(15)



  涼一は自分のマンションにたどり着くまで、一言も言葉を発しなかった。
「 降りろよ」
  未だ茫然としている雪也にようやく声をかけたのは、駐車場に車を停めて数分ほど経ってから。しばらくはお互い消えたエンジン音の中でただだんまりを決め込んでいたのだが、やがて先に折れたようになった涼一がハアと息を吐いた後、ようやくそれだけを言ったのだ。…もっともその声はどことなく震えていて、実に聞こえにくいものだった。
  雪也は涼一に視線を向けてから、言われるまま車を降りようと身体を浮かした。それはひどくのろのろとした動作ではあったが、それでもそれが涼一に応える雪也の精一杯だった。
「 ……雪」
  けれどその瞬間、涼一がぐっと手首を掴んでそんな雪也を引きとめた。顔は下を向いたままで、雪也は振り返り様そんな涼一の事を伺ったものの、その表情を見やる事はできなかった。
「 ………」
  黙って涼一の次の言葉を雪也は待った。が、声はなかなか返ってこない。ただ強く強く掴まれ、そこからじんじんとした痛みだけが続く。きっとこのままこうされ続けていたら、そこは青黒い痣になるだろう。それほどの力で、雪也は涼一に押さえられていた。
  それでもその腕を振り払う事はできなくて。
「 剣……」
  遂に今度は雪也の方が折れて声を出した。これもやはり小さなか細い声だったのだけれど。
「 剣……俺……」
「 もう会わないだろ」
「 え……」
  不意に出した涼一の声に、雪也はどきんとして声を詰まらせた。何を言われたのかは瞬時に分かった。こちらを見ない涼一がどんな顔で、どんな心境で、その言葉を吐いたのかも。痛いほどに分かった。
  だから声が出なかった。
「 言ってくれよ、雪」
「 剣……」
「 そうしたら俺は二度と訊かない」
「 ………」
「 二度と疑わない」
  涼一はきっぱりとそう言い切ってから、息が詰まったかのようになってげほげほと咳き込んだ。瞬間、ふと緩んだ手の力を感じて雪也が視線を自分の手首に落とすと、だらんと自分に触れているだけの、力を失くした涼一の手が見えた。
「 あいつの事なんか…二度と口にしないから……」
「 剣……」
「 言ってくれよ、雪……」
  切ない声でそう言われて、雪也は再び胸が痛んだ。どうして涼一はこうまで自分を想っているのか、想えるのか、どうしても分からなかった。今まで自分はこの剣涼一という男に何をしてやれただろうか。何の面白味もない、何の楽しみも特技も持っていない、暗くて陰気なつまらない奴。自分はそういう奴で、涼一とは全く正反対の考えを持った人間で。涼一がこうまで執着するような存在ではないのに。
  どうして涼一は。
「 雪」
「 あ……」
  はっと我に返って顔をあげると、もろに涼一と目があった。いつの間に顔をあげていたのか、蒼褪めたような涼一の顔が雪也の視界に飛び込んできた。じっとこちらを見据えてくるその目はひどく濁っていたが、決して雪也から逸らされる事はなかった。
「 ご……」
  だから声を出す瞬間は、怖くてやはり息が詰まった。
  それでも言わなければ、と。
「 ごめん……」
  涼一に嘘はつけない。
  今、思った事をちゃんと言えなければ、多分後で悔やむ事になる。咄嗟にそう思って、雪也は言葉を紡いでいた。

「 ごめん、剣……」
「 ………何が」
  雪也の考えを見透かしたような顔をしつつも、茫然とした感じで涼一は反応を返した。再び手首をぎゅっと掴まれるのを感じ、雪也はびくりと肩を揺らした。
「 どうして謝る……」
「 俺……約束、できない…」
「 ………」
  涼一に殴られても構わないと思った。今、言わなければ。
「 二度と会わないって…言えない…。言いたく、ない…」
「 ……好きだから?」
  涼一の淡々としたその問いに、しかし雪也は即答する事ができなかった。その感情だけは、今の自分にもどうなのかよく分からなかったから。
  ただ、自分が望んだ事は。
「 護がどうして会いに来たのか、知りたいんだ」
  涼一の手の温度。ひどく熱い。それは燃えるようだった。
「 どうして護に謝られたのか…俺、分からないんだ。だからそれを、理由を知りたいんだ」
「 そんなの」
「 俺、護が言っていた意味、全然分からなかったから。俺、護の事許せないなんて思った事一度もないのに…。謝られるような事、されてないのに……」
「 それは、お前はそうでも、あいつにとってはそうだったって事だろ」
  そんな事も分からないのか、というような態度の涼一に、雪也は眉をひそめた。
「 どういう事…?」
  そういえば涼一は、護とは初対面のくせに自分よりも護が言いたかった事を理解しているような口ぶりだった。

  " 謝りたいなら謝れば? それだけだろ、お前のやりたい事なんて。 "

  何故、涼一がそんな言葉を吐くのか。雪也には分からなかった。
「 どうして…剣には分かるの?」
「 分かるよ。誰だって分かるよ」
「 ……分から…ないよ……」
「 それは雪がバカだからだ」
「 教えてよ……」
  雪也の言い様に涼一は突如苛ついた感情が湧いてきたのか、はっと勢いよく息を吐き出してから、その気持ちをごまかすように景色の見えない暗い駐車場の壁へ顔を向けた。それから雪也の方は見ずに、どことなく憮然としたように言った。
「 お前、護とヤッたのいつだよ。中学の時だろ」
「 それが…?」
「 お前はさ、まだガキだったって事だよ。護への感情を誤解していたんだ。それを護の奴は知っていてつけこんだ」
「 何それ……」
  意味がつかめないというように、オドオドとした風に訊き返す雪也に、涼一が痺れを切らしたようになって再びがばりと視線を向けてきた。
「 何それじゃねえよ。分からない? お前はさ、護の事は父親か兄貴みたいに想っていたんだよ。お前にとって護は実の母親よりも大好きな家族だったんだ。だけどあいつは段々お前から離れていって、お前の知らない友達や彼女作って…お前から離れて行ったんだろ? 前、そう言っていたよな?」
「 剣……」
  そんな事まで自分は涼一に話していただろうか。雪也は混乱していた。確かに、中学、高校と、自分よりも先へ先へ進んで行く護の背中を見つめていると、時々ひどく不安になった。自分は邪魔ではないだろうか、もう相手をするのは面倒だと、そう思われてはいないだろうか。そんな事ばかり考えていた頃も実際あった。それは護に初めて告白したあの頃からずっと持っていた感情だったかもしれない。
  考え込もうとした雪也に、涼一は続けた。
「 お前は我慢できなかったんだよ。護がお前を置いて行く事がさ。焦ったんだろ」
「 ………」
「 お前はあいつへのそういう感情を恋と勘違いしたんだ。だから無理やり抱いてくれなんてバカな事言ったんだよ。バカでなきゃ、そんな事言い出すか」
「 俺は……」
「 そういうバカをバカと知っていて、あいつはお前を抱いたんだぜ。お前が弱っているのを良い事に、あいつは…彼女だっていたくせに、お前を抱いたんだろ? 最低だよ」
「 ち…! 違うよ、護は…ッ!」
「 違わない。だからあいつはそんな自分が後ろめたくて、だから謝りたいって、言ったんじゃないか。自分のした事を後悔していたんだろ。中学生無理やり犯したんだぜ。普通の神経なら、そんな事できねえよ」
「 違うよ、だって俺が頼んだんだから!」
「 関係ねえんだよ、そんな事!」
「 関係ある! だっ…だって、護は俺の事…助けてくれたんだから!」
「 ………」
「 護がいなかったら…俺は、絶対今いないから…。だから、護が謝らなきゃいけない事なんて何一つないんだから…!」
  雪也のその台詞は、涼一の逆鱗に完全に触れたようだった。殺気立った涼一のぎらついた眼が雪也の視界に入る。殴られると思った。どんなひどい事を言われるかと思った。それでも構わないと思ったけれど。
  それでも涼一は発しようと開きかけた口を一度固く結んでから、一拍置いて落ち着いた声を出した。自らの感情を必死で抑えつけているそんな涼一の身体は、しかし小刻みに揺れていた。
「 ……お前がどう思おうと、ああした事であいつがすっきりしたんならそれでいいだろ。今日謝れた事で、あいつはお前っていう呪縛から解放されたんだよ」
「 ………」
「 今頃すっきりしているよ。ようやく謝れたって」
「 どうして…今日になって……」
「 ………」
  突如黙りこむ涼一に、雪也は縋るような目を向けて問い質した。
「 どうして今日なんだ…」
「 ……知るかよ」
  涼一の投げやりな言い様に、雪也は益々不審な思いを強くした。
「 剣」
「 何だよ」
「 知っているの、何か」
「 ……何で俺が知ってるんだよ」
  一瞬、言葉を遅らせた涼一。雪也はどくどく言う胸の鼓動を抑えながら、なるべく平静な様子を装って言った。
「 知っているみたいな…分かっているみたいな口ぶりだから……」
「 ………」
「 護が今日来る事も―」
「 そうだろうって思っただけだよ。何で俺があんな奴の事が分かるんだよ!」
「 ………」
「 もう…これで、いいだろ」
  涼一はそう言ってから肩で大きく息をするように身体を大きく上下させた。その後漏れる深いため息。ひどく辛そうだった。
  それでも雪也の手首を改めてぐっと掴むと、涼一は強い口調で言った。
「 もう…これであいつと会う理由なんかないだろ。もう終わったんだから」
  そして涼一はつと視線を雪也の膝に落とし、そこにあった小さな包みをおもむろに手に取った。それで雪也は我に返り、ぎくりとした視線を涼一に向けた。
「 …剣…?」
  涼一が手にしたものは別れ際に護がくれた小箱だった。誕生日プレゼントだと。最後に受け取ってくれと言って護が雪也にくれたもの。
  それを涼一は忌々しそうにじっと見やった。
「 ……いらないよな、こんなもん」
「 か、返し―」
「 いらないだろ」
「 やめろよ、剣!」
  今にもそれを車から投げ捨てそうな勢いの涼一に、雪也は切羽詰まったようになって思わず叫んだ。その声の大きさに驚いたようになった涼一の隙をつき、雪也は急いで包みを奪い返した。それはたったの一動作だったけれど、そのほんの僅かな動作だけで、雪也はぜえぜえと息を切らせた。それでも取り返した包みを両手でぎゅっと掴んで胸にかき抱き、雪也は押し殺した声で涼一に言った。
「 駄目だよ、剣…。俺、このまま忘れる事なんてできない…!」
  涼一から反応はなかった。雪也は続けた。
「 護を忘れる事なんてできない…。だって今日、会ったんだ…」
「 ………」
「 だから……」
  言いかけて喉の奥に何かが詰まったようになり、雪也は一旦言葉を切った。涼一の顔は見られなかった。けれど涼一もまた雪也の事は見ていなかった。前方にある灰色の石壁だけを見つめている。
  それでも後の台詞をなかなか続けられない雪也に、涼一は訊いてきた。
「 ……だから?」
「 ………」
「 だから、何?」
「 だから…もう一度、ちゃんと会って話したい…」
「 ………」
  はっきり言った。ようやく言えたと思った。
  こんな事を言えば涼一が怒るのは、傷つくのは分かっているのに、どうしてこんな風に自分の思いを、望みを口にしてしまえるのだろう。雪也は自分でも不思議だった。あの夜、自分に再び好きだと言ってくれた涼一。そんな涼一を、自分もちゃんと見つめなければと思っていたのに。どうしてこんなに勝手な事が言えるのだろう。
  それでも、護に会いたい。

「 駄目だ」

  けれど、瞬間涼一の声が雪也の耳にすっと入ってきた。
  相手の顔を見ると、すっかりその表情からは感情が消えていた。
「 剣……?」
「 そんな事……」
  涼一から目を逸らす事ができなかった。こちらを見ていない、何処を見ているかも分からない涼一の翳った表情。恐ろしくて、目を離せなかった。
「 そんな事、俺が許すと思うかよ…?」
「 つ、剣……」
「 絶対許さないからな。そんな事……」
「 剣、だって俺……」
「 黙れ」
「 つ……」
  後の言葉を繋ぐ事はできなかった。
  不意に迫ってきた涼一から、雪也は逃れる事ができなかった。手を掴まれた。身体を抑えつけられた。護の小箱からは引き離され、支えを失ったその包みは音も立てずに雪也の足元へ転がった。けれどそれを視線で追う事も出来ず、雪也は自分に覆い被さってきた涼一の暗い影だけを見つめていた。
「 あ……」
「 会いたいだと…。ふざけんなよ……」
「 つ、剣……」
「 会って…もう一回好きだって言うのかよ…」
  低い声で発せられたその台詞を耳に入れるのと唇を重ねられたのはほぼ同時だった。
「 ん……」
  びくりと身体を揺らして逆らう所作を見せたけれど、それも強い拘束であっさりとかき消される。涼一は何かを確かめるようなひどくゆっくりとした動作で何度か雪也の唇を掠め取ってから、再び少しだけ距離を取って言った。
「 こんな風に…あいつとキスするのかよ…」
「 や…やめ……」
「 煩い」
  カッとなったようになり、涼一はすぐに再び雪也の唇を塞いだ。
「 ん! ふ…ッ…」
  何度も首を振って唇が離れる度にそこから逃れようとしたが、顎を掴まれ無理やり前を向かされて、雪也は涼一に繰り返し口づけを強要された。
「 ふ…う…ぅん…ッ」
「 雪…ッ」
  唇を食いちぎられてしまうのではないかと思うくらい、それは激しくて痛いものだった。その合間合間に必死に呼ばれる。涼一の思いつめたような声が聞こえる。それでも雪也はそんな涼一がただもう怖くて恐ろしくて、目を瞑っている事しかできなかった。
  そして、脳裏に、ただ一つ。

  護。

  その想いだけがあって。
  突然目の前に現れて、困ったように笑っていた。あの優しい目、気遣うような温かい口調。全部が懐かしくて胸に痛かった。
  嬉しかった。
「 ……や、やめ……」
  イヤだ。
  こんな風に組み敷かれるのも。キスされるのも。今日は。
  今日だけは。
「 やだ…。……ぃやだぁ…ッ!」
「 ……ッ!」
  知らぬ間に、自分でも驚くほどの大声で雪也は喚いていた。今までこんな風に誰かを拒絶した事などなかったと思う。それでも、雪也は叫んでいた。
「 離……ッ!」
「 雪!」
「 ………ッ!!」
  涼一の驚きと怒りに満ちた声が直接脳に響いた。けれど、もう跳ね除けていた。雪也は涼一には応えず、視線も向けず、ただもう必死になって車のドアを開け、外に飛び出した。
「 雪、待て!」
  焦ったような涼一の声が背中にかかる。それでも雪也は前のつんのめりながら、何とか素早く体勢を立て直してもう駆け出していた。よく前が見えない。ただでさえ辺りが暗い上に、雪也自身の視界が不明瞭だった。
  涙で全てがぼやけて見えた。

  それでも、立ち止まる事はできなかった。
「 この、バカ野郎ッ!!」
「 あ……!」
  しかしその脱出も、実際は10秒にも満たなかった。
「 い…ッ!」
「 何処へ行く気だ、このバカ!!」
  背後から突然すごい衝撃が襲い、その勢いのまま雪也は倒れこんだ。すぐに後ろから追いついてきた涼一の力強い押さえつけに耐え切れず、雪也はそのままその場に押さえ込まれてしまったのだった。腕をいきなり後ろ手にとられ、冷たいコンクリート面に身体と顔をつけて、雪也は痛みにうめいた。
「 はぁ…ッ…」
「 雪……!」
  うつぶせになった身体の上から涼一が覆い被さってきたのを感じた。その圧迫感に胸が押し潰されそうになり、雪也は顔を歪めた。もうもがく事もできない。完璧に抑え込まれて、雪也は声すら出せなかった。
「 本当に…お前は、バカだ…ッ!」
  すぐ傍で涼一のそう言う声と荒い息遣いが聞こえた。答えられずに雪也がただ目を閉じていると、涼一はぐいと乱暴にそんな雪也の髪の毛を引っ張りあげた。
「 あ…っ!」
「 ……俺が」
  痛みにうめく雪也には構わず、涼一は言った。

「 俺がお前を逃がすと思うか…」



To be continued…



戻る16へ