君はジェットコースター



  ―1―


  涼一はイライラとした顔を全面に出したまま、大学構内一教室の片隅で頬杖をついていた。
  最近は外面を装うのが段々面倒臭くなってきたので、あからさま周囲に「近寄るな」オーラを出したり、今のように不機嫌な表情を露にしたりして、無用な人間関係を避けるようなところがあった。
  変わったなと、自分でも分かっている。
「涼一ィ。何仏頂面してんだよお…」
  しかし、こういった涼一の“本来の姿”に元から耐性のある者にしてみれば、別段「涼一の性格が変わった」などと思う事はない。
  大学以前から涼一の親友である藤堂は、相変わらずの縞模様シャツ(しかしさり気なくその色は曜日によって違う)をその巨体に着込みながら、片手にはメロンパンを持って現れた。涼一の視線が藤堂にちらりと向けられた事で女子学生達が仄かに羨ましそうな気配を漂わせたが、それをされている藤堂は全く気づいた風がない。
「朝っぱらからそういう顔してると幸せが逃げるぞー。…かく言う俺も、今日はちっと二日酔いで気持ち悪いんだけど…」
「そんな状態で、よくそうやっていつでもバクバク食えるな」
「う…放っとけよ! これは俺の朝ごはん! これは欠かせないの!」
  藤堂はフンと鼻を鳴らしてから涼一の厭味を軽くかわし、どっかりと隣の席に腰をおろした。
  それからきょろきょろと辺りを見回してから不思議そうな声を出す。
「桐野は?」
「今日は来ない」
「何で」
「………」
「何で?」
「……ぅるっせえなッ!」
「いっ!?」
  突然物凄い殺気を漂わせた涼一に、藤堂は情けない小さな悲鳴のようなものを上げ、大きな身体を仰け反らせた。勿論この涼一の態度には周囲の人間も暫しぎょっとしたような顔を向けたのだが、相手が藤堂という事でどこか「大事にはならないだろう」と分かっているのか、やがてよそよそしく視線を逸らす。
  一拍置いた後、藤堂は声を出した。
「い…一体どうしたってんだ。やっぱり桐野なのか。お前の不機嫌の原因は」
「……違う。雪は関係ない。っていうか、何だよ『やっぱり』って」
「だってお前がイライラしてる時って、大抵桐野がいない」
「………」
「当たりだろ?」
「違うって言ってんだろうが!」
  ギンと鋭い眼光を向けると、藤堂は再び「ひいっ」と大袈裟でなく怯えてだんまりを決め込んだ。
「………」

  コイツに当たっても仕方ないだろ。

  スーハーと努めて大きく深呼吸をし、涼一はふいと藤堂から視線を外した。そうして、「自分たちの仲」については未だ全く気づく風がないくせに、妙なところで核心をつく親友に改めて八つ当たりでない視線を投げ掛ける。
  そもそも、「こんな事」でいちいちイライラしたり感情を昂ぶらせたりするのはやめようと決めたばかりだ。話題を変えようと思った。
「俺の事はいいんだよ。それより、お前は何で二日酔いなんだ。またアキラとかに良い様に利用されて部屋乗っ取られたのか?」
「そういう言い方はやめろよな。お前って本当に口が悪いのな。…まぁ、それを出していい時と悪い時の区別はついているみたいだが」
「だから俺の事はいいって言ってんだろ。――で? それが違うなら、またお前の大好きな合コンとか?」
「その言い方が、これまた引っかかるなあ」
「違うのかよ」
「いや。間違ってない」
  藤堂はいつの間にか食べ切ってしまったメロンパンの袋をぐしゃぐしゃと手のひらの中で小さくすると、それを握り締めたまま何事か考えるように下を向いた。
  それから不意に頬を染めて、ぼそりと小さな声を出す。
「俺よう……生まれて初めて女の子から誘われた」
「は…?」
  涼一が胡散臭そうな顔をして問い返した事に藤堂は気づかなかった。
「昨日の合コンの帰りにさ。いきなり。『藤堂君の家に行っていい?』だぜ。参るよなぁ」
「……けどお前ん家って実家じゃん。親いるだろ」
「いるけど」
「女、それ知ってて言ったわけ?」
「知ってるよ。けど、俺ン部屋って離れだろ? 家族もアキラとかがしょっちゅう飲み会の場所にしてるの知ってるし、今さら夜中に誰が来ようが、別に干渉もしてこないしさ」
「ふうん」
「……で?」
「は?」
「えっ!? だ、だってよ。お前、その先の質問はないのか!?」
  いきなり会話がぶつ切れになった感があったのだろう、藤堂は思い切り拍子抜けしたように身体を斜めに崩してから、すぐに涼一に覆い被さるような勢いでやや怒ったように唇を尖らせた。
「普通あるだろ!? こういう展開でよ! それからどうなったって何で訊かない!?」
「興味ない」
  きっぱりと斬り捨てて涼一はそっぽを向いた。親友だろうが誰だろうが、基本的に涼一は自分本位な男である。ましてや今現在、雪也以外の事で気を取られるような事が他にあるわけでもない。
  そう、涼一は朝から恋人である「雪也」の事しか頭になかった。
  今の会話とて、自分の「狭量さ」を親友にバレる恐れがあったから無理矢理話題を変えただけだ。
「訊けよ!!」
  しかし勿論、藤堂の方はそうはいかない。どこか泣きそうな顔すらして、いっそ憐れを誘うような様子でバンバンと前の机を激しく叩いた。幸い、次の講義を行う教授は未だ教室に現れてはいない。
「お前がそういう冷たい奴だってのは知ってるつもりだけどな!? 俺はいつだって訊いてやってるだろうが、お前の彼女の事とか、お前がこうやって不機嫌な時も『どうした?』ってよ。それがトモダチってもんだろう?」
「俺は別に訊いて欲しくないけどな」
  恋人の事を自慢したくとも、その当の雪也にそれは固く禁じられている。惚気たくともそれが出来ない現況で、何が悲しくて他人の色恋話などを聞かなくてはならないのか。
「……しょうがねえな」
  とは言え、彼女いない歴が生まれた時から今日まで続いている藤堂は、まがりなりにも涼一にとってそれなりに大切な友人だ。
  結局のところ根本で面倒見の良いところもある涼一は、今にも縋りつきそうな巨体を暑苦しい目で見やりながら、「分かったから少し離れろ」と言いながら溜息をついた。
「じゃあ、聞いてやるから。ほら、話せ。合コンで知り合った女がお前ん所に来たいって言って、その後どうした?」
「そ、そりゃあ…勿論。いいよって言ったさ!」
「どんな女? そいつ」
「え、えっとな。リサちゃんって言うんだけどな。ちょっと丸っこくて、ちょっと色黒でちょっと唇が厚くて…、あと、ちょっとお喋りだな」
「……で?」
「何かな、相談があるって言ってさ。好きな人と行きたいデートスポットは何処かって話をして、俺はディズニーランドに行きたいなって言ったら、それはどっちが金持つんだって訊かれてさ」
「……やっぱこの話やめねえ?」
「何でだよ!」
  まだ話し始めたばかりだろうと藤堂は子どものように頬を膨らませ、既に聞き役を放棄したがっている涼一の腕をむんずと掴んだ。
「どうせなら講義サボって学食行かねえ? そこで詳しく話すから。俺、腹減った」
「お前、今メロンパン食ったばかりだろ?」
「いいから聞いてくれよ! 俺、リサちゃんの真意が分からなくて昨日からずっと悩んでんだからよ! 相談に乗ってくれよ!」
「嫌だ! 俺はこの講義のノート取って後で雪に――」
「んなもん、どうとでもなるじゃねえかよ! お前の頼みならここにいる奴ら、皆喜んで聞いてくれるんだから!」

  その言い合いは珍しく涼一の敗北で幕を閉じた。

  周囲でこの遣り取りを聞いていた仲間が「ノートなら俺が後で貸してやるから」と余計な口を挟み、それに勢いを増した藤堂に無理矢理学食まで連行されてしまったのである。
  そして涼一はその後数時間、延々と藤堂の恋愛相談だか何だかよく分からない話を聞かされ、悶々と、時には激昂しながら、親友と久方ぶりの親交を深める事になったのだった。
  本当は「それどころではない」はずだったのだけれど。





  涼一が藤堂と別れていつもの場所に着いたのは、「約束の時間」を30分ばかり過ぎた頃だった。 
「どうしたの。車の事故にでも遭った?」
「……相変わらずむかつく奴だな」 
  レンタルビデオショップ「淦」の扉を開くなり、創から開口一番驚いた風にそう問われた事で、涼一は思い切り不機嫌な声を返しながらカウンターへ近づいた。
「心配してあげたんだろ」
  創は涼一がどうやらいつも通りだと察すると、ニヤリと笑ってから傍の椅子を勧め、自分は先刻までしていたらしい商品棚の整理を再開し始めた。
「君が桐野君との約束の時間に遅れるなんてさ。ましてや、今日はちょっと特別だろう。もしかすると約束の時間どころか、朝から来て愚痴られるんじゃないかと思っていたのに、拍子抜けだったよ」
「……雪は?」
  創の厭味を受け流し、涼一はイライラとした面持ちで狭い店内を見渡した。
  約束の時間は過ぎている。けれど、そこに雪也の姿はない。
「まだ来てないんだ。随分前に連絡があって、車が渋滞で動かないから、時間通りに帰れそうにないって。君の携帯にも掛けたらしいんだけど、電源消してるんだって?」
「………」
「これまた珍しいよね。俺の予想では、君は1分に1回はメールを送っているはずだったんだが」
「ふざけんな」
「大真面目さ。それくらい、君は桐野君に執着しているからね」
  涼一の方は見ないまま、創は相変わらず淡々とした風にさらりとした言葉で返した。
  そうして涼一が今絶対に聞きたくない人間の名もあっさりと口にする。
「幾ら護さんが渡米する前だからってさ。君が丸々1日、桐野君とあの人を2人きりで会わせてあげるなんて、多分これが初めてなんじゃないの? いつもはせいぜい半日とか、酷い時は君同伴だし」
「………」
「あれ? 何も反論なし?」
「何で俺がついていくのが悪いんだよ」
  自身のツッコミにようやく言葉を出した涼一を、創は興味深そうな目を向けながら薄く笑い、指先で眼鏡のフレームをスッと上げた。
「君がいたら、あの人たちまともな話が出来ないじゃないか。全部君が遮っちまうんだから」
「んな事ねえよっ」
「そんな事あるさ」
  でも、と創はすぐに言葉を出すと、涼一に会話の主導権を握らせないようにして続けた。
「俺も話に聞いただけだから何とも言えないけど。桐野君にとって護さんって人は特別な存在だろ。幼馴染だか、兄代わりなんだか知らないけどさ。聞いていると時々恥ずかしくなるくらい、桐野君って彼の自慢話するだろ。そりゃもう、放っておいたら永遠にね」
「……っ」
  ちりりと胸に小さな炎が灯って、涼一は声を出すのが辛くなった。

  今朝から不機嫌な理由。それはつまり、そういう事なのだ。

  雪也は護と会う約束をする時、決まって事前に涼一に許可を求めるのだが、涼一はそれをいつも「勝手にしろよ」と最初は突き放して、結局はある程度の制約を設けて、なるべく2人が2人だけで会わないように画策した。
  たとえばその後は自分と食事の約束をさせたり、実際に自分もついていったり。
  けれど、今回はほんの少しの気紛れで、「偶には度量の広いところも見せてやろう」と思って、「あいつも当分帰ってこられないって言ってんだから、ゆっくりしてくれば」などと言ってしまったのだ。
  言って、その直後猛烈に後悔したのだが、雪也が殊のほか嬉しそうに何度も礼を言うものだから、今さら後には引けなくなってしまった。
  雪也が純粋な気持ちで護を慕っていると知っている。
  そこにもう以前のような恋愛感情がないだろう事も頭では分かっている。2人の間の情愛は、涼一と雪也の間にある感情とは明らかに種類の違うものだ。
  それでも、否、だからこそ、涼一は護という存在を考える時、言い様もなく苦しく、息が出来なくなる。そんな苦しみを与える雪也を憎らしく、殴りつけたい衝動にも駆られる。

  俺をこんなに不安にさせるような奴とは、もう二度と会うな。
  何度そう言ってやろうと思ったか知れない。
  それでも、涼一の最後の理性が「それだけはしちゃいけない」と強く訴えていた。

「桐野君、君のこと凄く気にしてたよ」
  創の探るような声で涼一はハッと我に返った。
「今回は君も別に何時に帰ってこいって言ったわけじゃないだろ。“約束の時間”は桐野君が勝手に設定したものなのに。『涼一に悪い、どうしよう』って、何回も言うんだよ。本当、呆れるくらい可愛いよな」
「お前が雪を『可愛い』とか言うな!」
「言うくらいタダだろ」
「タダじゃねえ! 二度と言うな!」
「……はいはい」
  軽く肩を竦めて、創はやはり「いつもとは少し違う」涼一を横目だけでちらりと見やった。けれど涼一が「これ以上話しかけるな」と全身で訴えているものだから、創は那智がお茶を持ってきた事もあって、開きかけていた口を閉じた。
「剣さん、いらっしゃい」
  そんな涼一の様子には気づかず、いつもののんびりとした口調と共に現れた那智は、2人を交互に見やった後、これまたいつもの弱々しい笑顔を向けた。陰氣な雰囲気は相変わらずだが、最近ばっさりと切った短い髪のせいか、表情自体はやや明るく見える。それにこの頃は菓子作りに熱中しているらしく、雪也とも話があって楽しそうだ。
  だから今も彼女が涼一の為に持ってきた盆の上には、アイスティーと一緒に食欲を誘う色合いをしたスポンジケーキが乗っていた。
  そしてその那智の背後には。
「ん…マジかよ」
  恐らくそのおやつを狙っているのであろう、淦の小さな常連客の姿もあった。
「涼一。桐野は?」
  黒い服に身を包んだ“うさぎ”こと寛兎は、最近よく喋るようになった。つっけんどんな言い回しは変わらないが、この頃は淦の住人や雪也たちだけでなく、学校でもちらほらと喋れる仲間を作っているようだ。ちょこまかと素早く動きまわる様も年頃の小学生男児相応のあどけなさがあり、那智の手作りケーキを頬張る姿も、一部の何も事情を知らない人間からしてみたら「可愛い」と映るに違いなかった。
「………」
  けれど涼一はこの生意気な少年が大嫌いだ。
  もしかすると、目の前にいる厭味な青年・創よりも。
「おい涼一。訊いてんだろ」
「寛兎。剣君は一応お前よりも年上なんだから、そういう聞き方はないだろ」
  創がフォローになっているのかいないのか分からないような台詞を挟みこんだが、しかし当の2人はそれをものの見事に無視した。
「…フン」
  涼一は敢えて寛兎に視線すらあわせず、横を向いて頬杖をついた格好。
「おい」
  それに対して寛兎は明らかに気分を害したような顔をして那智の元を離れ、さっと自ら涼一の目の前に陣取る。
「おい涼一」
「………」
「おい、バカ涼一!」
「煩ェ、クソガキ!」
「桐野は? 何で来ないんだよ。何でお前だけなんだよ」
「知るかよ! 俺だって待ってんだよッ!」
  結局無視をしきれず涼一が声を荒げると、寛兎の方はそれで気が済んだのか、フンと鼻を鳴らして、すかさず那智が持ってきたケーキに視線を戻した。
「あ! 寛兎…君…。さっき食べたばっかりなのに…ああ…」
「寛兎」
  那智や創が咎める間もなく、寛兎は涼一のケーキに手を伸ばすと、そのまま何の遠慮もなく、ぱくりとそれを口の中に放りこんでしまった。どうにも彼はその体格に似合わぬ大食漢であるようだ。いつでも周りが呆れるほどの食欲を見せては、一方で「どこか悪いんじゃないか」と心配までされる始末。
  しかしここではケーキを取られた涼一も、別段寛兎を責めるでも殴るでもない。やはり雪也の事が気になるのか、絶えず扉の方を見やるだけだ。
  …単にこれ以上「このクソガキ」の相手をしたくないから、とも言えるが。
「桐野、護とデートしてんのかよ」
  それでもうさぎは容赦がない。
  子どもだから何を言っても許されると思っているのか、それともわざとか(恐らくはかなりの高確率で後者が正解)、大きな瞳を爛々と光らせた黒兎は何気ない口調で言った。
「今日は1日中2人きりかよ」
「寛兎」
  創が嗜めるような声を出したが、寛兎は最近反抗期らしく、なかなか創の言う事をきかない。ギョッとしオロオロする那智を見るのも面白いのだろう、寛兎は平然とした態度のまま続けた。
「夕方までには帰ってくるって言ってたのに。お前、何でそういうの許してんの。それで桐野が護と一緒にアメリカついて行っっちゃったら、どうしてくれんだよ」
「はぁ…ッ!? 何…言ってんだテメエ…」
  思わず反射的に創を見た涼一だが、その保護者も「俺は知らない」と珍しく焦ったように首を横に振っているだけだ。創ですら寛兎のこの発言には驚きを隠せないようだった。
「何突然…訳分かんねーこと言ってんだよ…。雪が…アメリカ?」
「だって護が行くんだろ」
「ほんのちょっとの間だけだろ。第一行くのはあいつだけで…」
「だから雪也がそれについて行くって言ったら、どうしてくれるんだって訊いてんだよ!」
「……ッ」
  そんな事、考えもしなかった。
  涼一は小さなうさぎに指摘された「そんなありえない事態」に、しかし思い切り狼狽した。
「俺は嫌だ。桐野が遠くへ行ったら」
  きっぱりと言う寛兎に涼一は何も反論出来なかった。本来なら、「関係ないお前がそんなこと言ってんじゃねえ」とか何とか、幾らでも怒れる要素はあるはずだった。元々寛兎は優しい雪也に人一倍懐いているようなところがあったが、その懐き具合がどうにも「子どものそれ」のように思えなくて、涼一は前から兎の態度を「アヤシイ」と思っていたのだ。
  その上、今日のこの発言である。
「桐野が帰ってこなかったら、お前のせいだ!」
  それでも涼一は寛兎に何も言えなかった。それどころではなかった。
「護は」
  しかし一方、寛兎は寛兎で必死だったらしい。子ども心に大好きな雪也が何処か遠い所へ行って帰ってこないかもしれないと不安を抱えていたのか。
「護は良い奴だろ。お前と違って食いもんも一杯くれるし。雪也と一緒で優しいし。けど、ああいうのは嫌なんだ。取られるぞ、桐野のこと」
  寛兎が容赦なくぴしゃりとした声で言った。
「そ……そんなわけ……ない……。あるわけ、ないだろ……」
  情けなくも、そんな子どもの攻撃に随分と年上である大人な涼一は、しどろもどろになりながら防戦一方だった。
「雪は……雪は、俺の、で……」
「お前が余裕ぶった事している間に、護が桐野にキスとかしてたらどうする。桐野のこと、やっぱり好きだから、こんな街捨てて一緒に外国行こうとか言ってたらどうする」
「キス……? 雪が、護と……?」
「剣君、分かってると思うけど、暴力は駄目だからね」
  事の成り行きを見守っていた創がやっと声を出した。
「う……るせェッ!!」
  しかしそれが結果的に爆弾の導火線に火を点ける事になったようだ。
  突然息を吹き返したように涼一は声を荒げた。
「あるわけ…んなの、あるわけねーだろ、このクソガキ!!」
「涼一のバカ! お前のせいで桐野がいない!」
「何で俺のせいなんだ! 護のせいだろうが!」
「お前が行っていいって言ったんだろ!」
「煩い! 俺だって本当は嫌だったんだッ!!!」
  寛兎の言葉を掻き消すような大声で涼一は叫んだ。
  一瞬店内はしんと鎮まり返り、涼一のゼエハアという荒い息遣いだけが聞こえる。

「俺だって……嫌だったんだ。嫌に……決まってんだろうが…!」

  そんな中、呼吸を整えた涼一は勢い余って立ち上がった己を意識しながら、宙ぶらりんだった拳をぎゅっと握り締め、唇を噛んだ。
「俺だっ…俺だってなぁ…! 雪を護と2人っきりで何処か行かせるなんて、絶対嫌だったんだ! 絶対、絶対嫌だったんだ、すげえむかついてんだよ…! 朝からイライライライラしてしょうがねえ! 何もかもむかついてたんだよ! けど! けどなあ、雪はすげえ嬉しそうにするし、俺に何べんも礼言うし! 今さら駄目だって言えるか!? あ!? 言えないだろうがッ!!」
「……うん。君はよく我慢したと思うよ」
「うるせェ!」
  創のフォローに余計腹を立てて涼一は唾を飛ばした。
「雪は……昔、護をすげえ頼ってたわけで…。す、す……好きだった時期も、あって…。けど、今はもう違うんだ。違うって分かってる。けど、嫌なもんは嫌だ。本当はもう二度と会って欲しくないし! あいつの名前も出して欲しくねーんだよっ!」
「心狭いなお前」
「るせえッ! テメエ、さっきと趣旨違うだろ!」
「……フン」
  涼一の剣幕に一度は黙っていた寛兎だが、本心をあからさまにした男を前に、やや呆気に取られたところもあるのか、ようやく毒を吐いてそっぽを向いた。
  因みに那智はただハラハラとして両手を胸のところで組み、祈るような所作をしている。
  それを視界の隅に留めて少しだけ落ち着き、涼一ははっと小さく息を漏らした。
「雪が喜ぶ事してやりたいのに…。それが、俺じゃない他人介さないと駄目なんて…そんなの、すげーむかつくだろ。何で…何で、あいつのこと話してる時、あいつはあんな嬉しそうな顔するんだよ…? 俺は、これから先ずっと…あいつのああいう顔見てなくちゃいけないのかよ…!」
「耐えられない?」
  創の質問に涼一はぎんと睨みつけるような視線と共に即答した。
「ああ、耐えられないね! 当たり前だろ!?」
「じゃあ、別れる?」
「うぜえなテメエは! 絶対別れねえよ!!」
「手放した途端、護さんの所に行く彼を見たくないから?」
  そのあっさりとした創の再三の問いかけに、涼一は己の瞳の中に殺気すら籠めて刺々しく言葉を返した。
「バカじゃねえの!? 別れないのは、雪の事が好きだからに決まってるだろ!」
「ふうん…」
  創はにやにやと笑いながら頷き、それから扉の方へと視線を向けた。
「だってさ。桐野君」
「……ッ!?」
  ぎくりとして涼一が振り返った視線の先。
「あ……」
  そこには困惑しきったような、やや青褪めたような顔をした雪也がいた。




後編へ…