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  小竜の「不機嫌さ」については、クリスもリシュリューに指摘される前から薄々感じていた。
  何せ、毎朝毎晩、或いは毎夕。要は四六時中と言って良いだろう、何かにつけて小竜は人気のない合間を見計らいつつ、クリスの、元は寝室だった場所の近くを低空飛行し、控えめな声で啼いていたから。元々リシュリュー以外の人間には近づかない竜だったため、あからさま大きな声で騒いだり、日中の時間に目立って飛ぶことはないのだが、それでも使用人の多くが小竜のそんな姿を認めては、これまで心を寄せることのなかった獣の健気さに胸を痛めた。何せ皆、気持ちは同じだったのだ。クリスがリシュリューのことを慮って屋敷に籠っているのは誰の目からも明らかであったし、確かに彼が外に出なければ出ない分だけ、先日のような「誘拐事件」が起こる可能性は低くなる、それは間違いない。クリスの安全はより保障される。だからクリスの行動にも口を挟めない。リシュリューの計らいもあり、警護の責任者をはじめ、あの時の番兵たちも引き続き屋敷を守る任に当たっているが、あれ以来、彼らの意識も各段に高くなった。屋敷を訪れる人々にもそのピリッとしたいっそ窮屈な空気は嫌でも感じられるところだ。けれども、そのことに関しても皆、納得している。誰もがリシュリューの逆鱗に触れたくないと思っているし、何よりクリスを守りたい。だからこそ、クリスがそれに協力する自衛行動にも理解を示せる。
  ……示せるのだけれど、ただ、「寂しい」と思う気持ちは止められない。
  そしてそのことを、あの竜は代弁しているのかもしれないと思うのだ。

「小竜の具合が…?」

  そんなある日、屋敷裏の森を管理する使用人を伴って、執事のシューマンがクリスの仕事場―地下書庫―へやってきて、そのことを告げた。森の管理人と言っても、せいぜいが周辺の木々や防壁、鉄柵の管理をする程度で、奥地の竜の棲み処へ通じる山まで足を踏み入れることはない。
  それでも他の者よりそこに通じている壮年の男性は、少し戸惑った風ながら恐る恐る口を開いた。

「どうにも、あんな悲痛な声は聴いたことがありません。ですが、あれは間違いなく、小竜のものです。他の竜は我々の住む近くに根城を持ちませんし」
「どこか怪我をしたとか…?」

  クリスは心配そうにその不安を口にしたが、使用人は頼りなげにゆるりと首を振った。

「分かりません。子飼いとは言え、小竜は他の竜と比べても狂暴で、我々は一度として彼の怪我や病気を診たことがないのです。というより、あの竜が病気をしたところも見たことがありませんし」
「竜の生体については、都の高名な獣医師ですら、分かっていないことが殆どだと申しておりました。この国で竜について最もお詳しいのは、リシュリュー様以外いらっしゃらないかと存じます」

  シューマンの説明にクリスは頷きながらも困ったように俯いた。

「そうなのですか…。でも、リシュリュー様は登城されていらっしゃるし、まさか不確かなことでお知らせに上がるわけにもいかないですよね?」
「いえ、小竜に関して何かあれば、どんな些細なことでもすぐに知らせに上がるようにとは、常々我等も仰せつかっておりましたので、すでに早馬を向かわせてはおります」
「そうなんですか!?」
「はい。ですが、このことはクリス様にもお知らせさせて頂いた方がよろしいかと存じまして」
「………」

  シューマンの何事か言いたげな視線に、思わずクリスは口を閉ざした。隣に立つ森の管理人もそわそわと落ち着かない様子だが、明らかクリスに「期待」の眼差しを向けている。そして遂に堪えきれなくなったのか、「根城の近くまででしたら、私もご案内させて頂きます」まで言い出した。
  クリスが竜の森に入ることはリシュリューから禁じられているが、小竜の活動範囲だけは別だった。その辺りはここにいる管理人も足繁く通う所ではあったし、防壁の内側でもあったから。そもそも、裏手の森に棲む竜たちはいずれもリシュリューに下っていて、人の領地を侵すことがないよう完璧に躾けられている。しかもクリス自身、リシュリューと一緒ながら小竜以外の竜とはすでに面識があり、そのいずれの竜もクリスとは心を通わせているため、仮に防壁の外側である森に足を踏み入れたとしても、際立った危険があるとは思えない。
  そうであるから、小竜の悲痛な声が聞こえてきたという件について、森の管理人やシューマンがクリスを頼って、クリスに様子を見て欲しいと頼むことは、別段間違いではないのかもしれない。これまでであれば。
  というよりも、彼らは親切で教えてきていると言える。何せクリスと小竜は、誰が見ても他の人々や竜たちとは違う、何とも言えない強い絆で結ばれている「友人同士」だったから。

「リシュリュー様も、小竜のことは気にしておいて欲しいとクリス様に仰っていたかと記憶しておりまして」

  シューマンが後押しするようにそう言った。そうなるともうクリスもじっとしてはいられなかった。行くとも、案内してくれと言うことも忘れて、クリスはもう入口へ向かう階段を駆け上がっていた。
  背後の2人がそれにほっとしたことに、クリスは気がつかなかった。



To be continued…