天駆ける青の竜(前編)



(何だろう…。今日は外が騒がしい…?)

  屋敷の庭園の一つを手入れしていたクリスは、ふと、いつもとは違うその「雰囲気」に気が付いて立ち上がり、表門の方へ視線を向けた。
  特に誰が来るという気配もない。気のせいかと思い直して、クリスは自分の様子を気にかけて声を掛けてきた庭師に「何でもないです」と微笑んでみせた。今日は朝から天気が良く、おまけに休息日だから街で花火でも上げたのかもしれない。都から少し離れたこの屋敷から街の様子が分かることは少ないが、何らかの祝い事やお祭り、城の竜騎士たちが遠方へ出ていく時などは、国の花火師が昼間でも大きな飾りを打ち上げる。それは時折、この喧噪から外れた場所からも垣間見ることができた。

(そういえば…。最近、マーサさんと会っていない)

  都に想いを馳せたことで、クリスはその街の一角に花屋を構える若店主――元はメディシス家の遠縁にあたるらしい――娘のことを思い出した。クリスの預かり知らぬところで結婚式の準備が進められていた頃は、彼女も頻繁に屋敷を出入りしていたし、その度クリスとも楽しく話をしてくれたが、この頃はあの明るい顔を見かけていない。リシュリューが「クリスの気持ちが定まるまで待つ」と言ったこと、突然「お前たちの結婚に賛成したくなくなった」と言い出した叔父ジオットの言もあり、今すぐにでも行われるかと思われた結婚式の計画は、あっさりと白紙に戻された。そのせいで、最近は街の宝石商も衣装屋も、そしてマーサも、この屋敷を訪れることがなくなってしまったのだ。
  もっとも、それは「余計な人間とクリスを会わせたくない」というリシュリューの差し金もあったのだが。
「クリス様。そろそろ休まれて下さい。もう随分とこちらにお出ででいらっしゃいますから…」
「……あっ。そうでしたね、ごめんなさい」
  クリスが慌てて謝ると、それを受けた目前の庭師はより恐縮して頭を下げた。彼としてもクリスがここに居たいというなら気の済むまで、それこそ別に働かずとも、花を眺めるだけでも居てもらって構わないのだ。クリスが望んでもいないのに頻繁に休憩を勧めることは、彼の本意ではない。それでも時計を見て「それ」を告げることは、最早彼の欠かせない義務の一つであった。
  クリスにもそれはよく分かっているので、庭師の迷惑にならぬよう、手伝わせてもらったことに礼を言って道具を返し、そそくさとその場を離れた。クリスが庭師と花の世話をすることはリシュリューも許してくれているが、長く「労働」すること、そして長くリシュリュー以外の人間と共に在ることが好まれていないことは、この屋敷にいる者ならば全員が理解していることだった。
  だから、主であるリシュリューの気持ちを汲み、クリスは一人で街へ行くこともしないし、屋敷の中であっても、心から自由に好き勝手振る舞うこともしない。

(あれ…また…?)

  ただ屋敷へ入る前に、クリスはもう一度気になった表門の方を見ておこうとそちらへ向かい、再度そこで「いつもとは違う」何かを感じ、立ち止まった。
  何だろう。しかしやはり、誰もいない。むしろ静かなくらいだし、街の方で何か大きな催事があるような音も聞こえない。
  クリスは門の前に佇み、にも関わらず「このざわつく感じ」は何だろうと首をかしげた。
  それでも、そこで門の外まで出て、その何かを探ろうとは思わない。
  数日前、クリスはリシュリューから、「休みをやるから好きなことを何でもやったらいい」と言われた。リシュリューとしては、それでクリスから帰郷や街へ出かける等の希望が出るかと思ったらしいが、クリスはそれらを全て断った。外へ出る気はないし、リシュリューが望む限りは、極力リシュリューの傍にいると約束した。別に強要されて言ったわけではない、本当にそうしたいと思ったからそう告げたのだ。
  リシュリューはそのことをとても喜んでくれた。それがクリスにも喜びだった。
  だから。

「何となんと。驚かせてやろうと忍んできたのに、気づかれてしまうとは」
「……え」
「それとも、ただの偶然かな?」

  気づかなかった。
  クリスは驚き、思わず一歩後退した。たった今まで、目の前には誰もいなかったはずだ。そもそも屋敷には常に警備を担当する使用人がいて、街からの来訪者がいた場合、この表門に至る前――メディシス家の敷地に入る直前の場所――で、彼らはその者に訪問の目的を訊ね、それ次第でここまでの案内役をも務める。
  しかしその場に現れたのはたった一人の、高貴な姿をした貴婦人だった。一目で貴族の出自だと分かる。……言葉遣いこそ、どことなく荒いけれど。

「あ、あの…」
「話に聞いていた通りの見た目だ。お前はクリストファー・クロスウェルだろう。リシュリューが見初めた、今はあの男の婚約者」

  貴婦人は手にした薔薇色の派手な飾りのついた扇子を口元にやったまま、実に横柄な口調でそう言った。クリスは咄嗟に頷き、それから慌てて跪いた。誰かは分からぬまでも、リシュリューの知人であるなら失礼があってはいけない。地面を見つめると、自然、婦人の長く煌びやかなドレスの裾が目に入った。今すぐにでも夜会へ参加できそうな派手さである。そして、ツンと鼻をつく香水の匂いがクリスに仄かな緊張を与えた。

「クリストファーとは何とも言い難いので、クリスと呼ぼう。どうせリシュリューもそう呼んでいるのだろう?」
「は…はい…」
「それと、そのように畏まる必要はないよ。今日はお前の顔を見に来たのだから、そのような格好をされると、お前の黒い頭しか見えない」
「…はい」

  貴婦人が言うままに、クリスはそろりと顔を上げた。「立て」とも言われたのでその通りにした。クリスはこの屋敷に来て大分背が伸びたが、目前の婦人の方が頭一つ分以上高い。自然見上げることになったが、白い帽子の中から見える鋭く細いブラウンの両目は、どこか楽し気にクリスのことを見下ろしていた。
  美人だけれど、どことなく厳しそうだ。そして、数度しか会っていないが印象の強いリシュリューの母君に面差しが少し似ている気がした。

「まだ名乗っていなかったね。私はカミラ・ベルタ。ファーストネームがカミラで、セカンドネームがベルタだ。どちらでも好きな方を呼んでいいが、家の名前は野暮ったくて好きではないから、教えない」
「はい…。では、カミラ様…」
「うん、いいね。クリス、私はリシュリューの古くからの知り合いだ。だが、誤解しないでもらいたいのだが、古くから知っているからと言って、友人関係とか特別親しいとかいった間柄ではない。むしろ仲は悪い方だと言っていい。だから、折角の休息日にまで会いたくはないし、あいつも私には会いたくなかろうと思って、奴の留守を見計らってやって来た。あいつが今日、城に上がっていることは知っている」
「え…あ、あの…」

  クリスは少し警戒した。女性を、ましてやリシュリューの知己だと名乗る人物だし、そのように思うこと自体失礼にあたると頭では理解していたが、一方でこのカミラと名乗る婦人はリシュリューに好意を抱いていないようだ。しかもどうやったかは分からないが、恐らくは門を護る警護人にも気づかれないようここまで来た。それだけで、言っては悪いがとても「怪しい」。果たして言葉を交わしても良いものか。それすらもクリスは戸惑った。
  しかしカミラはクリスのそんな惑いを容易に読み取って口元を緩めた。

「そのように怯えなくても良いよ。私はお前の味方だ、クリス。むしろお前が望むなら、 このような暗く悲惨なリシュリューの檻から逃がしてやってもいい」
「えっ…?」
「この世に嘆くことは多々あれど、唯一の救いは、奴が極度の女嫌いで、常々結婚する気はないと公言していたことだ。ただ、腐ってもメディシス家の当主だからね、愛などなくても構わぬと、奴に輿入れを望む者は多かった。であるから私は、もしも本当に誰かがあいつの生贄になることがあったら、その時は全力で阻止しようと決めていたのだ」
「あ、あの……」
「そうしたら、何とクリス。奴はお前と結婚すると言う。確かに、嫌いな女ではなく、男をというのなら、なるほど合点がいくと目から鱗だったが…。今、お前を見てはっきりと分かったよ。相手が男だ女だは、関係ない。あいつに下る者は誰であれ憐れだ。私が救ってやらなければ、と」
「ぼ…私は、自分を憐れなどとは思っておりません」
「何故? まさかとは思うが、リシュリューを愛しているとでも言うのかい?」
「……!」

  カミラの好奇の目とぶつかって、クリスは思い切りたじろいだ。「愛しているのか」という質問そのものに戸惑っていた。それはリシュリューが何度も望み、クリスも重々それを分かっていながら、なかなか口にできない言葉。
  リシュリューを好きでないわけはないのに。
  クリスとて、リシュリューとの結婚は望んでいる……はずなのに。

「……いつまでもここで立ち話をしていると、屋敷の者が私に気づくな」

  カミラがそう言って、ぱちりと開いていた扇子を閉じた。それにクリスがぎくりとして瞬くと、彼女はふと口元に柔らかな笑顔を閃かせた後、「私と来ないか?」といとも軽い口調で言った。

「ま、参りません…」

  それにクリスは咄嗟に断った。何を言われているかも分からないが、「来い」と言われて「はい」とは言えない。彼女がリシュリューの知己だという証拠はない。それに彼女はさきほどリシュリューがいるこの場所を「暗く悲惨な檻」と言った。そのように言い放つ人間からついてこいと言われて、はいと従えるわけもない。
  しかしカミラは納得しない。
 
「何故? 私と来た方がクリスは幸せだと思うぞ。あの男は横柄だし、自分勝手だし、そう…全体的に、性格が歪んでいる。違うか?」
「リシュリュー様は素晴らしい御方です」
「……なるほど。クリスにはそう見えるのか」

  暫し考える風のカミラは、しかし不意にドレスの裾を掴むと、がばりとそれを取り払った。クリスはそれにぎょっとし、慌てて顔を背けたが、目の端に見えた鋼色の物にまた驚き、思わずカミラを見上げて――ボー然とした。
  先ほどまで華麗なドレスを身に纏っていた彼女は、その下に何とも頑強に見える戦士服を着ていたのだ。

「貴女は…」
「休息日は極力女性の格好をするよう努めているが、ここへ来るからには何かあってはいけないと武装していた」

  帽子も、耳や首につけていた宝石飾りも取り払うと、カミラはこちらの方が着慣れていると言わんばかりの清々とした様子で不敵に笑った。陽にあたってオレンジ色に輝く長い巻き髪が惜しげもなく風に揺蕩う。それをクリスは「綺麗だ」と思ったが、呑気にそんな感想を浮かべている余裕が自分にないことはすぐに分かった。
  カミラは身に着けていた装飾具を全く気にせず地面にバラバラと落とした後、「クリス!」と如何にも勇ましく呼び、ぐいと身体を折り曲げて目を合わせてきた。
  そして言った。

「君はリシュリューのことを知らなすぎる。それはそうだろう、こんな所に閉じ込められて、君はあいつの外の顔を知らないのだから。それで結婚など片腹痛い。互いのことをよく知ってこそ、生涯の契りも結べるというものだ。そうではないか?」
「で、でも僕は…」
「でもじゃない。私がそうだと言ったらそうなのだ。ジオット卿が婚儀を延期すると仰った時は私も一筋の光明を見た。しかしあいつは城においてお前に対する情報を一切漏らそうとしないし、我等にお前を見せることも異常に忌避する。それもそのはず、あいつは怖いのだ。我等と君とを出会わせて、己の悪たる正体を君に知られるのがね。無論、親切な私はそんな偽りの愛では長続きしないと助言してやったのだが、これが見事に逆上された。お前にだけは絶対クリスと会わせないとまで宣われた。紹介されるまでと、こちらだって待っていてやったというのに、とんでもないことだ。それで私も辛抱の糸が切れて、こうしてやって来たというわけさ」
「カミラ様は…? もしや王宮の…」

  クリスがハッとして問いかけると、婦人――今や屈強の戦士にしか見えない――女騎士・カミラは、「そうだ」ととても良いことを思いついたという風にポンと手を叩いた。

「そう、そうだ。今からクリスを王宮へ連れて行ってやろう。まさに丁度、奴も不平不満を零しながら仕事をしている最中だから、クリスにあいつの醜さを見せつけてやれる。そうだ、そうしよう」
「えっ、ちょっ…ダメです、そんな…!」
「何がダメなものか。私以外の文官・武官たちも、皆お前の顔を一目見たいと思っているのだ。何より、王がそれを望んでいるのに、それすら無碍にするとは、あの無礼極まりない俺様男は全くもって考えられん」
「お、王様が…!? な、尚のこと僕は…!」
「アガーテ!」
『グオオ…ッ』

  慌てふためくクリスに、カミラは全く構わない。物凄い勢いでクリスを抱えこむと、彼女は実によく通る大声で空に向かって叫び、恐らくは上空に控えていたのであろう、颯爽と現れた薄青の皮を纏った竜に微笑みかけ、得意気に言った。

「私の愛竜アガーテだ。彼女に乗って行けば王宮まですぐだ。あまり目立つとリシュリューにすぐ分かってしまうだろうから手前で降りてもらうが…そうと決まればすぐに向かうとしよう」
「カミラ様! 王宮など困ります!」
「困るものか。私に全て任せておけ」
「そのような勝手をしては、リシュリュー様からお叱りを受けます…!」

  必死のクリスに、カミラはただ愉快だと言わんばかりの顔で悠々と頷いた。

「それでお前たちの仲が気まずくなるなら、尚のことよし。もう暴れるのはやめなさい、私を止めることはできないよ。諦めて私の胸に抱かれていれば良い」

  休息日だから、それとも最初は婦人の格好だったからか……この時のカミラは剣を携行していなかったが、名のある武官であろうことは、その動きを見れば最早一目瞭然であった。彼女は筋肉質な長身とその怪力で暴れるクリスを押さえつけ、そのまま自分たちの元へ頭を垂れてきた竜の手綱を取ると、その背にがばりと跨った。痩身とは言え、男性であるクリスを抱えて巨大な竜の背に一瞬で騎乗するなど並大抵の筋力ではない。その身軽さも見事なら、一筋の迷いもないその行動力に、クリスはただ度肝を抜かれてしまった。
  どうすることも出来ない。しかしリシュリューに無断で屋敷の外へ出るなど。ましてや、リシュリューが望まぬ場所へ向かうなどと、許されることではない。
  それでも蒼褪めるクリスにできることはなかった。カミラに抱きかかえられた格好のまま初めて竜の背に乗り空を舞い――クリスはリシュリューのいる王宮へと、問答無用に運ばれた。




中編へ…