(12)



  幸いな事に母の美奈子も昨夜は家に帰ってきていないようだった。暗い部屋の中、オレンジの光を点滅させている電話の留守録ボタンを押すと、そこからひどく有頂天な母の声が流れてきた。
『 雪也? 今夜、母さん帰れないわ。急にデートの約束が入ったから。今回はとってもうまくいっているのよ。今度あんたにも会わせるわね』
  それは聞き慣れた台詞ではあったが、母・美奈子の明るい口調は、今の雪也にはありがたいものだった。どうせ今度の相手も長続きはしないだろうが、それでも機嫌の良い時期が少しでも長ければそれだけ自分は助かるのだ。失恋した後の母親は毎度手がつけられなくなるから、雪也は顔も知らない新しい恋人に正に縋る思いだった。
  実の父親の事は知らない。
  写真もないから、顔も分からない。死んだと言う話は聞かないから、きっとどこかにはいて、自分たちとは別の人生を歩んでいるのだろうと思う。
  そんな父親とは今まで会う機会に恵まれる事はなかったが、恐らくそれはこれからもそうだろうし、それはそれで構わないと雪也は考えている。もっとも、そう思えるようになったのも高校にあがってからの話で、やはり幼い頃は母親がひどく自分を叱った時や酒を飲んで絡んできた時、また家で1人ぼっちでいる時など、まだ見ぬ父親に会いたいと願う事もあった。

  護の事を好きだと感じるようになってからは、徐々にそんな父親への想いも薄くなっていったのだが。
  雪也は留守録のテープを巻き戻してから部屋の電気をつけ、手にしていた家のキーを乱暴にテーブルの上に投げ捨てた。それはガチャリと派手な音を立てたが、勢い余ってそのまま下の絨毯に落ちるという事はなかった。その様子を何となく眺めながら雪也は次に腕時計を外し、傍のソファにボスンと腰をおろして、そのままそこに身体をうずめた。
  疲れた。
  声にならない声が出て、雪也は斜めに横たわった姿勢のまま目をつむった。壁にかかっている時計の秒針がカチコチと随分大きな音で鳴っているように感じる。それでも、今日この部屋に母親がいなくて本当に良かったと雪也は思った。
  涼一。
  それから、今別れたばかりの相手の名前を思い浮かべてみる。おやすみ、と淋しげに自分の背中に声をかけた涼一は、やはりいつもの涼一とは違った。何かを堪えて、何かを抑えて。それでも全部を我慢するのは嫌だと言わんばかりの声だった。
「 剣涼一……」
  今度は声に出して言ってみる。するとそれは先刻よりもより現実感を伴って、自身の前に現れたような気がした。雪也は閉じていた目を開き、それから何かに押されるように身体を起こした。そしてその勢いのままだっとリビングの入口まで行き、そこに置いておいた鞄を引き寄せて中から携帯電話を取り出した。涼一の部屋に置いてくる事ができなかった、元は涼一のそれ。自分はこんな物はいらないと言ったのに、無理に持たされた自分と涼一を繋ぐ物。
  着信アリ。
  音を消していたからだろうか、雪也ははっとなり、その文字をじっと見つめた。迷ったのは一瞬。けれどその後すぐに着信履歴からそこへかけ直す。
  相手はワンコールもしないうちに出た。
「 ………何で」
  思わず掠れた声でそれだけを言うと、向こうは小さく笑ったようだった。
『 それ。携帯。ちゃんと持って帰ってきたかなと思って』
「 ……今、運転中?」
『 ううん』
  相手は短くそう答えてから大きく息を吐いた。それから一間隔空けていつもの口調に戻って訊いてきた。
『 ママさん怒っていた?』
「 ……ううん。帰ってなかった」
『 ホント。良かったじゃん』
「 剣」
  呼ぶと、電話の主―涼一は、「ん」と短く返事をしてから雪也の言葉を待たずに再び声を出してきた。
『 雪。好きだから』
「 ………」
  何も言えずにいると、涼一はそんな雪也の態度も予想していたのか、受話器の向こうで薄く笑ったようだった。それから実に素っ気なく言った。
『 ……それだけ。じゃあな』
「 剣―」
  けれど雪也が言いかけた時、電話は切れた。むなしく聞こえる電話音に、雪也は再び胸が痛くなるのを感じた。
  その痛みをかき消すように、雪也は息を止めたまま玄関先まで一気に走り、ドアを開けた。
  家の前には、やはりまだ涼一の車が停まっていた。
「 剣」
  呼ぶと、車の中の涼一は外に出てきて自分を呼ぶ声に意表をつかれたような顔をしていた。車に近づく雪也にただ呆然と視線を送ってくる。雪也はそんな涼一には構わず、足早に運転席へ回り、閉じられた窓をどんと叩いた。
「 剣。開けて」
  もう一度どんと強く叩くと、涼一は更に困惑したような顔をしてから、しかし素直に自分の座る側の窓を開けてきた。雪也はそれでやっと呼吸する事を思い出したようになり、はあっと大きく肩で息をした。
「 ……勝手に」
  こんな事を言ったら、きっと涼一はまた怒るだろう。そうは思ったけれど、それでも今しか言えないような気がした。だから雪也はまくしたてるように言った。
「 勝手に自分ばっかり言いたい事言って、ずるい…」
「 ………雪」
「 勝手に怒ったり…好きだって言ったり…殴ったり…。俺、どうしていいか分からない」
「 ………」
「 でも…剣が今いるって思ったら……帰ってないって思ったら…何か、身体動いていた」
「 ………」
「 剣」
「 ……帰ろうと思った」
  涼一の声はひどく頼りな気だった。けれど真っ直ぐな瞳はやはり雪也に注がれたままだった。
「 今日は帰らないと…雪、ちゃんと送ってやらないと、今度こそ本当に駄目になるって思った…。けど俺、本当、どうしたんだろうな…雪、ばっかりでさ」
「 剣……」
「 頭の中、雪ばっかりだ。情けねェ。すげえ、悔しい」
「 ………」
「 腹立つよ。頭くる」
「 ………うん」
  まただ。
  またズキンとくる痛みを胸に感じて雪也は眉をひそめた。涼一はそんな雪也の表情を、自分の気持ちを負担に思う故の事だと感じたのだろう、ますます顔を曇らせて堪らなくなったように視線を逸らせた。
「 お前のせいなんだぜ、雪……」
「 ……うん」
「 バカ。うんじゃねえよ」
「 うん」
  けれどそれしか言えなかった。そんな雪也に、涼一は却って脱力したのだろうか、苦笑したようになって微かに肩を揺らした。それで雪也も何だかほっとして少しだけ笑った。
  それから、涼一に泊まっていかないかと言った。


*


  もうすぐ明け方だから、母親は今夜もきっと帰ってこない。朝方帰ってくる事は滅多になかった。そういう場合は大抵そのまま仕事場に向かってしまうのが常であったし、昨夜のあの調子なら恐らく大丈夫だろう。そういう気持ちが雪也にはあった。
  雪也は母親がいる時に誰かを家に入れるのが嫌だった。
  それは幼い頃から何となく抱くようになった消しようのない気持ちであり、それは近所の友達であろうと、勿論護であろうと同じ事だった。人と母親の間に自分が立つのがたまらなく嫌だった。
  だから涼一を家に上げた事も殆どなかったと言っていい。
「 久しぶりだな…この家」
  涼一はひどく懐かしそうに言ってから、リビングを見渡して先ほど雪也が座っていたソファに腰をおろした。どことなく気だるそうなその様子に、雪也は表情を翳らせた。
「 やっぱり具合悪いの」
「 ん……」
「 身体…だるそうだし」
「 雪は」
  涼一はごまかすようにそう切り替えしてから、静かに微笑した。ああ、こういう顔をする涼一はやはり綺麗だなと雪也は思った。
「 俺は楽して生きているから。雪こそ疲れただろ。バイトだって、してきたばっかりなんだから」
「 ……うん」
「 でも、入れてくれて嬉しい」
  涼一は言ってから手持ち無沙汰のようになって俯いた。そこに座るでも部屋に入るでもなく入口の所に突っ立っていた雪也は、間が持たなくなったのを苦しく思い、わざと明るい口調で「何か淹れる」と言ってリビングと繋がっているキッチンへ入った。
「 俺、冷たいのがいいな」
「 分かった」
  今までの険悪さが嘘のように、柔らかく交わされる言葉。雪也はそれが壊れない事を祈りながら、冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注いだ。
「 はい」
「 ……雪は?」
  グラスが一つしかない事に怪訝な顔を見せる涼一に、雪也はそういえば自分の分は何も考えていなかったという事に気づかされて沈黙した。どう答えようかと困惑したままその場に立ち尽くしていると、涼一の方も苦笑したようになって「これ、一緒に飲もう」と短く言った。それで雪也もようやく隣に腰をおろした。
  しばらく2人共何も言葉を発しなかった。それでも、先ほど煩いくらいに聞こえていた時計の音は聞こえなくて。ただ、隣にいる涼一の息遣いが妙に耳に響くような気がした。
「 お袋さん」
  その時、突然涼一が口を開いた。雪也に飲みかけのグラスを渡してから、ゆっくりと言葉を選ぶように話し出す。
「 相変わらず、仕事忙しいの」
「 あ…うん」
「 すごいよな、女手一つで家まで買っちゃってさ」
  涼一は以前も家に来た時に、そんな事を言っていた。父親がいない事は何かの話の流れで話した事はあったものの、自宅が一戸建てだという事はそこに連れてくるまで言った事はなかったのだ。だから涼一は初めてこの家を見た時、大層驚いたものだった。
「 2人で広すぎない、この家」
「 うん。でもうちの母親ってマンションとか駄目なんだ」
「 何で」
「 すぐ隣に他人がいるって考えると、それだけでもう駄目なんだって。だから引越しの時もどんなに古くてもいいから一戸建てって。ここ、必死に探していた」
「 でもこの家、結構新しいよな?」
  小綺麗な白い壁や比較的高い天井を見上げながら涼一は尚も感心したように言った。
「 前の恋人が紹介してくれたんだよ。不動産関係の人でさ」
「 ………へえ」
  母親の男性遍歴の話も、いつか涼一にはした事があった。だから涼一はそれ以上の事を問おうとはしなかった。
  思えば、この涼一には何でも話してきたと思う。家族のこと、生活のこと、護のこと。
  それに比べて自分は涼一からどんな事を訊いただろうか。
「 ……な、雪」
  そんな事を考えこんでいる時、不意に涼一が声色を変えて呼んだ。
「 何」
「 ………」
「 どうしたの…?」
「 あのさ、あのビデオ屋」
「 え……」
「 好きなの」
「 つ………」
  こちらを見ないでそう訊いてきた涼一に雪也は思わず絶句した。
  けれど、その刹那。
「 悪い、何でもない、最悪だ。何でもない、忘れて。本当、絶対訊くかって思ってたのに」
「 ………剣」
「 何でもない。何でもないから」
「 ……そうは見えないよ」
「 ………」
  雪也が言うと、涼一はぐっと唇を噛んでまた何かを堪えるように顔を逸らせた。それからはあと再び大きく息をし、「何でもない」と自分自身に言うようにつぶやいた。
「 ……今日、いつ行ったの」
「 ん……」
「 淦に」
「 ああ……いつだったかな。とりあえず行った時、あいつはまだ大学だとかで。あの那智さんって人が映画貸してくれたから二人で観ていた」
「 そうなんだ…」
  那智と涼一。果たしてきちんとした会話が成り立っていたのか甚だ疑問であったが、映画を観ていたというのだから、別段問題はなかったのだろう。そして、涼一が那智に対しての態度を軟化させていた訳もそれで分かった。
「 俺、どうしてもお前にビデオ貸したって奴の…創の顔見たくてさ。俺、嫌だったんだ。お前が俺の知らない所で俺の知らない知り合い作るの。すげえ、たまらなかったんだ」
「 ………」
「 あいつ、お前の事、友達だって言った。それもむかついた」
「 何でチェスしていたの」
「 何でだっけ。多分あいつが相手しろって言ったんだよ。俺はチェスなんかに興味ないし。ただ、今夜もきっと雪は店に来るってあいつ言っていたし、だったらそれまで時間潰しでやるのもいいかなって思った」
「 ……剣、チェス強かったんだな」
「 どうだっていいよ」
  涼一は投げやりにそう言ってから、またふうと息を吐いた。やはり熱があるのだろう。どことなく苦しそうだった。雪也は益々心配になり、無意識のうちにもう手を差し出していた。顔を逸らす涼一の額に手を当てる為、自分の身体を寄せて声をかけた。
「 休んだ方がいいよ」
「 ………」
「 やっぱり熱……」
「 雪」
  けれど、言いかけた瞬間もう雪也は涼一に抱きしめられていた。熱っぽい身体が雪也の身体全身を締め付けた。それと同時に涼一の切ない気持ちもどくどくと入り込んできた。
「 ……雪。ごめんな」
「 剣……」
「 俺、代わりでもいいからさ」
「 え……」
「 護の代わりでいいからさ。だから、あいつとは会うなよ」
「 何言って……」
「 護がお前に会いに来ても…会わないでくれ。頼むから……」
「 剣、だから何言―」
  けれど雪也は、その時最後まで涼一にその言葉の意味を問う事ができなかった。
  バタンと。
  不意に玄関のドアが開く音がして、ばたばたと激しい足音が響いてきたから。
「 ちょっと、雪也。あの家の前の車―」
  言いながらリビングのドアを荒々しく開けたのは、母の美奈子だった。
  酔っているようだった。
  酒に強い性質であるから普段なら多少飲んでも顔色は然程変わらない。…が、ひどい時はいつも化粧が乱れ、目が充血していた。今はその一歩手前というところだろうか。着ている服も皺くちゃで乱れている。

「 ………あら」
「 お邪魔しています」
  涼一が頭を下げて丁寧に挨拶すると、美奈子は据わっていた目を強引に何度かこすりあげてから、無理に笑ってみせた。
「 涼一君よね。久しぶりじゃない、元気だった」
「 はい。すみません、こんな時間に遊びに来ていて」
「 あら、そんな事はいいのよ。泊まっていこうと思って来たんでしょ。雪也はバイト明けなの?」
「 うん」
「 お母さんも仕事で疲れたから今日は午後まで寝るわ。昼頃起こしてね」
「 うん」
  酒の臭気を部屋中に放っておいて仕事も何もなかったが、母親に言わせればあちこちの業界関係者と知り合い、親しく付き合う事は、彼女のビジネスにおいて何を置いても必要な事らしかった。それは勿論そうなのだろうが、問題なのはそれが仕事上の付き合いなのか、はたまた母言うところの「デート」なのかという事で。…もっとも、それをいちいち問い質そうという気持ちが雪也には一切ないのだった。
  そんな息子の態度には構う風もなく、美奈子は派手なイヤリングや指輪を外しながら、思い出したように口を開いた。
「 ああ、そうそう、表の車ね。あれ涼一君のでしょ。通れないって事はないけど、お向かいとかが車出す時にちょっと狭くなっちゃうと思うから。うちの駐車場に入れちゃって」
「 あ…はい。でもおばさんの車は?」
「 いやあね、涼一君。前会った時、あたしの事は美奈子さんって呼んでって言ったでしょ」
「 あ、すみません」
  けらけらと豪快に笑う美奈子に、涼一は人好きのする笑みを向けてさらりと交わしていたが、それを雪也は恨めしい気持ちで見つめた。
  今はまだいい。この程度で済んでくれれば良いと思う。
「 あたしはタクシーで帰ってきたから、車はないのよ。だから入れちゃって平気」
「 あ、じゃあ、入れてきます」
  涼一は素直にそう言うと、すっくと立って玄関に向かって行った。美奈子はそれを静かな微笑と共に見送っていたが、雪也がそれに半歩遅れてついて行こうとすると。
  彼女は実にさり気ない所作で自分の脇を通り過ぎようした雪也の腕をぐいと掴んだ。

  それはもの凄い力だった。
「 雪也」
  その声は、ひどく凄みのあるものだった。

「 あんたねえ…いい加減にしなさいよ」
「 ……何が」
  涼一は外に出て行ってしまった。部屋には美奈子と雪也の2人きりである。しんとした空間の中で蒼褪める雪也を、美奈子はひどく冷めた目で見やった。
「 随分長いじゃないのよ、今回のコは」
「 ……え……?」
「 護ちゃんの事はもういいの?」
「 何……」
  母の発した言葉の意味を、雪也は理解できなかった。茫然とする雪也に、美奈子はまるで蔑むような眼を向けて言った。
「 あんた。そうやって何人も男たぶらかすの、本当もうやめなさい」
「 母さ……?」
「 ……我が息子ながら恐ろしい」
「 ……ッ!」

  その言葉は雪也が遥か昔に心の奥底に沈めて忘れ去った言葉と、ひどく似ていた。



To be continued…



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