―19―



  それからクリスは邸宅の庭にセラの花の種を植えて、神官リノが言ったように特別なことはしないまでも、心を込めて世話をした。これにより普段のバラ園の手入れと併せて、クリスが庭園にいる時間は格段に増えたのだが、それを誰が最も喜んだかと言えば、それは紛れもなく小竜だった。「小さな竜」とは言っても、人間からすれば巨体な体躯、鋭い牙や爪を持つ恐ろしい獣だ。…がしかし、その本来は凶暴なはずの獣は誰の目から見てもご機嫌な様子で、硬質のしっぽをゆらゆらと揺らしながら、また羽をはたはたと上下にはためかせながら、クリスが庭に出ている時はぴたりと傍について離れなかった。お陰でクリスがどこにいるかは一目瞭然だったが、ただ問題もあった。この現象に慣れている庭師はともかく、屋敷のメイドや他の使用人たちがクリスに一切近づけない。何せリシュリューの竜とは言っても、元は気性も荒く、誰にも懐いていなかったのだから、そう気安くは扱えない。従って彼らにしてみればクリスに茶を運ぶのも一苦労だし、クリスが自ら邸内に戻って来てくれるまで世話がままならないことも多くなった。

「クリス。屋敷に籠られても、それはそれで連中は気を揉むわけだが、今度は出過ぎだ。時間を区切って適宜中で休憩しろ」

  見かねたリシュリューが声をかけたのはそれから数日後のことだった。その日もクリスは朝にリシュリューを見送ってからずっと庭にいたようで、帽子を被っていたとは言え、綺麗な白い肌もさすがに日に焼けて薄黒くなっていた。傍に屈み込んだリシュリューがそれを咎めるようにして腕に触れてくると、自分の身体に無頓着なクリスもはたと気づいたようで、慌てて「ごめんなさいっ」と悲鳴のような声をあげた。何せクリスは、自分の容姿が嫌いで本来構いたくない性分とはいえ、一方で「リシュリューの婚約者」として「みっともない姿を晒してはいけない。不細工でもそれなりの手入れは心掛けるべきである」という戒めも強く持っていたものだから。

「皆さんから日除けのお薬を塗るようにと再三言って頂いていたのに、忘れていました。早くお庭に出て様子が見たくてそれで…! でもこんな…っ。申し訳ありません!」
「もう芽が出たのだな」

  謝るクリスをさらりと流してリシュリューは傍の花壇を見つめ、呟いた。柔らかく耕された土からすでに小さな緑色の芽が幾つも顔を出し、真っ直ぐ天を向いて伸びている。
  クリスもそうであればいいのにとリシュリューはちらりと思う。

「俺にはよく分からないが、こんなにも早く芽が出るものか? 育てにくい花なのだろう?」
「あ……いえ、難しいのは多分これからだと思います。もう少し大きくなったらこれより等間隔に植え直して、栄養を取り合わないようにしてあげて…」
「花が咲いたら、あそこの強欲神官長がやっていたように高値で売るか?」
「えっ」
「冗談だ」

  ふっと笑ってから、リシュリューは宥めるように優しくクリスの頭を撫でた。
  小さな子どもにされるようなそれにクリスは少し戸惑ったが、少し落ち着く。リシュリューは怒っていない。手入れを怠ったことを許してくれるようだ。ほっとして、すると今度は前から伝えたかった気持ちが首をもたげて、クリスは急いで口をついた。

「あの…もしもこの花が増えたら、裏手の山にも植え直しに行って良いですか?」
「裏手の? うちの庭だけでは足りないか?」
「そんなことはありませんが、元々この花は竜の主食だったとお聞きしたので、山で増えたら小竜たちも喜ぶかなと…」

  クリスの提案にリシュリューは少し困ったような顔をした。

「どうだろうな。そうだったのはもう大分前の話だったと聞いているし。あいつらが知らないものを口にするところは想像できないが…。まぁでも、クリスがそうしたいのなら構わない」
「ありがとうございます!」
「ただし、小竜の棲み処の辺りまでだぞ。奥まで行くのは危険だから、俺がいるならともかく、独りでは絶対に行くな。小竜の領域に行く時も必ず警備の人間を連れて行け。もちろん小竜も――まぁこいつは言わなくても、勝手にお前についていくから問題ないか」
≪グオオン!≫

  リシュリューが冷めた調子で言うのを、小竜は反対に勢いよく吼えて、意気揚々と尻尾をバシバシと地面に激しく叩きつけて見せた。クリスを守るのは自分の役目だと言わんばかりの態度だ。リシュリューとしてはそうしてクリスと小竜の仲睦まじい様子を見ると多少なり面白くない気持ちが湧かなくもない。…が、この、以前は得難い親友とすら思っていた小竜が、先日までそれはそれは恨みがましい眼で睨んできていたことを思えば―…、これも良しとしなければならないかとため息を飲み込む。
  クリスも楽しそうだし。

「やっぱりクリスはこういうことをしている時が一番楽しそうだな」

  だからリシュリューは思わずぽつりとその本心を漏らしたのだが、取り立てて悪気があったわけではない。嫌味を言ったつもりもない。

「すみません…!」

  しかしクリスはすぐさま謝ってしゅんとした。リシュリューはそれでまたがくりとしたのだが、懸命に表情には出さずにいた。何故謝る…そう思わずにはいられないが、クリスの落ち込む理由もよく分かっている。クリスが最も楽しそうにするのは、植物を育てたり、小竜と戯れている時などではない、リシュリューと一緒に居る時でなければならない、と。クリスはそう思っているのだ。当然、リシュリュー自身、そうなってくれるのが最も幸せには違いない。
  とは言え、そうでないのなら仕方がないではないか?
  ――…と、リシュリューは思うわけだが、やはりクリスはそうあっさりとは割り切れない難儀な性格の持ち主である。思わず漏れ出たリシュリューの本音には、明らか寂しさのようなものが混じっていた。それを感じてしまえば、「やはり自分は何という罰当たりなのか」と罵倒せずにはいられない。リシュリューにそんなことを思わせてはいけないのに。「クリスは花の世話をしている時が一番楽しい」などと。一番幸せな時は、リシュリューに求められている時間。そうでなければならないのに。

「クリス。この花が咲いたら、俺の所へ一番に持ってきてくれると嬉しい」

  だからまるで慰めるようにリシュリューがそう言ってくれた言葉も、クリスはただただ申し訳ないとしか思えなかった。



To be continued…



20


いつまでも不穏な2人…。悲劇の序章。