ、リシュリュー様…?」
「何とマナーのない。文官騎士さんが二次元の世界から返ってこないぞ」
「煩いジオット!」
  結局その夜の晩餐は散々ジオットにからかわれ、無駄にクリスに心配をされて、リシュリューにとってはとんでもなくみっともない時間になってしまった。





11.過去


「クリス」
「あ…」
  一瞬姿が見えなくて大騒ぎしそうになったが、クリスはきちんと部屋にいた。正確に言えば部屋の外へ通じるテラスに出て夜風に当たっていたのだが、それは当初中に踏み込んでいなかったリシュリューには見えなかったのだ。
  窓の傍で絹のカーテンがゆらゆらと風に揺れているのが見えなければ、もう少しで執事たちを呼んでしまうところだった。
  クリスは何処へ行くわけもない。ジオットは追い返したのだから、ここにいるのは間違いないのに。
「まだ身体が万全ではないのに、こんな冷たい夜風に当たるのは良くないだろう。早く中に入れ」
「あ…はい」
  その場に座り込んでいたクリスは言われてすぐに腰を浮かしたが、ちらと名残惜しそうに外へ視線を向けるもので、リシュリューは思わず「待て」と言った。
「え…」
「ほんの…少しなら、大丈夫だろう。これでも羽織っておけ」
「そんな! これは、リシュリュー様の――」
「俺はいい。もともと暑がりなんだ」
  自分の羽織っていた外用のコートを着せて、リシュリューはむしろ立ち上がったクリスに再び座るよう促すと自らもその場に腰をおろした。
  それでクリスも観念したように隣に座り込んだ。室内用の靴も履かず、裸足でいるのが気になった。
「ありがとうございます…。とっても温かいです」
「ずっと中にいて退屈だったのか?」
「え…」
「外が気になるのか」
  何故かクリスを見られない。わざと前方に広がる庭園に視線をやってリシュリューは尋ねた。
  今朝、あんなに酷い言い方をしてしまったし、「二度と俺に顔を見せるな」と言ったのは当のリシュリューである。「連れて帰る」と言ったジオットを引き止め、「あれはまだ俺が預かる」と言い張ったが、正直自分でも一体クリスをどうしたいのかは分からなかった。
  ただ、あのまま手放すのは嫌だった。
「手入れをしていたバラ園が見えるので…。それに小竜が…あ、ごめんなさい」
「何故謝る」
「馴れ馴れしく名前を呼んでしまって…」
「………」
  それでも自分の子飼である竜とクリスが今や大の仲良しだということをリシュリューもよくよく知っていた。ここ数日は屋敷にずっと閉じ込めていたせいか、小竜が「クリスに会わせろ」と言わんばかりの不満顔でリシュリューに唸って二階を見上げるのも一度や二度ではなかった。
  バラ園の手前の広間でこちらを見上げている小竜は、久しぶりに顔を見られたクリスに嬉しそうにしっぽを振り、小さくクウンと切ない鳴き声を上げていた。小竜のあんな甘えた顔を見るのは初めてだった。
「お前は…花も動物も、ここの人間にも。よく慕われているな」
  思ったままを言ったが、クリスはそれに答えなかった。不思議に思ってちらと視線を向けると、クリスは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……っ」
  焦って慌てて視線を逸らす。純粋に思った事を言っただけなのに、きっと今朝の事もあって厭味を言われたと思ったのだろう。良い人を演じているのも、優しさを見せているのも全部演技だと、見せかけだと決め付けて軽蔑した。だからクリスはリシュリューのどんな言葉もそのままには受け取らないのだろう。
  こんなに真っ直ぐな青年を曲げてしまったのだ。自分が曲がっているが故に。
「……何故、グレキア語を始めた」
  朝は訊かなかった事を訊ねた。声が震えていない事を祈った。
「専攻は別にあったんだろう。きっかけは何なんだ」
「……僕を生んですぐ行方知れずになった母が…そこで暮らしていると知ったからです」
  思いのほか早くに返ってきたその答えにリシュリューがはっとして顔を向けると、クリスは俯いて唇を噛んだ。
「育ての母はとても良い人です。妹や弟たちと分け隔てなく僕と接してくれましたし、学舎でも好きな事を学びなさいと言ってくれました。はじめ僕は学舎には入らず、植物か動物の世話の出来る所へ働きに出たいと言ったのですが、父は家柄を気にしてそれを許してくれませんでした。あ…学舎に入った事は後悔していませんが、それでも当初は何を学んで良いのか分からなくて困ったのも事実なんです」
「生みの母親が隣国にいるとは何故分かった?」
  リシュリューの質問にクリスは寂しそうに笑って、そっと自らの髪に触れた。
「元々この髪色に目の色ですから。父や弟妹たちとも、一族誰とも似ていません。母が異国の者だとは否が応にも分かります。おまけに隣国はオーリエンスとの戦争だけでなく、周辺の国々との諍いも多かった荒れた国です。母のような人間が多くいるのは調べればすぐに分かりました」
「……母親とは会えたのか」
「いえ、会うつもりはありません。向こうが会いたいと言っても、会うつもりはありません」
  珍しくきっぱり言うクリスに驚いてリシュリューが口を噤むと、クリスは小さく笑った。
「変ですよね。それなら別に習う必要なんてないのに。でも、どうしても話せるようになりたいって思ったんです。それで…将来は、あの荒れた国で暮らせたらなって」
「…………」
「だから僕は」
  クリスは一度は躊躇った風になってから、しかし意を決して言った。
「決して、リシュリュー様に取り入って王宮に入ろうとか…。仕官の口を見つけようとか、そんな風に思っていたわけじゃありません。僕は…僕は家がああならなければ、今でも学舎で学んで、そしてこの国を出ていたんです。本当です。それだけは…本当なんです」
「………分かった」
  本当は「悪かった」と。
  そう言うつもりだったのに、言えなかった。リシュリューは猛烈な自己嫌悪に駆られながら、それでも素直に謝る事が出来なくて、むっつりとしたままクリスから目を逸らした。
「もう暫くはここにいろ」
  そして。
「今日、ジオットがお前を引き取りに来たと言ってやってきた。お前が俺の役に立たないなら、別の奴の所へ売ると言っていたから……だから、もう暫くは、ここへ置いてやる事にした」
「リシュリュー様…?」
「それともお前は他の所へ行きたいか?」
「………」
「い、行きたいのなら、別に止めはしないけどな? けど、いいのか? 本当に、どんなとんでもない所へやられるか知れないぞ!? あいつは本当に人間の皮を被った悪魔だからな、金に関わる事ならどこまでも冷酷にもなれる――」
「でも僕は」
  必死に口を動かすリシュリューを初めて止めるようにして、クリスは自らの言葉を挟んだ。その表情にリシュリューはまたハッとする。胸が言い様もなく高らかに鳴り出して落ち着きがなくなった。
  そんなリシュリューをよそにクリスは言った。
「僕がリシュリュー様のお役に立てていないのは、本当です」
「お、俺は…別に…っ」
「ジオット様にはよくよく言い含められてこちらへ来ました。僕の家を…家族を救いたければ、リシュリュー様の良いように行動するようにと。リシュリュー様のお役に…立つように、と」
「それは…“練習台”の事を言っているのか」
「それも含めた全てです」
  カッと赤面しつつもクリスは頷き、再び泣き出しそうな顔になると下を向いてしまった。
「お、俺は!」
  だからリシュリューはまた忽ち慌ててしまった。クリスを泣かせたくない、咄嗟にそう思って気づけば大きな声が飛び出していた。
「元々、そういう趣味はない! だから別に…そういうので役に立とうとしなくてもいい!」
「でも僕の顔が……身体が、きっと、もう少しでもマシだったら――」
「……!」
 ぎくりとしてリシュリューは口を閉ざした。覚えていると思った。クリスは自分たちが初めて出会った時にリシュリューが怒り任せに口走ったあの最低な台詞をしっかり胸に刻んでいて、自分が「不細工」で「下種」だから、リシュリューの慰み者の相手にすらなれないのだと失望しているのだ。
  役立たずだと悲観している。
「リシュリュー様、お願いです」
  心の中で激しく狼狽しているリシュリューにクリスは言った。
「もう暫くこちらへ置いて下さると言うリシュリュー様のお気持ちは嬉しいです…。でも、お願いです。いつか、リシュリュー様に本当に大切な方が出来て…僕のような存在を心から邪魔だと思われたら―…そうしたら、情けは掛けずに僕を追い出して下さい」
「………」
「リシュリュー様――」
「分かった。約束する」
  クリスの懇願が耳に痛くて、ただ黙らせたくて、リシュリューは一瞬黙りこくった後はすぐにそう返事をした。
  勿論、リシュリューにそんな日が訪れるわけはない。

  けれどクリスはその約束をリシュリューよりも重く受け止めていたし、決して忘れてはいなかった。




後編へ…