(11) 創は雪也にペットボトルに入ったコーラをグラスに並々注いでくれた。 「 あ、椅子はそこにあるから」 そうして創は涼一がいるすぐ横の棚に立て掛けてあるパイプ椅子を顎でしゃくり、後は再び盤面に目を向けて押し黙った。涼一はどことなく気が散った風になっていて、手にしていたポーンをカウンターの上でくるくると回して遊んでいたが、その間にもちらちらと雪也の方を見ては、また不機嫌そうな顔になっていた。 「 なるほどね」 不意に創がつぶやいた。それからようやく決心したように、自分のナイトを横にずらす。涼一はフンとそんな創の手を鼻で笑ってから、また考える間もなく自分の駒を動かしてきた。創はぴくりと眉を動かしてから、「君ねえ」と何やらひどく嫌そうな顔をして見せた。 「 ………」 雪也が黙って立ち尽くしたままそんな2人を見やっていると、奥から那智が顔を覗かせた。 「 あ、桐野さん。いらっしゃい」 「 あ…はい」 雪也がぺこんと頭を下げると、那智は殊のほか嬉しそうな顔をしてから、手にしていたトレイを3人がいるカウンターの所まで運んできた。 「 オレンジがよく冷えてきたので、切ったところなのです。桐野さんが来てくれて、ちょうど良かったです」 「 あ…すみません」 「 姉さん、桐野君に椅子出してあげて」 「 え…あ……」 「 そうしてあげないと座らないだろ、君」 「 い、いいよ、自分で!」 「 い、いえいえ、私やりますよ!」 創の言葉に雪也と那智は一瞬あっ気に取られたようになったが、やがて2人同時にあたふたと慌てながら、パイプ椅子に腕を伸ばした。一瞬早く雪也がそれを手に取り、自分でそれを立て掛けて腰を落ち着けた。 その場所は涼一のすぐ隣、だったのだけれど。 「 ……駄目だね、参った」 その時、創がふうとため息をついてそう言った。 「 だから俺は強いって言っただろ」 「 そうだね。君、かなり性格が悪い」 「 頭脳派って言えよ」 創はそれでも勝負に納得がいかないものがあるのか、眼鏡の縁を指で上げながらしきりに1人で検討を始めていた。涼一の方はと言えば、もう完全にゲームには興味を失ったのか、出されたオレンジに手を伸ばしている。それから、またちらりと雪也の事を見やってきた。 雪也は思わず視線を逸らした。 「 珍しいね、創が負けるなんて」 那智が言った。それは相変わらずひどく小さな声だったけれど、心底驚いているような口調であった。それから涼一に視線を送り、那智は遠慮がちに訊ねてきた。 「 剣さん、チェスお好きなのですか?」 「 え? ううん、別に。ガキの頃ちょっとやったくらいかな。俺、どっちかって言うと外で遊ぶ方が好きだしさ」 初めて那智に出会った時の涼一は、雪也が傍で見ていて心配になるほど彼女にひどい態度を取っていたが、今は随分柔らかい口調だった。 雪也はそんな涼一をこっそりと見つめた。 「 そうなのですか。それにしてはすごく強いです」 「 俺、天才だから」 「 自分で言うなよ」 創が顔を上げずに釘を刺してきた。が、涼一はそれに対しても別段動じた風もなく、「負けた奴が何言っても駄目だよ」と涼しい顔で返している。 雪也はそんな3人の中にどうにも入れずにいた。 来なければ良かったと思った。 「 ……あ、桐野さん。オレンジ嫌いですか?」 しかしそんな雪也に気づいたのだろうか、那智が気を遣う風に声をかけてきた。 「 あのですね、これ、私たちの叔母が田舎から送ってきてくれた物なのですよ。お店で売っているのよりも、とても甘くて美味しいんですよ」 「 うん。美味い」 「 あ、良かったです」 涼一が言った台詞に那智もほっとしたようになって笑った。それで雪也も仕方なくそろそろと手を出してそのオレンジのひとかけらを口に含んだ。甘く冷たいその果汁は、乾いた喉を十分に潤してくれた。 「 姉さん、うさぎの分も残してある?」 その時、創がふと思い出したようになって顔を上げた。雪也と涼一が怪訝な顔をしている中、那智は「うん、奥に取ってある」と言って薄っすらと笑んだ。 「 何、ウサギもオレンジなんか食うの?」 涼一が問うと、創はそこでようやく気が済んだのか、チェスの駒を片付け始めながら「まあね」とだけ返した。それから盤を那智に渡すと、それを片付けに奥へと消えた従姉を見送ってから、創は相変わらずの無機的な顔で雪也の方を見やった。 「 桐野君、今日は一段と元気ないね」 「 え……」 「 映画、借りて行く?」 「 ………」 「 選んであげるよ」 「 おい」 その時、涼一が思い切りむっとしたようになって創につっかかった。 「 お前、さっき俺が選べって言った時、あっさり『嫌だ』って言わなかったか?」 「 言ったよ」 「 気分じゃないって言っていたじゃないか」 「 言ったよ」 「 何でコイツには選んでやるんだよ」 雪也を気にしながらそう言う涼一に創はひどく冷めた目を向けていたが、やがてあっさりと言い放った。 「 気分じゃないと言ったのはね。君の為に選ぶ気分じゃないって事さ。桐野君は別だよ」 「 何だよそれ!」 「 真夜中なんだから声量は低めにしてくれ」 「 おかしいだろうが!」 「 おかしくないよ。人間には好き嫌いがあると言うことさ」 「 ……コイツの事が好きって事かよ」 「 君の事が嫌いって意味さ」 創の言い様に雪也は驚いてただただ絶句してしまったが、涼一の方は相手のその台詞で却って冷静になったのか、すっと落ち着いた顔になった。それから低い声でつぶやくように創に言った。 「 お前…チェス負けたからって逆恨みしているだろ」 「 ……そう思うかい」 「 お前こそ、嫌な奴だ」 「 今度またやろう。次は負けない」 「 誰がやるか!」 がたんと椅子を蹴って立ち上がると、涼一はぐるんと創に背を向けて、「邪魔したな!」と吐き捨てるように言った。それから、ふっと忘れていたという風になって雪也の手首をぐっと掴んだ。 「 あ…!?」 「 帰るぞ、雪」 「 え…ッ」 面食らっている雪也に、涼一は問答無用でぐいと更に自分の方へと引き寄せると、頑とした口調で言った。 「 もうここに用はないんだから帰るって言ってるんだよ!」 「 だ、だって俺……」 「 いいから行くぞ!」 「 桐野君」 その時、創が実によく通る声で雪也の事を呼び止めた。明らかに様子のおかしい雪也たちの行動に別段動じた風もないその静かな目は、しかし2人の動きを止めるには十分な迫力があった。 「 またおいでよ。待っているから」 「 ……うん」 「 来させねェよ!」 「 剣ッ…?」 慌てたように呼ぶ雪也に、けれど涼一は応えなかった。後はもう力任せに、それこそ腕が抜けてしまうのではないかというくらいの力で、涼一は雪也の手を引っ張った。そして空いている方の片手で店の引き戸を開けようとした時―。 「 な……っ」 「 ………」 あの少女が再びガラリと引き戸に手をかけ、2人の間をするりとぬって店の中に入り込んできた。さすがの涼一もそれで一瞬あっ気に取られ、そんな少女に目を向けていたが、すぐに気を取り直すと、自分よりも数段茫然として少女を目で追っている雪也を咎めるように店の外へと飛び出した。 「 は…痛いってば…!」 強引に店の外に連れ出されてから雪也はようやく抗議の声を上げたが、涼一はそれでも掴むその手を離さなかった。きっとした目を向けて、すぐに雪也を店の前に停めていた自分の車に押し込む。 「 や…っ!」 抵抗する間もなかった。バタンと激しく閉められた助手席のドアの音に、雪也はただただ萎縮した。だから運転席に乗り込んできた涼一の事も怯えたように見つめる事しかできなかった。 「 ………」 だが涼一もすぐには言葉を発してこなかった。キーを差し込んだままエンジンもかけようとしない。雪也はただ居た堪れなくて俯いてしまった。 そんな沈黙がどのくらい続いたのだろうか。しばらくしてから涼一が口を開いた。 「 今日、大学行ったのかよ」 それは静かな声だった。何かを抑えたような、我慢するような声。ただそれは雪也には返答のしやすい口調ではあった。 「 ………うん」 それで雪也が少しだけ顔を上げてそう応えると、涼一はすぐにまたむっとしたようになって乱暴な声を発してきた。 「 お前、どういう神経してんだ? 昨日の今日でよく行けるな」 「 ………」 「 バイトも。だるくないわけ? 身体」 「 ……平気」 「 足だって痛いんだろうが」 「 え……」 相手の言葉の意味が今一つよく分からずに雪也が聞き返すと、涼一は何やらバツの悪そうな顔をしてぷいと顔を逸らした。 「 足だよ、足。引きずってんじゃねェかよ。この間の…あれのせいだろ」 「 あ……」 涼一は自分が車から蹴り飛ばしたせいで雪也が足を痛めてしまった事に気がついているようだった。言われた瞬間、忘れかけていたピリリとした痛みが足首からしたような気がしたけれど、雪也はただ黙って首を横に振った。 「 ………痛いんだろ」 すると涼一は余計困惑したような顔をしてから、それを否定した雪也の顔を覗きこんできた。それはどことなく恐る恐るという風だった。 「 別に平気だから」 「 ………」 「 剣も……」 「 あ……?」 「 熱、大丈夫なの……」 「 何だよそれ……」 「 身体ずっと熱かったし…部屋に体温計あったし、ちょっと気になっていたから」 「 ………」 自分を無理やり押し倒してきた涼一の身体はいつもよりも体温が高いような気が、雪也にはしていた。無論、強引に組み敷かれていた時にそんな気遣いの言葉は吐く気がしなかったが、それでも気にはなっていた。 明らかにいつもの涼一の温度と違っていたから。 それは単に身体だけの問題ではなかったのだが。 「 ………別に」 「 平気なの」 「 お前の方が平気じゃないだろ!」 涼一はそう言ってから、キーを捻ってエンジンをかけた。雪也はそれではっとなってようやく慌てた。 「 剣。俺、今日は帰らないと」 「 帰るよ」 「 ………?」 「 俺ン家に」 涼一はそう言って車を出し始めた。雪也はそれで益々困惑した声を上げた。 「 駄目だよ。俺、昨日も勝手に家空けているし。母親が心配しているから」 「 知るかよ、マザコン」 「 剣……!」 「 煩ェな!」 けれど涼一は「淦」のある通りを出てからすぐに車を停めた。はあと大きく息を吐き出し、両手をハンドルに乗せたまま。 涼一は動かなくなってしまった。 「 ………剣」 涼一は応えなかった。ただぐっと唇をかみ締めて、下を向いている。雪也にはそれがたまらなかった。あまりにもいつもの涼一の姿と異なっていたから。 「 ………許せないんだろ、俺のこと」 だからそう言った。 「護」の事を引きずっていたつもりはなかった。護を好きなくせに、涼一と付き合っていたというつもりもなかった。けれど、涼一が怒るだけの事を自分はしたのだと、それだけはもう理解していた。涼一の想いに応えるだけの事を自分は今まで何もしてこなかったのだ。 「 嫌いだろ、俺のことなんか」 「 ……そうだよ」 涼一がやっと声を出した。それはどことなく投げやりな言い様だったけれど。 「 むかつくんだよ、お前なんか」 「 うん」 「 うん、じゃねェよ。分かったように頷くなよ」 「 ごめん」 「 謝るなって!」 だからお前はバカなんだ。 イラつくんだ。 だから俺はそんなお前が嫌いなんだ。 「 くそ…ッ!」 涼一は息も継がずにそうまくしたててから、いきなり自らの頭をガンと思い切りハンドルに叩きつけた。そして唖然とする雪也に、そのまま顔を上げずぽつりと言った。 「 でも……」 「 え…?」 「 でも、好きだ…」 「 え………」 「 好きだ…」 「 剣……?」 問い掛けると、ようやく涼一はゆっくりと顔を上げて雪也の方を見やってきた。ぼうっとしたような、濁った眼が雪也に突き刺さる。そしてやはり涼一は熱があるのだろう、どことなく熱っぽい手を雪也の頬に当ててきた。 「 剣……」 もう一度呼んだが、けれど涼一は応えなかった。その代わりそっと顔を近づけてきたかと思うと、そのまま雪也の唇に自分の唇をくっつけた。触れるような、遠慮したようなその口付けは珍しく本当に一瞬のものだった。 「 雪…」 涼一がすぐに唇を離した後、至近距離のまま呼んできた。雪也はそんな相手の顔をただじっと見やったまま、すぐに返事をする事ができなかった。けれど涼一によって与えられた唇への熱は、雪也の身体全身を確実に侵食していった。 「 ………」 お互いに沈黙が続いた。雪也にはどうして良いか分からなかった。いつも率先して言葉をくれる涼一、いつも自信有り気に引っ張ってくれる涼一だったから、自分から何かを言わなくても、切り出さなくても良かった。 けれど涼一はその時何も言わず、ただ「雪」と呼んだきり、何も言ってはくれなかった。 「 俺、我がままでごめんな」 時々涼一はそう言ってすまなそうに雪也に謝る事があった。 「 何かさ、止まらないって言うか。時々無性に雪に我がまま言いたくなる」 「 何で」 「 何でかな。俺が雪の事、すごく好きっていう証拠」 そうして涼一は決まって雪也の事を強く抱きしめた。抱きしめてキスをしてきた。 「 く…すぐったいって……」 雪也が困ったようになって暴れると、涼一はその後大抵面白そうに笑った。 そして言った。 「 ははっ。雪、大好き」 あんな時、自分はいつもどんな顔をしていただろうか。 そして涼一はどんな風に自分を見ていたのだろうか。 きちんと考えた事はなかったと思う。 「 雪。着いた」 その時、走っていた車が止まった。 結局涼一は何も言わないまま雪也を自宅まで送ってくれた。元々雪也の自宅が「淦」からさほど離れていないという事もあって、2人で車内にいた時間はとても短いものだった。 「 ……おやすみ、雪」 車を降りようとした時、背中越し声をかけられた。その涼一の淋しげな声に、雪也はズキンと胸が痛むのを感じた。 |
To be continued… |