メディシスの恋2



1.現在


「ジオット様…!」
  未だ経験の浅いメイドが思わずと言った風に自分の名を呼ぶのに、ジオットはあからさま首をかしげた。
  不思議に思ったのはそのメイドのせいではない。彼女はただ意識を向けさせられたきっかけに過ぎず、実際自分の名を声にしないまでも呟くように唇だけで辿ったメイドは他に何人もいた。
  みんなが「ジオット様!」、「ジオット様だ!」と。
  まるで救世主が現れたみたいに、とてつもなく嬉しそうな顔をしている。普段は簡単に己の感情を露にするものでないと、ここの厳しい執事に言い含められているはずなのに。
「皆、一体どうしたんだ? そんな期待に満ち満ちた顔をされて、何だか照れるな。もしやリシュリューの奴に不当労働でも強要されたか?」
「ジオット様」
「やあ、シューマン」
  ぴたりと傍に控えてきた馴染みの老執事を振り返り、ジオットは気さくな笑みを浮かべた。何があったのかは知らないが、屋敷の事を訊くなら彼と話すのが一番だ。
  そんなジオットに、しかし「忠実」が服を着て歩いているような執事は珍しく「リシュリュー様が…」と言ったきり口ごもった。
  けれどジオットは彼のそんな態度で逆に思い至ったという風になり、途端唇をへの字に曲げた。
「何だ、あいつ、いないのか。あいつが俺を邪険にして、『指定した日時以外はここに近づくな』と怒るから、こっちも忙しい中それを守ってやっているのに。まぁ、あいつを待つ間、クリスと話せるのなら、それでもいいが――」
「いらっしゃいます」
「は?」
  すいと言葉を出した老執事に、ジオットはぴたりと動きを止めた。
  執事は相変わらずの能面で事実だけを淡々と告げた。
「リシュリュー様は本日ご登城されておりませんので」
「そう…なのか? しかし今日は…」
「ご主人様は、今朝からずっとご自分のお部屋から、一度たりともお出になっていらっしゃらないのです。……クリス様と共に」
「――……ああ」
  ようやく事態を飲み込めた後、ジオットは思わず遠い目をした。周囲にいっそ悲壮感すら漂わせているメイドがいて、こちらに縋るような目を向けていたのはそのせいだったのかと得心する。
  約1年もの間、年下のクリス相手にずっとじりじりとした片想いを続けていたジオットの甥―「一応」、この国の英雄・リシュリュー・メディシス―は、彼とめでたく婚約を取り付けたあたりから、何というか完全に……壊れてしまった。
  早い話が、「見境がなくなった」のだ。一度クリスをモノにしたせいで箍が外れたのか、折に触れこうしてあからさまクリスを自室に連れ込んでは、1日中自分の良いようにしているらしい。
  そしてその間は、当然の事ながら王宮での仕事も平気でサボる。
「あんなのを英雄とか呼んでいて、本当にいいのか……」
  こめかみの辺りを抑えながらジオットは深く溜息をついた。
  全く、お盛んにも程がある。始終ぶすくれてやりたくもない仕事をこなし、人間には無関心、特に何のお楽しみもない甥を心配していた昔が嘘のようだ。
  ともかく、こんな風に昼夜を問わずにクリスの身体に無体を強いているとなると、正式に婚儀を挙げる前にクリスの華奢な身体は確実に壊れてしまう。もしそんな事にでもなれば、クリスをあのケダモノに差し向けた張本人は自分なだけに、激しく後味が悪い。
「俺とて鬼ではない…。それなりに責任は感じる」
  何とかするからと執事やメイドたちに言い置いて、ジオットは意を決したように2人がいるであろう部屋へ向かって、緩やかな螺旋階段を上り始めた。





2.過去


「姉上。お元気そうで何よりです」
  ジオットが年の離れた姉・ジェシカサーチン・メディシスの独り住まいの宮を訪れたのは実に1年ぶりだった。
  貴族の位ともなれば、通常は家の繋がりで何らかの公式行事や晩餐会がある度に顔を突き合わせるものだが、この姉弟だけは例外である。ジオットは名誉貴族の称号こそ有しているが実質家を捨てた身だし、名家であるメディシス家に嫁いだ姉・ジェシカも、夫が亡くなってからは家督を継いだ息子を放置し、この湖水の畔に建つ静かな宮で悠々自適の隠居生活を謳歌していた。
  そしてそんな彼女は、さすがに気難し屋リシュリューの母御とでも言おうか、自身が息子に負けず劣らずの人間嫌いで有名であった。
  そしてそれは血の繋がったジオットが相手であろうと、然程の変わりはないらしい。
「昨日までは元気だったのですけれど、お前の汚い顔を見たら気分が悪くなりました」
  一年ぶりに再会した弟に対する姉の第一声がそれ。
  女性にしては切れ長の鋭い眼が見る者に酷く「きつい」第一印象を与えるが、そのイメージに違わず、実際彼女は相当に当たりの厳しい女性だった。潔癖そうな一糸乱れぬ髪の纏め方と言い、一切の乱れないドレスの着こなし方といい。整い過ぎたその出で立ちはどこからどう見ても恥ずかしくない貴婦人なのだけれど、ジオットはこの怖い姉が子どもの頃から大の苦手だった。
  だから慣れているとはいえ、ジオットは軽く肩を竦め唇に皮肉な笑みを浮かべると、「ならばわざわざ呼びつけないで下さい」と一応は抗議し、横柄に近くの椅子に腰をおろした。敢えてジェシカが座っている場所の向かいには行かずに。
「相変わらず、つれないお方ですね。姉上が私に会いたいという手紙を下さったから、忙しい最中わざわざこうして伺ったんですよ? 汚い顔を見たくなかったのなら、ご用事は遣いの者にでも言付ければ宜しかったでしょうに」
「家族の恥を赤の他人に話せますか。本来ならばお前にすら耳に入れたくないけれど、そうも言っていられないから呼んだのです。先日、国王陛下より命――、いえ、正確に言うならば、嘆願書が届きました」
「嘆願書? 陛下から?」
  幾ら国の中枢を担っていたラングレー・メディシスの奥へ宛てた手紙とは言え、国王陛下が「嘆願書」など、通常ではあり得ない。
  あり得ないのだが、「あの御方なら」それも考えられると、ジオットは心の中だけで自分なりの結論を下し、姉の先の言葉を待った。
「我が息子は、私のラングレーほどではないけれど、陛下の期待には十二分に応えているようです。仕事の面では口を差し挟む余地もないとお褒めの言葉も頂戴しました」
「それはそれは」
  甥っ子の並外れた見識による外交政策や、先日国境で起こった野生竜の大量捕縛など、騎士団顔負けの活躍を見せている事はジオットも耳に入れるまでもなく知っていた。実際、現在のオーリエンスを王都から動かしているのはリシュリューと言っても過言ではない。何にしろ国王が「あれ」だから、家臣がしっかりするしかない。義兄のラングレーもそれで無理が祟り過労死したのではないかとは、王宮内で誠しやかに囁かれる噂だが、ジオットにしてみれば全面に押し出ようとしない穏やかな今の国王だからこそ、今のオーリエンスの平和と繁栄があると言える。
  事実、隣の国から見ていても、この国は商売人にとって非常に都合が良い。
「リシュリューに適当な男の子を見繕いなさい」
  ぼうとそんな事を考えているジオットに、ジェシカが突然そう言った。
「は?」
「二度も言わせるものじゃありません。我が息子が気に入りそうな男の子を見つけてきなさいと言ったのです」
「姉上?」
  呆れたようにジオットがぽかんと口を開けていると、ジェシカはますます不愉快そうに眉をひそめて、手元の扇を勢いよく開いた。
「陛下があれに恋愛の何たるかをお教えしたいと仰るのです。あれに人間味がないのは、恋を知らぬからだと」
「それでどうして男の子、という事になるんです?」
「それは陛下ではなく、私からの注文です」
「だから、どうして」
「あれは女が駄目でしょう」
  きっぱりとそう言うジェシカにジオットは思わず口を噤んだ。
  確かにそうだ。ジオットも薄々、「こいつは不能か、そうでなければ同性の者しか愛せない性質なのだろう」と感じていた。何せリシュリューの女性嫌いは生半可なものではない。尊敬する実父の、「女性には優しくあれ」という遺志すら、なかなか実行するのに難儀しているようなのだ。……もっとも、リシュリューに近づく女性というのが、何かと言うとメディシス家との繋がりを目論む策士か、王宮の政務仲間にいるような強気な変人しかいないから、と考えられなくもないのだが。
  そしてリシュリューの、根本での女性不信を作り上げたであろう、一番の原因であるジェシカは実に偉そうに言った。
「女が駄目ならば、男しかないでしょう。また、あれは誰に似たのかとても横柄で気位が高いから、年上だとか、下手に我がメディシスと並ぶような家柄の者とでは喧嘩になるのがオチです。そこで我が弟のジオット、お前を思い出しました。お前は市井にも詳しいし、あれよりも年が下で、身分の低いおとなしそうな男子にも通じているでしょう」
「……何だか聞き捨てならない誤解をされているように感じましたが」
  引きつった顔でそう言うジオットに、しかしジェジカは全く構う風がない。
「当然の事ながら、これが私や陛下の仕組んだ事などと、あれや周囲の人間たちに知られてはなりません。ごく自然に、成り行きで知り合ったかのような設定を作り上げるように」
「姉上っ」
「何ですか」
  勝手に話を進めようとするジェシカに、ジオットは堪らず言葉を挟んだ。
「一つだけお伺いしたいのですが」
「何でしょう」
「色恋を知らないリシュリューが、万が一私の連れて来たその者に本気になったらどうします? 初心な甥っ子だ、忽ちハマって、それと結婚するなどと言い出しかねませんよ?」
  もっともな懸念だ。しかしジオットのそれを、ジェシカは何程の事もないという風に受け留めた。
「したいのなら、すれば宜しい。同性婚が罪なわけでもない。私は別段構いませんが?」
「あ…あのね、姉上?」
「何ですか、その口のきき方は!」
「失礼っ。いや、ですが、あのですね? リシュリューはメディシス家の嫡男で、あの家の正当なる後継者ですよ。幾ら我が国では合法と言っても、そう簡単に同性婚を認めるわけにはいかないでしょう」
「では、あれが女は駄目だと分かっているのに、無理矢理どこぞの娘を嫁がせるというのですか」
  ジェシカのキンとした声色にも、ジオットは平然として頷いた。
「そうです。貴族同士、家の為に愛のない結婚をする事例なんて珍しくないじゃないですか。実際貴女だって――」
「お黙りなさい」
  ジオットの言葉を途中でぴしゃりと黙らせて、ジェシカは不快な表情を一切押し隠そうともせずに開いていた扇をバシリと閉じた。
「痛っ」
  そしてそれを物凄いスピードでジオットの顔に直撃させる。
「あ、姉上、何を…」
「お前は国王陛下の命に背く気ですか。陛下はあれに本当の愛とは何たるかをお教えしたいと仰ったのです。あんな愚息に、何とももったいないお言葉です。ならばそのご期待に沿わねば、代々王家にお仕えしてきた、それこそメディシス家末代までの恥です」
「しかしそのメディシス家が滅んでは…」
  額に扇の角が打ちつけられ、そこにジンジンとした痛みを伴うジオットがそれでも異議を唱えると、ジェシカはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「別にあれが子どもをもうけずとも、遠縁に幾らでも同じ血を持つ者がいますよ。そんな事は大した問題ではない。……ただ、お前が選ぶ男の子は大した問題です。もしも陛下や私、また肝心のリシュリューの眼鏡に適うような者でなければ……お前が罰を受けなさい。いいですね」
「……畏まりました」
  とんだ事になった。
  その時のジオットの想いは、まさにその一言に尽きた。





3.現在


「リシュリュー、俺だ」
  何度ノックしても反応がない。分厚い扉の前でジオットは暫し逡巡した。
  この部屋にリシュリューとクリスがいるのは間違いない。使用人たちも遠ざけて、リシュリューは恐らく夜通しクリスを抱き続けたはずだ。すると、もしかして疲れ切って寝てしまっているのかもしれない。
「ん…?」
  それでもすぐにこの場を立ち去るのも何だか癪に障って、ジオットは「良くはない」と思いつつも扉に耳を当てて中の様子を窺ってみた。
  2人が眠ってしまっているのなら、それはそれで良し。
  けれど最悪の場合を想定すると、「ノックにすら気付かない」ほど、未だ行為に没頭している可能性だってある。

「……ぁっ……」

  そうして、その答えは果たして後者の方だった。
「リ…シュリュ、様っ。も……あ、あぁッ、ひぁッ…」
  微かに聞こえるのはクリスの悲鳴にも似た喘ぎ声だ。殆ど掠れていて良くは聞き取れなかったが、間違いない。
「ったく…!」
  そうなるとジオットの方も恐ろしく神経が研ぎ澄まされてくるから不思議だ。先刻までは何も聞こえなかった室内で、衣擦れやベッドの軋む音すら聞こえてくるような気がした。
「あッ、あぁッ! リ、リシュリュ、さまっ」
「……―ス、クリス―…ッ」
「あっ……やッ、アアァ―…ッ!」
  クリスが一際大きく啼いたように思えた。ジオットは焦れた思いで尚も扉を激しく叩き、同時に怒りの混じった声を上げた。
「おい、リシュリュー! ここを開けろッ! リシュリュー!!」
  けれど扉はぴくりとも動かない。ジオットはいよいよ我慢ならなくなった。メイドたちが心配するのも頷ける。きっとクリスは夜毎今のような声を上げさせられ、リシュリューの良いようにされているのだ。あの体力バカは一晩くらい何程の事もないかもしれないが、クリスは違う。
「おい、こうなったら扉をぶち破ってでも入るぞ!」
  最後の警告とばかりにジオットは今までで一番大きな声を出し、それから扉に手を添えながら身体ごとそこを目一杯押しやってみた。
「……っ!」
  意外や、扉はすぐに開いた。勢いが込んで多少面食らったが、とにもかくにも、無用心な部屋の主に少しだけ感謝する。
「リシュリュー」
  そうして未だ薄暗い室内に足を踏み入れ、ジオットはすうと目を細めた。
  天幕の垂れた豪奢なベッドに2つの影が見える。ベッドに身体を沈みこまされたような1人に、もう1人が覆いかぶさっている。上にいる方―間違いなく甥のリシュリューだ―…は、ジオットの侵入には当に気付いたようだが、別段驚いた風も見せずにゆらりと身体を揺らめかせて、ふいとした視線を向けてきた。
  ジオットは一瞬息を呑みながらも、何とか声を出せた。
「……ベッドから出ろ、リシュリュー」
「勝手に入るな」
  くぐもったような声がようやく聞こえた。もっと怒鳴り散らすかと思ったが、もしやリシュリュー自身、ジオットの侵入によって今さら冷静になったのかもしれない。
  そんなリシュリューは未だ自分の下で荒く息をついているような青年―クリス―の頬に、愛しそうに片手を添えた。
「聞こえなかったのか。早くベッドから出ろ」
  堪らなくなり、ジオットは再び声を掛ける。
  けれどリシュリューは動じない。
「その前に、お前が部屋を出ろ」
「お前がクリスから離れるのが先だ…っ」
  リシュリューのどこか殺気立った声は心内で年上のジオットを震え上がらせたが、それでもジオットとて退くわけにはいかない。クリスに対する責任があるのだ。どうやらリシュリューに何度目かの精を穿たれて今は放心状態のようで、ジオットがいる事にも恐らく気づいていない。
「リシュ……」
  不意にそのクリスから、意識を飛ばす寸前のような、おぼつかない涙交じりの声が発せられた。
「リシュリュ、さま……?」
「どうした」
  リシュリューの声は限りなく優しい。ジオットは心の中で仰天した。既にクリスに溺れている事は分かり過ぎる程に分かっていたが、こんなドロドロに甘いリシュリューの声をジオットはついぞ聞いた事がなかったのだ。
「僕……大丈夫、でしたか? 途中で、意識が…何か、粗相を……」
「そんな事あるわけないだろう」
  蕩けるような声でリシュリューは答え、おもむろにクリスの唇にキスをした。ジオットが居る事を忘れているのじゃないかと思う程だ。
「本当に…? でも僕……今……今、何時で……」
「何も気にするな。―…クリス、愛している」
  何事か言おうとしたクリスを制し、リシュリューはそう言った。その間もしきりとクリスの頬を撫で、恐らくは汗でしっとりと濡れているであろう美しい黒髪にも労わるようなキスを与える。
  お前がそこまで疲弊させたのだろうと責めまくりたいところを必死に堪え、ジオットは辛抱強くリシュリューがベッドから出て、クリスから離れるのを待った。
  けれどクリスの方もそんな「しつこい」リシュリューに別段嫌がる素振りは見せない。愛していると言われた事で明らかにほっとしたような空気を滲ませ、少しだけ笑んだようにも見えた。
「リシュリュー様……あっ……」
  少し身じろいだクリスが微か苦痛に歪んだ声をあげた。一晩中その身にリシュリューの精を受け留めていたのだ、苦しくないわけがない。
「辛いか。すまない、少し無理をさせた」
  さすがのリシュリューも自省の込めた声で言った。本当にそうだとジオットは口を差し挟みたいのをぐっと我慢し唇を噛み締めていたが、しかしここでもクリスはすかさずリシュリューを庇ってみせた。
「大丈夫です…! 僕、全然っ…」
「クリス…」
「あ…あの…ただ僕、身体を…」
「いい、今は眠れ。後の事は俺がしておく」
「そ、そんな…でも、この間も……」
「俺の楽しみを奪う気か? 心配するな、次に目が覚めた時には一緒に朝食をとろう」
  駄目だ、最早限界だ。
「もう昼食の時間だぞ」
  2人の遣り取りをいつまでも聞いていられる程暇人ではない。気付けば愚かな甥っ子に、ジオットは限りなく冷たい声音で横槍を入れてしまっていた。
「え…? 誰か……?」
  その第三者の発言に素早い反応を示したのはクリスだ。
  あからさまギクリと身体を震わせたようになり、今さら自分たち以外の気配を感じ取って、リシュリューの合間から扉の方を見ようと動く。
「クリス」
  けれどそれはシュリューの妨害に遭い、あっさりと阻止されてしまった。
「構うな」
「リシュ……んっ!」
  リシュリューは再びクリスに覆い被さり顔を近づけると、問答無用で深く舐るような口づけを仕掛けた。クリスがそれに途惑いの色を出すのも構わず、卑猥な音を立てながら無力で小さな唇を貪り続ける。
「…っ。クリス」
  そうしてその口づけを十分に堪能してから、リシュリューはようやく小さな声で囁いた。
「誰もいない…。疲れただろう、眠るんだ」
「でも……んぅっ…」
「眠れと言った」
  逆らおうとするクリスに再び口づけ。最早ジオットは呆れて言葉も出せなかった。
  熱っぽいキスにクリスが朦朧としたような声を漏らす。
「僕………お庭の……バラ園を……」
「全部後だ。目を瞑れ」
「……はい。リシュリュー…様…?」
「ん…?」
「ごめ…なさい……僕……」
  ぽつぽつと紡がれるクリスの声は確実に小さくなっていった。殆ど気絶の体ではないかとも思われたが、やがてクリスはリシュリューの誘導によって本当に眠ってしまった。
  こんなに身体を酷使された後でも未だに庭の手入れを気にするるなど健気にも程があるが、とにかく今は眠ってくれて良かった。ジオットは胸を撫で下ろした。もしも自分がこの部屋にいて2人の姿を認めていた事が分かったら、きっと奥ゆかしいクリスは恥ずかしさと居た堪れなさでどうにかなってしまうに違いない。
  ましてや、使用人たち全てにもこの状況を予測されていると知った日には。
「……何の用だ」
  ようやく寝着を纏ったリシュリューがベッドから下りてきてジオットに向き直った。
  薄闇の中でも分かる、憎らしい程に美しい造作の男が不遜な態度で自分を見下ろす。
  何の用だもないものだ、今日会う事は随分と前から約束していたものを。
「ご挨拶だな。この時間を指定してきたのはお前だぞ」
「忘れていた」
  悪びれもせずにリシュリューはそう言い、不機嫌な表情も露に顎をしゃくった。
「とりあえず、出ろ。これ以上クリスの姿をお前なんぞに見せたくはない」
「天幕に隠れているから、殆ど見えんよ」
「声も聞かせたくない。寝息もだ」
「お前な……」
  誰がクリスを見つけてきてやったんだと思いながら、それでもジオットは仕方なく言う事を聞く事にした。何を言っても無駄だと思ったし、クリスをゆっくり休ませてやりたいと言うのも本当だったから。
「分かった、出るから早く話をしよう。それから、クリスの身体はすぐに清めさせた方がいいだろう、メイドを呼ぶか」
「湯は用意されているはずだから、メイドは呼ばない。クリスの身体に触れるのは俺だけだ。お前は支度が済むまで待っていろ」
「は…?」
「誰にも触れさせる気はないと言ってるんだ」
  リシュリューは当然だと言う風にそう言い切り、それからいよいよジオットの身体を無理に追いやって扉の外へ押し出してしまった。
「ちょっ…おい!」
「すぐに行く。男のくせにぐだぐだ言うな、下で待っていろ」
「そ…そう言って、またクリスに手を出すんじゃないだろうなっ」
  無情にも閉められたドアの前でジオットは悔し紛れにそう叫んだ。まさかそれはないと分かっていたけれど、あまりに偉そうな態度に、さすがに普段の呆れを通り越し、腹が立ってしまったのだ。
「……今日はもうしない。俺とて……クリスに、嫌われたくはない」
  すると、扉の向こうで急に。
「リシュリュー?」
  いやに弱気な声がぼそりと聞こえて、それから再び部屋の向こうはしんと静まり返ってしまった。
  ジオットは暫し甥が言った事の意味を頭の中で反芻していたが、やがて(何だ、分かっているんじゃないか)という結論に至ってほうっと息を吐いた。
「分かっているのなら、もう少し抑えるって事を学べ……」
  そうしてジオットはぽつりとそう呟き、やれやれと首を振った。

  クリスを連れてきた事は、リシュリューにとっては確かに成功だった。否、「大」成功だった。
  けれど、クリスにとってはどうなのだろう……ジオットはそれを思ってもう一度、誰にも気付かれないような、小さな小さな溜息をついた。




後編へ…