メディシスの恋(後編)



  12.過去


  クリスを「正式に」自邸に置くようになってから僅か数日にして、リシュリューはすぐさま幾つかの事柄に気づくようになった。
  一つは屋敷の内外がとても華やかになったこと。
「…昨日とはまた違うな」
「は…。クリス様が早朝より庭園に出られて、その朝一番咲きの良いものを選ばれてこちらに。リシュリュー様の許可は得られているとの事でしたが…」
「べ…つに、駄目とは言っていないだろうッ。あいつには好きにしていいと言ってある。暫くはこれまでと同じように、庭でも馬舎でも好きな所で好きな事をして良いと言ってあるから――」
  言い掛けてリシュリューはふと口を噤み、目の前の忠実な老執事をまじまじと見やった。
  それから自分の周囲へもさり気なく目を配る。
「……何なんだ」
  見られている。
  しかもどことなく批難がましい眼で。
  それは限りなくリシュリューの「被害妄想」に他ならなかったが、クリスのした事に対して、リシュリューがまた何かとんでもない言い掛かりをつけるのではないかと、この邸の使用人たちは皆一様に心配しているのだ。
「ったく…」
  自分はそこまで鬼ではない―…というのが、リシュリューの内から沸いた心からの叫びである。確かにこれまではクリスにも色々と酷い事を言ってしまったが、自分の意思でここへ「暫くの間」でも置いておくと決めた以上、何でも好きに過ごさせてやろうと思った事は本心なのだ。別に苛める為にここへ残したわけではない。
  ならば何故残したのかと訊かれれば、それはまた返答に困るのだが…。
「俺はもう行く!」
  全ての惑いを振り払うようにして、リシュリューは無駄な大声でそう言った。と同時、そこかしこの物陰から、使用人たちのあからさまほっと安堵したような空気が伝わってきて、リシュリューは憮然とした。大体、この間近にいる、普段は冷徹なところのある老執事でさえそうなのだ。
  皆、リシュリューが「クリスの好きにして良い」と言った命に対し、心から喜んでいる。安心している。
  クリスは本当に好かれている。
「あいつにはよくよく休むように言っておけよ!」
「畏まりました」
  深々と礼をする執事を恨めしそうに見やり、けれどリシュリューはふと思い出したという風につけ加えた。
「今日は早く帰る」
「左様でございますか。何時頃になりますでしょうか」
「いつもより若干早いくらいだ」
「“最近の”、”いつも”…で、ございますね?」
「貴様…」
  執事の台詞にリシュリューはぴきんと怒筋を浮かべた…が、特には何も言えない。
  老齢の頼れるこの執事は別段厭味を言ったわけではない。律儀な性格故、慎重に慎重を期して確認をしているだけだ。
  何故なら「最近の」リシュリューは、「今まで」と違い、やたらと帰りが早いのだ。
  そう、クリスを屋敷に置く事が決まってからというもの、どんなに王宮での勤めが込んでいても、何がしかどうにかこうにかこなして急いで帰宅している。
  これまでは屋敷にいても小竜と戯れるくらいしかする事がなかったし、何の連絡もなしに、それこそ竜を駆って遠出をする事も珍しくなかった。「いつも」帰りが早いなどと言う事は決してなかったのだ。…それもリシュリュー自身が気づきたくなかった顕著な変化の一つだろう。
  そして更に、リシュリューが気づいて「しまった」こと。

「もう本当にクリス様は、殿方にしておくには惜しい逸材よね!」
「あのおしとやかで控え目な性格が堪らないわよね!」
「もう、今日こそ御髪を梳いてさしあげたい〜。でも、嫌がるのだもの…どうにか出来ないかしら!?」

  屋敷の使用人たちは気難しいリシュリューを気遣って滅多に騒がないし、普段はとても大人しく、場を弁えた人間たちである。
  それがどうしたことか、否、これまで単に本性を押し隠していただけなのか。クリスが居るようになってからというもの、使用人の…特に若いメイドたちは、こぞってクリスの噂話をするようになったのだ。あのお召し物が似合うのではないか、あれを差し上げたらもう少し食欲も湧くかも…そんな日常生活の「お世話」について語るのは勿論、クリスをちやほやと褒め称える言葉は、リシュリューが特に意識を向けておらずともそこかしこから聞こえてきた。
  今や彼女たちは屋敷の主であるリシュリューよりもクリスを気に掛けているのではないかと疑うくらいだ。
  そしてその事をリシュリュー自身、まるで腹立たしいと思わない。むしろ胸の奥がぽっと温かくなるというか、嬉しくなるくらいなのだ。
  こんな気持ちは初めてだった。
「クリス様の御髪を梳くのは容易ではないわよね」
  メイドたちはリシュリューが王宮へ参上しようとしているのにも気づかず、まだお喋りを続けていた。けれどリシュリューもその時はそれを咎めるよりも先に耳がピンと立つように神経が研ぎ澄まされ、その話題に自然と意識が向いてしまった。
  彼女たちは嘆くように言ったのだ。
「クリス様、どうあっても鏡の前に座って下さらないのだもの…。どうしてあんなにご自分のお姿を嫌っていらっしゃるのかしら…」





  15.現在


「そ、そんな、メディシス様〜。先日は華美にごてごてとした石をつけるのは見苦しいから、このデザインにすると仰ったじゃないですか〜」
「今見たら気が変わった」
  太めで汗かきの宝石商・エドモンは、客室に通されたものの椅子には座らず、普段は赤い顔をげっそりと白くしながら、偉そうにふんぞり返るリシュリューにやんわりと抗議した。
  もう一体何度目だろうか。
  メディシス家の当主から直々「婚約の儀に使用する指輪を買いたい」と言われた時、エドモンは天にも昇る気持ちだった。何せ城下の片隅で細々と商売をしてきたエドモンの店にとって、リシュリューのような王宮仕官が訪れるなど、これまでなら絶対に在り得ない事だったのだ。
  エドモンは同じ下町育ちで花屋のマーサとは昔から親交が厚い。その彼女が実はメディシス家と遠縁の間柄にあったという事から紹介してもらった「奇跡の大役」だったのだが、しかしエドモンは自分がその仕事をきっちりこなせる事を知っていた。商売は曽祖父の代から忠実に真面目に、それこそ誇りを持って行ってきた。きっとこの名門貴族の眼にも満足した物を届けてやろう、きっと出来ると意気込んでいたのだ。
  けれど蓋を開けば、この主が何ともはや、噂に違わぬ難物だった。
「これは飾りがなさ過ぎだ。質素で安く見える。俺がケチったと思われるじゃないか」
「何を仰います! これは見る者が見れば、ですね――」
「見るのは俺とクリスだ。素人目にも分かるような、如何にも美しい指輪が欲しい」
「で、では…。やはり、先だってご用意した物に致しましょうか?」
「あれはイヤだ。形が気に食わない」
「そ、それじゃまたイチから……」
  くらりと眩暈を感じたエドモンが一歩後退したところで、不意に扉が軽くノックされ、外からジオットが入室してきた。
「取り込み中に悪いね」
「何の用だ」
「いやいや、同じ商売仲間さんが随分と苦労していると思ってさ。ちょいと助っ人に」
「ジオット様〜」
  縋るような暑苦しい男・エドモンに苦笑だけで返し、ジオットは彼が用意していたプラチナリングを箱ごと取ると、品定めするようにすうと目を細めた。
  それから心底感じ入ったように息を吐く。
「素晴らしいな。エドモン、お前の店は実に良い物を仕入れる」
「あ、ありがとうございます…!」
  商人にとっては最早「神様」のような伝説になっている男・ジオットに賞賛され、エドモンはぱっと花開くような笑顔を取り戻し、興奮したように先刻とは違う意味で頬を赤らめた。
  リシュリューはそれにあくまで冷めた目を向けていたものの、ふと頬杖をついていた手を外して眉をひそめた。
「クリスはどうした? お前に庭のバラを見せると張り切っていたのに」
「見てきたよ。でもまた小竜がじゃれてきたから俺は一足先に退散したのさ。お前さんに今後の予定も訊いておきたかったしね」
「予定?」
  ぴくりと眉を動かしたリシュリューに、しかしジオットは知らぬフリだ。エドモンからリングを受け取ったまま先の退出を許すと、再び向き直って平然と言う。
「指輪はこれにしろ。またとない一品じゃないか」
「勝手に帰すなよ。あれにはまた新しい品の発注を――」
「そんな事したら、一日延期したものがまた何日も延期になってしまうだろう?」
  お前はいい加減にしろよと、ジオットは呆れたように息を吐き、傍の椅子に腰を下ろした。
「一体いつまで待たせる気だ」
「別にお前には関係ないだろうっ」
  自棄のように声を荒げるリシュリューに、しかしジオットは全く動じない。偉そうに足を組むと呆れたように軽く肩を竦めて見せる。
「関係大有りさ。お前のお母上を説き伏せて、婚約の赦しを得てやったのもこの俺だぜ? それだけじゃない、歴史ある名門・メディシス家唯一の後継者たるお前が、よりにもよって男の奴隷を妻に娶るとなれば、如何に寛容な王宮も騒然となるだろう。そこをこの俺がだ――」
「恩着せがましい言い方はよせ」
  フンと鼻を鳴らしてリシュリューはひらひらと片手を振ると、あからさまな態度でそっぽを向いた。
「お前が何をしなくとも、言うような問題なんぞちっとも起きなかったじゃないか。王だって王宮の連中だって、俺がやっと落ち着いてくれると安心しているし、城下の連中なんぞ皆もうこの事を知ってとっくに先走った触れを出していやがる。……母上が流したという噂もあるが、それは知らないフリをしておこう。何にしろ、誰もこの事に反対なぞしていない。……俺の気持ちを知らないのは…、気づいていないのは、クリスだけだ」
「全く不思議な事にな」
  もう一度肩を竦めて、ジオットは何気なく外の庭園へと目を移した。
  クリスがきてもう1年。まだ1年と言っても良い。その間には実に様々な事があったわけだが、同性同士の婚儀を認めているオーリエンスにして、それでも名門貴族が名もない下級貴族の息子を娶るという話はさすがに前例のない出来事だった。
  にも関わらず、この国の王をはじめ、リシュリューと共に宮仕えをしている同胞や家臣団、城下に住む人々も、この事には驚きこそすれ、あとは「面白い」と呑気に喜ぶだけで、あからさま反対や難色を唱える者が見当たらない。少なからずメディシス家との繋がりを持ちたいと躍起になっていた人間たちは時にちらりとその失望を口にしたりもしたが、それも大して陰湿なものはない。基本的には国中に「めでたいムード」が流れている。
  けれど、その国中を巻き込んでのお祭り騒ぎを、当のクリスだけが気づかない。
  気づこうとしていないだけなのか。
「知り合った当初は、ただ大人しく素直な良いコというだけの印象だったが」
  ぽつと呟いたジオットにリシュリューが視線を戻した。
  ジオットは構わずに続けた。
「ことによると、とんでもない力を秘めた子なのかもな。お前や俺だけでなく、周りの人間みんな変えちまう。あの頑固な俺の姉上…お前の母上さえ、お気に入りにしちまうんだから。いるんだなぁ、ああいうの」
「何だ、お前も最初は疑っていたのか」
「ん?」
  そりゃそうさ、とジオットは皮肉な笑みを浮かべて身体を揺らした。
「疑う事から入るのが俺の流儀だ。あんなコがいるわけがない、きっと家や自分を救う為に偽っている部分があるのだろうと…そう、思ったさ。あのコの出自はちっと複雑だし。けど、きっと偶に生まれるんだ、ああいう突然変異が」
「クリスを異端みたいに言うな」
「最初に差別していたのはお前だろうが」
  ふんと鼻を鳴らした後、ジオットは立ち上がり、今度はびしりと指を差した。
「とにかくだな、もういい加減さっさとプロポーズしろ! 俺は待ちくたびれた。お前の躊躇いなど知った事か、出来ないならもう言葉はいらん、黙って押し倒せ。無理矢理にでも事を進めろ。そうしたらクリスも、イヤでも気づくだろうよ」
「お、お前…」

  もしそれで拒絶されたら、ましてや、泣かれたらどうする。

  けれど寸でのところでプライドが勝ち、リシュリューは叔父にそれを訊く事は出来なかった。
  再びじくりと熱くなる身体を持て余しながら、リシュリューはクリスがいるであろう薄暗い庭園へと視線をやった。





  16.過去


  クリスはリシュリューの赦しを得てからというもの、庭園の手入れや竜馬の世話だけでなく、リシュリューの父の代から放置し混沌と化していた地下の書庫の整理にまで手を伸ばし始めた。
「別にやらなくてもいいと言っているのに…」
  そんなに働いてばかりでは、お前の本を読む時間がなくなるじゃないか…と、本心ではそう言いたかったのだが、それでは周囲から「主はクリスにばかり甘い」と思われるかもしれないと、リシュリューはぐっと言葉を飲み込み、目の前で一心不乱に本と向き合っている青年を見つめた。…リシュリューがクリスに甘いなどと、周囲の人間たちはもうとっくに分かっている事なのだが。
  クリスはリシュリューの帰宅には大抵他の使用人たちと同様、律儀な出迎えを欠かさない。…が、リシュリューがあまりにも予想以上に早い帰宅をした時などは、こうして帰りに気づかず、自分の仕事に没頭している事がままあった。
  リシュリューはそういうクリスを見るのは「悪くない」と思っていたから、時としてわざと執事に告げていた時間と異なる時刻に帰宅したりした。
  気づけばリシュリューの生活の―…興味の中心は、いつでもクリスになっていた。
「あ! リシュリュー様…!」
  ようやくというべきか、クリスが階段の手摺りに寄りかかった格好で立っているリシュリューに気づき、声を上げた。
  淀んだ空気の地下書庫は明かりをつけていても暗いし、何より埃臭い。使用人には触らせたくない系譜なども置いているからこその惨状だったが、それを新参者のクリスにだけは許している自分自身をリシュリューは計りかねていた。
「お帰りなさいませ! 申し訳ありません…また、お帰りに気づけなくて」
「そんな事はどうでもいい」
  クリスの沈んだ顔を払拭するようにひらりと片手を振り、リシュリューは決まり悪そうに視線を逸らした。いつでも先にクリスを凝視するのはリシュリューのくせに、こういう時は決まって居心地が悪くなって目を逸らしてしまう。クリスに直視されると知らず胸が高鳴ってしまう自分がいた。
「それより、きちんと食事は取ったんだろうな。お前は何かに熱中すると、決まって自分の世話を忘れるから」
「大丈夫です」
「食べたんだな?」
「あ……いえ……、で、でも、一食くらいは抜いても大丈夫なんです」
「…すぐ上がるぞ。二食分食べさせるからな」
  これだから放っておけない。リシュリューは有無を言わせずクリスの手首を掴み、そのまま階段を上がろうとした。
  初めて熱を出された時もロクに食事を取らなかったせいで、クリスはただでさえ細い線をより一層折れそうなものにしてしまった。あれからまだ然程時も経っていないが、もう二度とあの時の轍は踏むまいとリシュリューは自分に誓っている。
「あ…。リシュリュー様、すみません。明かりを…」
「ん……ああ……」
  引いた手を逆らうように引かれて一瞬だけどきりとしたが、クリスの言いたい意味が分かったので、リシュリューも素直にそれを離した。クリスはそれに律儀に礼をするとそのまま急いで先ほどの場所へ戻り、傍のランプを手に取り戻ってきた。
  その小さな明かりだけではクリスの綺麗な黒髪も瞳も闇に紛れてよくは見えない。
  それを「惜しいな」と思い、リシュリューは早く明るい所でクリスの顔が見たいと思った。
  と同時に、ふと今朝方メイドたちが嘆いていた言葉を思い出した。

  “どうしてあんなにご自分のお姿を嫌っていらっしゃるのかしら…”

「クリス……」
「はい…あ、ありがとう、ございます…」
  贖罪の念に駆られながらリシュリューは自分がランプを奪い取ると、もう一度クリスの手を掴み、さり気なく視線を他所へやった。
  それから、自分が何の為にクリスを呼んだのかを考える。別段ランプを持つからと暗に示したかったわけではない。何が言いたかったわけでもない。
  ただ、何となく居た堪れない気持ちになったからで。
「リシュリュー様?」
  クリスが不思議そうに呼んできた。リシュリューはそれに焦ったように咳き込むと、誤魔化すように書庫を見渡しながら言った。
「何か気に入った本は見つかったか」
「あ…はいっ。それはもう、たくさん…! 学舎の図書室にもないような文献もたくさんありますし、本当に……毎日見ていても飽きないくらいで」
「そうか」
  クリスのぱっと嬉しそうに輝いた顔にリシュリューもほっとした。多少気持ちが軽くなり、ごほんともう一度偉そうに咳をしてから付け加える。
「読みたい物があれば自分の部屋へ持って行っていいからな」
「え…」
「ここは暗過ぎる。スペースだけはあるんで、何でもかんでもここに放りこんでしまったが、読む場所には適さないだろう。これらを整理しようとしたら気が遠くなるくらい時間がかかるし、それは気にしなくていいから、お前は好きな勉強をするといい」
「………」
「な…何だ? 不満か?」
  ふと黙りこむクリスにリシュリューは妙に焦ってしまい、つい尖った物言いをした。使用人たちの前ならばともかく、2人きりの時には努めて優しくしようと決めたのに。
「不満なんて…とんでもないです」
  けれどクリスはリシュリューのきつい言い方にも怯える事なく、精一杯力強く首を振った後、小さく笑って見せた。
  リシュリューはそんなクリスの表情を見ただけで胸が熱くなった。どうしてかこの頃はクリスの笑顔が可愛くて好きで堪らないと思っていたから。
  けれどこの時のクリスの顔はやはりどこか浮かないものだった。
「僕…こんなに良くして頂いて、本当に…どうしたらいいか……」
「ど…どうしたら、とは。何だ?」
「何もお役に立てていないのに。先日、ジオット様が父たちの様子を教えて下さって…。弟たちにもまた勉強の機会を与えて下さったとの事で、僕は……僕が、リシュリュー様のお役に立つという約束で、それらの事をお願いしていたのに」
  ふと、握っていたクリスの手が酷く冷たい事にリシュリューは気づいた。自分はこんなに汗ばむ想いでこの手に触れているのに。
  クリスは全く違う事を考えて心を冷やしているのだろうか。
「お…お前は、色々役に立っているから、ジオットがその約束を守るのは当然じゃないか?」
「……僕がでしゃばってしまう事で、却って皆さんのご迷惑になっているという事はないでしょうか」
「100%ないな。皆喜んでる」
  きっぱりと言い、しかしリシュリューは直後慌てて口を継いだ。
「あ! それは、別にお前に仕事をさせたいという意味じゃなくてな。あいつらは、お前と一緒に仕事をするのが楽しくて仕方がないという事だ。お前は別に動かなくても、傍にいるだけであいつらは満足なんだ。そういう意味では、お前は屋敷の者たちの勤労意欲を上げているのだから、それだけで十分役に立っている!」
  何やら必死に慰めているようだ。この家の当主は自分なのに、何故こうまでしてクリスの機嫌を窺っているのかと思いながら、それでもリシュリューはやはり目の前の青年に笑って欲しいと強く思った。
  だからぎこちないながらも身体を屈め、その目を覗きこむ。
「本当だぞ? 俺はこういう事で嘘はつかない。面毒臭いだろう、そんな事わざわざ取り繕っても仕方がない。メイドたちもしょっちゅう言っている、もっとお前の世話を焼きたいとな」
「リシュリュー様」
  クリスが顔を上げてくれた事が嬉しく、リシュリューはぱっと表情を明るくすると腑抜けた笑顔を浮かべた。
「そうだ。あいつら、お前の髪も梳きたいと言っていた。偶には着飾ってみたらどうだ? あいつらもきっと喜ぶし、お前ももっと綺麗――」
  はっとして黙りこくったが、クリスの表情がみるみる曇り出したのに気づいてリシュリューは慌てた。
「クリス―…」
  クリスが着飾ったり己を鏡に映したがらい理由――。
  それはリシュリューにとっては明白で。
  あまりに取り返しのつかない暴言を自分が吐いてしまったが故―…。
「いや…その…」
  どう言って良いのか、リシュリューはらしくもなく逡巡した。
  けれど反してクリスの方がふっと口を開いた。
「あの…申し訳ありません。なるべくそうします。最低限、見苦しくならないように……」
「あ。いや…」
  そういう意味で言ったのではないのに!
  今だって十分可愛いけれど、着飾ったらもっと綺麗になるだろうと思って言っただけだ。けれどどうやらクリスはそういう風には解釈しなかったようだ。気づけば掴んでいたはずの手もするりと抜けられていて、クリスは所在ない様子で俯き、すっかり顔を隠してしまっていた。
  リシュリューの中で小さな火花がちりちりと灯った。
  どうしたら良い、もうすっかり気づいてしまっている。
  自分は間違いなく、このクリスという青年に惹かれている。恋をしている。
  だからいつでも笑っていて欲しいし、自分を見て欲しいし。自分の言葉で傷ついて欲しくなどない。
(長期戦になりそうだな……)
  失った信頼を取り戻すには長い時が必要となるだろう。それでもリシュリューはこのクリスをもう一度、今度は不当な関係ではなく、真っ向から気持ちごと手に入れたいと強く願った。
  だからそれが叶うまでは勿論ジオットの言うような手段でクリスを抱く事もすまいと誓った。

  その決意がリシュリュー・メディシスのこれからの1年をより厳しく辛いものにする事は間違いなかったのだけれど。





  17.現在


  ジオットを客室に追いやった後、リシュリューはようやくクリスを求めて自らも庭園を出た。広い屋敷の中では、ましてや夜も大分遅い時分に小柄なクリスを探すのは骨が折れる。何せクリスは最初に手入れをしたバラ園だけではなく、そこかしこの花園に手を加えていたから、一体どこで作業をしているのか、あらかじめ小竜を監視役につけていないとすぐに見つける事は困難なのだ。
  けれど今夜はその小竜と一緒のようだ。小竜が傍にいればクリスに甘える声が聞こえるから、それを頼りに進めば良い。先ほどジオットはクリスが小竜と遊んでいたと言っていたから、探せばすぐに見つかるだろうと使用人も呼ばなかった。
「あいつめ…嫌がらせか?」
  ところが今夜に限ってその頼りの声が聞こえない。もう戯れはやめて裏手の森にある住処へ戻ってしまったのか。リシュリューが歩みを進めて中庭のテラスや噴水、今日求婚しようと思っていたバラ園などを次々通り過ぎて見てもクリスはいない。まさか2人で遠出をするなどという事はないだろうと思いながらも、もしもクリスが自分の目の前から消えてしまったらという危機感を常に抱くリシュリューは、遂に堪らず「クリス!」と目的の人物を呼んだ。
「ん…」
  すると微かに小竜の喉を鳴らす音が聞こえて、リシュリューは思わず小走りでそちらへ向かった。昼下がりなどにお茶を楽しめる小さな宮がある方だ。睡蓮が浮かぶ池で囲み、更にその周囲を比較的枝の高い茨で飾るそこは、中から見る分には美しいのだが、近づくと茂みが多くて視界が不良だと感じる。…が、なるほどだからこそ、そこもクリスと小竜の格好の遊び場だったと思い至った。
  石作りの柱と茨で周りを覆っただけの小さな円形の宮には、丸まった小竜に抱かれた格好でクリスがすやすやと安らかな顔で眠っていた。小竜は他の比翼竜と比べて鱗が滑らかなので、身体を寄せると非常に心地良い事はリシュリューも知っている。けれど長い尻尾までがクリスを覆うようにして包み込んでいるその姿は、まるでクリスを誰にも渡さないと守る親竜のようでもあり、少なからずリシュリューの反感(というか嫉妬)を買った。
「おい、小竜。お前、クリスをこんな所で寝かすな」
「ぐるるるる……」
  小竜の低い唸り声にリシュリューは思い切りむっとした。
「俺を威嚇する気か!? お前、最近本当に態度悪いぞ!」
「ぐううぅぅ…!」
「な…わ、分かった、静かにする。静かにするから、お前はどけ!」
「……ぶうううう」
  小竜はリシュリューの言葉がよくよく分かるらしい。不満そうに鼻を鳴らしたものの、まるで音も立てず気配も察知させずさっとクリスから離れると、あっという間にその場を飛び退った。元々リシュリューがここへ来る事は承知していたのだろう、2人の時間を邪魔された事には不服そうだったが、事によると小竜の気持ちも、ジオットや屋敷の人間たちと全く同じだったのかもしれない。
「ったく…。どいつもこいつも、俺をバカにしやがって」
  言いながらリシュリューは未だ目覚める気配のないクリスの傍に近づき、そっとその場に屈みこんでその寝顔を伺った。
  大理石で造られた円形のフラッグストーンだが、だからこそ硬いし、横になるのには不向きである。あくまでも小休止用の宮だから、簡易な椅子とそれを覆う布以外には家具もなく、慰み程度についている薄い天幕が周りに張り巡らされている以外、夜風を遮る物もない。
  もっともそんな宮だからこそ、外で空の星を仰ぐにはこれ以上の場所もない。茨に囲まれているから人の目にもあまり触れないし、だからクリスがここを気に入っている事もリシュリューは知っていた。クリスは自分の姿が人の目に触れる事を嫌う。普段は屈託なく、誰に対しても素直な笑顔を向けるのに、リシュリューにだけはどこか硬い表情で遠慮がちに笑う事も知っていた。

  “プロポーズできないのなら、無理矢理にでも押し倒せ。”

「あのバカ……!」
  去り際ジオットが強引に渡してきた物を思い出し、リシュリューは思い切り赤面した。「こんな物」は要らないと怒鳴りつけたが、無理やり服のポケットに入れられた時にはもう突き返せなかった。
  ジオットに言われるまでもない、「その時」の為の準備は、リシュリューとて随分と前からもうとっくにしていたのだけれど。
「だからって押し倒――…」
  思わず口に出しそうになり、リシュリューは慌てて口を噤むと、傍で未だ目覚める気配のないクリスを凝視し、ほっと息を吐いた。
  クリスの寝顔はいつ見ても可愛い。実はこっそり寝室に忍び込み、その愛しい寝姿を視姦した事は1度や2度ではないのだが…、さすがに手を出すまでには至っていない。
(そんな事、出来るわけがない…)
  いつも触れ掛けて、最後にはその手を止めた。クリスには知り合った当初随分と酷い事を言って傷つけ、そのせいで彼を余計自信のない臆病な人間にしてしまった。その自責の念がリシュリューにはある。この上クリスに酷い真似など出来よう筈もないから、リシュリューはきちんと告白をして、それから心置きなくクリスを抱きたいと思っていた。
  そんなわけで、幾らこんな風に据え膳だったとしても、手など出してはいけないのだ。
「ん……」
  その時、ようやく小竜の温もりがない事に違和感を抱いたのか、クリスが眉を寄せて瞼をゆっくりと開いた。長い睫が揺れる様を綺麗だなと思い見惚れていたリシュリューの前でクリスは何度か瞬きをした後、不意に自分に被さる影に気づき、ガバリと身体を起こした。
「リシュリュー様っ」
「すまない。起こさず部屋へ連れて行くつもりだったが」
「そんな事っ」
  クリスはリシュリューが傍にいた事に心底驚いたようで、焦った風に飛び退った後、狭い宮の中で逃げるように後ずさりした。リシュリューは無意識のうちでそれに反発し意地となり、逆にクリスに近づいて腕を取ったのだが、クリスの方はそれでますます狼狽したようになって、空いている手で乱れた髪を撫で付けた。
「申し訳ありません…っ。僕、小竜と……」
「いいんだ、あいつは俺が追いやった。こんな所で一晩越したら確実に風邪を引くからな。部屋へ行こう」
「はい…」
  クリスはすぐに頷いて立ち上がろうとした。
「………」
  けれど今度はリシュリューの方がふと思い直したようになり、クリスの腕を取ったままその場に座り続けた。
「リシュリュー様…?」
  それでクリスもすぐに同じように座り込んだのだが、居心地は悪そうだった。
  いつでもクリスはリシュリューに対面する事を忌避するし、まじまじと見つめられると困ったように笑う。1年かけてお前は綺麗だ可愛いと呪文のように唱えてきて、最近になってようやく信じ掛けてきているようにも思うが、それでもクリスはリシュリューから自分の顔を直視されるのを明らかに恐れている節があった。
「クリス…」
  けれどそれはともかく、リシュリューは「よくよく考えたら、今が物凄いチャンスなんじゃないか?」という思いに至って、ごくりと唾を飲み込んだ。
「クリス…実はお前に、話があるんだ…」
  そうだ、今この時。言ってしまえばいい。そういえばエドモンが置いていったあの指輪は部屋に置いてきてしまったが、もうこの際後で渡しても構わないだろう。
  とにかく言ってしまう事だ。そうすれば全てが終わる。
(いや待てよ…。もし、求婚して断られたら、その後はどうなるんだ…?)
  今さらそんな考えが過ぎり、リシュリューはたらりと冷や汗を流した。かと言って、もう今さら後にも引けない。
  リシュリューはクリスのもう片方の手も握り、意を決したようになって言った。
「今から俺が言う事をよく聞いてくれ…。その……正直に答えるんだぞ? 俺に遠慮をして、決して嘘偽りの言葉を吐かないように。お前の正直な気持ちが知りたいのだから」
「何…でしょうか…?」
  クリスも改まった様子のリシュリューにただならぬ気配を感じ取ったようだ。目覚めたばかりの目を今はもうしっかりと開き、どこか緊張が移ったような顔でリシュリューを見つめる。
  それでリシュリューはごくりともう一度唾を飲み込んだ後、口を開いた。
「お……」
  しかし瞬間舌がもつれて、最初に考えていた台詞とは違った言葉が出てしまった。
「俺は、お前が欲しい!」
「え…」
「そのっ…」
  これはまずいかもしれないと思ったが、ともかくリシュリューは焦っていた。
「その、何だ…、つまり…、つまり、そういう事だっ。俺はお前が欲しいんだ! お前をあ…あ…愛……そ、そう、愛しいと…思っているしっ。これからも……その、俺の傍に置いておきたいんだ…っ」
「………リシュリュー様」
(言った! 遂に、言った!)
  婚約の儀を結んで、ゆくゆくは自分の伴侶になって欲しい―…本当はそういう風に言うはずだったのだが、何だか随分と端折ってしまった。
  しかし「愛しい」という言葉を入れたし、「ずっと傍に置きたい」と言ったのだから、まあ大体同じ事だ。これで指輪があれば言う事はなかったのだが、それは仕方がない、後で取りに戻ってクリスに渡すとしよう。そう思った。
(………それで、答えはどうなんだ? クリスは……)
  自分の言った事に満足をしてクリスをまともに見ていなかったリシュリューは、ふと顔を上げた事によってようやく相手の表情を伺えた。
「クリス……?」
  ぎくりとした。
  目の前の愛しい存在は、酷く暗い表情をしていた。あの泣き出しそうな顔はない。けれど、どう見ても大好きな人間から告白されて喜んでいるような感じでもない。
「……っ」
  今さらながらリシュリューは努めて考えないようにしていたあの「最悪な結末」について想いを過ぎらせた。
  クリスから断られる事も十分考えられた。けれど、それは努めて考えないようにしていた。この1年、クリスは本当に素直でリシュリューに従順で、拒絶するなど想像も出来なかったから。
  けれど一方で、「だからこそ」本当に好かれているという自信もなかった。
「クリス……しょ…正直に言って、いいんだぞ…? 嫌なら嫌と――」
  しかし、もし本当に嫌だと言われて、その後ハイそうですかと自分は頷く事が出来るのだろうか。
  リシュリューは冷たい汗をかきながら猛烈なスピードで今後について考えを巡らせた。
  もしクリスに断られたら、クリスは家に帰すしかないのだろうか。絶対に嫌だ。そんな事は耐えられない。何だかんだと理由をつけて、自分はクリスを縛りつける。断られても、泣いて嫌がられたとしても、結局はクリスをこの屋敷に置いておく事は絶対の決定事項だ。
  けれど。
「嫌、なのか…?」
  そうは思っても、実際そんな事が出来るだろうか。分からない。クリスに酷い事などしたくない。
  だからクリスが頷いてくれれば、それが1番いい。

「嫌なわけ…ありません」

  すると絶望感に浸りかけたリシュリューにそう言う声が聞こえた。
「えっ」
  言ったのはクリスだ。間違えようがない。リシュリューは驚きで目を見張り、まじまじと目の前の愛しい存在を見やった。
  クリスもまた、そんなリシュリューから目を逸らしてはいなかった。
「嫌じゃないです、リシュリュー様。……喜んで」
「ほ、本当か?」
「はい」
  静かに頷くクリスはここでようやく小さく笑い、それから再び俯いた。
「クリス…!」
  リシュリューはまさに天にも昇る気持ちでクリスを抱きしめた。きっと恥ずかしいから顔を上げられないのだ、急に言ってしまったから困惑してこの表情なのだ。努めて前向きに結論を下すと、リシュリューは感動そのままにクリスをぎゅうぎゅうとこれでもかという程に強く抱擁し、その今では大好きな黒髪に顔を埋めた。
「ありがとうクリス…! 礼を言う!」
「そんな…僕こそ…リシュリュー様のお役に立てるのなら……」
「クリス!」
  感極まり、リシュリューは後半のクリスの言葉を殆ど聞いていなかった。
  そして計らずもジオットの言う通り、勢いこんでクリスをその場で押し倒した。
  頭の片隅では分かっていた。こんなのは良くない、返事を貰った瞬間襲いかかるなんて貴族の風上にもおけないと、そう分かっているのに。気づけばクリスの肌を求めて、早急な動きでその衣服に手を掛けていた。
  堪らなくクリスが欲しかった。喜んで自分を受け入れると言ってくれたクリスと、早く愛を確かめ合いたかった。
「クリス…!」
「……っ」
  クリスは声にならない声で微か息を呑むと、ぎゅっと目を瞑った。目元が赤い。やはり照れているのだなと思った。
「クリス…お前は可愛い…本当に…」
  その瞼に何度もキスを落とし、やがてそれを頬へ移し、クリスの唇にも触れていく。ずっとしたいと思っていた口づけだ。いざとなるとそれをするのに一瞬の躊躇いはあったし、クリスにもきちんと目を開けていてもらいたかったが、それを要求するだけの余裕はなかった。
「んっ…」
「クリス…クリス…っ」
  熱に浮かされたように何度もその名を呼び、リシュリューはクリスの唇を押し潰すように乱暴に奪った後、無理矢理その口を開かせた後は己の舌も捻じ込んだ。
「ふ…んぅっ…んんっ」
  クリスが苦しそうに眉を寄せるのも構わず、リシュリューはクリスの唇と舌を思い切り堪能した。何度しても足りない。何度舐ってもまだ欲しい、クリスももっと求めて欲しいと恐ろしいくらいに貪欲になった。
「あっ」
  それでも唇だけでなく、それこそクリスの全てを自分のものにしたかったリシュリューは、今度はその衣服を全て剥ぎ取るべく荒っぽく手を掛けてその中へ片手を差し入れた。クリスはすぐさまリシュリューのその手に反応を示し、撫でられた胸をひくつかせ、先刻散々重ねた唇から恥じ入った声を漏らした。
「あっ…リシュリュー、様…っ」
「優しくする。大人しくしていろ…」
「……はい」
  クリスは一瞬目を開いてリシュリューの問いかけに頷き、それから再びぎゅっと目を閉じると顔を横へ逸らした。
  リシュリューはそれを良い事に冷たい外気の中でクリスを裸に剥くと、もう一度その胸の赤い粒に唇を寄せ、ちゅくちゅくと音を出しながらそこを舌で丁寧に舐った。
「やっ…あっ」
  クリスはそれだけで肌を赤くし、所在ないように大理石の石を指先の爪で引っ掻いた。床は薄い布が敷いてあるだけで冷たいし、硬い。自分に縋れば良いのにとリシュリューは頭の片隅で思ったが、クリスは決してそれをしなかった。ただ、中途半端に脱がされた衣服をリシュリューが厭わないよう、自ら足先で蹴ってそれを横へずらし、率先して裸を晒した。時折反射的にリシュリューの愛撫から逃れるような動きを見せても、クリスは基本静かに大人しく、自らの身体を差し出していた。
「クリス…綺麗だ…」
  うっとりとして改めてその身体を眺め、リシュリューはもう一度クリスの唇に優しいキスを落とした。クリスはそれで瞳を開き、どこか切な気な様子でリシュリューを見つめ返した。どうせなら微笑んで欲しいと思ったがそれは得られなかった。初めてで途惑っているのだろう、それは自分も同じだからと納得する事にして、リシュリューはクリスの中心を片手で包むようにしてから激しく扱き始めた。
「ひぃ…あぁッ。い、いた…」
「痛いか……すまない、悦くしてやりたいんだが……」
  行為が早急に過ぎて乱暴だったかもしれないとリシュリューはすぐに反省したが、するとクリスはクリスで己の発言にハッとしたようになり、慌てて首を左右に振った。
「ご…ごめんなさいっ…。僕…大丈夫です…」
「そうか…? ゆっくりやるからな…」
「はい…」
  こくこくと頷いて、クリスはここでようやく少しだけ笑った。それにリシュリューもほっと安堵し、再びクリスを喜ばせるべく、その分身に手を掛ける。自分自身も既に張り詰めてどうしようもなかったが、自分だけが心地良くなるのでは嫌だった。
「あ、はぁ、はっ…あ…っ」
「クリス…可愛らしい…白いものが出て来たぞ…」
「やっ! あっ、ぁっ…リ、リシュ…ん…あ…あぁ―ッ」
  ひくひくと貧相な胸が動く。けれど先ほどリシュリューから舐められて色艶を出した胸の飾りは酷く淫猥だった。リシュリューは夢中でクリスのそんな身体を貪り、同時にクリスの精も吐き出させてやりながら、クリスが快感に溺れる様を一時も見逃すまいと観察し続けた。
「はぁ…リ…リシュリュー、さま……」
  絶頂を迎えさせられぽろぽろと涙を零すクリスが縋るように呼びかけてきた。リシュリューは白濁が伝うクリスの内股へキスを仕掛けていたが、そのどこか悲愴な声に反応してぴたりと動きを止めた。
「どうした…?」
「僕……僕、ごめんなさい…」
「? 何故謝る……」
  訳が分からず首をかしげると、そんなリシュリューにクリスは両手で顔を隠したまま涙交じりの声で言った。
「僕は…初めてで……」
「ん……」
「こ、こんな…僕が、先にっ。ごめんなさい、ど…どうしたら……わから、なくてっ…。僕は…リシュリュー様に満足して頂きたいのにッ……」
「な…っ。だ、大丈夫だ、何も心配しなくていいっ」
  ついぶっきらぼうに怒鳴りつけてしまったが、リシュリューはクリスの台詞で余計にカッと血が上った。
  そんな可愛い事を言われたら、余計自制が利かなくなるじゃないか!
「…それよりもクリス、手をどけろ。きちんとお前の顔を見ていたい」
「でも僕……」
  努めて胸の高まりを抑えようと厳しい声を出すリシュリューに、対してクリスの方もその命令には承服しかねるのか、躊躇った仕草を見せた。
  顔を覆い隠す両手をすぐに除けようとしない。先刻もリシュリューから顔を背ける所作を取ったし、未だ自分の顔に自信がないようだ。
  リシュリューはさっと眉をひそめて強引にクリスの手を取った。
「あっ…」
「言っただろう。顔を隠すな」
「でも僕……僕なんかでは………」
「何を言っている。お前でなければ駄目だ。お前でなければ、俺は、こんなに…」
  既に昂ぶりを見せている自分のものを解放してやりたくて、リシュリューは自らも前を寛がせると暫し躊躇った後、服のポケットからジオットより無理矢理持たされた小瓶を取り出した。
  それは男性同士が身体を繋げる行為の際よく使われているという潤滑油だった。
(ジオットの思惑通りになったみたいで癪に障るが…)
  それでも初めてのクリスに辛い想いをさせるよりはいいと、リシュリューは素直にそれを使う事にした。既に裸に剥かれたクリスは全てをリシュリューの前に晒している。逸る気持ちを必死に抑え、湧き上がる昂揚を悟られまいと表情を硬くしながら、リシュリューはクリスの深奥の蕾に、小瓶から指先へと絡めた甘い香りのするそれを丁寧に塗りこんだ。
「あ…?」
「大丈夫だ…。最初だけだ、違和感があるのは。直、悦くなる」
「あ…あぁ…? 奥……あツっ…熱い、です…っ」
「痛いか?」
「あっ…ん…んんっ! はぁ、は……リシュリュー様…っ」
  ふるふるとかぶりを振るクリスのそれが返答だと解釈し、リシュリューは思わず緊張で硬くしていた頬を緩めた。
「クリスのここは…想像していた通りだ。可愛らしくて綺麗で…早く入りたい」
「リシュリュー様…あ、ああっ…」
  ぐりぐりと指を入れられてクリスは切ない声を上げた。リシュリューはそれでますます興奮し、更にクリスの両足を左右に開かせるとその間に己の身体を挟みこみ、いよいよだと自分のものをクリスのトロトロに濡れた蕾にあてがった。
「クリス…クリス…目を開けろ」
「リシュリュー様…」
  ぼんやりとした視線ながらきちんと言う事を聞いてきたクリスに、リシュリューは恍惚とした表情で告げた。
「今から入るぞ。いいな?」
「……はい」
「俺が好きか? クリス」
「はい……」
「…きちんと言葉で言ってくれ」
  けれどその答えを待つのも耐えられず、リシュリューは自分が訊いたくせにもうクリスの中へ己の雄をぐいと挿入し、その奥へ更に進入しようと腰を進めた。
「ひっ…! んぅ……はぁッ…あ、ぅん…ッ」
「クリス…クリス…もう少しだ…っ。いい子にしていろ……」
「リシュ……あ、あぁ―ッ」
  クリスの両足を胸につけるように折り曲げて、リシュリューは最後に一押しとばかりに更にずんと腰を進めた。
「いやあぁっ」
  クリスが初めて悲鳴のような声を上げた。ドキンとしてリシュリューが目を見張ると、クリスも自分の叫びに驚いたようで、すぐさま目を見開き、涙の潤んだ瞳でぱちぱちと瞬きをした。
  そうして頬を伝う涙も厭わずにリシュリューに謝罪する。
「ご…ごめんなさい。ごめんなさい、僕…っ」
「い…痛かったか…? クリス、大丈―…」
  けれどリシュリューが気遣うような言葉を投げ掛けるのを遮り、クリスはあがくように片腕を上げた。咄嗟にリシュリューがそれに指先を伸ばすと、クリスは泣きそうになりながらも何とか笑って見せた。
「僕…大丈夫です。痛くないです…」
「クリス……」
「リシュリュー様……ぼ、僕…大丈夫、です。リシュリュー様は…?」
「え…?」
  訊かれてリシュリューは殆ど反射的に頷き、慌ててクリスの太股にキスをして見せた。
「お前の中はとても気持ちがいいよ。最高だ」
「よかった…」
「………」
  心底安堵したようなクリスの表情に、不意にリシュリューもこみ上げるものがあって息を呑んだ。何だかよくは分からないが、気持ちが良くて、けれどそれ以上の何かが身体中を巡っている。クリスに対する愛しさが増す。一秒一秒それは時を刻む毎に高まっていって、そのせいで自分がどうにかなってしまうのではと思う程だった。
  クリスともっともっと深いところで繋がりたいと思った。
「クリス…そろそろ動くぞ。いいな?」
「……はい」
  震える唇で、けれどクリスはしっかりと返答した。
  リシュリューはそれを確認するとすぐに自らの腰を動かし、その動きを徐々に速めていくとクリスの身体を激しく揺さぶった。
「アァッ、アッ……リシュ……さまっ……あ…んんっ!」
「クリス…!」
  想像よりもクリスの中は締め付けてきて、リシュリューが動く度にきゅっと締まり気持ちが良かった。リシュリューは興奮したように激しく腰を打ちつけ続け、クリスが堪らず泣き始めたのにも関わらず何度も強く擦り付けて外へ出しては、また勢いよく奥へと己の楔を突き刺すという事を繰り返し、果て無くクリスの中へ己の精を注ぎこんだ。
  自制しなければと思ったのは最初の数分間くらいだ。
「あん、あぁっ…」
「クリス…クリス…」
「リシュリュー様…っ。あっ、あっ、あん…!」
「俺の、ものだ…! クリス…お前は、俺の…!」
  うわ言のようにそれを繰り返しながらリシュリューは幸せの絶頂にいた。クリスを手に入れるのはこんなに簡単だったのかとも思った。それならばもっと早くに告白しておけば良かった。もっと早くにこうしておけば良かった。
(けれどこれからは…いつでもこの身体を抱く事が出来る…)
  激しすぎる行為に殆ど気を飛ばしてしまったクリスに何度も口づけをし、リシュリューはその小さな身体をぎゅっと抱きしめた。まだ中に入っていたかったが、あまりに連続して精を注ぎこんだせいでクリスがぐったりしていたし、いい加減屋敷の人間が気づいても良い頃だった。
  今さらながら初めての行為を外で及んでしまった事に心内で焦りながら、それでもリシュリューは満足だった。冷たい床に背中を擦られてクリスの肌に赤みが差した事にも気づけない。クリスの涙の本当の意味にも気づけない。
  リシュリューは心底幸福な気分に酔いしれながら、最後にもう一度と言わんばかりの未練さでクリスの唇に吸い付くようなキスをした。


「リシュリュー様の大切な方の為に……僕は…お役に立てたでしょうか…」


  だから。
  クリスがリシュリューのベッドで目を覚まし、最初に言ったその言葉の意味を、リシュリューは全く理解する事が出来なかった。
「は……?」
  外は既に日が上り、部屋の外で慌しく使用人たちが働いている気配を感じる。リシュリューとて王宮に上がらなければならない時間だろう。
  それでも昨日の今日、ようやく念願を果たせたリシュリューはクリスを離したくなくて、身体を清めさせた後も自らの寝室に呼んで共に一晩を過ごしたのだ。今も嬉しさでクリスを後ろから抱き込んだまま項にキスをしている最中だった。
  その為、クリスの言葉にも全く頭がついていかなかった。
  リシュリューはここで初めて眉を寄せた。
「何を言っているんだ?」
「記念日を今日に延ばしたと仰っていたのは…まず練習をして…と思われたから、ですよね?」
「練習…?」
「僕はその為にこのお屋敷に来ました」
「…………」
  クリスの身体を離し、上体を起こす。するとクリスもそれに倣って、ゆっくりとだがリシュリューと同じように起き上がった。
  ベッドの上で2人は向かい合った。
「………ま、さか」
  それから数秒の事だ。リシュリューがクリスの言葉の意味をようやく理解し、顔を青くしたのは。
「お前……まさか……」
  両想いと思っていたのに、違った?
  クリスはリシュリューからの求めを、リシュリューが誰かに求婚する前段階の「練習として」してきたと勘違いしていたのだ。
  確かに「欲しい」と言った。けれどそれは身体だけが欲しかったのではない。
  クリスの全てが「愛しい」と、そうも言ったではないか!
「クリス…お前…!」
「僕は……これまで少しもリシュリュー様のお役に立てなくて…それが辛かったです。でも、最後に少しでもお役に立てたのなら…」
「最後!?」
  ボー然の次はぎょっとするリシュリューに、しかしクリスは淡々としていた。
「奥方様がいらっしゃるのに、僕のような存在が屋敷にいるわけにいかないです」
「クリス――」
「僕はお暇を頂きます。もしもリシュリュー様がお許し下さるのであれば、今日にでも」
「ここ…この、バカッ!」
  その叫びは恐らく屋敷中に轟いたであろう。けれどリシュリューとしてはそんな事を気に掛けている余裕はなかった。
  がつりとクリスの両肩を掴むと、まるで脅すように怒りの篭もった声をぶつける。
「さっきから黙って聞いていれば、お前は何を言っているんだッ!?」
「え……?」
「お、俺が! 俺が好きなのは!!」
  けれどリシュリューがそれを再度はっきりと告げようとクリスをガバリと押し倒して上に乗りかかった時、だ。

「よう晩生の甥っ子! ようやくだってな、おめでとうさん! 指輪、俺が持ってたぞ。ほれ、渡してやれ」

  突然ジオットが部屋に乱入してきて、今まさに「修羅場」の2人の前でニヤニヤとした顔のまま、指輪が入っているだろう小さな箱を掲げて見せる。
「いやぁ、さっき聞いたら、何か昨夜のうちに告ったんだって? あ、大丈夫、ナニしてたところは俺たちも遠慮して見てないからな? けど、大分長い間宮から出てこなかったってのは聞いてなあ、俺はお前がちゃんとクリスを満足させてやれているか、不安で仕方なかったよ」
「そ…そんな事、どうでもいい! 今この状況が見えないのか!? 出て行け!」
  最初こそ呆気に取られたものの、あまりに緊張感のないジオットの態度にリシュリューの忍耐の糸は完全に切れていた。クリスを押さえつけたままあらん限りの声で怒鳴りつけると、更に執事の名前も呼んでジオットを追い出せと激しく命令する。
  それでも全く動じないのがジオットだ。お前のその態度は予想がついていたとばかりに大袈裟にかぶりを振り、腕を組む。
「いやいや、そんなこったろうと思ったよ。一回ヤれたら見境なくなるタイプだと思ってたんだ、お前は。でもな、今日はもう駄目だぞ? 男同士の性行為はな、どうしたって下になる方に負担がいくのだから、クリスの事を思い遣るなら、第2ラウンドはもう少し日が経ってからにしろ。それより、ほれ、指輪。早く渡してやれよ」
「で……出て行け〜!!」
「指輪…?」
  絶叫するリシュリューに、反してクリスがそれで冷静になった。
  最初こそ寝室のベッドに2人いるところを見られて赤面していたものの、ジオットの発言が気に掛かったのだろう、手元の小さな箱に目を移す。
「くっ…」
  それでリシュリューも仕方なく腕を伸ばしてジオットからそれを奪い取り、そこから素早く指輪を出してクリスの前に掲げて見せた。
「リシュリュー様…? それは……」
「いいか…。これは、練習なんかじゃない」
  言い掛けているクリスを黙らせて、リシュリューは言い含めるようにゆっくりとした口調で告げた。
「この指輪も…お前が考えているような誰かの為に用意した物じゃない。これは…お前だけのものだ。その為に買ったんだ。俺はお前と……生涯の契りを結びたいんだ」
「……っ」
  はっと息を呑んだようなクリスの態度に、リシュリューはようやく意味が通じたとばかりにハアと息を吐いて脱力した。本当は行為に及ぶ前に伝えたかったのに。
「あれ、クリスに告げないまま押し倒したのか、お前?」
  傍でジオットが呑気な声でそんな事を訊く。リシュリューはそれにキッとした視線を向けた後、再び向き直ってクリスをゆっくり起こしてやった。
  それから強引に手を取ると、クリスの細い薬指に自分が持ってきた指輪を嵌める。
「……嫌だと言っても、もう決めたんだ」
  結局強引になってしまったと心内で舌打ちしながら、リシュリューは言った。
「お前が俺をどう思っていようと構わない。だが、俺はお前をここに一生置く。俺の傍から離さないと決めたんだ。…グレキアに旅行するくらいなら連れて行ってやってもいいが…間違っても、いつか俺への奉仕が終わって自由の身になれるなんて、考えない事だ」
「何言ってんだ、お前は?」
「煩い、貴様は黙っていろ!」
  事態が飲み込めずぽかんとしているジオットを怒鳴りつけた後、リシュリューは強気な目で、しかし内心ではびくびくとしながら、目の前にいるクリスを半ば睨み据えるように見つめやった。
「いいな、クリス?」
  そして。
「お前は俺の傍にいるんだ。ずっとだ。そして近いうちに婚儀も挙げる。もう決めてあるんだ」
「……僕なんか」
「お前じゃないと駄目だ」
  否定的な言葉を吐こうとするクリスを制してリシュリューは言った。
  そうなのだ。クリスでないと駄目なのだ。リシュリューが恋しているのは、愛しいと思える相手は、このクリス以外いないのだから。
「……っ」
  けれど、案の定、というか。
「あ…!」
「あーあ、泣かせちまった。お前のその鬼な言い方がいけないんだぜ」
  ジオットがやれやれという風に首を振った。見るとクリスは声を押し殺しながらもぽろぽろと涙を落として泣いており、時折小さな嗚咽をもらしながら何度もその涙を止めようと無理矢理目を擦り出した。
「ク、クリス…」
「そんなに無理矢理抱かれたのが嫌だったのか。可哀想に。いやらしそうだもんなあ、こいつ」
  ジオットは未だ状況が見えないのだろうか。依然としてのんびりとからかうような言葉を吐く。リシュリューがそれにガンと重い石を打ちつけられたようにショックを受けている事も分かっている、目の前でクリスが泣いているのも見えているくせに。
「貴様…!」
  けれどそんな叔父に何とか立ち直って抗議をしようと身体を浮かしかけたリシュリューに、クリスが嗚咽を漏らしながらも声を上げた。
「ちがっ……違います……。嫌、なんかじゃ…」
「クリス!?」
「僕…びっくりして…」
  ハッとして振り返ったが、しかしクリスはそれきりまた泣き出してしまい、ロクな言葉を出せなくなってしまった。
  リシュリューはオロオロとしながらそれをどうする事もできず、それでもクリスを離さないと言った事は曲げられなくて、ただぎゅっと手を握り、クリスが泣き止むのをひたすらに待った。
  これから何度でも言うしかない。クリスが納得して信じてくれるまで、何度でも。
  この恋は死しても冷める事がない。だから想いが伝わるまで貫くだけだ。それがもしもクリスにとって負担でも、今さら止める事は出来ない。
「クリス……好き、なんだ……」
  リシュリューはたどたどしくもそう言った。
  クリスはそれでますます泣いてしまい収拾がつかなくなったが、リシュリューはその間ずっとクリスの傍にいて手を握り、その肩を優しく抱き続けた。
  たったそれだけの接触も嬉しい。たとえ相手がこうして泣いていようとも。
「クリスが好きだ」
  リシュリューはクリスを抱きしめたまま何度も「好きだ」と繰り返した。これまではその一言を表に出すのに、あれだけ時間を掛けていたのに。
  これからは惜しむ事なく何度でも言おう。
「好きだ」
  心からそう告げて、リシュリューは指輪の光るクリスの指先にそっと口づけた。




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