天駆ける青の竜(中編)



  クリスはもともと都から数十キロ離れた先の郊外出身者だが、王宮へは以前に一度だけ足を運んだことがある。クリスが通っていたアカデミアは、オーリエンス国内で五指に入る歴史と実績を持つ高名な学び舎だったから、毎年、国王から、王宮騎士らが参加する剣技会への招待を受けていたのだ。
  その縁で、クリスも一度だけ王宮と隣接する剣技会場で騎士らの戦いを見学したことがあった。あくまでも国民に魅せる演武の域を出ない祭りであるから、真剣ではなく、模造剣による競技会だったが、これがどうして、とても迫力があった。もともとクリスが所属するアカデミアの生徒は、王宮の兵士や官吏を目指す者が多く、彼らに対する尊敬や憧れの念も強いのだが、そうしたものを差し引いても、騎士らの雄姿は青少年らの胸を熱くするには十分なものがあった。
  またクリスの場合は、「もう二度とこの様な素晴らしい光景を見ることはないだろう」との感慨もあって、王宮や剣技会を見学できたことはかなり美しい思い出としてしまわれた。
  その恐らくは「一生の思い出」と思しき大切な場所へ、まさかこうした形で再び訪れることがあろうとは。

「カミラ様…! 本当に困ります!」
「存外お前もしつこいな。しかしもう、着いてしまった」

  愛竜に、王宮を取り囲む壁が間近に見える裏手の森へ降りるよう命じたカミラは、未だ蒼白のクリスを呆れたように見つめやった。

「ここからは歩いて行こう。表門から入ってもいいのだが、門兵たちが騒いでリシュリューに気づかれるのは面倒だから。竜騎士団の控え所へ通じる扉から中へ入る」
「………」
「お。ようやく諦めてくれたか?」

  竜を降りたクリスが何も発しないのを見て、カミラは嬉しそうに笑った。
  クリスは預かり知らぬことだが、このカミラという女性は「リシュリューの女性版」とでもいうべき人物で、周囲には相当な男嫌いで通っていた。であるから、クリスがリシュリューの婚約者という同情すべき相手だったとしても、男というだけで「救出」する意欲は半減であり、ましてや当の本人から迷惑そうにされれば不快な気持ちも増してしまう。ジオットからは「おとなしくて健気な良い子」と聞かされていたから会うのを楽しみにしていた彼女だが、クリスが想像以上にリシュリューを慕っているようなのも面白くなかった。
  だから静かになってくれるのであれば、それに越したことはない。

「ありがとう…」
「ん…」

  そのクリスはというと、未だ冷や汗を掻いた状態でカミラの愛竜に礼を言っていた。高さのある巨大竜から降りる際、すでに相当憔悴していたようだが、それでも、ここまで自分を乗せてくれた竜に感謝することは忘れなかったらしい。…別に頼んで連れてきてもらったわけでもないけれど。

『クルオォ…』

  アガーテは暫しそんなクリスのことを見下ろしていたが、ゆったりとした瞳がやがて静かに窄められ、彼女は主であるカミラですらめったに聴かない甘え声で一声鳴いた。
  そうして頭を垂れ、クリスに己の鼻筋を撫でてくれと言う、人に慣れた竜がよくやる親愛のポーズをとった。
  カミラは顔にこそ出さなかったが、その光景にはやはり率直に驚いた。

「ジオット卿から伺っていたとは言え……王以外で、このような芸当が可能な人間が本当にいるとはな」
「え」
「君は竜と心を通わせることができるらしい」
「あっ…いいえ!」

  クリスはカミラの言葉に慌ててアガーテから手を放した。無論、アガーテはそれに不服と鼻を鳴らしたのだが、カミラが目だけで「黙れ」と制すと、爪で地面をかきながらもすぐに黙った。賢い竜だった。
  カミラはそれを認めてから、一歩クリスに近づいた。

「竜の背に乗るのはこれで何度目だ」
「初めてです…」
「初めて?」

  その答えにカミラは眉をひそめてから顎先に手を当て「それはおかしい」と首をかしげた。

「ジオット卿から、君はリシュリューの所の竜たちとも随分親しいと聞いた。あの片翼に障害のある小さな、しかし大層狂暴な竜とも友達だとね。そんな君が、これまで竜に騎乗したことが一度もないと?」
「ありません。リシュリュー様の竜に私が騎乗するなどと…」
「……なるほど。あいつはそうまでして君を自分以外の者とは近づけたくない、ということだな。それが例え人ではない、竜であっても」

  カミラの言葉にクリスはすっかり困ったようになり、沈黙した。小さい。カミラはクリスの姿をまじまじと見つめ、改めてそう思った。すでにアカデミアを卒業する年で、成人にもあと少しで手の届く年齢というが、とてもそうは見受けられない。家柄も、一応は二等級貴族の出というが、何やらみすぼらしい作業服に身を包んでいるし、おまけに異国人としか思えないこの見た目。オーリエンスは外貌で人を露骨に差別する向きを軽蔑する風潮にあるが、信仰上、彼の漆黒を生理的に受け付けない人間が少なからず存在するのも事実だった。
  つまり、カミラ個人は一向に構わないし気にしないが、「国の要人」という肩書を持ったリシュリュー・メディシスの婚約者としては、この目前の青年は如何にも役不足という感が否めなかった。
  ただ一点、しかしその大きな「強み」を除けば。

「クリス。もう一度、我がアガーテを撫でてやってはもらえないだろうか」
「えっ…。よろしいのですか」

  不意にそんなことを言い出すカミラに、クリスは驚いて顔を上げた。先ほどまで値踏みするようにジロジロと見つめられて窮屈だったのだろう、すっかり意気消沈しているように見えたが、竜のことを言われて生気が戻っている。カミラは何故かその表情に自分もほっとするのを感じて、大きく頷いた。

「ああ、お願いしたい。でなければ私がアガーテに嫌われてしまう。どう見ても彼女は、まだ君に構ってもらいたそうだから」
「あ、ありがとうございます!」

  クリスがやっと嬉しそうに笑った。もっとアガーテに触れたいと思っていたのはクリスも同じようだ。躊躇いもなく近づくと、クリスは再度、露骨に喜ぶ竜の鼻先に触れ、「綺麗だね」とごく自然に声をかけた。
  自分の竜を誉められて、カミラも悪い気はしなかった。

「アガーテはこの国一番の美竜だよ。強さではリシュリューの蒼竜には敵わないが、別段、戦を必要としていない本国においては、見た目こそが重要さ。あまり大きな声では言えないが、王の竜にも引けを取らないのだよ、アガーテのこの美しく輝く青の鱗は」
「本当に美しいです。滑らかで…キラキラして。僕、竜のことはリシュリュー様のお屋敷へきて初めて拝見したんです。文献で見て知ってはいても、やはり実物とはまるで違います。こんなにも大きくて美しいなんて」

  少し気を許し始めたのか、くだけた様子になったのが嬉しく、カミラも一緒になってアガーテの背を撫でた。

「そうだろう。そしてオーリエンスは、この奇跡の生物である竜に世界一愛されし豊穣国。さらに、その竜において最も強く美しい蒼竜が多く生息する土地なのだ。我が国の騎士団が世界随一の強さを誇れるのも彼らのお陰だ」

「……あの。もしやカミラ様は竜騎士団の――」
「カミラ」

  しかしクリスがはっとした瞬間、背後から声を掛けてくる者がいて、その問いは遮断された。
  2人の前に現れたのは、恐らく王宮からやってきたのであろう、こちらは間違いなく竜騎士団に所属していると思しき姿をした、壮年の男性騎士だった。

「こんな所で何をしている」
「おう、オーレンか。貴様こそどうした、警護に来るにはまだ早い時分だろう」

  カミラはクリスとは違い、全く驚く風もなくオーレンと呼んだ男を顧みた。長身で頑強そうな体躯の、端麗な容姿をした人物である。ただ一方で、その風貌にはどこか翳りがあり、茶系の髪に白髪の混じったその見た目は、カミラより大分年上に見えた。話しぶりからすると位はカミラの方が高いのかもしれないが、彼女の性格を加味すると、一見しただけで2人の関係性は測りかねた。
  実際、オーレンはカミラの口ぶりにも慣れた様子で、ひたすら淡々としている。

「兵舎の竜たちがざわついていたので、気配のおかしな方を探りに来たのだ。お前のその、殺気だけ垂れ流して気配を曖昧にする妙な癖はやめろ。人間には分かりにくいが、他の生き物にとっては、お前のような存在は不気味でしかない」

  相手の冷淡な言い様に、しかしカミラは酷薄な笑みを浮かべた。

「何を、人を化け物のように。怪しさで言ったら貴様こそ人のことは言えんだろう」

  ああそれより、と。
  カミラは片手を広げてクリスを指し示すと、自慢気な様子で揚々と告げた。

「紹介しなければな。こちらはクリス。正式名称はクリストファー・クロスウェルだ。あのクリストファーだぞ、何と私がアガーテに乗せてここまで彼を連れてきてやったのだ」
「クリストファー…?」

  怪訝な顔でクリスを見やったオーレンは、やがてその名に思い当たったのだろう、先ほどまでの仏頂面を初めてぎょっとしたものに変えて声を高めた。

「まさかあの、文官長殿の……婚約者の!?」
「まさに、そのクリストファーだ。どうだ、さしもの貴様も驚いたであろう? それでクリス、この男はオーレン。オーレン・ベルツだ。オーリエンス竜騎士団第四師団の隊長をしている。真面目で面白味のない男だが、仕事は、まぁできる方だ」
「おいカミラ――」
「うーむ、しかし。これは思った以上に面白いぞ、普段大して動じることのない貴様にも、そんな顔をさせることができるとは。これは是非とも、他の竜騎士団の連中にもクリスを紹介していかないと!」
「カ、カミラ様…」
「いやちょっと待て、カミラ。お前、これは文官長殿の許可を得てやっていることか」

  戸惑うクリスの声をかき消して問うオーレンに、カミラは面白くなさそうな渋い顔で肩を竦めた。

「やっているわけなかろう。あいつが、私にだけはクリスに会わせないなどとふざけたことを言うから、私も我慢の限界が来て、今日自ら奴の屋敷へ行ったわけだ。そうしたらやはりと言うかで、クリスもリシュリューの王宮での働きぶりをぜひ見てみたいという。それはそうだろう、ずっとあのような檻に閉じ込められたまま強引に婚約までさせられて、クリスは奴の正体を何も知らないままなのだから。それでいて『リシュリュー様は立派な御方』などとほざくクリスもどうかと思うが…。とにかく、そんな勘違いをしたままに結婚など、許されるわけがない」

  殆ど息も継がぬままそう言い切ったカミラを、その場にいるクリス、オーレン、そしてアガーテは半ばボー然とした様子で聞き入っていた。無論、クリス以外の「2人」はそんな彼女の性質をよく知っているので、呆れ半分、慣れ半分というところもあったが。
  暫ししんと静まり返ったその冷たい空気を、恐らくはまともな人間なのであろう、オーレンが突き破った。

「……よく分かった。つまりこれはお前の勝手な一存でやらかしていることなのだな? いやもう何も言うな、クロスウェル様のお顔を拝見すれば分かることだ。大方、強引にここまでお連れしたのだろう、全くとんでもない…」
「何がとんでもないだ、私はクリスの為に」
「それと、先刻から文官長殿の大切な御方に、無礼な口を利くのじゃない」
「や、やめて下さい、僕はそんな大層な人間じゃありませんから…ッ」

  オーレンのへり下った態度にこそ苦痛を感じ、クリスは思い余って声を上げた。これにはオーレンと、ついでにカミラも驚いたような顔を見せたが、クリスはそれに赤面しつつもやはり止められず、地面に向かって先を続けた。

「リシュリュー様がご立派な御方であることに間違いはありませんが、僕…いえ私自身は、そのように仰って頂けるような人間ではありませんから…」
「しかし…」
「ふむ! リシュリューが立派うんぬんという部分は賛同しかねるが、クリスが言いたいことも分からないではない」

  オーレンが言いかけた言葉を、今度はカミラが遮った。

「何故って、見ろ、オーレン。クリスのこの格好。どこをどう見ても屋敷の使用人だ。それもそのはず、元はそのつもりで屋敷に上がった奉公人なのだ、クリスは。父親がごく潰しで、多額の借金を抱えた挙句、貴族の位も剥奪されかけたのをジオット卿に泣きついて助けてもらったらしい。その縁でクリスがリシュリューの屋敷で働くことになったのだとか。そうだろう、クリス?」
「…はい。その通りです」

  カミラは事実をクリスに確認しただけだ。それだけなのに、しかしクリスは、自分がそのことにショックを受けていることを自覚し、そのことにこそ衝撃を受けた。
  思えば、「あの」リシュリュー・メディシスが結婚相手を決めたとして、一時、都は大騒ぎとなり、またそのことは大歓声と共に受け入れられたというが…、一体「自分」――クリストファー・クロスウェルという人物――のことは、人々にどこまで知らされているのだろうか。
  そのことを、その不安を、今この時、改めて突き付けられたような気がした。

「つまり、だな」

  そうとも知らず、カミラはマイペースに話を進めていた。

「身分だの見た目だの、そうしたことはくだらないと我々は思うわけだが、クリスとしては憐れな生い立ちのせいで卑屈な奴隷根性が染みついているが故に、オーレンのような態度を取られると却って苦痛を感じるというわけだ。そうだな、クリス?」
「…はい」
「だ、そうだ。だからお前も、クリスのことはクリスと呼べ」
「できぬ相談だ」

  オーレンはカミラからの言をきっぱりと切り捨てて即答した。それにクリスが驚いて固まっているのも構わず、彼はさっさと歩み寄ると、きっちりとした動作で膝を折った。

「私は文官長殿の亡き父君に大変な恩義がある身。勿論、現文官長殿にも大いなる敬意を払っております。故に、その御方の婚約者殿を、以前の身分がどうであれ、呼び捨てにするなど考えられません。申し訳ありませんが」
「頭の固い奴め。だからお前はダメだと言うんだ」

  もういい、行こう、と。
  カミラはクリスの手を取ると、さっさと先を歩き始めた。クリスはそれに完全意表をつかれて前のめりに倒れそうになったが、カミラの強い支えでそれは回避された。
  ただ、背後で立ち上がるオーレンにはもう何も言えない。
  代わりという風にオーレンの方がカミラに声を投げた。

「おい。このことを俺は、文官長殿に報告に行くぞ」
「勝手にしろ。奴にバレる頃には、大勢にクリスを見せつけた後だ」

  言われたカミラはあっさりとそう言い放ち、不敵に片手を振りながらオーレンから遠ざかった。

「……っ」

  クリスは未だ立ち尽くしたまま自分たちを見送るオーレンを不安気に見やったが、カミラの「まぁ仕方がない」と呟く声で視線を前へ戻した。
  カミラはそんなクリスを見ず、歩き続けながら言った。

「あの堅物に早々見つかったのは誤算だったが、どうせリシュリューにも知らせるつもりだったのだから、早いか遅いかの違いさ」
「……カミラ様もオーレン様と同じ、竜騎士団の隊長様なのですね?」
「ああ、一応、同僚ということになるかな。私の方が第一師団の隊長だから位は上だがね、悔しいが、剣の腕は奴の方が上さ。あと3年後には追い越す予定だが」
「凄い…竜騎士団の隊長様だなんて…」
「それはどちらのことを言っているのだ? 私か? オーレンか?」
「お2人のことです…」

  本来ならば競技会場の端から遠目で見るのが精々の遠い人物である。位が高いのは物腰から分かっていたが、実際にそうと知らされると恐れ多い気持ちが増した。
  無論、カミラはそんなクリスの動揺に全くの無頓着なのだが。

「ふん、まぁ竜騎士団は国民憧れの象徴だからな。無論、私も竜騎士団のことは大好きだし誇りに思っている…が、実態はまだまださ。私たちが変えていかねばならないことは山ほどある」
「変えていくこと…?」
「そうさ」

  森を抜けて裏門に到達すると、城を守る甲冑を身に纏った番兵が2人、槍を持って立っていた。ただ、いずれもいかめしい顔をしたその屈強の兵士らが、カミラを一目見るなり恐れをなしたように一礼して、すぐに橋を架け、門を開いた。
  カミラはそんな彼らに一目しただけで、クリスを引っ張ったまま前進。
  そして話も続けた。

「国民の憧れであり、我が国の強さを表す竜騎士団の長に立つ者は、誰もが認める強者でなければならない。それは剣の腕だけではない、知性と品性と、卓越した徳を持った人間が担って然るべきだ。例えば私のような」

  だから私は誉ある第一団の隊長を任されているのだが、と、カミラは片方の手を胸に当てて酔ったように話したが、その後はポカンとするクリスを前にして、急に声色を変えた。

「だが現時点では、そんな私よりもオーレンの方が剣技も実績も、また部下たちの信望も、悔しいが全てにおいて高い。今のところは、な。…にも関わらず、あいつは第四師団の隊長止まりだ。そしてこれ以上出世することはない」
「何故ですか…?」
「あいつがオーリエンス人ではないからさ」
「えっ…」

  クリスが驚いたように声を上げると、ここでカミラはぴたりと足を止めた。それからゆっくり振り返ってクリスの顔をじっと見下ろす。

「君と同じ、あいつには異国人の血が流れている。事情があって生まれ故郷は棄てたらしいがね。しかしだからこそ、今や奴の国はここさ。オーリエンス王への忠誠心も我らに引けを取らないし、元は一傭兵からここまで成り上がったのだから、結構な苦労人だ。…まぁ、異国人にそういったチャンスが与えられるだけでも我が国は恵まれているのだろうが、私の考えではまだ足りない。身分や出自で差別されることがこうして視認できる限りはね。この国が真の自由国足り得ぬ証拠さ」
「……カミラ様」
「まぁかく言うオーレン自身が、そういったくだらぬしがらみを気にする堅物なわけで、私が庇う義理もないが」

  そうは言いつつ、カミラは「同僚」のオーレンをそれなりに、否、大分尊敬していることがクリスにも容易に理解できた。その同士が、ただ生まれた国が違うというだけで実力を評価されずにいる現状が歯がゆい、そうした理不尽がこの国にはあるのだと。
  それを語られて、クリスは自身の胸がまたチクリと痛むのを感じた。
  カミラのような人間は、本人が言うように事実、気にしないのであろう、「そのようなくだらぬ」ことは。きっとリシュリューもそうだ。
  けれど、世間は?
  この王宮にいる人々は、こんな自分を、こんな姿をした「リシュリュー・メディシスの婚約者」にどんな感想を抱くのだろう。どのような目で見てくるのか。
  単純に恐ろしいと思った。自分が蔑まれることではない。クリスは、自分の評価が低いことで生じる、リシュリューへの評判が落ちることが何より怖いと思った。……そこまで思い至って、クリスはいよいよ足が震えた。

「カミラ様…」

  やはりここにはいられない。クリスはどうか帰して欲しいと懇願すべく口を開いた。
  しかし。

「ここが我等竜騎士団の兵舎だ」

  引っ張られるまま、もう随分と王宮の中へと足を踏み入れてしまった。裏手とは言え、広く天井の高いその石造りの建物は、いくつもの仕切りと通路によってまるで迷路のようになっているが、大勢の兵士が行き来する騒然とした場所だった。
  無論、カミラを認めた者たちは皆、慌てて口を噤んだり、武器を持つ手を止めてその場で一礼をしたりと静かになるのだが。
  そうしてカミラが手を取るクリスを不思議そうに眺めて――。

「おう、お前たち、ちょっと集まれ!」

  やがてカミラは一つの大扉を開けると勢いよくそこへ足を踏み入れ、木造りの円卓を囲む十数人の兵士とその周辺にいる者たちに注目するよう声を上げた。

「もう集まっていますけど。ていうか、何でいるんですか」
「隊長殿。本日は休息日につき、我らが貴方の命令に従う謂れはありませんぞ」
「右に同じ〜」
「右におな〜じ」
「折角久々に寛いでいたのに、暇だからって来ないで下さいよ。みんな疲れているんですから、次々トラブルを起こす誰かのせいで」
「ええい、黙れ黙れ!」

  カミラは地団駄を踏んで口々に気怠そうなセリフを吐く兵士たちを恫喝した。クリスはその光景に唖然としたが、カミラはくるりと振り返って「クリス! これも騎士団の変えるべき悪しき風習である!」と声を荒げた。

「隊長を隊長とも思わぬこの無礼千万な態度! まっとうな口の利き方を知らぬ騎士など、国民の憧れが聞いて呆れる! そうは思わないか!?」
「は、はい…?」
「出たよ、隊長の騎士団改革」

  クリスの一番近くにいた兵士が軽口を叩く。

「以前は、“無駄に畏まったやり取りが無用な上下関係を生んで団結心を育めない”とか言って、いちいち敬語を外させていたくせに」
「そもそも隊長がそうだから、我等もこうなったんでしょうに」
「そうですよ。オーレン様が隊長だったら、我等もこうはなっていないと思いますね」
「実際、第四師団はちゃんとしているからなー。俺らと違って」
「真の第一師団って呼ばれているもんな、第四師団は」
「くうっ…。こいつら…!」

  ぎりぎりと歯噛みするカミラを、クリスはただただ眺めるより他なかった。最初に会った時はどこか凛としていたし、その堂々とした語り口に迫力を感じた。そもそも、オーレンも言っていた通り、彼女にはどことなく他とは違う存在感があり、それでいて気配を消す術にも長けている。恐らくは生粋の戦士なのだろうと思わせる不敵さもあった。
  しかし部下たちを前にしたこの姿は、先ほどの印象が薄らぐほどのギャップを感じる。無論、慕われているからこそのこのやり取りなのだろうけれど、外と城での彼女の顔が違うのは明らかで、クリスは、リシュリューの知られざる一面を見せるからと連れてこられたのに、これではカミラの二面性を見る為にここへ呼ばれたようだと思った。

(でもリシュリュー様も……やはりお屋敷と王宮とでは違うのかな……)

  あまりに毒気を抜かれたせいだろうか。クリスは先刻までの怯えた気持ちを少しだけ軽減させて、その余裕からそんなことをこっそりと考えた。ここにいてはいけない、その気持ちに変わりはないが、「文官長」としてのリシュリューをほんの少しでもいい、見てみたい。そう思ったことも確かだった。

「ところで隊長殿。誰なんですか、その子。新しい入隊希望者? にしては若過ぎるように見えますが」
「それに随分と時季外れだ」

  その時、兵士の何人かがようやくクリスに水を向けてそんなことを訊いてきた。

「む、バカ者、そんなではない。この細腕で剣を握れると思うか? 聞いて驚け、彼は――」

  カミラがクリスの背中をぐいと押して皆の前で紹介を始めた。
  それでクリスの思考は、再び自身のことでいっぱいいっぱいになった。




後編へ…