幼い頃は、どういうわけだかよく転んだ。

「 また―ッ! ほら、ぐずぐずしないですぐに立ちなさい!」
  特に母親と一緒に歩いている時は、殊更足がもつれて転倒する事が多かった。
「 泣いたら駄目だからね! あんたは男の子なんだから、こんな事くらいでメソメソするのは情けないよ!」
  それでも擦りむいた膝のヒリヒリした痛みなどのせいですぐに立ち上がれないでいると、母は痺れを切らしたようになって無理やり腕を引っ張り上げた。それからその後は決まってぴしゃりと尻を叩く。それは機嫌の良い時は軽く、逆に苛立っている時などは悲鳴をあげたくなるくらいの激しいものだった。
  母の「暴力」は日により気分により、かなりのムラがあった。
「 どうしてお前はこんなにトロイのか…。一体誰に似たものやら」
  だから母の前ではなるべく転ばないように、泣かないようにしようと努めた。唇をきゅっと噛んで、何処か遠くを凝視して。気を緩めてはならなかった。
  涙でじわりと視界が滲んでしまうのは避けたかった。


(16)



  涼一に背後から突っかかられ、コンクリートに顔を押し付けられた時に出来たのだろう。雪也は右頬に軽い擦り傷を作り、ほんの少しだが出血もしてしまった。夢中で涼一の拘束から逃れようとしていた時はただ必死だったから、雪也は自分にそんな傷が出来た事など気づきもしなかったし、それに対する痛みも感じはしなかった。けれど強引に起こされてそのまま身体を雁字搦めにされるように引きずられ、涼一の部屋にまで連れて行かれた後は、じくじくとした痛みや激しい胸の動悸で息をするのも苦しくなった。
「 ………早く入れよ」
  移動の間沈黙を続けていた涼一は、雪也の身体を抑えつけたまま部屋の鍵を開け、ドアを開いた。それからその勢いのまま力任せに雪也の背中を押し、無理やり中へと押し入れる。ドンと突き飛ばされるようにしていきなり身体の拘束を外された雪也は、その瞬間身体のバランスを失って玄関先に倒れ込んだ。
「 ……っ!」
  突然の事で、身体を投げ出された事に対する抗議の言葉も出なかった。それでもすぐに振り返って涼一を見上げると、その先にはひどく冷めきった視線が容赦なく自分に降り注いできていた。まるで罪人を見つめるかのような涼一のその冷徹な目に、雪也はやはり声を失ったままだった。
「 ………立てよ」
  涼一はそれだけを言うと靴を脱いで中へ上がり、未だ身体を倒したままの雪也の膝元を踵で軽く蹴飛ばした。
「 靴、脱げよな」
「 剣……」
「 ほっぺた」
「 え……?」
  不意に涼一が自分の右頬を指で指してそれだけを言った。雪也が怪訝な顔をして訊き返すと、涼一はつまらなそうな顔で素っ気無く言った。
「 血、出てる」
「 ………」
  恐る恐る雪也は自分の手をその指し示された場所に当ててみた。ざらりとした感触と共に、そこに触れた手を見つめると、なるほどそこには赤い血が少しだけついていた。
「 手当てしてやるから」
「 ………」
「 早く中入れ」
  涼一はそう言い、それでも自分から先に部屋に入ろうとはせず、雪也が靴を脱いでリビングへ向かうまで玄関口に立ち尽くしていた。


  雪也が部屋の中へ入ると、そこはいつもの空間とは大分違った趣をなしていた。
  いつも雪也が動かなければ片付けられる事のない食器やゴミ類、それに出しっぱなしの本も、そこには一切なかった。脱ぎ捨てられたままの服やバラバラに散らばった大学のレポートも。やはり見当たらない。
  代わりに、部屋中央のテーブルの上には。
「 ………」
「 そこ座れよ。今、消毒薬とか出すから」
  部屋を見て黙りこくる雪也に、涼一は無機的な顔のままそれだけを言うと、自分は寝室へ行って薬や包帯などを入れている小さな箱を取りに行った。そうしてすぐにそれを抱えて戻って来ると、未だそこに立ちっぱなしの雪也に不快な表情を見せた。
「 座れと言っただろ」
「 ……これ何」
「 酒だよ。見て分かんねえ?」
  見慣れぬ異国語が綴られたラベルが雪也の目に映る。実に行儀よくテーブル中央に佇んでいたその黒い瓶は、2人に視線を向けられた事でより一層キラリと輝いてその存在をアピールしているように見えた。
「 ………それは?」
「 あ?」
  ガーゼに市販の消毒薬を数滴垂らしていた涼一は、再び視線を下に向けていた為、雪也の問いに一歩遅れた。けれど指摘された物が何なのかという事はすぐに分かったのだろう、どことなく憮然とした顔のまま、涼一は雪也の傷口にガーゼを当てた。
「 ……つ…ッ」
「 しみるか」
「 …ううん。ひやっとしただけ…」
「 ……痛いくせに……」
  つぶやくように言ってから目を伏せ、涼一は手にしていた雪也の傷口に当てたガーゼをじっと見やった。微かに赤くなったそれ。涼一が固く唇を結ぶのを雪也はただ見つめた。
  それからどのくらい2人は黙りこくっていたのだろうか。
「 雪、今日誕生日だったから」
「 え……」
  突然涼一は口を開いた。
「 お前のバイト終わったらさ…ここで飲もうと思って」
「 ………」
  涼一は微かに首をテーブルの上にある酒瓶にやり、それから再び下を向いた。そうして次に、雪也が訊ねた物に目をやる。はあと大きく息を吐いて。
「 そっちは俺からのプレゼント」
「 ……俺に」
「 俺のなんか…いらないだろうけどさ」
  テーブルの上に乗っていた正方形の小さな四角い箱は、綺麗にラッピングされてそこにあった。リボンはないけれど、簡素なその包みは却ってとても高価なものに見えた。
  けれど雪也が何となくそれに手を伸ばした時、涼一がその腕をぐっと掴んだ。
「 ……っ!」
  意表をつかれて再びぎくりとした顔を見せる雪也に、涼一は実に静かな眼を向けて言った。
「 雪。ここで暮らそう」
「 え……」
  静かな声だった。けれどそれはとてもよく通った綺麗な声で。
  涼一は絶句する雪也にその声をもう一度投げかけた。
「 一緒に暮らそう」
「 つ……」
「 一緒にいよう」
「 剣……」
「 もう決めたからな……」
「 剣、俺は」
「 言うな」
  涼一はぴしゃりとそう言いきってから、雪也の腕を更に力強く掴み、後の言葉を許さなかった。そうして無理に引き寄せると、後はもう黙ってがむしゃらに雪也の身体をただ抱きしめてきた。
「 剣……」
「 うるさい……」
「 痛…痛い、から……」
  軽く身じろいだが、それによって身体への拘束はより一層強まった。涼一は応えず、ただ雪也を抱きしめる腕に力を加えた。
  ズキン、と。
「 いた……」
  雪也の胸は、また痛んだ。
「 剣……」
「 うんって言え……」
「 …………
「 でないとずっとこのままだ」
  思い切り抱きしめられていて涼一の顔は見えなかった。ただ相手のそのくぐもった、思いつめたような声だけが聞こえて、雪也はぎゅっと目をつむった。涼一の想いが痛くて苦しくて辛くて、どうしようもなかった。どうして良いか分からなかった。
  こんな風に他人に強く想われるということ。
  今までなかったと思う。
  涼一のその想いは強引で勝手で、ひどくめちゃくちゃなものだとは思った。こちらの事などお構いなしで、こちらの考えなどちっとも聞いてはくれない。何度も感じた事ではあるし、とうに知っていた事でもあるが、涼一は本当に我がままな恋人だった。
  けれども、涼一のその気持ちを素通りする事は雪也にはできなかった。駄目だと言っても、約束できないと言っても、謝っても。涼一は許してくれない。それは自分を好きなせいだからと涼一は言うのだ。そんな涼一を。
  そんな涼一を、もう振り切る事はできないと思った。
  護。
  心の中で雪也はもう一度つぶやいてみた。会いたい。今すぐ、駆け出して会いに行きたい。声を聞きたい、顔を見たい。そして今まで話せなかった事、離れ離れになった時に思った事などを話したい。聞いてもらいたい。
  でも。
「 分かった…から……」
  雪也は声を出していた。
「 分かったから…離して。剣…」
「 ………」
  涼一はぴくりとも動かなかった。何も言わない。聞いているのだろうかと疑ったから、雪也は無駄だと知りつつももう一度だけ身体を揺らし、涼一の背中をそっと撫でた。
「 離して……」
「 ………」
  それでも涼一は何も言わなかった。
  雪也はすうと息を吸ってから、今度はもっと大きな声で言った。
「 ここにいるから………涼一」
  密着した相手の身体がびくんと反応を返すのを、雪也は自分自身の身体で直に感じていた。


*


「 雪はさ、大きくなったら何になりたい?」
  護は雪也の勉強を見てやっている時、よくそんな事を訊いてきた。父親のいない雪也、兄弟のいない雪也にとって、自分は雪也の父であり兄であり…家族であると護は常々得意そうに言っていた。だからなのだろうか、護は雪也の将来についての話題を実によく持ち出した。
「 ……分からない」
  けれど雪也の返答はいつもそうだった。
  大きくなったら何になるか。護だけでなく、学校の担任からも近所の大人たちからもその質問はよくされたが、うまく答える事はできなかった。母親は医者か芸術家になれとよく言っていたが、雪也にはそのいずれもがピンとこなかった。むしろ悪酔いされて絡まれた時に、「 大好きな護ちゃんにお嫁に貰ってもらえばいいのよ」と言われた時の方が、その悪意ある言葉に傷ついたけれど、自分の中ではすんなりと受け入れられるところもあった。……そんな風に感じてしまう自分に戸惑って、また余計に一歩も前へ進めなくなってしまうのだけれど。
「 あんたには夢ってものがないの」
  黙りこくると母親は実につまらなそうにそう言い、それから決まってハアと大きくため息をついた。その後続けて言う台詞も大抵決まっていた。
  つまらない子。
  だからますますどうしていいか分からなくなった。適当に医者だの音楽家だの言えれば良いのに。どうしても言えなくて。
「 いいんだよ、雪。分からないなら分からないでさ。そんなの、はじめから決まっている人の方が珍しいんだから」
  けれど護はそう言ってくれた。そうして、雪也の頭を優しく撫でて笑ってくれた。
「 だからそんな風に困ることないよ。まだ見つかっていないって、言えばいいんだよ」
「 護は…見つかっている?」
「 ん…はははっ。見つかってないよ」
「 え?」
「 何がしたいのかなんて分からないな。雪と同じだな」
「 ………」
「 な」
「 ……うん」
  護は何でもできたけれど、雪也が困るといつもそんな風に答えて笑っていた。
「 護……」
「 ん? どうした?」
「 ………」
  そんな護の優しい表情を見ていると、いつもつい母親が言ったあの言葉が頭に浮かんだ。

  あんたは大好きな護ちゃんのお嫁さんになれば……。


*


  電気のついていない、真っ暗な闇に支配されていたせいだろうか。
「 う……りょ、い…ち…ッ」
  雪也には涼一の姿がちっとも見えなかった。
「 ……ッ、ふ、雪……ッ!」
  時々呼ぶその声で、今自分の身体の中を侵食している人物は、こうやって覆い被さってくる影は、確かに涼一なのだろうと確かめる事はできたが。
  それでも、涼一を感じるより強引に突かれる痛みの方が強かった。
「 あ…ッ…ん、あ、あぁ…ッ!」
  十分に奥を指でほぐされて後に挿入されたはずなのに、涼一のものを中に受け入れた瞬間、そのキツさに気を飛ばしそうになった。
「 雪…ッ!」
「 ひぁッ…ん! う、あ…あぁ…ッ!」
  喉の奥がひゅうと情けない悲鳴を上げ、その後徐々に喘ぐ声が口許から漏れていった。自分自身でその声を聞きながら、雪也はうっすらと目を開いたまま涼一の背中を抱いていた。
「 うっ…ゆ、き…ッ!」
「 ……あ…ッ!」
  涼一は余裕のないような感じでただひたすら腰を揺らし、雪也の両足を掴んで左右に開かせたまま、ただ奥へ奥へと向かっていった。雪也が苦痛に歪んだ顔をしても、声を出しても、その勢いは止まることがなかった。
  傍にいると言った後、涼一はなだれ込むように雪也をベッドに連れ込んで事に及んだ。雪也が最初戸惑ってそれを嫌がろうとしても、その逞しい身体はびくともしなかった。ただもう夢中になって涼一は雪也に襲いかかり、その身体を貪った。
「 呼べよ…雪…ッ」
  そして不意に命令をしては自分の名前を呼ばせた。それはひどく殺気立った声だった。
「 雪…!」
「 りょ…いち…!」
「 もっと……!」
  声が掠れたような小さなものだと、涼一はそれを責めるようにますます身体を揺らして雪也に新たな衝撃を与えた。
「 ひあぁ…ッ!」
「 雪…ッ!」
「 やぁ…ッ! あ、あ…あ…りょ、涼…」
「 うっ…!」
「 ――ッ!!」
  けれど呼ぼうとした時、もう涼一は雪也の中で熱を放っていた。雪也がもろにそれに反応を返して背中をびくんと揺らすと、涼一はハアハアと激しく息を吐きながら、そのままどっとなだれ込んできた。雪也の上に覆い被さり、しばらくは荒い呼吸を繰り返す。
  少し落ち着いてきたあたりになって、ようやく涼一は声を出した。
「 ゆ、き……」
「 はあ…はぁ……。う、ん……」
  雪也が息も切れ切れに返事をすると、涼一はその体勢のまま特に言葉を発する事もなく雪也の耳元にキスをした。そうしてゆっくりと身体を浮かすと、じっと雪也の事を見つめ、暗がりの中で一体何度目なのかもう分からない口付けをしてきた。
「 ふ…んぅ……」
  おとなしくそれを受け止めて雪也は涼一の舌が口腔内に侵入してきたのを感じ、またゾクリと身体を震わせた。それでもただされるままに受け入れた。
「 呼んで、雪」
  そしてまた唇を離された瞬間そっと言われた。
「 りょ…いち……」
「 ……もっと」
「 ……涼、一」
  請願に従順に応じると、また涼一のものは雪也の中で熱を帯び始めた。
「 あ……りょ……?」
「 絶対……」
「 あ、あ…ちょ、涼…ッ」
  再び始まろうとしている涼一の動きに、さすがに戸惑って雪也は声をあげようとしたが、もう遅かった。涼一はそんな雪也には一切構わず再び激しく腰を動かし始めた。2人には狭すぎるベッドをギシギシと上下に動かし、雪也の身体を蹂躙し続ける。雪也はただもうそれを受け入れるしかなかった。

  絶対、離さないからな……。

  熱に浮かされたようにそう言う涼一の声は、だから雪也にはもう聞こえなかった。そしていつしか何も見えなくなった。



  目を覚ましたのは、それから数時間後だったと思う。 
  雪也が妙な息苦しさにふと意識を戻すと、自分を抱きかかえるような形で涼一の腕が身体の上に圧し掛かっていた。涼一は眠っている。すうすうと穏やかな寝息を立てて、それでも自分を抱きしめる形でそこにいる。雪也は自分を押さえつけている涼一のその腕にそっと触れて、その拘束をそろりと解いた。それでもしばらくは身体を起こさず、傍にいる涼一の事をただ見つめた。外が明るいせいか、昨夜の闇が嘘のように、隣の涼一の顔はよく見えた。

  『 好きだ 』

  何度も何度もそう言われた。何度も何度も抱かれた。
「 ……分かったって言ったのに……」
  つぶやいて、それから雪也はようやく身体を動かしてみた。やはりまだ痛みがひどく、上体を起こしてベッドから片足を出すと、鈍い痛みが腰を襲って思わず顔が歪んだ。
「 ……痛い?」
「 !」
  刹那いきなり横から声を掛けられ、雪也はぎょっとして振り返った。涼一はもう目を開けていて、じっとこちらを見やっていた。
「 …大丈夫」
「 ………どこ行く?」
「 え……?」
  聞き帰すと、にゅっと出されたその手に手首を掴まれた。雪也が困惑したような顔を向けると、涼一は無表情のまま言った。
「 帰るの?」
「 あ……ううん」
  首を横に振ったが、それでも涼一は信用ならないというように手を離さず雪也を見つめていた。
「 ……何か食べる?」
  代わりに訊いてみる。それでも涼一は応えなかった。雪也は何故か必死になって涼一に話しかけていた。
「 何か作るから…。涼…涼一…何か食べたい物ある…?」
「 ………何でも」
「 何でもいい?」
  再度訊くと、涼一はこくんと頷いてそっと手を離してくれた。ほっとして雪也は無意識にそっと息を吐き出した。ヨロリと立ち上がり、それからもう一度涼一を振り返る。
  涼一はただ雪也の事を見ていた。
「 その前に…シャワー借りるね」
  そんな涼一を見ていられなくて、雪也は慌てて傍にあった服を掴み、それを身体に当てて急いで部屋の入り口に向かった。ほんの数歩がひどく長いもののように思えた。見られているだろう背中が、ひりひりと痛かった。
「 雪」
  その時、その背中に真っ直ぐな声が掛けられた。
「 雪……愛してる」
「 ………」

  振り返る事ができなかった。
  雪也は黙って浴室に向かった。



To be continued…


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