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  クリスがまた独りでどんよりと反省したその日、リシュリューの帰りが遅かった。誰もその理由を知らないとのことで邸内は暫しざわついたが、実際に帰ってきた時間は「とんでもなく遅い」というわけでもなく…。単に、クリスと婚約してからのリシュリューがやたらと早く帰ってきていただけで、よくよく振り返れば、今日のその戻りは、「昔の、いつもと同じくらいの帰宅時間」に過ぎなかった。

「すまない。心配させたか?」

  だからこそ、本人も特に自分の帰りが遅くなるということを誰にも告げなかったわけだが、クリスが暗い顔をしていたせいだろうか、リシュリューはふと気づいて申し訳なさそうな顔をした。ただ、クリスが慌てて首を振ると、リシュリューも今日は違うことに意識が向いていたからか、いつものように過度に婚約者を窺い見ることはせず、部屋の外へ視線をやりながら神妙な声で言った。

「少し時期外れだが、シエスタが子どもを産むようだ」
「えっ…」

  リシュリューの言葉にクリスは驚いて顔を上げた。それで自分も、こんな夜更けに見えるわけもないのに、窓の外向こうにある竜の棲み処へ目を向ける。
  シエスタはリシュリューが持つ竜の中ではナンバー2と目される若い雌竜である。実質裏手の山は彼女が支配していると言ってもよく、他の雄竜がちょっとした喧嘩をやらかしても、彼女の一声があればそれはたちどころに収まると言われている。従って、そんな女王のお産が近いとなれば、必然的に他の竜も落ち着かなくなるし、普段は効いている抑制も外れやすくなる恐れがある。

「あいつもピリピリしていて、俺ですら今は容易に近づけない。……クリスは最近もまだ裏手の山へはよく行くか?」
「あ…はい。セラの花をそちらへも移したので…小竜の棲み処までですけれど」
「ああ、そういう約束だったな。しかし、申し訳ないが、シエスタの出産が終わるまでは森に近づくこと自体、控えてくれないか。竜たちがクリスに何かすることはないだろうが、使用人たちは別だ。人の気配が増えると、今の時期、あいつらも気が荒れるだろうから」
「は、はい。分かりました」
「小竜のねぐらは、元々あいつらのテリトリーとは別の所にあるから問題ないとは思うんだが…、一応な」

  リシュリューはそう言いながら、ここでようやくクリスの尚浮かない表情を見ていろいろと勘ぐったようだ。困ったように身体を屈め、クリスの頭を撫でながら瞳を覗きこむように話しかける。

「植え替えた花は手がかかるのか? お前が毎日行かねば枯れてしまうか?」
「大丈夫です、すみません! 何でもないんです、大丈夫です。もう土にも馴染んでいますし、適度に雨さえ降ってくれれば毎日見なくても育ちます。元々高地に自生していた植物だったわけですし」
「だが、毎日花を見に行くこと自体、楽しみだったのだろう? 悪いな、俺が休みの日や、早く帰れた時などは一緒に行こう?」
「はい」
「だが一人では絶対に行くなよ? 例え小竜がついていたとしても絶対に駄目だ」
「分かりました」
「小竜と一緒にいると却って危険なくらいだ、あいつは他の竜たちと折り合いが悪いから」

  何度もしつこく念を押すリシュリューに、クリスもようやく笑みが浮かんだ。

「はい、分かっています。リシュリュー様のお許しなく、勝手に山へ行ったりはしません」
「……絶対だぞ?」
「はい」

  きっぱりと良い返事をするクリスに、リシュリューは暫し何事か言いたげな顔を向けた…が、結局それ以上の会話は生まれなかった。
  クリスは心の隅でちらりと、今日の出来事も話すべきかと迷った。つい、自分のモノでもないのに、セラの花やバラ園のものを使用人の娘の婚儀に贈ろうと考え、提案してしまったこと。特にセラの花はリシュリューへ1番に贈ると約束していたものなのに、何の考えもなく言ってしまった。
  ただ、仮にこのことを正直に告げ、謝ったところで、リシュリューはきっと、嫌な顔はしてもクリスを責めたりはしないだろう。確信の域でクリスはそう思う。庭園のバラとて、「あれはもうクリスのものだから」好きにすれば良いと言ってくれる可能性も高い。「僅かな嫉妬」はあっても、そもそもリシュリューは「身分の違う者に贈り物をする」という行為そのものに含むところを持つ人物ではないから。使用人たちは恐縮しきっていたけれど、セラの花以外のものを選べば特に何とも思わないのではないか、そんな風にも思う。
  それでも、やはり言わない方が良いだろうとクリスは思った。そういうことがあったと言って謝ることも、それで落ち込んでいるということも、きっとリシュリューが知ったら、さらに嫌な思いをするに違いないと思うからだ。
  リシュリューに隠し事など勿論したくない。しかし今は、それ以上にリシュリューに不快な思いをさせることの方がよほど嫌だとクリスは思うのだ。
  だから本当は毎日山へ行きたい、それがリシュリューも分かっていた通り、このところの1番の楽しみだったとしても……その想いを告げるわけにはいかないのだった。



To be continued…



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