メディシスの恋2(後編)



4.過去


  リシュリューの「恋人」探しは難航を極めた。
「まったく、何だって俺がこんな目に……」
  ぶつぶつと文句を言いながら、それでもジオットは仕事の合間を縫っては、日々《候補者リスト》の山を眺めて溜息をついていた。
  何せ、事が事である。下手に人を使って探させるわけにもいかない。これは内密の【指令】なのだ。だから机の上の山積みリストも簡単に入手した物ではなく、ジオットなりに作り上げた適当な理由――自分の事業を手伝える将来有望な若者とか、遠縁の「姪」に似合った中流階級程度の貴族の子息、とか。そんな名目で「必死に」集めた、大切な命綱なのである。
「そもそも何の基準もない中で探すってのが無謀なんだ」
  未だ自宅があるグレキアではなく、オーリエンスの手持ち商館に身を置いているジオットだが、当然の事ながら、ここには恐ろしい姉・ジェシカはいない。だからジオットも、心底腹立たしいというように目一杯毒を吐き散らした。
  リシュリューより年が下で、メディシスよりも位の低い家の男子なんて、この国には掃いて捨てるほどいる。ジェシカは更に「おとなしそうな子」という条件もつけたが、そんなものは実際に会ってみないと分からないから、とりあえずは「表向きの経歴」から絞っていくしかない。
  そして案外、その経歴とやらが重要だったりするのだ。ジオットからすれば。
「愚かな甥だが、オーリエンスでは《あの》リシュリュー・メディシスなんだ…。後の事を考えたら、絶対に誰でもいいわけはない」
  ジェシカは身分や容姿に言及しなかったが、そういうわけにもいかないだろうというのがジオットの考えである。確かにリシュリューは「人間なんて皆同じ」と言って憚らず、仕事以外で自分以外の者を識別する気はないらしいから、相手の容姿など然程問題ではないかもしれない。身分とて、リシュリュー位の地位と権力があれば、今さら家の階級がどうの、歴史がどうのとこだわる事もないのだろう。オーリエンスでメディシスよりも名の知れている家などないのだから。
  しかし、それでも、と思うのである。世間には「人の目」というものがあるのだ。
  あのリシュリュー・メディシスの相手ともなれば、それ相応の外見・地位のある者でなければ周囲は納得しない。一般的な社交マナーや最低限の学識も必要だ。そうでなければ人々はリシュリューの相手を無作法に軽蔑する。そしてそれは、ひいては、メディシス家の名前をも汚す事になるのだ。姉のジェシカはそういった杞憂を「くだらない」と一蹴するけれど。
  だが、仮に姉が本心からそう言っていたとしても。
  国王陛下が「そんな事」と気にしないとしても。
  ジオット個人の考えとしては、リシュリューの相手はただ単に「年下で大人しい子」なら誰でもいいというわけには決していかないのだった。
  それに。
「どのみち、どんな優れた相手を選んだところで、外野は煩く言うものだ」
  あのリシュリュー・メディシス様の目に適ったのだ、どれだけ素晴らしい人かと思ったら、何だあの程度の子か、しかも男! ……幾ら国民から絶大なる人気と尊敬を得ているリシュリューとはいえ、否、リシュリューの相手だからこそ、口さがない悪口を言う者は絶対に出てくる。で、あるからこそ、相手はそういった「人々の悪意」にも耐え得る神経の持ち主である必要がある。
  これは大変な選定である。この際、何も知らない甥のリシュリューはどうでもいいとして、まだ見ぬ「生贄」の行く末が憐れでならない。
「これが女だったら……きっと何の苦労もないだろうに」
  ジオットは今日一体何度目かも分からない溜息をついてかぶりを振った。
  本来なら、リシュリューの相手候補など、さらっと募っただけでも翌日には屋敷の前に大行列が出来る。多少性格に難ありのリシュリューだが、「それでもいいから是非私を!」という女性は絶対にいる。無論、それは男子にも言える事なのかもしれないが……そういった安易な「公募」は出来ないときている。
「はあぁ…」
  ジオットは先の見えない恋人選びにじんとした頭痛を覚え、項垂れた。
「ジオット様」
  その時、コンコンと控え目なノックと共に、使用人が表に来客が来ている事を告げてきた。
「お約束はしていないとの事だったのですが、クロスウェル家のご子息でしたので、どのようにしたものかと…」
「クロスウェルの? まぁ、今はちょうど休憩していたところだし。通していいよ」
「畏まりました」
  主のその返答に、使用人はどこかほっとした様子で遠ざかって行った。
  珍しいなと、ジオットは何となく首をかしげた。
  既に商売人として多大なる高名を馳せたジオットの元には、常にこうして約束のない面会を求める者が後を絶たない。それは同じ商売人に限らず、貴族や国の要人など多岐に渡るが、だからこそジオットは約束のない人間と早々会う事をしないし、傍に仕える優秀な使用人たちも、気を回してそういった予期せぬ来客には丁重にお帰り願う場合が圧倒的に多い。
  それが、今回はわざわざジオットに確認を求めてきた。確かにクロスウェル家の主人とは旧知の仲だが、別段気を遣うような相手ではない。むしろ何かしら用事があるのなら、向こうが事前に面会の申し入れをしてきて当然というような関係である。
  しかも今来ているのは、その息子。自分は会った事があっただろうかと過去の記憶を手繰り寄せる。
「ジオット様。クリストファー・クロスウェル様をお連れ致しました」
「……あぁ。どうぞ」
  考えこんでいる間に相手が来てしまったようだ。まあいいと思いながらジオットは軽い口調で相手の入室を許した。
「失礼します」
  姿を現したのは、使用人に扉を開けてもらう事に酷く恐縮したような、小柄な少年。ジオットは一瞬眉をひそめた。立ち居振る舞いはしっかりしているけれど、思った以上に幼い。あのクロスウェルの遣いというから、もう少し成人に近い息子を予想していたのに。
  しかも、この外見。黒髪に黒瞳とは、オーリエンスでは異色だ。
「突然の訪問でしたのに、快く受け入れて下さいまして、ありがとうございます。ジルライン・クロスウェルの息子で、クリストファーと申します」
「あ…ああ、どうも。堅い挨拶は要らないよ。どうぞ座って」
「ありがとうございます」
  少し緊張したような顔からほっとした笑みが漏れた。その顔を見つめながら、ああ、確かにこんな息子がいたとジオットはようやく古い記憶が繋がり、心の中で手を叩いた。
「以前にもこうしてお遣いに来た事があったね? あの時はここではなくて、確か、君が通う学院の100年祭をしていた時、図書館棟で」
「覚えていて、下さったんですか?」
  ジオットの反応にクリストファーと名乗った少年はあからさま驚いたように目を見開いた。
  それでジオットも最初は「当然」ととぼけようと思っていたのが、何となく嘘をつく気を失くして苦笑した。
「いや、申し訳ない。正直、今の今まで忘れていた。今、思い出したんだ。君の笑顔…それに、髪と眼の色で」
「この外見が初めて役に立ちました」
  少年――-あの学院の生徒ならば、もう青年と言った方が良いだろう――は、一瞬言い淀んだ風も見せたが、すぐにその気配を消すと小さく遠慮がちな笑みを浮かべて俯いた。
  割と可愛い顔をしているのに勿体ないと、何ともなしに思う。
「まあ、今私が住んでいるグレキアの方では珍しくもないけど、あの学院ではね。それに、折角のパーティなのに、親のお遣いを済ませたら、後は勉強ばっかりしているもんだから、どうしたって目立ったんだよ」
  その割に今の今までその存在をすっかり忘れていたわけだが。
  それでも、ジオットは目の前で控え目な微笑を浮かべる青年をまじまじと見つめ、そのいつぞやの出来事を思い出していた。
  あの時は「まだ若いのに苦労性だな」などと軽く同情していたように思う。
「確かグレキア語を勉強していたね。私が出資している関係で、あの学院は他の所よりあちらの書籍も多い。勉強もはかどるだろう、成績はどうなの?」
「はい。まだまだですけれど、隣国の文化を学ぶのは楽しいです。最近では少しですけれど、担当の先生ともグレキア語で会話出来るようになって」
「それは凄いな」
  素直にジオットが感嘆すると、青年―クリストファーは、「いいえ」と未だ謙遜したように首を振った。
  そうしてその後も何度かジオットの軽い質問に律儀に答えたリストファーは、やがて途惑いながら、ずっと大切そうに膝元に置いていた書類を目の前のテーブルに置いた。
「あ、あの…。実は今日も、父からの遣いでお邪魔致しました。このお手紙と封筒をジオット様にお渡しするようにと」
  目の前に差し出された一通の手紙と大きめの封書を、ジオットは何ともなしに見やった。
「ふうん? 何故お父君が直接来られないんだい? 身体の具合でも悪いの?」
「はい。少し無理をしたせいか、今はずっと臥せっています」
「え、そうなの? それは知らなかった、申し訳ない」
「いえ、そんな」
  不躾に訊いてしまってジオットは本気で反省したのだが、意外やクリスは淡々としていた。ただ、どこか何かを言いづらそうにはしている。
  ジオットはそんな相手をまじまじと見ながら、付け足すように言ってみた。
「医者には診せたの? この辺りならドール医師なんてどうだい、とても名医だよ。ああ、勿論クロスウェルにも掛かりつけの医師はいるのだろうけど」
「あの、実は……先日、屋敷の方は人に譲って、家族は皆、遠方の街へ移ったのです」
「え?」
  クリストファーが言いにくそうにそう発した言葉を、ジオットは一瞬目を丸くし、やがて――得心した。
「……またお父君の悪い癖が出たかな。以前にも、あれほど大人しくしていた方が宜しいと忠告したのに」
「申し訳ありません」
「君が謝る事ではないよ。ええと……クリストファー?」
「クリスで」
「クリス」
  にこりと笑って、ジオットは使用人が運んできたお茶を勧めた。クリスは再び酷く恐縮した後、それを丁寧な所作で口につけた。
「とても美味しいです」
「だろう? 彼女が淹れる紅茶は絶品だからね」
  クリスの誉め言葉に、紅茶を運んできたメイドも嬉しそうに微笑んだ。
  それでジオットの方も何だかとても嬉しくなる。
「それでクリス。多分、というか、まあ間違いなく、この手紙は、要は私に援助を請いたいという申し出だろう? 封筒の方は、何かクロスウェル家の家宝を高く売りに出したいとか、そういう類のものかな」
「父は、私には詳しく教えてくれませんでしたが……、恐らくはそうです。実は、ジオット様だけでなく、父はあちこちに金策を願い出る手紙を出していて、なりふり構わずという体なので……」
  ただ、クリスの父もジオットだけは特別だったようで、ここへは自分が行くと言って最初は随分言い合いになったそうだ。……が、如何せん心労で倒れてしまった父に無理をさせるのも憚られ、そこはクリスが無理に押し留めて代わりを務めに来たのだという。
「なるほど」
  確か以前学院で出会った時も、この子は父親の借金申し入れの手紙を持ってきていた。「本当は外国文化などを学ぶのはやめて、経済や法律を学ぶ方が家の為かもしれない」と苦笑していた事も思い出す。
「世渡り下手なお父君を持って、クリスも大変だな」
  そう、見た目はとても幼いけれど、しっかり者だ。しかもあの学院で学んでおり、グレキア語も堪能だなどと、大分優秀じゃないか。年齢とて、もう少しで成人に手が届く。
  それにクリスはとても奥ゆかしい。控え目で好感の持てる性格をしているように見受けられる。今日でまだたった2回目の会話だけれど、職業柄人を見る目は肥えている方だ。
  ジオットは頭の中、猛烈なスピードでそれだけを考えた後、改めてクリスをまじまじと見やり、「お金の事は」とわざと一区切りした後、すっと立ち上がった。
「なるべく協力するからと、お父君に伝えてくれたまえ。昔世話にもなった事だしね」
「本当ですか…?」
「ああ。それに――」
  言い掛けて、ジオットはぴたりと口を噤み、思い直したように「何でもない」とかぶりを振った。
  これはまだ言えない。これから徹底的に調査し、吟味するのだから、援助の件も含めて本人に下手な希望を持たせては可哀想というものだ。
  それに実際は、「選ばれた後」の方がこの子にとっては可哀想なのかもしれないし。
「ありがとうございます。これで母も安心します」
  そうとは知らず、クリスは心底ほっとしたように笑むと何度も礼を言い、頭を下げた。
  ジオットは「まだ確定したわけではないよ」と苦笑しながらも、ふと思い立って訊いてみた。
「ところで、お母上は大分お若い方のように記憶しているけど、確か…?」
「あ…母は、父の後妻です。私とは血が繋がっておりません」
「ああ、そうなんだ。兄弟はいるの?」
「下に弟と妹がいます」
「そうか。みんな学校に?」
「……いえ」
  少しだけ表情を翳らせてクリスは答えた。
「私も含めて、皆、学校は今期限りで辞めました。せめて弟妹たちは復学させてやりたいので、何とかどこかに良い働き口を捜そうと思ってはいるのですが」
「え…」
  そこまで切迫しているのかとぎょっとしていると、クリスは慌てたように背後の時計に目をやった。夕刻を告げる鐘が大仰に鳴った為だ。
「お忙しい中を長居してしまって申し訳ありません。それでは、私はこれで失礼致します」
「あ、ああ…」
  ジオットがぼうとしている間に、クリスは時計に追い立てられるようにして退出していった。焦って帰ったのは、ジオットの気が変わったら大変というよりは、忙しい相手の時間をこうも奪っては申し訳ないとの配慮故だろう。ジオットとしてはもう少しクリスと話をしてみたいところだったが、変に突っ込んだ質問などして相手が訝しんできても困るから、今日のところはまあいいかと思い直す。
  そして。
「俺に見初められても憐れ。見限っても……家の借金を抱え、働くか。どちらにしても憐れだな」
  それならばせいぜい俺の候補者リストの筆頭に上がればいい、と。
  ジオットは酷く自分勝手な考えを浮かべながら、クリスの名をリシュリューの恋人候補リストの最後尾にそっと書き添えた。





5.現在


「ジオット様。お久しぶりです」
「やあクリス。元気かい」
  ジオットがクリスとようやくの会話というか対面が許されたのは、その日もどっぷりと暮れた夜半になってから。丁度独りきりの夕食を済ませたところだった。
  リシュリューは何だかんだと文句をつけてクリスをジオットから遠ざけたがったが、元々はリシュリューがジオットとの面会時間を随分と破ったせいで、ジオットが屋敷に一晩留まる事になった。そうなると、クリスにジオットの来訪を隠し通す事は不可能だ。隣で苦虫を噛み潰しているようなリシュリューの視線をものともせず、ジオットはにこにことして目の前のクリスを見つめやった。
「身体は大丈夫かい? 夕餉のテーブルにも現れないから本当に心配したんだよ。リシュリューに無理をさせられて熱でも出たんじゃないかって、ハラハラしていた」
「えっ…、あの、僕は全然っ」
  嘘のつけない子だとジオットは苦笑した。クリスは真っ赤になったままもごもごと言い淀んでしまったが、日中の自分とリシュリューとの遣り取りには気付いていないようなので、とりあえずは軽く流してしまう。
  そうでもしないとリシュリューに妨害されてクリスと話すどころではなくなるし。
「今日はリシュリューと君の結婚式の件で打ち合わせしなくちゃいけない事があったんでお邪魔したんだけど。よく考えなくとも、クリスだって式の主役なんだから、君の意見もきちんと聞かないといけないよね?」
「え? いえ、僕は……あの、リシュリュー様やジオット様にお任せします」
  クリスは驚いたような顔を見せた後、やがて困ったようになって俯いた。
  マリッジブルーというやつか、それとも最初からやはり乗り気ではないのか。クリスは結婚式の話になると途端萎れた花のように小さくなって黙りこんでしまう。
  だからこそ、正式な日取りはまだきちんと確定させていなかった。リシュリューもクリスのためらいを知っていて、「クリスの気持ちが固まるまでは待ってもいい」と言っていたから。
  とはいえ、国の有名人が婚約までして、その発表まで済んでいる段階だ。いつまでも先延ばしにしておける問題でもない。
「日程もこちらで勝手に決めていいってこと?」
  だからジオットは試すようにやや強い口調で訊ねてみた。
「はい」
  するとこれにはクリスもあっさりと頷いた。傍でリシュリューはどことなく眉をひそめて物言いたげな顔をしていたが、特に口を差し挟む様子はない。ジオットとしてはここでクリスが途惑う仕草をちらとでも見せれば、やはり時期尚早だと周囲に諫言しようと思っていたので、ならばと駄目押しに訊いてみる事にする。
「クリス。今さらこんな事を言うのも変かもしれないけど。本当にいいのかい?」
「え…?」
「リシュリューと結婚する事、本当に君は心から受け入れているのかと訊いているんだが」
「ジオット!」
  リシュリューが怒ったように立ち上がったので、ジオットの言に一瞬は驚いた顔を見せたクリスも、慌てて自らも席を立って叫んだ。
「勿論です、いいに決まってます! あの、リシュリュー様、怒らないで下さい!」
「お、お前に怒っているわけじゃない…!」
「はいっ。でも…!」
  リシュリューが激昂するのをクリスは何より恐れているようだ。遠慮がちにその腕に触れ、心底やめて欲しいというオーラを発する。
「………っ!」
  そうすると如何なリシュリューと言えども大人しくなるしかないらしい。ストンと再び椅子に座り、ふうと落ち着かせるような息を吐く。
  ジオットはその僅か数秒の出来事を半ば呆気に取られて眺めていたが、やがて大きなため息と共に改めてクリスと向き直った。
「クリス。これこの通り、この男は気性が荒い。我がままを言って、これまでも随分と君を困らせたと思う。酷い事だって言われただろう。結婚したらこれが一生続くんだよ。本当に大丈夫かい?」
「ジオット…貴様……」
  物騒な低い声を出すリシュリューを、しかしジオットも今度は恐れなかった。
「俺は本当の事を言ったまでだ。自覚がないわけではないだろう? お前、クリスに酷い事を言ったりしたりして、傷つけた事が一度もないと言い切れるか?」
「…………っ」
  リシュリューは小さく舌打ちしたものの、二の句が継げられないという風に黙りこくった。クリスはその隣でオロオロとしつつ、「僕はっ」と悲壮感に満ちた顔で必死に言う。
「いつもリシュリュー様には優しくしてもらっています! 何も困った事なんてありません。むしろ僕の方が……いつも、リシュリュー様を困らせてご迷惑をお掛けしているんです」
「へえ…それはどういう事?」
「何を言ってるんだ、クリス! そんな事あるわけがないだろう!?」
「おい、リシュリュー、お前はちょっと黙っててくれないか。俺がクリスに訊いてるんだが…」
「お前が偉そうにクリスに物を訊ねるなッ!!」
  クリスに怒らないでいる分の全てをジオットに叩きつけているようだ。
  リシュリューはジオットにそう怒鳴りつけると、有無を言わせずクリスの腕を取って再び立ち上がらせ、「来い」と命じて部屋の外へと連れ出そうとした。やはりというか何というか、本当はジオットだろうが誰だろうが、自分以外の誰ともクリスと関わらせるのが嫌なのだろう。ここまで独占欲の強い男だとは思わなかった。
「クリス!」
  もっとも、リシュリューも怯えているのかもしれないが。
  ジオットはちらとそんな考えを脳裏に過ぎらせながら、無理矢理引っ立てられていくかのようなクリスの背中に張りのある声で呼び止めた。
「ジオット様…っ」
  クリスがリシュリューに手首を捕まれ、引きずられながらも何とかジオットの方へと顧みる。ジオットは自分と目が合ったそれを確認した後、なるべく早口でこれだけ訊いた。
「まだ躊躇いがあってもいいさ。けど君は、ここを居場所に出来そうかい?」
「……っ」
「クリス、あいつの訳の分からない話など聞かなくてもいい! さっさと来い!」
「クリス! リシュリューの傍が嫌ではない!?」
  リシュリューの急きたてる声を掻き消すように、ジオットは更に訊いた。
「……っ」
  するとクリスは一瞬だけ泣きそうな顔を見せたものの、確かにしっかりと頷いた。
  それはいつもの遠慮や気遣いから見せる偽りの回答ではなく、クリスの心からの答えのようにジオットには思えた。
  バタンと激しい扉の閉まる音と共に、クリスはリシュリューに連れて行かれてジオットの前から姿を消してしまった。
「……とりあえず、嫌ではないみたいだ」
  独り取り残されたジオットはその場に座ったまま、ぽつりとそう呟いてからふうと嘆息した。
  責任がある。クリスには責任があるのだ。けれどジオットはクリスをここへ連れてこよう、リシュリューに会わせたいと思ったあの頃の事を思い出しながら、自分がそれだけの為にこうまであの青年を気にしているわけではないという事を改めて自覚していた。
  国王陛下の為でも姉の為でもない。ましてや、リシュリューの為ですらないかもしれない。
  ジオットはクリスにこそ、恋愛というものを、誰かを愛するという事を知ってもらいたいと思ったのだ。





6.過去


「案外あっさりと頷いてくれるから、拍子抜けしたよ」
  家の再興を手助けする代わりに、リシュリュー・メディシスの慰み役としてオーリエンスの首都へ行ってもらいたい。期限は無期限。リシュリューに気に入られなければその時点で援助の件は白紙。慰み役というからには、当然気難しいリシュリューの内面をフォローするだけではなく、夜の相手も務めるのだと。
  ジオットがクリスに初めてそう告げた時、一見幼い風貌の青年は驚愕に満ちた顔をしたものの――案外と早い段階で立ち直り、「分かりました」と頷いた。
「お父君は私の前では泣いていたけど、説得に時間がかからなかったところを見ると、然程反対ではなかったようだね」
「国の英雄の下で働けるのだから名誉な事だと言われました。母も弟妹たちも、周囲に自慢すると喜んでいます」
  移り住んだばかりの小さな屋敷には、それでもクリスが手塩に掛けて育てたという花の苗木が幾つか植わっていて、クリスはそれを我が子を見るような目で眺めていた。はじめはジオットが来た事で作業の手を休めてそこにも背を向けていたのだが、ジオットが「そのままで」と許したのだ。
  例えリシュリューがクリスを気に入らなかったとしても、これだけは変わらない。クリスがこの屋敷へ、家族の元へ戻る事は恐らくもうないのだから。
「お母君はともかく。君の弟妹たちは君にとてもよく懐いているように思ったのだけど、本当に喜んでいるの? 泣いて離れないかと思ったけれど」
「大丈夫です。僕がメディシス家にお仕えするところの本当の意味が分かってないですし、それに……元々、本当の兄弟でもありません。数ヶ月もすれば僕の存在など忘れます」
  クリスのいやに冷めた台詞に、ジオットは露骨に眉をひそめた。
「そんなわけないだろう。それに、片方とは言え、紛れもなく血は繋がっているじゃないか。君だってジルライン氏のご子息なのだから。本当は申し訳ないと思っているんだよ。嫡男である君をこんな形で貰い受けるんだからね。だが、私も慈善事業をしているわけじゃあないので――」
「大丈夫です」
  ジオットの言い訳のような言葉をクリスは遮り、自嘲気味に笑った。
「クロスウェルの家督は、ジェイミーが生まれた時点で、あの子が継ぐと決まっていました。ジオット様、僕は父の本当の息子じゃないんです」
  クリスのその台詞にジオットは驚かなかった。無論、こうなるまでにクリスとクロスウェル家の事はほんの小さな事まで調べ尽くして知っている。最早クリスの事でジオットに知らない事などないくらいだ。
  リシュリューの恋の相手。選定の際、当初ジオットは相手の家柄や外見をとても気にしていた。
  けれどクリスの父親は金の遣い方を知らない、貴族という家柄に生まれた事だけで己の身を保っているような愚かな男。母親は破天荒で男癖が悪かったらしく、クリスを生んですぐに失踪している。……そして、その母の血を濃く継いでいるせいか、それとも別の――。クリスの見た目は、父のジルラインとは全く似通っておらず、オーリエンスでは異端の、黒い髪に漆黒の瞳。
  だから、だろうか。貧しいながらも、穏やかで慈愛に満ちているように見えるクロスウェル家で、クリスだけが常に浮いている。
  家柄も外見も、リシュリューには釣り合わない。それに家族の愛にも恵まれていない。そんな青年。
  それでも、そういった事を全て承知した上で、ジオットはリシュリューの相手は「クリスがいい」と思ったのだ。
「父も今の母の事を想えば、余計に僕の存在は辛かったと思います」
  尚続くクリスの自虐の言葉にジオットはハッとし、急いでフォローの声を挟んだ。
「君がクロスウェルの人間でないという確証はないだろう? お父君もそう言っておられたと思うんだが」
「ジオット様にはそう……言ったのですか?」
「ああ。君はとても良く出来た息子だと。全部先回りして、自分の希望に沿った行動を取ってくれるのだと、誉めちぎっていたよ」
「そうですか……」
  ジオットの言葉にクリスは何事か考えるように目を伏せたが、特には何も言わなかった。
  だからジオットが口を開いた。
「お父君の事……あまり好きではないのかな?」
「いいえ」
  とんでもないという風にクリスはすぐに顔を上げ、それを否定した。そう訊かれた事に酷く驚いた風だ。
「……ですが」
  ただ、クリスは偽る事なくきっぱりとこうも言った。
「僕には、人として何か大切なものが欠けているんです」
  クリスは静かに笑んで、そして改めてジオットに向き直った。
「父は勿論、他の家族も皆優しいです。僕の容姿を見ても周囲と違ってからかうでも侮蔑するでもなく、 普通に接してくれました。普通に……だから僕も平淡に、過ごす事が出来ました」
「平淡に?」
「でも、うまく笑えないんです」
  変ですよねとクリスは相変わらずの遠慮がちな笑み湛えながら、ちらと背後の花々を見やった。
「動物や植物には気を遣わなくていいです。普通に笑えていると思いますけど……僕は何につけても自分に自信がないですし……誰かをまっとうに愛せる自信もありません。嫌いではないです。家族が大切です、でも……いつも遠くへ逃げ出したかった」
「……では、今回の事はむしろ好機だと思う?」
  ジオットはすぐ「実に愚かな事を訊いた」と思ったが、幸か不幸かクリスはこれに何の反応も見せなかった。
  だから追い立てられるように尚続けた。
「リシュリューの元へ行って彼に気に入られれば、もう早々、君は自由ではいられなくなる。何せ彼はこの国の要人だ。君が願っていたグレキアへ行くという夢も、これで断たれたかもしれない」
「僕がリシュリュー・メディシス様のお眼鏡に適うなんて事、あるわけありません」
  ふふとクリスは笑ってから、「ジオット様」と真っ直ぐな視線を向けてきた。
「どうして僕なんかを、家の抱えたこの莫大な借金の形にして頂けるのか……本当は今でも信じられないです。……ですけど、その後の自分が取るべき行動は分かっています。リシュリュー様から出て行くよう言われましたら、すぐに王都の傍で働き口を捜しますから。ですからどうか……弟妹たちや家の事は、宜しくお願い致します」
「私の予想はそんなに外れないと思うがね」
  何故、愛着のもてない家族の為にそうまでしてその身を犠牲にしようというのか。クリスは矛盾だらけだ。
「君はリシュリューの気に入ると思うよ」
  それでもジオットはそれだけを言い、特にクリスを責める事はしなかった。何せ今この儚い青年を追い詰めているのは、まさにこの自分なのだから。
「僕みたいな人間が、あのリシュリュー様のお役に立つなんてこと…出来るんでしょうか」
  せめて一晩だけでもお力になれれば嬉しいのですが、と。
  クリスは本当に力なく笑った。
「……クリス」
  この子は自分の事をとうに諦めている――何となくそう思って、ジオットは眉間に寄った皺をなかなか元に戻す事が出来なかった。
  優秀だし、温和な性格で礼儀も正しい。一見実に整ったように見えるこの青年が、しかし確かに本人が言うように「どこか足りない」と感じる。人として最も大切な、なくてはならないものが欠けているのだ。
  けれどそこにこそ、ジオットはあの不器用な甥っ子に共通するものを感じ、「この子にしてみよう」という想いを強くしたのだ。
  リシュリューにも教えてやれる、またこの子も何かを学べるのでは、と。
「リシュリューが君を気に入るのは勿論……君も、彼を気に入るといいのだけれど」
「そんな、畏れ多いことです。僕はただの練習台でしょう?」
  ジオットのおかしな台詞に目を細めて、クリスはまた他人事のように笑った。
  家の為に自分を売る事も厭わないクリス。けれど、恐らくは徹底的にリシュリューに付け入ろうとするような器用さも持ち合わせてはいないだろう。
  最初の一ヶ月が勝負だな……ジオットはそう思いながら、クリスの手を引いて小さな屋敷を後にした。
  クリスのたっての希望との事だったが、その見送りをした者は、クロスウェル家の中には誰一人としていなかった。




and…