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  リシュリューと並んで歩くことも緊張の連続だが、まさか見知らぬ場所に独り取り残されるとは思っていなかったので、クリスは内心かなり動揺した。
  共に建物内に入ったリシュリューだったが、案内の女官と少しだけ言葉を交わすと、突然クリスに「少し残っていた仕事を片付けてくるから、クリスは庭を案内してもらうといい」と実に何でもない風に言ったのだ。
  取り残されることを嫌だとは言えないし、リシュリューには大事な政務がある。そのことが常に頭にあったから咄嗟に頷けはしたが、心の中でぎょっとしたのも事実だ。
  初めて足を踏み入れた神官庁の建物は、やはり外観同様、そこに佇むクリスを否応もなく圧倒した。圧倒的な静寂。人の気配はそこかしこにあるのに、響くのはクリスの足音だけだ。自分が男だから不作法な歩き方なのだろうかと無駄に気になる。神官長も選ばれし神官たちもそこに務める役人も、従来は男性が多いと聞かされていたが、何故か姿が見えるのは女性ばかり。事前にイメージしていたものとは大分違う。いっそ修道女の住まう教会のようだ。

「こちらへ」

  リシュリューと別れた後は、最初に現れた女官が建物の奥まで案内してくれた。あまり目を合わせてはいけないかと伏し目がちに礼をし、クリスはおとなしくその者の後をついて歩いた。煌びやかな大理石の床で再びコツコツと足音が響く。同じように歩いているはずなのに、目前の女官は体重がないかのように静かに、そして軽やかに移動していく。そしてその女官は、確かにそこに在るはずなのに、どこか儚くも感じた。
  これが神に仕える人というものか。

「あ…」

  クリスがそんなことを考えているうちに、建物はやがて外へと通じ、女官が先導し開いてくれた扉の向こうには果ての見えない広々とした土地があった。そしてそこ一帯には、さざ波のように咲き乱れる白い花。ひたすらに白い。そして綿毛のように柔らかく見えた。それはこれまでクリスが単体でしか見たことのない、セラの花だった。

「すごい……」

  思わず感嘆の声を漏らすと、先刻まで全くの無表情だった女官は少しだけ微笑み、丘の上にそそり立つ一本の大樹を指し示した。否、というよりも白い花畑の向こう、その大樹の下にいる人を示したようだ。

「この庭園の管理を一任されていらっしゃいます、第1級神官のプレスティ様です。クロスウェル様がご来訪されることはすでにご承知ですから、どうぞ」
「え!? あ、あの…」
「こちらはプレスティ様がご案内されますので」
「だっ…」

  第1級神官と言えば、神官長に次ぐ位の高さで、祭儀の際は神からの宣託もする人である。クリスは度肝を抜かれて自然後ずさったが、女官は構わずさっと姿を消してしまった。もしかすると普段は中の人間すら容易に踏みこめない場所なのかもしれない。
  その場にたった独り取り残されて、クリスは暫し固まった。風は心地よく、見渡す一面の景色もそれは美しいものなのだが、緊張がピークに達している。そういえばヴァージバルに連れられて騎士団の控え所に行った際も、身体がこれと似たような状況になったと、クリスは過去のことを反芻した。違うことを考えていないとどうにかなってしまいそうだった。
  と、大樹の下に佇んでいた人物がふとこちらに視線を向けてきたのが分かった。そうしてクリスが「あ」と思ったと同時、その人物はへこりと頭を下げたかと思うと、足早にこちらへ近づいてきたのだ。
  クリスは焦った。

「ぼっ…私が!」

  向こうに気を遣わせて走って来させるなどとんでもない、咄嗟にそう思ったが、言葉と身体がその考えに追いつかない。たどたどしく声を発しながらクリスは足を動かしたが、驚くほどに速く走れなかった。動きたいのに動けない、夢の中にいるようだ。どうしてこんなことになったのだろう?そんな風にも思ったが、そうこうしているうち、花畑の真ん中よりやや建物寄りの場所で、クリスは走って来た相手と対面した。

「あ、あの…」
「…はあはあっ。失礼しました! クリストファー・クロスウェル様ですねっ。昨今、メディシス文官長とご婚約の儀を交わされた御方とお聞きしております!」
「はっ…はい! ですが、私のようなものに『様』などと! 畏れ多いです!」

  クリスが冷や汗を浮かべながらそう言うと、相手の青年―…と言って良いのか、とても若く見える…―は、不思議そうな顔で小首をかしげた。対面すると、思った以上に小柄な人だと分かる。最近になって背が伸び始めたクリスと同じくらいか、或いはそれより低い。第1級神官と言えば長く厳しい修行をこなし、神事に纏わる膨大な知識を備えた神に近い人として、その存在は殆どの国民に秘され、滅多なことでは表舞台に現れない。だからクリスはこうして間近で接するまで、もっと年老いた人を想像していた。しかしここまで駆けて来られた足取りは羽のように軽く、まるで少年のように若々しい。そして首筋までかかる透き通るような白髪と、それと同じ白を基調とした神官服をまとったその姿は、確かに神々しく、美しかった。

「畏れ多いのは私の方です。本日はクリストファー様にこちらの庭をご案内するよう、神官長から直々に仰せつかりました。大変光栄に思っております」
「そ、そんな…こちらこそ…突然…その…」

  あまりのことにクリスが言葉を失うと、「プレスティです」と、その美しい神官は名乗った。再びクリスに対して少しだけ不思議そうな顔を見せながら。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。私はアンジェリーノ・プレスティと申します。元は貧しき放浪民の出で、この名は神より賜りました。文官長殿の大切な御方なのですから、当然、私などより身分は上。どうかお顔をお上げ下さい。そして、許されるならば、私のことはリノとお呼び下さい」
「え……」
「神殿の者は私のことをアンジェ、もしくはリノと呼んでいます。長い名前は覚えにくいでしょう、ですからそのように頼んでいるのです。それがこちらの方達に浸透するまで5年かかりましたが。そして、個人的には後者の呼び名を好んでおります」

  リノはさらさらと淀みなくそう話してから、再び薄っすらと微笑んだ。クリスは密かにどきんと胸を鳴らした。おかしい。瞳を見ているだけで何やら猛烈に吸い寄せられる。確かにこの人は美しい、しかしそれだけではない、正体の分からない強烈な魅力。そして、とても心地よい気持ち。

「リノ様…」

  それでクリスがようやっとの思いで何とかそう発すると、リノと名乗った神官は心から嬉しそうに笑った。



To be continued…



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