(13) 数日ぶりに雪也が大学へ行くと、教室に入った途端藤堂が待ち構えていたように声をかけてきた。 「 久しぶり。何だよ、2年になった途端不真面目になったな」 「 うん」 「 ははっ。うんと来たか」 それはまあいいけどよ、と藤堂は一旦区切ってから、しかし不服そうに口を尖らせた。 「 でもお前本当にゴールデンウイークの合宿行かないのか? みんな楽しみにしてんだぜ?」 「 あ…うん、悪いけど」 「 バイト?」 「 うん」 「 そんなになあ、金貯めて外国にでも行くのか?」 「 別に…特に考えてはいないけど」 「 あーあ、涼一も行かないと言うしさ」 「 ………」 藤堂はそう言ってから両腕を頭の後ろに組み、気だるそうに大きな身体を背後の椅子に寄りかからせた。けれど不意に前方に座るユカリの姿に気づいた藤堂は、はっとなったようになってそちらへ視線を向けた。勿論、ユカリの方はそんな藤堂などに気づかず、楽しそうに友人らとの談笑を続けている。 「 ……いいな」 その光景に何か切ないものでも感じたのだろうか、藤堂はハアと大袈裟なため息をついた。それから不意に上体を雪也の方に向け、憮然として言う。 「 ……勿体無ェよな」 「 え?」 「 涼一の事だよ。あんなさ、美人がテメエに惚れているっていうのに」 「 ……ああ」 「 俺は涼一なら、その…いやまあ、涼一がいようといまいと関係ないけど、けど涼一なら、ユカさん取られても仕方ないって思ってたんだよ。あいつ我がままだけど、まあ出来た奴だし。ユカさんが惚れるのも分かる」 「 ………」 「 けどよ、あいつ彼女にフラれても全然他に行こうとしなかっただろ。しかも! フラれたってヤケになっていたの、ありゃ一体どんくらいだ? あっという間に立ち直って、ホント振り回されたこっちはバカみてえ」 喋るうちに段々腹が立ってきたような藤堂に、雪也は何と返して良いのか分からず、ただ沈黙した。 涼一を家に泊めたあの夜から、再び雪也たちは元の関係に戻りつつあった。 以前のようなしつこいくらいのアプローチはなくなったものの、涼一は今までのような柔らかい態度に戻り、極力雪也の傍にいようとした。そうして、一体いつの間にそういう事に収まったのか、雪也は藤堂伝いで「涼一、元の彼女とヨリ戻したらしいぜ」という事を聞かされたのだった。 「 あいつさあ」 藤堂が続けた。 「 ホント、その彼女と喧嘩したらしい時、マジ凄かったよな。桐野も散々巻き込まれていたみたいけど。あいつがあんなに乱れたの初めてだよ。…なのに、今のあの豹変ぶり。まったく」 「 ……そういえば今日、剣は?」 「 ん? ああ、何か今日は忙しいみたいな事言っていたけどなあ。何なんだろな、大学には来てないみたいだけど。どうせ彼女とデートだろ」 藤堂の面白くなさそうな、それでいて親友を許容しているような表情に、雪也はやはり何も言う事ができなかった。 |
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涼一を家に入れた日。 運悪く母親も帰って来てしまい、雪也は涼一を家に招いた事を少なからず後悔する事になったが、それでもそのお陰で涼一の精神状態はぐっと落ち着いたようだった。 雪也の部屋で2人、明け方頃寝入る事になったわけだが、ベッドの傍に引いた布団の上で涼一はばたりと寝そべってからぽつりと言った。 「 雪。俺たち、またやり直せる?」 そうして雪也が答える前に、さっさと後を続けた。 「 怒っていていいんだ。勝手な事ばっか言ってお前傷つけてさ。俺の事許せなくてもいい。けど俺、やっぱりお前といたい」 「 剣……」 ベッドから身体を起こして雪也が涼一を見つめると、涼一の方はもう当に雪也の方に視線をやっていて。 そして言った。 「 さっき……お袋さんに、何か言われただろ」 「 え……」 「 いい。言わなくていい。俺、知ってるんだ。聞かされたから」 「 何を……」 「 ………」 「 何を」 胸の鼓動が激しくなり、雪也は努めて声を押し殺しながら再度訊いた。先刻、車を入れにその場を外して、母が自分に言った台詞を涼一は聞いていないはずだった。 男をたぶらかすのは―。 母親に言われた事が信じられなかった。護の名前を出された事も衝撃的だった。今まで色々な事で母の美奈子から言葉の攻撃を受けてきた事はあった。学校の成績が悪い、身体が弱い、性格が暗い、はっきりしない…。それはいずれも自分が気にする事柄ではあったが、それでも今夜言われたような話が母の口から漏れる事はなかった。 母は知っていたのだろうか。 護との事。 自分の性癖の事も。 「 ねえ、剣……」 居た堪れなくなり、再度涼一を呼んだ。涼一はじっとそんな雪也を見つめていたが、やがて目を瞑ると静かな声で答えをくれた。 「 お袋さん、お前の事知ってる」 一瞬、息が詰まった。 「 護との事も知ってる。俺、本当はお前から護の事聞く前に…お袋さんからその話教えてもらってた」 「 え………」 問い返した声は涼一の耳に届いたのだろうか。 喉の奥がひりひりした。 「 剣……?」 「 ……一回、酔っぱらったお袋さんと会った事あるだろ。いつだったかな」 「 いつ……」 「 忘れた。けどずっと前、こうやってお前の家遊びに来た時に聞いたんだ。びっくりしたよ」 ふっと笑ってから涼一は両腕を頭の下で組んで、はあと大きく息を吐いた。 「 俺たちの事は…どうかな、俺はとぼけたけどな。知っているだろうな」 「 ………」 「 言っても良かったんだぜ、俺は? 俺はあんたの息子に惚れているってさ。けど、きっと雪が嫌がると思って言わなかった。誉めてよ」 「 剣……」 「 嘘。何が誉めて、だよな?」 自分でさっさとそう言ってしまって、涼一は、今度は自分自身を卑下するように小さく笑った。そうして、ごろりと身体を反転させて雪也に背を向けた。 「 何か…真面目に熱出てきたみたい。俺、寝るな」 「 剣」 「 おやすみ、雪」 「 剣……」 けれど言いかけて雪也は口を閉ざした。母親は涼一に護の事をどう言ったのだろうか。気になったが、それを今の剣に聞くのはひどい事のような気がした。 護ちゃんの事はもういいの? 母は何故今頃そんな事を言うのだろうか。あんな昔の人のことを、もう二度と会う事もないだろう人の事を、何故あんな風に怒った目をして今更持ち出したのだろうか。そもそも護との事が母にバレていたというのも雪也にはショックに違いなかったが、それを知って今まで黙られていた事も、雪也には大きな打撃だった。 酔った時の母がああまで自分に冷たかったのは、そのせいなのか。 色々な考えが雪也の中で響いては消えた。 そうして翌日には、昨夜の記憶など全くないと言って頭を抱える母・美奈子に、雪也はいつも通りの態度で接するしかなかった。 |
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大学の講義を全て終えて帰ろうとした頃、携帯が鳴った。 「 涼一?」 隣にいた藤堂の問いに雪也が頷きながら電話を取ると、向こう口からは実に明るい声が響いてきた。 『 雪。今日、バイト先行くから 』 「 あ、うん…」 『 じゃ、終わる頃迎えに行くな 』 「 うん」 『 じゃな 』 会話はそれだけだった。雪也の返事だけでは要領の飲み込めない藤堂が「何だって、あいつ?」と興味深そうに訊ねてくる。 「 バイト明けに来るからって」 「 何だ、また?」 藤堂は慣れた目をしながらも少しだけ太い眉をぴくりと動かし、どうにも得心しないように顔を歪ませた。 「 あいつ…本当に彼女とうまくいってんのか?」 「 何で」 「 だって、桐野にくっついてばっかじゃん」 「 ………」 「 ホント、あいつおかしいよな。お前にべったりでさ」 特に何の含みもない藤堂の言葉だからこそ、雪也には何となく痛かった。努めて平静を装いながらも、駅に着くと雪也はまるで逃げるように藤堂と別れた。 悪い事をしているような気持ちだった。 家に帰るとテーブルの上には母からのメモが置かれていた。今日から三日間、出張で家を留守にするというものだった。泊まりがけのデートならデートと、母はそういう事は隠さずに言う人であるから、これは本当に仕事なのだろうと思った。アルバイトに行く前に母の夕食を作ろうと思って戻って来ただけだったから、思わぬ時間の空きに雪也は脱力して、すとんと傍のソファに腰をおろした。それからおもむろにテレビのリモコンに手を伸ばす。ぱっとついた明るい画面からは、再放送らしい一時間もののドラマが映し出された。誰と誰が結ばれて、誰と誰が別れたという感じの恋愛ドラマだったが、雪也には出演している俳優も女優も誰1人知っている顔がなかった。普段からテレビをあまり見る方ではなかったが、そういえば涼一と付き合うようになってからますます見る機会が減ったなと何となく思った。 しばらくはそんな賑やかなテレビの音に全てを委ね、雪也はぼっとした時間を過ごした。そして、涼一は一体どうしてわざわざ電話してきたのだろうかとふと思う。いつもなら電話など特にしたりはしないのに。やはりここ最近は気まずい事が多かったから、少し遠慮しているところがあるのかもしれない。雪也はテレビに目をやりながら、そんな事を考えた。 そんな時だった。 電話が、鳴った。 「 誰だろ……」 あまり電話の鳴らない家ではあった。母親は仕事の話はオフィスの方に掛けさせる事を基本としていたし、それ以外は全て自分の携帯に連絡を入れさせていたから、その手の電話はめったになかった。母親と仕事をしている人間たちも美奈子が自分たちの望む時に捕まりにくい人間だという事は十分承知しているようだったし。だからたまに自宅に掛かってくる電話といえば、何らかの勧誘や、たまに親戚が知らせてくる法事の日程くらいなもので、雪也の知人関係にしてみたらその三分の一にも満たなかった。それくらい、桐野家の電話が鳴るというのは、珍しい事だったのだ。 「 はい桐野です」 それでもすぐに立ち上がって電話には出た。出先の母親からかもしれないと咄嗟に思ったからだった。 『 ……… 』 「 桐野ですが」 『 ……… 』 しかし電話の主は何も喋って来なかった。よくよく耳を済ませると、周囲はどこかの街中なのだろう、車の騒音や通り過ぎる人々の声が遠くから聞こえた。公衆電話か何かからだろうか。 「 ……もしもし」 一応もう一度だけ応答を求めたが、やはり返事がなかったので雪也は自分から受話器を置いた。悪戯電話などそれこそ久しぶりだった。そういえば子供の頃は夜中にそれが一本鳴っただけで恐ろしくてどうしようもなくて、すぐに護の家へと逃げ込んだものだ。ただでさえ暗くて広い家の片隅で1人心細い思いをしているというのに、そんな時の悪戯電話の主は、ひどい悪意を持った言葉で小さい雪也を苦しめたのだ。 そんな時、護はいつも怯えて泣きじゃくる雪也に明るい話をしてくれた。 護。 一体、今頃は何をしているのだろうか。年齢から言うともう社会人になっていてもおかしくはない年だ。護の事だからきっと人の為になる何かをしているのだろうなとすんなり思える。護があの頃と変わった人間になっているとは、雪也にはどうしても思えなかったから。 優しくて、楽しくて。 好きだった人。 それでも、もう会う事はないのだ。 アルバイトにはもう慣れていたが、時々その時間にはふさわしくない騒がしい客が来ると、雪也は心の中でひどく鬱屈とした気分に陥った。今夜も不意に派手な格好をした男女が2人、大声で何事か笑い合いながら店の商品を物色し始めた。あれやこれや何が必要だ、これはいらないと言いながら、その間ごとに何故か何度もキスをし合い、互いの身体に触れあっている。一緒にレジに入っていた壮年の店長はちらちらとそちらに視線をやりながら少しだけ嫌そうな顔をしていたが、やがて店内の商品チェックをしに裏へと消えて行った。店の中は雪也とカップルの男女、それに雑誌を手にしている若い男性客1人のみとなった。 雪也はちらりと腕時計に目をやった。もう0時を回ろうとしていた。 「 す…みません」 その時、いつの間にレジカウンターの所にまで近づいて来ていたのだろうか、先刻まで雑誌コーナーの所に立っていた男性客がやや震えた声で雪也に話しかけてきた。あまりにも煩いカップルに心ならずも目と耳を奪われていた雪也は、完全に意表をつかれてしまい、慌てたようになって「はい?」と裏返った声を出してその男性に視線を向けた。 瞬間、自分の目に飛び込んできたその男性の顔に。 「 え……?」 雪也は硬直した。 「 雪」 最初、相手の声はどことなくその人のものではないような、堅く緊張した調子に思えた。けれど、第二声で雪也を「雪」と呼んできたその声は、まさしくあの人の声だった。 「 ………」 雪也は声がなかった。けれど、目だけは相手に注がれて離す事ができない。最初、ドキンと心臓が張り裂けそうになり、それから周りの時間が止まった。呼吸が荒くなって、どっと汗が出てくる感覚に捕らわれる。頭がぼうっとして、目の前にいる人の姿がただ信じられなかった。 「 あ…やっぱり…」 そんな雪也の態度に、向こうは予想していたような顔をしつつもひどく悲しそうな顔をした。 「 忘れちゃったかな、俺のこと」 優しい目が困ったように笑うと、少し切れ長の目がより一層細くなる。穏やかな口許から漏れる心地よい澄んだ声。短く刈ったさらりとした黒髪は、以前別れた時と同じ髪型のままだった。ただ、心なしか前よりも背が高いような気がした。 それなのに、向こうの方が驚いたようになって雪也に言った。 「 でも雪、本当大きくなったなあ…。すごい、背、伸びただろう?」 「 ………」 「 そうだよな、雪と別れたの、雪が中学生の時だから。そりゃ…変わるよな」 「 ………」 「 でも、すぐ分かった。見てすぐ雪だって分かったよ。…すぐ、分かったよ」 「 ………」 「 あ! ごめんな、何か俺勝手に喋って。忘れているよな、俺のことなんか」 忘れるわけがないじゃないか。 そう思ったが、声に出して言う事はできなかった。ただ茫然としたまま、視線を注ぐ事しかできなくて。見つめる事しかできなかった。 そんな雪也に、相手はますますどぎまぎしたようになりながら必死に口を継いだ。 「 俺、以前雪が住んでいた家の隣に住んでいた護だよ。冴木護。えーと、あ、そうだ! UFOごっことかやったろ! ただ単に布団かぶって、『ガーン、ダダダ!』 とか言っているだけの遊びだっただけど。ははっ、でも雪すごく好きだったんだよな、あれ」 「 ………」 「 あ、覚えてない? そっか…じゃあ、あれは!? 俺がすごく好きだった本をさ、お前が落書きしてボロクソにしちゃって。俺死ぬほど怒ってお前泣かせたんだけどさ、あの後お前の―」 けれど、そこまで言って護は思わず口をつぐんで雪也の事をまじまじと見やった。不意に真面目な顔になり、雪也にそっと手を伸ばす。 「 お前の泣き顔見たら、俺の方が悲しくなって泣いちゃってさ…」 「 ………」 「 覚えている、雪?」 やはり声が出なくて、けれどこの時はようやく頷く事ができた。護はほっとしたようになって笑った。 「 良かった……」 そして護はそう言ってから、さり気ない所作で雪也の頬を親指の腹でそっと撫でた。それで雪也は自分が泣いていた事に気づいた。 「 雪」 護の声がこんなに近くで聞こえる事が雪也にはまだ夢のような気がした。 「 雪」 それでも再度そう呼んでくれる、あの懐かしい呼び名。自分をそう呼ぶのは、本来護だけだった。いつの頃からか涼一が同じようにして呼ぶようになっていたが、本当は女の子のようでそう呼ばれる事には抵抗があった。 けれど、護にそう呼ばれていたあの当時は何故かそれが嬉しくてたまらなかった。護に呼んでもらえるのならば、呼び方なぞ何でも良かったのかもしれない。 「 雪、誕生日おめでとう。今日…だよな」 「 え……?」 そして不意にそう言ってきた護の台詞に、雪也は初めて声を出して反応を返した。護はそれに殊のほか嬉しそうな顔をしてぱっと表情を明るくすると、また心なしか震える声で言った。 「 …やっとだ。やっと…長かった…」 「 ……?」 そう言って寂しそうに微笑む護に、雪也は訳が分からずただ声を失っていた。 |
To be continued… |