(14) 初めて護に告白したのは、12歳の時だった。 母親に叩かれた日などは、雪也はよく護の家へ行った。護の家には護の他に、護の母親と父方の祖母がいた。父親は、仕事の関係で年に数回見るか見ないかくらいの人だったが、稀に顔を合わせるといつも一緒に遊ぼうと言ってくる、とても気さくな人だった。 護の一家は雪也には常に温かく接してくれていた。 「 あら、雪也ちゃん。こんばんは」 その日も雪也は母親が出かけた後、冴木家の玄関チャイムを鳴らした。 「 今日は何だか寒いわね。夕飯はきちんと食べた?」 深夜にやってくる突然の訪問者にも、護の母親は嫌な顔一つせずにっこり笑っていつもそんな事を言った。それから扉を大きく開いて雪也を家の中へ招き入れると、二階の自室にいるだろう息子に階段脇から大きな声を投げかけるのだった。 「 護―! 雪也ちゃんが来たわよ!」 「 おや、雪也。来たのかい」 早寝なはずの護の祖母も、よく自室から出て来ては雪也に声をかけてくれた。皺だらけの顔を更に一層皺くちゃにして、彼女は雪也に「早く上がれ、早く上がれ」と言ってくれるのだった。 「 ………こんばんは」 それでも雪也はそんな護の家族に対して、おどおどとした態度しか取れなかった。年を追う毎にいくらかマシにはなっていったが、子供の頃の雪也は基本的に「大人」と話をする事を異様に畏れていた。頭の真上から降り注ぐ大きな声や、あからさまに落ちてくる視線がただただ脅威に思えた。護の家族が自分を大切に思っていてくれるという事を知っているのに、どうしても雪也は護以外の人間に心底心を開くという事ができなかった。 一体どうしてだったのか…。 「 ああ、雪。上がれよ」 だから雪也は護が二階の部屋から出て来て階段上から自分に声をかけてくれるのを確認する事によって、初めて安堵する事ができた。ほっとして少しだけ笑い、ようやく靴を脱いで階段を上る。それは雪也がこの町に引っ越してきてから去るまでの約10年間…5歳から15歳までの間に、絶えず行われ続けた一種の儀式だった。 「 まだ起きていた…?」 「 うん。今、期末試験中だから」 雪也が護を慕って頻繁に冴木宅を訪れるようになったのは、幼い頃よりもむしろ1人で食事だの洗濯だの家の事を一通りできるようになってからだった。無論、それまでも寂しい夜などはすぐに駆け込んで護を頼ったものだが、その頃…護に初めて告白した年の訪問頻度は、本当に半端ではなかった。 当時、12歳の雪也に対し、護は15歳だった。 「 もうすぐ高校受験だし」 「 部活も忙しい?」 「 まあまあかな?」 「 ………ふうん」 護が中学生になってから、2人で遊ぶ回数は目に見えて減った。部活や勉強、新しい世界の中で、護はどんどん雪也から離れて行った。雪也にはそれがとてつもなく寂しく、辛いものであった。同じ小学生だった頃は、護は何かというと雪也の事を気にして面倒を見てくれていたのに、互いに成長するにつれ、2人の間には以前のようなバカバカしいくらいの「仲の良さ」というものが消えて行ってしまったような気が、雪也にはしていた。 だから雪也は護が中学に上がってからは、より一層護に甘えるようになったのだ。 「 部屋、明かりがついているの見えたから」 雪也がたどたどしく言葉を出すと、護はにっこりと笑って頷いた。 「 うん。俺も雪が起きているの見えていたよ」 「 ………護」 「 ん?」 「 ………」 護にしてみれば、自分は今も昔と変わらず雪也と接しているつもりだっただろう。けれどその時の雪也には、護の優しい態度も温かい笑みも、何もかもが無理しているもののように思えた。 だから時々ひどく卑屈な事を言ったりもした。 「 邪魔だった?」 「 何で?」 「 ……いきなり来たし」 「 別に、そんなのいいよ」 護は言ってから、「立ってないでそこに座れよ」と言って部屋の隅にあったクッションをベッドのすぐ傍に敷いて、自分もその横に座った。 「 勉強中だったんでしょ?」 それでも雪也がいじけたように言うと、ここで護は苦笑した。何もかも分かっているというような顔だった。 「 ちょうど休憩しようと思っていたところ。それに最近また雪とあんまり話してなかったし。今日も美奈子おばさん、帰り遅いのか?」 「 ううん。さっき帰って、また出て行った」 「 そっか」 特に多くは訊かずに、護は少しだけ困ったように笑ってから、「早く来いよ、雪」と優しく言って雪也を手招きした。それで雪也がようやくおとなしく傍に来て座ると、護はじっとそんな「 弟分」の顔を覗き込むようにしてから、そっと言葉を出した。 「 また殴られたのか?」 「 ………」 「 雪。我慢したら駄目だぞ」 「 ……うん」 その温かい声を聞くと、雪也はいつもほっと安心した気持ちになれた。 「 本当に分かって『うん』って言っているのか? 雪はすぐそうやっていい子になっちゃうからな」 「 いい子じゃないよ」 「 そうかなあ」 護はくすりと笑ってから雪也の髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまぜ、それからぎゅっと肩に腕を回してくれた。そうやって護に抱き寄せてもらうのも雪也はとても好きだった。思えばその頃から、雪也は護の肌に触れるのが何よりも自分の喜びだと知っていたのだと思う。だからそんな時は強く頭をこすりつけて護の身体にへばりついた。普段だったら、昼間だったら絶対にしないそんな事も、この夜の時間だと平気でできた。 「 雪は本当子供だな」 そんな時護は必ずそう言って笑ったが、それでも決して雪也を突き放すという事はなかった。 「 雪も来年は中学なのにな。本当、大丈夫かな」 「 ……護は高校生になるんだね」 「 ん? うん、そうだよ」 「 どこの高校に行くの?」 「 うーん、まだ分からないけど。近くの公立に行くよ」 「 また陸上やるの」 「 さあ。何かやると思うけど、何で」 「 ………」 自分が中学に上がっても、今度は護が高校で、またすれ違いだった。護は再び新しい出会いの中で色々な事をして、また一歩もニ歩も自分の先を行くのだろう。それを考えるとやはり寂しくて仕方なかった。 「 嫌だな……」 ぽつりとつぶやくと、その悲しい気持ちや居た堪れない気持ちがどっと出て来てしまったような気がした。そして同時に、その夜母親からされた仕打ちに胸がかっと熱くなり、不意に涙が出てきてしまった。 「 雪?」 護が心配そうに声を出した。一生懸命慰めようと頭をなでてくれたけれど、その晩はいつもよりもずっと寂しくて辛くて雪也は涙を止める事ができなかった。そうして、その時初めて自覚した護への想いにはっとして、また重く痛い気持ちに襲われた。 「 雪…叩かれたところが痛いのか? 大丈夫か?」 様子のおかしい雪也に護は尚も優しい言葉をかけてくれた。 「 俺には全部言えよ。隠すのは駄目だからな」 「 うん……」 雪也はそれでつい思った事をそのまま口にしてしまった。 それが雪也の初めての告白だった。 「 僕…護のこと、すごく好きなんだ…」 |
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「 雪」 コンビニエンスストアの前に停めてあった車の前で手を挙げた護。それは本当に夢ではなく、現実に起きている事だったのだが、雪也にはまだそれをはっきりと認識する事ができなかった。 向こうもさすがにまだ態度がぎこちなかった。それでも助手席のドアを開けて雪也に笑いかけた。その笑顔は、やはり昔の護と同じだと雪也は思った。 胸が高鳴る。 「 バイト、途中で抜けて大丈夫だった?」 運転席に乗り込んできた護がエンジンをかけながら遠慮がちに訊いた。雪也もそんな護に対して、妙に固まった首をがくんと縦に振るので精一杯だった。それでも何とか息をつぎながら、伏し目がちに声を出した。 「 …具合悪いからって言って……」 「 え?」 「 すぐ、出て来ちゃったから…」 「 …はは、雪もそういう事やるんだなあ…」 戸惑ったように投げかけられたその言葉に、雪也はぎくりとして顔を上げた。護は昔、中途半端なことをする奴は嫌いだとよく言っていた。バイトとは言え、仮にもお金を貰っている仕事に対しそんな事をして、軽蔑されたりはしないだろうか。急に不安になって、雪也は自然と冷や汗をかいた。 「 あ…雪…? 俺は嬉しいよ…?」 するとそんな雪也に護はすぐ気づいたようになって、慌てて口を開いた。それからやはりあたふたとした態度は変わらぬまま、困ったように前髪をかきあげる仕草をした。 「 本当、突然こんな風に来てごめんな。俺、ホントいきなりだよな。信じられないだろ?」 「 うん……」 「 そうだよな。ずっと会ってなかったもんな…。雪が引越ししたあの日も…俺、挨拶に来たお前と会えなかったし」 「 ………」 「 あ…何か、俺一人で喋っているな。本当、ごめん」 護はそう言ってから一旦口を閉じ、一体どこから話したら良いものかというように逡巡したようになった。 「 何か…俺、さっきから変だな……」 「 ………」 「 本当に久しぶりだから……」 護はそう言ってから、やはり無理したような笑顔を雪也に見せた。けれどその笑顔はやはり優しくて温かくて、雪也にはほっとするものだった。たとえ向こうが気を遣って作ってくれた笑顔でも、雪也には嬉しいものだった。 「 お……」 だから、何とか声を出そうとした。緊張で喉がカラカラだった。 「 え?」 「 俺、も……」 「 あ……」 「 何か…うまく話せなくて……」 「 そ、うだよな」 雪也の精一杯の言葉に護も精一杯応えて、それから何かを我慢するように視線を逸らせた。そして不意に車を出して言った。 「 この近くのどこか…ファミレスとか入る? 俺、雪とちゃんと話がしたいんだ」 「 うん……」 「 何処か近くにあるかな。俺、実はこの辺りの事良く知らなくて―」 ドン。 その時。 「 あ………」 駐車場から出ようとした護の車の窓を突然叩いた者がいた。 護は背後を見ながら道路に車を出そうとしていたところで、自分のすぐ横の窓を叩く人物を認めるのが雪也より一拍遅れた。 「 何だ……?」 けれど、雪也はその人物と思いきり目があった。驚いてブレーキを踏んだ護の横で、雪也はその窓を叩いた人物を見て硬直した。 「 剣………」 雪也のつぶやきの後、涼一は立て続けに車の窓を割らんばかりの勢いで叩いてきた。 「 雪! 降りろ!」 そして涼一は身体を屈め、護がいる方の窓から雪也の事を見やりながらそう怒鳴った。 「 何してんだ、降りろ!」 それは車内にいても十分過ぎるくらいよく通る大声だった。 「 雪、知り合い?」 護が車を元の位置に戻し、車のエンジンを止めてから凍りついたような雪也にそう訊いた。雪也は何と答えて良いか分からず、それでも涼一の言うまま車を降りる事もできずにただ助手席に収まって沈黙していた。 「 雪!」 涼一がもう一度叫んだ。それは周囲に歩いている人がいたら思わず目を向けてしまうような、凄みを帯びた声だった。幸い周囲に人はいなかったのだが、コンビニからは店長が不審の目でこちらを見ているのが遠目越しにも分かった。 「 何ですか?」 動かない雪也に代わって護が運転席を降りて涼一と対面した。身長は少し護の方が高かった。面と向かうと少しばかり護が涼一を見下ろす形になる。けれど涼一の方はややぎらついた眼を護に向けたまま、低く殺気だった声を出した。 「 あんた、護だろ」 「 え?」 いきなり自分の名前を出されて、護は思い切り面食らった顔をした。それはそうだろう。見も知らぬ人間がいきなり敵意の眼差しで自分の名前を呼んできたのだ。おまけに走り出そうとする車の窓を割られる勢いで叩かれ止められて、雪也に降りろと命令する。護にしてみれば、どう良い方に解釈しようとしても、好意的には取れない相手のように思えたはずだ。 「 そうですけど……」 それでも護は努めて冷静に涼一と接しようという方向で決めたようだった。少しだけ首をかしげてから、ちらと雪也を見て、口を開く。 「 貴方は? 雪の知り合いですか?」 「 そうだよ……」 「 雪、友達?」 「 …あ……」 「 違うよ」 雪也が困って口を開きかけたところを、涼一が先にぴしゃりとそう制した。護はそれでますます怪訝な顔になり、改めて涼一を見やってから言った。 「 友達じゃないけど、知り合いなんですか? それで雪に何の用なんですか?」 「 お前こそ何なんだ。本当に来るか、普通」 「 え?」 「 何考えてんだよ。何で来たんだよ。あんたにとってコイツなんて過去の人間だろ」 「 ………それ、どういう意味?」 「 俺は全部知っているって言ってんだよ。あんたの事。あんたとコイツの昔の事」 「 剣…ッ」 か細い声で涼一を呼んだ雪也の声は、しかし2人の耳に届かなかったらしい。冷ややかな空気が流れる中、すっかり表情を隠してしまった護は、ただじっと涼一のことを見やっていた。対照的に、涼一は堰を切ったように口を継いだ。 「 もう分かっただろ。あんたの事は、俺はコイツから聞いて全部知ってるんだよ。コイツから聞いたんだ。昔の男の話。つまり、そういう事」 「 ………」 すっかり声を失っている護に、涼一は余計カッとしたようになってその胸倉をぐいと掴んだ。今にも殴りかからんばかりの勢いだった。それを見た瞬間、雪也は不意に金縛りが解けたようになって、慌てて助手席を降りるとそのまま2人の元へ駆け寄った。 「 お前、ホントふざけてんのかよ?」 「 剣、やめろよ…!」 雪也の声を涼一は完全に無視した。 「 雪は俺のなんだよ。もうとっくに俺だけのものなんだよ。それを、今更出てきて何しようってんだ? 謝りたいなら謝れば? それだけだろ、お前がしたい事なんて」 「 え……?」 涼一の発言の意味が分からず掠れた声で問い返す雪也に、護が一瞬視線を向けた。 「 さっさとしろよ。それで終わりだろ。まさかこのままコイツに取り憑くとか、言うなよな」 「 ……雪」 雪也に話しかけながら、護は自分の胸倉を押さえつけている涼一の手をぐいと引き離すと、静かな声で言った。 「 この人の事、好きなの?」 「 え……」 「 俺らの事はお前には関係ないだろうが!」 「 ある」 護は頑としてそう言いきってから、真っ直ぐな視線を雪也に向けた。 「 俺は雪が誰と付き合っていても構わない。元々雪がまだ1人でいるなんて思ってなかったし…そうでなければいいって思ってたから」 護はそう言ってから自嘲気味に笑った。 「 でもそれは、雪が本当にその相手を好きならって意味だ」 「 護……」 呼ぶと護はそんな雪也に視線を向けて寂しそうに微笑した。 「 俺は雪の事傷つけて、本当…ひどい事した。お前が俺の事許せないって思ったのも当然だから…」 「 何…それ……」 護の言っている意味が分からなくて雪也は混乱した。一体何の事を言われているのか分からなかった。護にひどい事などされた記憶がない。許せないと思った事もない。確かに最後の別れの日に護が顔すら出してくれなかった事は、それだけは悲しかった。あの無理に抱いてもらってぎこちないまま時を過ごした後だっただけに、あの別れは後味の悪いものだった…が、それでもあの当時自分を支えていてくれたのは、間違いなくあの護だったのだから。護がいたから救われた事がたくさんあったのだから。彼が自分に何をしたという事は、少なくとも雪也の中では一切なかった。 それを、護は一体何を言っているのか。 「 雪。俺、だからお前に会ってちゃんと謝りたいってずっと思っていたんだ。本当はあの別れた日に、ちゃんと謝りたいって」 「 だから何を…?」 「 もうこれでいいだろ!」 しかし、再度訊こうとした雪也の前に、涼一が立ちはだかって2人の間を塞いだ。そうして未だ混乱して何も言えない雪也を無理に引っ張り、道路に停めていた自分の車に乗せようとした。 「 待っ…。ちょっと剣、待って…」 「 もうコイツに用なんかないだろ!」 「 でも俺まだ何にも…!」 「 雪!」 その時、護がやや早足で雪也の元に行き、車に置いていたのだろう、綺麗に包装された小さな箱の包みを雪也に差し出した。緑色のリボンがひどく鮮やかだった。 「 これ…誕生日プレゼント。最後に…これ、受け取って」 「 護…」 「 行くぞ、雪!」 箱を受け取った雪也に更に怒りの表情を浮かべつつも、涼一は強引に雪也を自分の車に押し込んで、そのままドアを閉めた。それから護のことを睨みつけて叩きつけるように言った。 「 二度と来るなよ。お前だってその方が気楽だろ」 「 ………」 「 コイツの事は忘れろよ。元々別に好きじゃなかったんだろ? ただのほっとけない隣のガキだったんだろ?」 「 違う……」 「 煩ェ! 今更遅いんだよ!」 護の言葉を一蹴して涼一は自分も車に乗り込むと、もの凄い勢いで車を出した。ブオンといやに派手なエンジン音が鳴り響き、車は護のいる場所からあっという間に遠ざかって行った。 「 護……」 雪也はじっと立ち尽くしてこちらを見送る護の姿を、ただごちゃまぜになった思考の中で必死に追っていた。 遠く遠く離れて姿が見えなくなっても。 雪也はしばらく、身体を窓に摺り寄せたまま、護のいた方向をじっと見つめていた。 右手には護から貰った小さな小箱がぐっと握られていた。 |
To be continued… |