(10) サークル仲間で藤堂が想いを寄せている女性の事を知らない人間はいなかった。元々みんなの人気者でリーダー的存在である藤堂は、根が真正直という事もあったが、何より周囲の「ノリ」に弱い男であった。周りが明るく、楽しい雰囲気でいられる事が何より大事。それを守るためならば多少自分がその集団の中で道化にされる事も厭わないし、心密かに想うだけで満足だと思っていた意中の女性の名を皆の前に出してしまう事も…時にはできてしまう人間だったのだ。 藤堂が好きな女性は、名前をユカリと言った。彼女は同じ学部に所属する才女で、成績優秀な事は勿論、長く黒い髪を肩まで綺麗に垂らし、目鼻立ちの整った涼しげな顔をしている正当派の美人であった。その為、彼女は構内でもちょっとした有名人であったわけだが、だからこそ仲間内で藤堂の好きな女がユカリであると広まった時は、まさに「美女と野獣」だと面白おかしく騒がれたものだった。…ただ、それでも皆それなりに藤堂と彼女を何とか知り合いにさせるきっかけはないものかと、お節介な作戦を練ったりもしたのである。 皆、藤堂が好きだったから。 けれどユカリが好きらしいという相手の名前が分かった時、仲間たちは2人の仲立ちをする事をあっさり諦めてしまった。 「 桐野君」 重い身体を押して参加した三コマ目の講義の時、雪也はそのユカリに声をかけられた。珍しく誰にも見つからずここまで来たのにと雪也は苦々しい思いを抱いたが、極力顔には出さないように相手の顔を見上げた。彼女は相変わらず清潔感漂う格好―春らしい明るい色のロングスカートに白のブラウスを着て、自信に満ちた笑顔を閃かせていた。きっと家柄もそれなりの所なのだろうなと雪也は彼女を見る度にふっと思う。 「 ここ、いい?」 ユカリはそんな雪也の思いには気づかずに、訊きながら隣の席に座ってきた。どうしても人の目を引く、目立つ存在なので、何人かはちらちらと2人の方に視線を送ってくる。雪也はそれに気づかないフリをしてただ沈黙していた。 「 今日、剣君は来ていないの?」 ユカリは雪也の隣を確保してから開口一番そう言った。 「 午前中も見かけなかったから。部室の方には来ていた?」 「 さあ……」 どうせそんな話だろうとは思ったが、正直今の雪也にそんな会話を口にできるような余裕はなかった。それでも何とか無機的な表情でそう返す雪也を、ユカリは不思議そうに眺めてから一度教壇の方へと視線を向けた。そんな彼女の長くしなやかな指には既にシャープペンシルが握られている。雪也は彼女のその指先を何となく眺めた。 「 彼らしくもなく…落ち込んでいるって事かな」 「 え?」 思わず訊き返すと、ユカリは持っていたペンはそのままに頬杖をついてからそっとため息をついた。 「 藤堂君に聞いたの。彼、付き合っていた彼女と別れたんでしょ?」 「 ………」 「 だから、ちょっとチャンスかなって思っていたんだけど」 雪也が何も言えずにいると、ユカリは再び視線を戻して楽しそうな顔をした。 「 私、正直でしょ」 「 ………」 「 でもずっと思っていた事だから。誰と付き合っているのか知らないけど、早く別れてくれないかなって。だって自分がその女に負けているとは思えないもの」 「 ………」 「 あ、桐野君が呆れている」 ユカリは益々楽しそうな顔をしてから、すっと立ち上がって机の上に出したばかりの教科書をしまいこんだ。雪也が不審の顔を向けると、「サボるわ」と彼女はあっさりと言った。 「 剣君がいないんじゃあ…こんな講義受けてても面白くないし。自分で勉強した方が為になるしね」 彼女が講義後の質問の際にしばしば担当の教授と口論になるのを、雪也は何度か目撃した事があった。そうやって彼女が発する疑問や提議はいつも実に理にかなっていて、雪也はしばしばユカリの演説に聞き入った。彼女は確かに天才であり、そんな才女に対抗できるのはきっと涼一くらいだろうとごく自然に思ってもいた。だから雪也はユカリが涼一に想いを寄せるのもとてもよく分かる気がしている。2人なら誰もが納得するような釣りあいの取れたカップルになるに違いない。 「 あ、そういえば藤堂君がね。桐野君を見かけたら部室に来るように言ってくれって。ゴールデンウイーク、合宿に行くんですって? 楽しそうね」 「 ………」 そういったものにユカリがまるで興味がない事は雪也も知っていた。しかし、そんな白々しい台詞を吐く彼女を軽くかわす方法を雪也は知らなかった。 それにしても。 わざわざ涼一の事をユカリに言ってしまう藤堂には呆れてしまう。さり気なく「僕たちは気の知れた友達」という風に、こうやって気楽に彼女を伝言係にしてしまう事にも。 藤堂はユカリの気持ちを知ってからというもの、やたらと涼一と彼女をくっつけようとする所作を取る。そうして自分はすっかり「その想い人の親友」の座に収まって満足してしまっている感があるのだ。お陰でユカリは相手の気持ちくらい分かりそうなものなのに、その好意に甘え、藤堂を完全に「相談できるお兄さん」のように頼りきってしまっていた。…そんな2人の関係を見ているのが、雪也は何となく嫌だった。 かくいう雪也もそんなユカリに「涼一君の親友」という事でよく話しかけられてしまうのだが。 雪也はため息をついた。 「 桐野君、それやると幸せが逃げるわよ」 よく言うでしょ、とユカリは何かを探るような目をして言った。そして彼女は何も答えようとしない雪也の返答を待たず、後はもう振り返りもせずに颯爽と教室を出て行ってしまった。入口のところにたむろしていた何人かの男子学生がそんなユカリの後ろ姿を眺めて何事か言っている。雪也はその光景をじっと眺めてから自分も席を立った。 家に帰ろうと思った。 ゴールデンウイークに雪也が所属するサークルが新入生歓迎の意も含めて「合宿」を行うという話は、前々から聞いて知っていた。藤堂やその他の仲間たちは新年度が始まる前からその話をよくしていたし、合宿とは名ばかりの「お泊まり会」で何をしようかと、事あるごとに大勢で談笑しているのも聞いていた。 勿論、雪也はそんな合宿に参加する気はなかった。それ以前に、もうあのサークルに参加するつもりはなかったから、今度藤堂に会った時にでもその話をしなければと雪也は思った。その際は…何と言おうか。アルバイトが忙しいから。本格的に勉強をしたいから。他にやりたい事が見つかったから。言おうと思えば理由は幾らでも頭に思い浮かべる事ができる。後は言うだけだ。実に簡単な事である。 それでも雪也は、ため息をついてしまった。 涼一は今年の合宿に参加するのだろうか。 |
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「 俺、実はあんまり行く気がしないんだよな」 去年の年末、サークル連中でスキーに行こうという話で盛り上がった時、部室で散々乗り気の態度を示していた涼一は、帰り際雪也にぽつりとつぶやいた。 「 あんな大人数でさ。好き勝手滑れるってわけでもないだろうし。泊まる所だってどうせボロイ民宿だろ?」 「 剣、スキーとか好きかと思った」 「 別にそれ自体は嫌いじゃないよ」 涼一はそう言ってから、少しだけ何かを考える素振りをしてから楽しそうに続けた。 「 たとえばさ、雪と2人でなら、そりゃもう行きたいね。絶対行きたい。雪、スキーできる?」 「 中学校の時、スクールがあったけどあんまり……」 「 ホント。なら尚更行きたいね。俺、すげーうまいんだぜ? 雪に手取り足取り教えてあげたい」 「 いいよ」 「 いいよって何だよ。その迷惑そうな顔は」 それでもその日の涼一は機嫌が良かったのか、断ってきた雪也に別段気分を害する風もなく、快活な口調で後を継いだ。 「 絶対楽しいだろうな。大体俺ン家以外で雪とどっか泊まった事ってないじゃん。旅行とか行こうって言っているのに、雪はいつもバイトが入っているしさ」 「 ……母親1人になるし、あんまり遠出は……」 「 何だよそれ。雪ってマザコン?」 「 そんなんじゃないよ」 「 あ、それじゃあ合宿は?」 「 ……俺、行くつもりない」 「 えー!」 涼一はそんな雪也の発言にいたくショックを受けたようで、歩いていた足をぴたりと止めてから子供のように口をとがらせた。 「 何だよ。それじゃ俺も絶対行かない。ただでさえ行きたくないって思っていたのに、雪までいないんじゃやってらんねえ。それに俺さ、雪があいつらと同じ部屋で寝ないといけないというのを想像して、すげえ気を揉んでたんだぜ?」 「 何で?」 「 何でじゃねえよ」 涼一はぴしゃりと言ってから、再び足を動かし始め、立ち止まって自分を待つ雪也の胸をこつんとこずいた。 「 ったく、そういう事はさっさと言えよな。……でもさ」 そして涼一は一旦口を閉じてから、少しだけ雪也の表情を伺い見るようにしてからそっと言った。 「 いつかは行こうな。二人で、何処かさ」 その時雪也は、数日くらいならば母親も自分の旅行を認めてくれるのではないか、少し頼んでみてもいいかもしれないと思ったのだった。 |
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夕食を作りおきしてからバイトに行き、後はほぼ朝方思い浮かんだ通りの一日を雪也は過ごす事ができた。予定していた講義に全て出る事はできなかったが、昨日の今日でここまでできれば上等だと思う。まだ足も、腰も、そして頭も痛かった。 それでも雪也は働く事が好きだと感じた。 勉強も嫌いではなかった。けれど正直、あの大学、あの学部に所属しているからと言って、将来はこんな仕事を、こんな企業への就職を、と言った事をじっくりと考えた事はなかった。自分の学年の連中は同じように殆ど考えてもいないような感はあったが、目標が高い連中はダブルスクールをしたり、積極的にゼミに入ったり。それぞれ自らのやりたい事を精一杯やっているように見えた。 けれど雪也にはそういった「目指したいもの」がなかった。自分は何をして生きていきたいのか、自分には何が向いているのか、考える事ができなかった。自分だけがそうなのだとは思わない。皆一度や二度はそういった悩みを抱えるに違いないとは思う……が、だからと言ってそれが何かの慰めになるのかと言えば、当然の事ながらそれは何の意味もない事実でしかなかった。だから鬱々とする時、雪也はつい独りの世界に閉じこもりがちになった。 そのせいかもしれないが、アルバイトは好きだった。 余計な事を考えなくても良いから。 「 えー、何ィ? 聞こえないよォ」 不意に、雑誌売り場で若い女性が大声でそう言うのが聞こえた。深夜のコンビニに似つかわしくないその音量に雪也がレジから首を伸ばすと、どうやら女性客の1人が不意にかかってきた携帯に反応しているようだった。顔は見えないが、軽くパーマをかけた赤い髪にミニスカートを履いたその女性は、けたたましい声で何やらしきりに楽しそうな口調でぺちゃくちゃと話し始めた。店内はそれほど混みあっているというわけでもなかったが、残業帰りのサラリーマン風の男性や、2人連れのカップルがちらちらとそちらに嫌悪や好奇の視線を送っているのが雪也にも分かった。 雪也はそれら店内の雰囲気を一通り眺めた後、レジに視線を戻した。 「 あの、これ……」 その時、不意にレジカウンターにやってきた客がペットボトルのウーロン茶とおにぎり、それに数種類のスナック菓子をカウンターにどさりと差し出してきた。 「 いらっしゃいませ」 機械的に雪也はそう言い、品物を手に取った。 「 あの、桐野さん」 「 え……?」 「あ…こ、こんばんは」 普段、客の顔などまともに正視しないので、雪也は名前を呼ばれるまで、その人物の事にはまるで気づかなかった。 「 大変ですね、こんな遅くまで」 その人物は、おどおどとしながらも優し気な笑みを雪也に向けてきた。 雪也は驚きながらも機械的に頷いた。 「 あ…はい、まあ……」 しかしその態度は相手を不安にさせたらしい。レジに立ったその人物は、慌てたようになって唾を飛ばした。 「 あっ! も、もしかして私の事覚えてないですかっ? 服部那智です! あの、は、創の親戚筋の」 「 あ、はい」 しきりに慌てふためく相手に、雪也も動揺して何故か急いで頭を下げた。 この卑屈過ぎるくらい卑屈な女性・服部那智は、雪也が「淦」を訪れた際に出会った創の従姉であった。相変わらずおどおどとした風貌、それでも何とか笑おうとしている姿が痛ましい。雪也はそんな那智をまじまじと見やってから、「こんばんは」とようやく挨拶を返す事ができた。 「 覚えてないわけないですよ。会ったばかりじゃないですか」 商品の会計を進めながら、雪也は少しだけ笑って見せた。それだけで那智は心底ほっとしたように息をついていた。 「 よ、良かったです。桐野さん、気づいていないようでしたからどうしようかと思ったのですが、やはり何も言わないのも…と、色々考えまして」 「 声をかけるのがですか?」 「 あ、はい。私、普段あまり自分から人に話しかけるという事をしないものですから」 那智はやや背中を丸めた格好でそう言い、それから所在なさげに商品の方へとひたすら視線をやっていた。なるほど、確かに人と話すのは苦手そうだ。雪也が商品を袋に入れている時も、彼女はただ一点だけを見つめていた。 「 パーティでもやるんですか」 だから雪也は自分から話を振った。袋二つにいっぱいになった飲み物や食べ物に目をやって、それから那智にそれを差し出す。那智はそんな雪也に恐縮しながらも薄く笑った。 「 いえいえ、そういうわけではないのです。でも今日はお客さんがいつもよりもたくさんいらしているものですから」 「 ……? 淦にですか?」 「 ええ」 那智は言ってから雪也に合計金額ぴったりのお金を差し出した。財布をしまい、それから袋を二つ抱えて彼女はやや苦笑する。 「 おかしなお店でしょう。お客さんにお菓子を配ったり…おにぎりをお出ししたりするのですから。でも、これも創の趣味みたいなものです」 「 はあ……」 「 桐野さんも、アルバイトが終わったら、良かったらお越し下さい」 那智はそう言って、再びぺこりと頭を下げてから店を出て行った。那智が店から姿を消すと、再び店の中で大声を出す女性の声が雪也の耳にはキンと入ってきた。 それでも雪也は那智の背中を追うように、視線を店の外へとやっていた。 雪也がレンタルショップ「淦」へ到着したのは、那智が去ってから2時間あまりが過ぎた頃だった。 「 こんばんは」 言いながら引き戸をガラリと開ける。 今日のBGMはポールニューマン主演の「ハスラー」だった。雪也はこの映画が結構好きだ。 「 ああ、桐野君か」 いつものカウンターの所で創がそう言って軽く手を上げた。それから、ちょいちょいと自分のすぐ横を指差し、「君の友達は我がままだね」と言った。 「 え……」 すぐに事態を飲み込む事は不可能だった。 「 おい、長考するなって言っているだろ」 けれどその後すぐに聞こえてきたその声は、すっと雪也の聴覚を刺激した。その後、何故この声がここで聞こえるのかと頭の中でぐるぐると思考が巡る。 そんな雪也の様子には気づかず、言葉を投げかけられた創の方は雪也から視線をその相手に戻し、ただ素っ気無い返答をしている。 「 君が早打ち過ぎるんだよ」 「 俺、ノロノロしているの好きじゃないんだよ」 「 それは君の勝手だけどね。俺がそれに合わせる義理はない」 「 ちぇ」 「 どうしたの、桐野君。早くおいでよ」 雪也は自分が立つ位置からその人物の身体を半分しか認められはしないものの、その影にすっかり怯えて、店の入口から一歩も動けなくなってしまった。そんな雪也に、けれど創は立ち上がって依然手招きをしている。 「 どうしたの、桐野君。さっき那智姉さんが君と会ったと言っていたからね。そろそろ来るだろうと思っていたんだ。食べる物もまだあるよ」 「 あ……」 それでも雪也が茫然としていると、創と一緒にいる人物―涼一は、構った風もなくガーガーとした声を振り投げてきた。 「 おい、ビデオ屋、早く打てって!」 「 ああ、分かったから、そうわめくな」 2人はチェスをしているようだった。これも雪也の位置からはっきりと盤面を見ることはできなかったが、幾つか立てられた駒を認める事はできた。 一体どうして。 雪也が未だに動けずにいると、不意に背後で引き戸がぴしゃりと閉まった。 「 ……ッ!?」 ぎくりとして振り返ると、店のすぐ外、入口の目の前にあの少女が立ってこちらを見上げていた。少女はいつもの白いワンピースを着て、赤いリボンをして。やはり同じ格好をしていた。 「 あ………」 「 開けたままにしないで」 少女が言った。 もっとも、それははっきりと聞こえたわけではなく、少女の口の動きがそう言っているように見えただけなのだが。 雪也がそんな少女にただ目を奪われていると、彼女はじっと見据えていた視線を外し、たっと駆け出して行ってしまった。呼び止めようと、後を追おうとした時、再びカウンターの所から創が声をかけてきた。 「 いいんだよ、桐野君。どうせすぐまた戻ってくる」 「 え……」 雪也がそれで驚いたように創を見ると、彼はもうパイプ椅子にどっかりと座り、チェスの盤面にひたすら目をやっていた。 涼一も雪也に背中を見せたままだった。 |
To be continued… |