(17)



  3日間、涼一は雪也を離そうとしなかった。


「 それでさ…そのバカ女、散々うるさく騒ぎまくって人の事ごちゃごちゃ訊いてきて。それだけならまだしも、べたべたべたべた、すげえ触ってくるんだよ。もうプチンときちゃってさ。…でもあんな風に女に思いっきり冷たくしたの、あれが初めてかも」
  特に何をするでもなかった。
  一緒に食事を摂り、あとは何となくテレビをつけたまま話し込んだり、映画を観たり。互いに本を読んで黙りこくっている時もあった。
「 それでさ、後で藤堂の奴、俺の事なのにすげえ焦ってんの。1人であたふたして」

  この時はやはりどちらかがつけたテレビにお互い視線を向け、涼一は寝そべった格好のままいつだったか自分にしつこくしてきたという「大介の彼女の友達」の話をし、雪也はその傍に座る形で、黙ってそれを聞いていた。
「 大介にも気を遣ったり俺にも気を遣ったりでさ。あの時酔ってたからあんまり覚えてないけど、あいつって本当お人よしだよな」
「 うん」
「 だろ。昔からそう。自分の事より他人の事だからさ」
  涼一は目を細めてそんな話を楽しそうにしながら、依然視線は明るいブラウン管に向けて、雪也の方は見なかった。それでも穏やかなその話し方は、以前の涼一そのものだった。
  2人の時間は実にゆったりと流れていった。
  夜になり、2人で夕食を摂った後はまたセックスをした。涼一がしようと言ったので、雪也はただそれに従った。ベッドになだれこんで身体を預けてしまうと、後はもう簡単だった。いつもと同じだった。
  その数日間は食料を買いに外へ出た以外は、2人はずっと涼一の部屋で過ごした。たくさん口を開いていたのはやはり涼一だが、雪也もそれなりに言葉を出していたと思う。そうして夜は決まって身体を繋げた。1度で終わる事もあれば、朝までという日もあった。
  ただ、そのどの日にも言えた事は、行為が終わって眠る時の涼一は雪也をぎゅっと抱きしめて決して離さなかった。部屋には何度か電話が鳴ったし、涼一の携帯も何度もメールの着信音が鳴ったが、涼一は1度もそれを取らなかった。そして雪也は涼一の部屋にあるその電話1本で、1年近く続けていたアルバイトを辞めた。


「 荷物」
「 え?」
  先に話を切り出したのは涼一だった。4日目の朝だった。
「 色々さ。取りに行った方がいいだろ」
「 ………」
「 着替えとか。別にずっと俺の着ていてもいいけど、そろそろ大学にも行かないとマズイもんな」
「 うん…」
「 お袋さんにも言わないとマズイよな」
「 うん…」
  朝食を片付ける為キッチンに立っていた雪也は、自分の背中に話しかける涼一に無機的な声を返した。
  最後に家を出た日、母からはしばらく出張だと言うメモが置かれていたから、仮に帰って来ていたとしても雪也がこれほど家を空けているという事には気づいていないはずだった。もっとも、気づいていたとしても構わない。雪也は何となくそんな風にも思っていた。ここ数日、涼一とずっとこの部屋にこもりきりだったせいか、自分の日常生活というものに現実感がなくなっていたのかもしれない。
「 雪」
  ぼうっとしているような雪也に、涼一が再度声をかけてきた。
「 雪、こっち向いて」
「 え……」
  言われるままに雪也がはっとして振り向くと、涼一はすぐ傍に立っていて、雪也が見た瞬間もう抱きしめてきていた。
「 りょ……」
「 ………」
「 涼一…?」
  何も言わない涼一に雪也は戸惑いながら名前を呼んだ。するとそれに呼応するように涼一は更に強くきつく雪也を抱きしめて、それからそっと言った。
「 …車で送るな」
  涼一の言葉は、ただそれだけだったのだけれど。


  たかだが数日ぶりの地元だったが、随分離れていたような気がした。
  空模様がどんよりと曇っていて悪いせいだろうか、家の前に到着して辺りを見回してみても、近所に人の姿はなかった。

「 俺も行く?」
  車を降りた雪也に涼一はそう言って呼び止めた。雪也は少しだけ笑ってみせ、「平気」とだけ答えた。涼一は軽く頷いた後、意外にもすんなりと「夜また迎えに来るから」と言い、自分は一旦家へ戻ると告げた。
  そして。
「 あ、あと、これ」
「 え?」
「 雪、開けるの忘れていたろ?」
「 あ……」
  それは涼一があの夜にくれた雪也への誕生日プレゼントだった。四角い小さな包み。それはその日のまま、包装を破られる事なく綺麗なまま、涼一の手の中にあった。そういえば護がくれたプレゼントはあれきりどこへやってしまったのだったか…。雪也は同時にその事をふと思い出したが、もうその事を口にするつもりはなかった。
  戸惑ったように箱を見つめる雪也に、涼一は苦笑して更にぐいと包みを差し出した。
「 いらなくても後で一応開けて見てよ」
「 いらなくないよ…」
「 そう?」
  慌てて箱を受け取る雪也に涼一はふっと笑んでから、車のエンジンをかけた。
「 じゃあ、またな」
「 うん」
「 ………」
  素直に頷く雪也を涼一はもう見ていなかった。浮かべていた笑顔もふっと消すと、涼一はそのまま車を走らせて行ってしまった。
  雪也は車が通りを曲がってその姿がなくなるのを見送ってから、ゆっくりとした足取りで家に入った。


  久しぶりの我が家は、しんと静まり返っていた。母は帰っていないようだった。
「 ………」
  どうでもいいと思っていたはずなのに、正直雪也はほっとしていた。やはり今は母の顔は見たくなかった。普段ならこの時間、美奈子は仕事のはずだし、いない可能性の方が高いのだが、出張帰りで寝に帰ってきていたとしても不思議ではない。
  母は一度帰ってきただろうか、それとも。

  雪也は真っ先に電話に向かい留守録の再生ボタンを押した…が、そこには何も入っていなかった。
  母は恐らく帰って来ていない…。
  雪也は自分の外泊を母に知られる事がなかったことを安堵する一方で落胆もした。

  二階に上がり、自室へ向かった。カーテンを開け、雨戸を開く。曇っているとはいえ、外の光が入ってきて、部屋の中はいくらか明るくなった。雪也はそんな部屋の中をぐるりと見渡した後、ばたりと自分のベッドに身体を横たわらせた。
「 はぁっ…」
  息を吐き出して天井をじっと眺めた後、目を閉じた。ここ数日ほど涼一の部屋にしかいなかったから、自分のこのテリトリーが妙に懐かしかった。たかが数日なのに、ひどく恋しく感じた。
  涼一と一緒に暮らす。
  考えた事もなかった。今でも実感が湧かない。この家を出る事、母と離れる事。もう年齢も20歳を数える雪也がそういった「巣立ち」を一度も想像した事がないなど、考えてみれば不思議な話だった……が、雪也自身にしてみれば自分からそういった選択をする事ほど奇妙で信じられない事はなかった。だから未だに信じられなかった。
  母に何と言うか。
  言わずに手紙だけ残して出て行くというのも手ではある。簡単だ。大学の近くに住んでいる親友の涼一が来てもいいと言ってくれたので、そこで暮らす事にした。そう書いて置いておけばいい。いや、それくらいならば直接言う事もできるかもしれない。何も不自然な事はないではないか。母は涼一と自分の仲を何となく疑っているところがあるから、勿論そんな言葉を信じはしないだろう。それでも自分は平然として母にそう言おう。きっと言える。そう思った。
「 荷物…」
  意を決して雪也は声を出し、必要最低限のものだけ持って涼一が来る前に用意を整えようと思った。雪也は再び目を開いて身体を起こした。着替えと大学で使う教科書と。要る物といったらせいぜいそれくらいではないだろうか。あとは別段大切な物もないし、置いていっても構わないだろう。
「 ……荷物」
  準備をしよう。すぐに終わる。
  雪也は頭の中でもう一度そう思い、服の入ったクローゼットを眺めた。
「 ………」
  おかしい、身体が動かない。
「 ………」
  堅くなった身体を不審に思いながら、それでも雪也は服を詰める鞄にはどれがいいだろうかと考えた。そうだ、確か隣の納戸に大きめの黒いボストンバッグがあったはずだ。あれを使えばいいだろう。
  準備だ。
「 ………」
  それでも。
「 ………」
  おかしい。身体は動かない。
  動けない。
「 ………何で」
  声に出して自分自身に問い掛けてみたが、やはり身体は思うように動かなかった。雪也はいよいよ全身が重くなるのを感じ、更に胸の動悸も激しくなって息苦しささえ覚えた。頭では涼一の所に行こう、あれやこれを持っていこうと決めたのに、手も足も動かない。どうしてだろうと思う。焦りのあまり身体から冷たい汗が噴き出してきた。
  その時、ふと部屋に持ってきた涼一の誕生日プレゼントの包みが目に入った。
「 ………何だろ」
  それを掴んで包みを破くのには、かろうじて手が動いた。雪也はほとんどビリビリにそれを破いて、小さな四角い白い箱をことりと開いた。
  中にはアンティークなデザインの施されたネジ巻き式の腕時計が入っていた。
  あの夜にテーブルの上にあった異国の酒瓶のラベルと同じ文字が刻まれている。雪也はそれをじっと眺めた後、かちりと一巻きそのネジを巻いた。カチカチと音を立てて、銀色の針はすぐに時を刻み始めた。
  綺麗な音。

  雪也はそれだけを思った後、その時計を再び箱に戻してから立ち上がった。


*


  昼間だというのに、創は「淦」のカウンターに座っていた。
「 いらっしゃい」
  眼鏡の縁を指で上げてから、創は平然とした顔で雪也にそう言って椅子を勧めた。
「 久しぶりな気がするよ」
  そうして傍にあったコーヒーカップをごとりとカウンターに置くと、創はインスタント紅茶の袋をびりりと破いてからちらりと雪也を見やった。
「 紅茶は好きかな」
「 あ…うん」
「 ならこれでいいよね」
  そうして創はそのインスタントの紅茶パックをカップに入れ、これまた自分のすぐ足元にあったポットの湯をそこに入れて雪也に差し出した。
「 砂糖はないから。―あぁ、羊羹でも食べる?」
「 い、いいよ」
「 あ、そう? たくさん余っているから食べて欲しいんだけど。また田舎の親戚が送ってきてね。那智姉さんは夜中になると1人でバカみたいに食べまくっているんだけど、俺はあの人にこれ以上太って欲しくないんだな」
「 那智さん…別に太ってないと思うけど」
「 ああ、今はね。でも、時期によりすごい時はすごいよ」
「 何が?」
「 姉さんは過食と拒食を繰り返すから」
  創は何ともない事のようにそれだけを言い、それから自分の紅茶カップを手に取ると、ずずと一口すすった。
「 それで」
  そうしてわざとなのか、雪也の方には視線を向けずに創は言った。
「 随分店に顔を出さなかったけど」
「 うん……」
「 剣君から出された立ち入り禁止令を律儀に守っていたのかな」
「 え?」
「 ほら、この間、俺が君に『またおいでよ』と言ったら、彼『来させるか』なんて言って怒っていただろ。桐野君がこの店に来るのが面白くないみたいだったから」
「 ………」
「 そういうわけじゃなかった?」
  しかし創がそれを聞いたのと同時に、店の引き戸がガラリと音を立てて開かれたので、雪也は答える声を失ってしまった。
「 あ……」
  驚いて振り返った先には、「あの」白い少女が店の中に入ってきていて、ぎろりと雪也を睨み据えていたのだ。
「 いらっしゃい」
  それでも創はやはり平然としてその少女を迎えたのだが、少女の方は店内に雪也がいる事にあからさまに気分を害したようだった。むっとして答えず、それでも去ることはせず、つかつかとカウンターの所にまで歩み寄ると、創に向かってぶっきらぼうな声を張り上げた。
「 羊羹!」
  以前にも少女の声は聞いた事があったが、何かを威嚇するような、何かに怯えているような、無駄に高いキンとした声だと雪也は思った。雪也は自分の間近に立ったそんな少女の横顔をじっと眺め、それからまたえもいわれぬ胸騒ぎを感じて眉をひそめた。
  どこかで。
  以前から思っていた疑問。この少女をどこかで見た事があるような気がして。初めて夜の道中で見つけたよりも、ずっとずっと以前に見た事があるような。
  そんな気がしていた。
「 羊羹が何なんだ。ちゃんと言わなければやらないと言っているだろう」
  創のその声で雪也ははっと我に返り、自分の遠い記憶を手繰り寄せる作業を中断させた。
「 意地悪!」
「 意地悪じゃない。当然の事を言っているだけだ。那智姉さんに随分甘やかされたようだけど、俺はそうはいかないぞ」
「 ………」
「 うさぎ」
  創が少女に向かって言った。彼女の名前なのだろうか。
「 羊羹ちょうだい!」
  すると少女はぶうと軽く頬を膨らませた後、また無駄に大きい声でそう言った。そうして自分にとっては少し高いカウンターをバンバンと叩いた。
「 ……まったく」
  創はそんな「うさぎ」の所作にハアと珍しく大袈裟なため息をついた後、自分の背後にあるドアに向かって指をさし、「貰っておいで」と言った。うさぎはそれでようやくカウンターを叩くのをやめ、だだっと走り出して扉の向こうに消えた。
「 煩くてすまない」
  創が雪也に言った。雪也は未だ少女の影を追うように創の背後を見やっていたのだが、創の声によってようやく焦点を合わせて落ち着かないように問い掛けた。
「 あの子…ここの常連なんだよね」
「 ああ…でも最近ここはビデオ屋兼育児所とも化していてね」
  がり、と髪の毛を掻いて創は少しだけ不快な顔をした。
「 桐野君はこの辺りの近所に興味ないようだから知らないだろうけど、ここから少し先の坂を登りきった先にある大地主の家。昔はここら一帯の畑の土地も管理していたみたいだけどね。見たことある?」
「 ううん」
「 行かないよな。あんな坂登っても、あるのはあの家の敷地だけだから。でも立派なものだよ。今時珍しいくらい古風な造りをしているしね。植木の手入れも見事だ」
「 それが?」
「 その屋敷の子なんだ、あの子。二条家と言ったら、昔は大学教授から県会議員なんかにもなった当主もいるけどね。まあそんな事はどうでもいいけど、あの子の母親が病気なので、時々見てくれと頼まれている」
「 あの子を?」
  訊き返しながら雪也は「二条」という聞き慣れない苗字に、やはり自分が少女と会った事はないなと思い直した。
  それでも胸にくる不安のようなものは消えなかったのだけれど。
「 今まではうちに来ている事を知っていても、何も言ってこなかったのにね。どうやら夜中にフラフラしている事に近所の人間も気づいたらしくてさ。体裁が悪いので、ようやくうちに挨拶に来たというわけだ」
「 ………」
「 ああ、ちなみにあの子の前で二条の名を出すと『キレル』から、口には出さないように」
「 うさぎって…あの子の名前?」
「 そう」
  創はすました顔のままあっさりと答えた。
「 本当にそういう名前なの?」
「 さあ」
「 さあ?」
「 知らないよ。名前を聞いたらうさぎと言ったからそう呼んでいるだけさ。もしかすると違うかもね、本当の名は。まあどうでもいいだろ」
「 ………」
  創はごくりと紅茶を喉に流し込んでから、改めて雪也を見やった。
「 で、君の方は?」
「 え……」
「 話がずれたよ。あれから、何かあった?」
「 ………」
「 言いたくないなら、まあいいけど」
  創はやはり表情を変えずそれだけを言い、それから再びダダダと接近してきた足音に顔を歪めた。それと同時にうさぎが綺麗に切って分けられた羊羹の皿を持って店の中に戻ってきた。そうして一緒に添えられていた楊枝には構う風もなく、手でそれを掴んでばくばくと口に放り込む。可愛い顔に似合わず、その豪快な食べっぷりに雪也は唖然とした。
「 うさぎ。きちんと座って食べろ」
  創が呆れたようにそう言うと、うさぎは再びぎっとした視線を雪也に向けて怒鳴った。
「 あの人がいるから!」
「 え……」
  雪也は自分に向けてそう言ったうさぎに戸惑って聞き返した。するとうさぎはますます怒りに満ちた顔をし、「どいて!」とだけ言うと、あとはくるりと踵を返して再びだっと服部家の居間へと戻って行ってしまった。
「 君が座っている今のその場所、最近あいつの特等席だったから」
「 あ…そ、そうなんだ」
「 気にしなくていいよ。それにしても驚きだ。普段あんなに喋らないよ。君の事が気に入ったのかな」
  創はそう言ってから、ここで初めて楽しそうに笑った。



To be continued…



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