天駆ける青の竜(後編)



  クリスの緊張はピーク知らずで、自分でもどうなってしまうのか分からぬほど、すでに足元もおぼつかないし、冷や汗が止まらないし、何より視界がぼんやりしていた。
  もともと人に注目されるのは苦手だ。それが、こんなにも沢山の、しかも王宮の、第一竜騎士団の面々を相手になど。

「お前たち、いい加減に少し距離を取れ。クリスはお前たちの見世物ではない」

  そう言ってカミラがクリスと騎士たちとの間に入ったのは、彼女自身が皆の前でクリスの正体を明かし、それに仰天したり好奇心丸出しで質問の嵐を投げかけたりする部下たちがひとしきり騒ぎまくってから、十数分後のことだった。カミラは本来、人に気を遣わない。そんな彼女がその様なことを言い出すなど珍しいにも程があるのだが、つまりそれはそれだけクリスの様子が「まずい」と見えた証であろうし、カミラが予想する以上に部下たちの反応が大きかったことを示していた。
  カミラが言った。

「見ろ、可哀想に。貴様らが無遠慮にあれこれと問い質すから、すっかり固まっているではないか。クリスはシャイな性格なんだ。いくら男とは言え、貴様らとは人間の種類が違う。少しは察して遠慮というものを知れ」
「……隊長からそんな正論が出てくるとは思いませんでしたよ」

  部下の一人が驚いたようにそう呟くと、他の者もやっと蒼褪めたクリスにハッとなったようで、その中の副隊長を名乗るフランツなる青年が代表して頭を下げてきた。

「隊長に諫められたのは不本意ですけど、確かに…つい、気持ちが高ぶってしまって。クリス様、申し訳ないです」
「えっ…い、いえ…」

  クリスが慌てて口を継ごうとするも、フランツは微笑みながら続けた。

「でも俺たち、ずっとクリス様にお会いしてみたかったんです。ずっと皆で話していたんですよ、あの人間嫌いの文官長殿をその気にさせたクリス様とは、一体どんな御方なのかって」
「おまけに、俺たちと同じ男って聞いたらなあ。それは驚くから!」

  それが口火となり、「反省した」態度を見せていた彼らはまた一斉に各々口を開き始めた。
  クリスはガチガチになった身体と思考を何とか奮い立たせつつ、そんな彼らの表情や発言を見逃すまいと努力した。
  カミラが気さくなら、その部下の騎士たちも大らかで明るく、良い人たちなのだということはすぐ分かった。皆、最初こそクリスが「あの」リシュリュー・メディシスの婚約者だと聞いて、「嘘でしょう!?」とか「こんなに若かったのですか!?」等、なかなか信じないような言動を取ったし、カミラを「またいつものおふざけですか」と呆れて見たりもした。しかしカミラが憤慨しながら「本当だ!」と言い続けたこと、何より当のクリスがそれを肯定したことで、カミラはともかく、目の前のオドオドとした青年が嘘をついているとは思えなかったようだ。実際、クリスの「見た目」が動かぬ証拠だった。こうして、それが真実だと認識した騎士たちによる質問攻めが始まったわけだ。

  一体どのようにしてリシュリューに気に入られたのか?
  リシュリューはどのようなセリフでクリスに求婚したのか?
  屋敷でのリシュリューはどんな風なのか?
  何よりクリスがどんな人間なのか、と。

  そのほとんどにクリスはまともな答えを出せなかった。何かは返した気がするが、何を発したかは覚えていない。それくらい緊張が高かったし、クリスはとても怖かった。自分の態度で、発する言葉ひとつで、リシュリューのこれまでの評価も変わってしまうかもしれない。それが何より恐ろしい。
  それに、こんな見た目なのに。
  第一師団の騎士たちがカミラ同様、「そんなこと」を気にしている様子がないのは明らかだった。それでもクリスは気にしていた。だからずっと身体は痺れていたし、ずきんとした痛みが胃や胸や頭を襲い続けた。それでも立っていなければと堪えていた時、先のカミラのセリフがやっときたのだ。

「失礼致します。第四師団副隊長、レオナルト・ディンガーです」

  その時、扉をノックする音と共に凛とよく通る声がそう名乗りながら入室してきた。クリスの周りをぐるりと囲む格好で思い切り気を抜いていた第一師団の騎士たちは、その声にぎょっとして襟を正すと、すぐさま両脇へと退いて背筋を伸ばした。隊長のカミラがいても全く動じる様子がなかったのに、彼らは他師団の副隊長が入室しただけで一気に引き締まり、沈黙したのだ。

「おう、レオか。どうした、そちらまでこの騒ぎが聞こえていたか」

  その中で、変わらずカミラだけが悠々と片手を挙げて厳しい顔の騎士を見やった。レオナルトは第四師団の副長と名乗ったから、実際、位で言えばカミラが上だ。しかし他の騎士たちが一瞬にして畏まったように、レオナルトは見るからに屈強で威厳があり、長身のカミラよりさらに背が高く、また年齢も上に見受けられた。
  そしてそのレオナルトは、カミラから親し気に話しかけられても、その能面のような表情を緩めることは一切なかった。

「オーレン隊長の命を受け、ヴァージバル隊長とクロスウェル様をお迎えに上がりました」

  レオナルトの言葉にクリスは咄嗟に顔を上げた。カミラはクリスと出会った時、「野暮ったいから」己の姓は名乗りたくないと言っていたが、今、レオナルトから向けられた「ヴァージバル」という名には否が応にも反応せざるを得なかった。それはリシュリューからも折に触れ「嫌々そうではあるが」語られていた名であったし、そうでなくとも、竜騎士団においては様々な武勲を立てた高名な一族として、クリス自身、幾度か耳にして知っていた。
  最初からそれを知っていたら、それこそ恐れ多くて物怖じしていたかもしれない。カミラはそれを慮って名を伏せてくれたのだろうか。クリスはそんなことを思いながら、いよいよ、自分などが今こうして横に立っていることが許されるのかと困惑した。
  しかしながら当のカミラは呑気なものだった。如何にも迷惑そうな調子でレオナルトに片手を振る。

「全く手の早いことだ。大方オーレンの奴、リシュリューの所へ行く前にお前達にあれこれ命じたのであろう? しかし、迎えなどいらぬぞ。暫くしたらこちらから勝手に出向くからと伝えてくれ」
「申し訳ありませんが、出来かねます」

  ただ、レオナルトの方も一歩も退く様子がなかった。表情を崩さず、彼は言った。

「オーレン隊長からは、ヴァージバル隊長がそのように仰っても、必ずお連れするようにと。ですから、ご一緒して頂けるまで、私もここを退くわけには参りません」
「はあ。オーレンと一緒で、お前も面倒な男だな。別に逃げも隠れもしない。ただ、これから第二、第三師団の連中へもこのクリスを紹介しに行かねばならんのだ。その後では駄目なのか」
「それも必ずお止めするよう申しつかっております。クロスウェル様がそれをお望みでない以上、一刻も早くメディシス文官長殿の元へお連れするようにと」
「……ちょっと待て。レオ?」

  頑なにそう言い切るレオナルトの言に、不意に壁際で事の成り行きを見守っていた副隊長のフランツが背を浮かせて手を挙げた。

「クリス様がそれを望んでいない…って、どういうことだ?」
「……どういうことも何も、言葉通りの意味だが」

  初めて表情らしい表情を見せたレオナルトは、むすっとした顔で応えた。それはまさに「貴様らはそんなことも分からなかったのか」と言わんばかりの態度なのだが、それに対して寝耳に水なのはカミラの憐れな第一師団の部下たちであった。
  フランツは一気に蒼褪めて唇をひくつかせた。

「いや。……いやちょっと待て? クリス様のご訪問は、当然リシュリュー様…文官長殿も存じ上げていることだろう?」

  ざわり、と。ほんの一瞬だけ辺りが蠢き、直後、その周辺は恐ろしいほどの緊張に包まれた。それはとっくに緊張していたクリスでさえ分かるほど、妙に尖った、まさに凍えてしまうほどの冷気となった。

「いいや」

  その空気を見事に切り裂いたレオナルトは、フランツらにさらに凍った眼を向け、尚も寒々とした調子で続けた。

「クロスウェル様のご登城は、ヴァージバル隊長の独断により強引に敢行されたものだとオーレン隊長は申されている。クロスウェル様のお召し物からも察せられるように、恐らくはお屋敷で何らかの作業をされている最中に、ヴァージバル隊長により、拉致同然の体で連れ去られたのであろう、と。よって無論、このことはメディシス文官長殿の認知するところではない」
「………ッ」
「そもそもこれが公式のご登城であった場合、王との謁見を差しおいて貴様ら第一師団との面会が優先されるなどあり得ぬと、少し考えれば――」
「隊長〜ッ!!」

  ほとんどの者は絶句したままその場で硬直していたが、フランツだけはぐるんと振り返ると、上官であるはずのカミラに勢い詰め寄った。

「アンタ一体、何考えてんだッ!?」
「何…とは何だ。私はただ純粋な気持ちで、クリスやお前らのことを想い、やっただけだ」
「は、はあ…? お、俺たちを想う…って何だ!?」
「お前らとて、クリスのことはずっと前から知りたい、会ってみたいと言っていただろう? そしてクリスは、王宮でのリシュリューを知りたいと思っていた。私はそんな両者の願いを叶えてやろうとしただけだ」
「……本当に…貴方という人は……」

  呆れて何も言えないという風にフランツは項垂れてその先の言葉を消し去った。他の騎士らも、これがエリート竜騎士部隊かと思うほどの蒼白っぷりで、ある者はボー然と立ち尽くし、ある者はあわあわとなりながら頭を抱えて「終わった」などと呟いている。
  ある意味クリスも蒼褪めた顔はそのままだから、その場ではカミラとオーレンの部下であるレオナルトだけがその光景に平然としていた。もっとも、だからこそ、動きもスムースだった。レオナルトはカミラとクリス2人に向かって再度目礼すると、出口を示唆するような仕草で身体を動かした。
  ただ、これに納得いかないのがカミラだ。フンと鼻を鳴らして腕を組むと、不本意なことを言われたとばかりに首を振る。

「だから、まだ行かぬと言っているだろう。リシュリューの奴がこのことを知って血相変えてすっ飛んでくるまでに、他の連中にも――あっ!? お前等、オイ! 何をするか、離せ!」

  しかしそんなカミラの抵抗はあっさりと封じられた。己の部下―…第一師団の面々によって。
  フランツの声なき目視がその場にいた全員に正確に伝わったのは、日頃の訓練の賜物と言えよう。或いは、こうした事態に慣れているからとも言えるが…彼らはレオナルトの誘導に頑として動こうとしないカミラを両脇から、そして前後から四方を囲むようにして立ちはだかると、有無を言わせぬ拘束にかかった。大の男たちが数人がかりでやるのだ、女性のカミラなど敵うわけもない―…と思いきや、長身の彼女がその大きな腕を動かし暴れると周りも必死だ。恐らく彼らは「全力」である。どうやらカミラという人物には「女性」という冠詞よりも「戦士」というそれの方がふさわしいようだ。
  そうして人々の憧れたる第一師団の騎士たちが、まさに真顔で、たった一人の戦士を押さえつけている間に、フランツはさりげなくクリスの背中を押して、彼をレオナルトの前へと連れて行った。

「レオ、すまん…。よろしく頼む」
「クロスウェル様のことは間違いなく送り届ける。…だが、お前等のことまでよろしくはできぬぞ」
「分かっている…」

  ハアと深いため息をついたフランツは、恐る恐るながらクリスの方を見やり、それから深々と頭を下げた。

「クリス様。存じ上げなかったこととは言え、とんだご無礼を…。どうりで、そりゃあ…戸惑いで口もきけなくなるってものです。うっかりはしゃいじまって…皆に代わって俺から謝罪します」
「そんな…」
「けど俺たちがクリス様にお会いしたかったというのは本当です。隊長も同じです。あの人はあんなで分かりにくいですけど、俺たちみんな、リシュリュー様…いえ、文官長殿のことを尊敬していますので! その御方が選ばれた婚約者様って一体どんな御方なのかって、そりゃあお目にかかりたかったのですよ」
「……っ」
「おい、無礼な口が過ぎるぞ。…ではクロスウェル様、こちらへ」
「あ、はい」
「隊長も悪気はなかったんです! どうかそのへんのことをリシュリュー様にも是非!」

  レオナルトが「いい加減にしろ」と渋面を作って、頭を下げるフランツの前で扉を閉めた。クリスはそれに「あ」となったが、今まさに乱闘中の大喧騒は音と共に遮断された。どうやらとても分厚い扉らしいとは、この時初めて思い至った。
  レオナルトに先導される形ですごすごと後ろを歩きながら、クリスはフランツにまともな返答ができなかった自分を歯がゆく思った。カミラや他の人々に対してもそうだ。フランツは戸惑いで口がきけなかったのだろうなどと好意的に捉えてくれて、確かにそれもなかったとは言えないが、それでもあんな風に大慌てて謝られる筋合いのことは何もないと思う。カミラには面食らったが、フランツが言ってくれた通り、実際、知りたくてたまらなかったのだろう。皆そうだ。「リシュリュー・メディシスの婚約者」が一体どんな人間なのか知りたい。見たい。当たり前だ。何故って、リシュリューはこの国の中枢を担う人物であり、英雄なのだから。
  それなのに、その婚約者たるにふさわしい態度を取れていたかというと、クリスは己を「全くダメだった」と評するしかない。ただの棒きれの如く突っ立っていただけだし、今とてもリシュリューの所へ案内してくれているこのレオナルトに礼の一つも言えていない。早く声を掛けなければと思うのに、どうしても駄目だ。
  当のレオナルトの方はと言えば、クリスと言葉を交わすことなどはなから考えていないようだ。もっとも「普通」の騎士はそれが当たり前なのだろう、恐らくは「第四師団はまとも」と第一師団の面々が評価していた通り、レオナルトはまっとうな、そして優秀な騎士なのだ。学園にいた頃はこうして王宮勤めができる騎士や官吏に皆が憧れていて、その中でもこの竜騎士団は別格だった。
  別格の、憧れの存在。
  クリスもその例には漏れない。王宮勤めを希望したことはないし、正直、剣を振るうのは苦手だ。しかし、見たことのない竜と共に空を駆り、世界を見て回ることに羨望を抱いたことはある。
  思えば、リシュリューの所で初めて小竜たち「竜」という生き物を見たけれど、カミラにも言った通り、あのようにまともな形で騎乗して空を舞ったのは、クリスにとって今日が初めてのことだった。騎乗用の鞍をつけない小竜と戯れているうち、弾みで「少し宙を舞った」程度のことはあるが、他にはない。そもそもずっと屋敷にいるだけだったし、一度だけジオットから言われてリシュリューから離れた時も、移動手段は馬車だった。竜の心を捉えられるクリスならば機会はいくらでもありそうなものだったが、改めて顧みても一度もない。

「クロスウェル様。こちらです」

  レオナルトの声にハッとして俯けていた顔を上げると、目前には大きな扉が立ちはだかっていた。どこをどうしてここまで来たのか。思えば、広い王宮と言えど、ここへ来るまで誰ともすれ違わず、誰の姿も見なかった。下ばかり見ていたから、もしかしたら遠目には誰かいたのかもしれないが、それにしても静か過ぎる。
  そんな異様な空気を感じる城内において、しかしその扉は一段と大きく、そして荘厳な雰囲気があった。

「こちらが文官長殿の執務室です。オーレン様より、こちらへお連れするよう窺っておりますので」
「執務室…。で、では、リシュリュー様は、ご政務の真っ最中なのでは…」

  自分がここにいることはリシュリューの迷惑にしかならない。クリスはすっかり怖気づいて後ずさりした。レオナルトはそれに対して感情の見えない目をしていたが、ふと何かを感じ取ったのか、自らも一歩退いて扉から離れた。
  すると目の前の扉が音もなく開き、中から先ほど森で出会ったオーレンなる騎士団長が顔を出した。

「レオナルト、ご苦労だった」
「はっ! しかしながら、ヴァージバル隊長をお連れすること叶わず、申し訳ありません!」

  畏まって敬礼するレオナルトに、オーレンは「ああ、いや」と片手を挙げた。

「どういうことになったかは想像できるし、結果的にそれで良かった。文官長殿は少し席を外されているが、間もなく戻られる。クロスウェル殿をお通しして、我等も退くとしよう」

  オーレンは部下に淡々とそう告げると、先刻出会った時と変わらずクリスに畏まり、一礼してから再び扉を開いて中へと誘った。断り切れぬものを感じてクリスがおずおず中へ入ると、オーレンは穏やかな声色でその背中に声を掛けた。

「文官長殿から、こちらでお待ち頂くようにとの託を預かっております。我等の方でここまでの通路には人払いをしておりますので、誰も来る者はいないと思いますが、文官長殿が戻られるまでは、どうぞこちらにてお待ち下さい」
「あ…は、はい」

  本当は訊きたいこともあったが、言葉が出なくて、クリスはとりあえず頷いた。先ほどまで人の気配が全くなかったのも道理だ。恐らくオーレンやレオナルトがいち早くここまでの通路を自分たちの師団の力で払ったからこそ、このような静寂を保ったままクリスも人目に触れることなくやってこられた。その手際と判断の速さたるや感嘆の域である。
  しかしながら扉が閉められて2人の遠ざかる気配を何となく感じ取っても尚、クリスはやっと一人になれたはずの室内でさらに心臓の鼓動を早くした。
  リシュリューの。いや、国の政務を司る文官長の執務室。部屋の奥にある机上からは明らかに先刻まで執務をしていたであろう形跡があった。「偶々席を離れている」という状況なら良いが、すでにオーレンから「クリスが登城した」、「してしまった」ことはリシュリューも知っているようだから、今ここにいないのは明らか「そのせい」なのではと思われた。
  つまりは、リシュリューの仕事の邪魔をしてしまった。クリスは思い切り挙動不審となって暫し室内で逡巡した後、所在なく窓際へ向かって足を向けた。何にせよ、この広い室内の中央にはいたくなかったのだ。壁際か、とにかく「端」に寄りたかった。

「あ…」

  その時、窓の向こうできらりと光る何かが見え、クリスは思わず外を凝視した。一瞬は気のせいかと思ったものの、それは隠れるでも急ぐでもなく、もう一度クリスの視界を横切った。そう、まるで見せつけるように、悠々とした姿で上空を飛翔している。
  蒼の竜。

「すごい…」

  思わず呟くと、背後から「国王陛下の蒼龍です」という声が投げかけられて、クリスは思わず「わっ」と声を上げて飛び退ってしまった。

「す、すみません!」

  人がいることに全く気付かなかった。否、気づかぬ方がどうかしている。目を見張った先には、見るからに巨漢の大男が部屋の片隅に、まるで銅像のように整然と立っていた。先ほどクリスをここまで案内したレオナルトと同様の胸章をつけている。

「あの…」

  その巨漢の騎士は一度だけ確かに声を出したと思ったが、今は直立不動のまま、頬の筋肉すらぴくりとも動かなかった。自分が失礼な態度を取ったから怒ったのだろうかとクリスは焦り、それでも何とか反応が欲しくて、背後の蒼龍にもう一度視線を投げかけてから、「国王様の竜なのですか…」と尋ねてみた。
  すると暫しの沈黙の後、その静かな低い声はゆっくりと返ってきた。

「陛下のご不在時にあの竜が空を舞うことはありません。蒼龍アレクシスの飛翔は我が国の吉兆とされております」
「そうなのですか…美しいです」

  カミラのアガーテも美竜であったが、アレクシスと呼ばれた蒼龍もまた、他の竜にはない神々しさがあった。遠くからでも容易に分かる、それは優雅で力強い飛翔だった。

「何を話している」

  クリスが再度、騎士に竜のことを訊ねようとした、しかしその時だった。
  扉が勢いよく開いて、リシュリュー…――もう随分と長い間会っていないような気がクリスにはした――が現れた。
  クリスは思わず息をのんだ。正装をしているからというのもあったが、リシュリューが屋敷で見るのとは明らかに違うオーラを纏っていたから。
  そしてひどく厳しい表情をしていたから。

「オーレンには無駄口を叩かぬ人間を配するよう言いおいたつもりだったが」
「申し訳ありません!」

  巨漢の騎士が足元を正し、敬礼しながら謝った。表情は変わらないが、リシュリューの言葉に明らか緊張が伝わってくる。これだけ大きな体躯をしている騎士が、リシュリューの一睨みで委縮しているのだ。クリスは慌てた。騎士が自分と話しただけでこのように敵意ある様子で凄まれ、責められるなど、思ってもみなかった。

「リシュリュー様、僕がこちらの騎士様に図々しくもお訊ねしたせいです!」

  だからクリスは急いた気持ちのまま、リシュリューに歩み寄って訴えた。リシュリューに会ったら、まずは勝手に城へ上がったことを謝らなければ、すぐに帰ると伝えなければと思っていたのに、それらのセリフは消えてしまった。あまりに、リシュリューがこの罪なき騎士を見る眼が恐ろしかったから。
  ただ、それもクリスの中でどこかリシュリューに対して甘えがあったのかもしれない。そう言えばリシュリューは騎士を許してくれるのではという驕りが。
  まるでそれを見透かされたかのように、クリスは次に自分自身が、リシュリューから冷たい視線を向けられた。

「クリストファー。今のお前に他人を庇う余裕などない」

  クリスがハッとして口を噤むと、リシュリューは畳みかけるように続けた。

「国王の許可なく勝手に入城するなど、如何にヴァージバルの独断でなされたこととは言え、お前に全く咎がないとも言えない。しかもその様な格好で…私に恥をかかせる気か」
「あ………」

  謝らなければ。いつもならそれが出来るのに、何故かクリスは咄嗟に声を出せなかった。
  ただ黙ったままリシュリューを見上げていると、その厳しく冷淡な瞳はいったん外へと向けられ、それから僅か失望したような嘆息が漏れ落ちた。

「この様な状況で国王の竜に見惚れる呑気さにも呆れる…。竜など見飽きているだろう。ヴァージバルの竜に乗って浮かれたか」
「……申し訳ありません」

  やっと頭を下げられたクリスだったが、その声が間近のリシュリューにまで届いたか自信がなかった。それくらい、クリスの声は消え入りそうなものだった。先刻の緊張の比ではない。最早立っているかどうか、足先の感覚が麻痺するほどだ。
  それなのに、頭上からはリシュリューの依然として厳しい声が落ちてくる。

「第四師団のディンガーに私の蒼竜を駆って屋敷まで送るよう伝えてある。すぐに帰りなさい」
「僕…いえ、私は一人で帰れます!」
「クリストファー」
「申し訳ありません! これ以上皆様のお手を煩わせることは! 僕は!」
「これ以上私を怒らせるな。――行きなさい」

  リシュリューは取り付く島もなかった。ただ厳しい表情でクリスを見下ろし、淡々と、しかし冷淡に命令するだけ。別に初めてではない、こんなリシュリューを見るのも。出会った当初はいつもこんな、いいや、これよりももっと恐ろしくて冷徹で。それがなくなった後とて、いつも何がしかで怒られていた。
  ただそれがあまりに久方ぶりだったから。
  クリスは心から震えながら、それでも何とか「申し訳ありません」と再度謝罪した。きっと血の気の失った、いつも以上に酷い顔をしているだろう自覚はあった。それでももう、どうしようもできない。
  大それたことをしてしまった自覚はあった。けれどクリスはリシュリューからこんな風に「叱られる」ことは多分考えていなかった。叱られはしても、「こう」なるとは思っていなかった。巨漢の騎士を庇った時の「驕り」、そして今。リシュリューへの無意識の甘えが招いた結果がこれだ。
  クリスは自分のことが猛烈に恥ずかしかった。リシュリューの顔をこれ以上見ていられない。逃げるように、廊下で控えていたレオナルトに誘導されるまま城外へ出た。そうして見知った竜の背に騎乗させてもらう。リシュリューの蒼竜だ。いつかその背に乗りたいと密かに思っていたが、それがこんな形で実現して、余計にクリスは苦しかった。
  それなのに空へと飛翔した途端、まるでそれを待っていたかのような様子で、あの国王の竜がさっと舞ってきて一声啼いた。そうして暫しクリスたちに並走してきたのだ。城の領域から完全に出ると竜はそのまま旋空して戻って行ったが、同乗していたレオナルトは珍しく興奮したように、「ありえない…」と呟いていた。
  クリスはそんな騎士の驚きにも反応できなかったけれど。
  青い空も、初めて乗るリシュリューの蒼い竜も、そしてもう一頭の偉大な竜にも。クリスは心動かされることがなかった。
  ただ。ただクリスは、リシュリューのあの瞳だけを反芻し、そして思った。
  やはりリシュリューはこの国の中枢を担う、自分とはかけ離れた身分の人なのだ、と。
  当たり前のことなのに。そんなとうに分かっていた事実を前に、しかしクリスは何故だか猛烈に泣きたい気持ちになった。




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