(18) 雪也が創と他愛もない話をしている間中、白い服の少女「うさぎ」は、店と部屋を行ったり来たり、実に忙しなく動いていた。あの初めて見た時の彼女は、どことなく存在感が薄くてその場に確かにいるという確証もなくて、雪也は心のどこかでうさぎは現実の人間ではないのではないかとすら思っていた。妙な話だが、それくらい雪也にとってうさぎは不可思議な印象を受ける相手だったのだ。 それが今目の前にいるこの小さな少女は、ウロウロバタバタと、格好や言動こそ奇妙な感じはしたが、確かにそこらにいる普通の子供だった。 ただ一点、こちらを恨めしそうに睨みつけてくる事には参ってしまったのだが。 「 ああ、桐野さん。いらっしゃい」 小一時間ほど経った頃だろうか。 そんな3人のところに、創の背後の扉から那智がやってきて雪也に声をかけてきた。うさぎから雪也の来訪は聞いて既に知っていたのだろう、那智は両手に三つのグラスを乗せた盆を携えていた。その顔はどことなく生彩を欠いたようなものだったが、それでも彼女は雪也にいつもの控えめな微笑を見せて割と明るい声で言った。 「 これどうぞ。田舎から送ってきたオレンジを絞ったのです」 「 あ…この間の?」 「 いや、あれは片付けたよ。そしたらまた送ってきたんだ。いい加減飽きてきたので、姉さんがこうやってジュースにしたりアイスを作ったりしているのさ」 那智が答える前に創が半ば呆れたようにそう言った。雪也はそんな創とジュースを交互に見つめながら、何気ない調子で思った事をそのまま口にした。 「 親戚の人、よくそんなにしょっちゅう送ってきてくれるね」 「 ………」 けれど創と那智はその問いにはすぐに答えなかった。 「 羊羹も同じ親戚?」 「 ジュース!」 その時、雪也の声をかき消すようにうさぎが叫んでグラスに手を伸ばしてきた。 「 ジュース!」 それはやはり甲高い、妙に不自然な大声だった。 創はそんなうさぎの手の甲をすかさずぴしゃりと叩いた。 「 うさぎ」 「 痛い!」 「 うさぎ」 「 ジュースちょうだい!」 するとうさぎも創からそうされる事は薄々分かっていたのか、意外にもあっさりそう言い直すと、改めてガバリと両手を差し出した。そうしてあっ気にとられる雪也には構わず、うさぎはグラスに入った飲み物を夢中でごくごくと飲み干した。そこまで喉が渇いていたのかというほどの飲みっぷりだった。 「 まったく。 『 いただきます 』 とか言えないのかい」 「 まあいいじゃないの。うさぎちゃん、まだ小さいのだし」 「 姉さん」 ジュースを飲み干すうさぎの事を嬉しそうに眺めながらそんな事を言う那智に、創は鋭い視線を向けてきっぱりと言った。 「 小さいとか大きいとかはね。こういう事には関係ないんだよ。姉さん、俺が口の利き方を知らない人間が嫌いなのは知っているよね」 「 う、うん、それは…」 「 だったら、そういういい加減な台詞は吐かないでくれよな」 「 う、うん。ご、ごめんね、創……」 「 ………」 オドオドと年下の従弟に謝る那智。創はそんな「姉」に冷たい目を向けていたが、やがてついと視線を逸らすと、すっかり部外者になっていた雪也を見やった。 「 どうぞ、桐野君」 「 え…?」 いきなり話を振られた事で、雪也は思い切り面食らってしまった。当の創はやはり平然としていたのだが。 「 それ、せっかく姉さんが出してくれた事だし、飲みなよ。新鮮だし、美味しいと思うよ」 「 あ…そ、それじゃあ……」 雪也は何故か自分も那智のようにどもってしまい、びくびくとしながら肩をすぼめて片手だけをグラスに伸ばした。既に自分のものを飲みきってしまったうさぎが、物欲しそうな顔をして雪也を見つめていたが、それには気づかないフリをした。 「 い、いただきます」 「 ……何を怯えているんだ?」 「 え、い、いや……」 戸惑う雪也に不審な顔をして創は首をかしげた。那智がそんな雪也の様子にこっそりと口許を緩めていたが、それに気づいたのは雪也だけのようだった。 貰ったジュースを一気に喉に流し込むと、ひやりとした甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。 「淦」を出た頃には、既に夕刻を過ぎていた。 あの後何故か四人で映画を観る事になり、雪也は創がうさぎの為に選んだというアニメ映画を彼らと一緒に鑑賞した。創は途中で雑誌に手を伸ばして満足に観ていなかったが、うさぎと那智は画面に釘付けになって熱心にそれを見やっており、雪也自身も何となくそちらに意識をやって数時間を過ごした。ストーリーは満足に頭に残らなかったが、それでも息はつけたと思った。 何も考えたくなかったのかもしれない。 創の所へ行ったのも、始めからこういう事を望んでいたのではないだろうか。雪也は店を出た後に、その事に初めて気がついた。 「 その辺まで一緒に行くよ」 帰ると行った雪也に、何を思ったのか創はそう言った。するとうさぎもたたたと駆け寄って後に続いた。雪也が不思議そうな顔を向けると、創はふいと視線を逸らしてからつまらなそうに言った。 「 俺が散歩をするのはおかしい?」 「 え…いや、そんな事はないけど」 「 ならいいだろ」 創はそう言ってから店の方へ顔を向けて、カウンターの所にいる那智に「すぐ戻るから」とだけ声をかけ、先を歩き始めた。そんな創の後ろにうさぎがぴたりとつく。ちらちらと雪也の方を振り返ってはいたが、基本的に創の傍にいようと決めているようだ。うさぎは律儀に創の真後ろを歩いていた。それで雪也もそんな2人の後に続いた。 「 本当言うとね」 最初に切り出したのは創だった。「淦」の通りをすぐに抜けて、雪也の家へと続く道にさしかかった時だ。 「 俺、君はもう店には来ないかもしれないと思っていたんだ」 「 え……」 雪也が驚きながら創の背中に問うと、創は依然歩きながら続けた。 「 特にこれっていう理由があったわけじゃないよ。ただの勘、かな」 「 勘………」 「 自分の予想が外れたのは久しぶりだった。でもそれを残念だとは思わなかった」 「 ………」 「 人のことをあまり詮索するのは好きじゃないんだ。詮索すると、自分の事まで相手に知られる可能性が高くなる。そんなのは、嫌だからね」 雪也が答える事など期待していないのだろう、創は淡々と言葉を紡いだ。知らぬ間にうさぎはそんな創の手を握って横を歩いていたが、創の態度はさして変わらなかった。歩く速度も一定だった。 創は続けた。 「 でも…どうしてかな」 「 え…?」 「 ……君の事は知りたいと思った。君とあの剣君の事、とかね」 「 あ……」 「 訊いてもいいかな」 「 …………俺」 雪也が立ち止まって俯くと、創はそれが分かったのだろうか、ぴたりと立ち止まってここで初めて振り返った。その表情は何をも読み取れない無機的なものだったが、どちらにしろそこに秘められた彼の想いは、下を向いている雪也には分からないものだった。 「 言いたくないならいいよ。でも君はさ…君自身は、知っていなくちゃ」 「 ………?」 言われた意味が分からずに雪也が顔をあげて不審な顔をすると、創は相変わらずの無表情で言った。 「 君がどうしたいのかって事を」 「 俺が……」 「 そうだよ」 当たり前だろうという顔をして、創はそれからようやく笑った。それから自分の手をぶんぶんと振り回して、早く先を歩こうと急かしているうさぎに目をやった。 「 桐野君。俺が君の為にできる事があったら言ってくれて構わないよ。俺は答えを持っていないけど、でも―」 「 ………」 「 映画を貸す事くらいはできるからね」 「 あ……」 「 早く!」 業を煮やしたようになってうさぎが叫んだ。立ち止まっているのが嫌らしい。いよいよ創の腕をぐいぐいと引っ張り、うさぎは駄々をこね始めた。創は参ったというように「ああ、分かったよ」と言ってから、来た方向から再び店の方へと足を向け、雪也の横を通り過ぎた。 「 それじゃあ桐野君、また。このままこちらの方角へ行くと、こいつの家へ向かってしまうのでね」 創はうさぎの事を見やりながら、苦虫を噛み潰したような顔をした。どうやら創はうさぎの家―…二条家が苦手らしかった。 「 あ…あの!」 「 ……? 何?」 「 どうして……」 しかし雪也は、去って行こうとする創に向かって切羽詰まった顔をしつつ、慌てて口を切って呼び止めた。 「 どうして…」 「 何?」 「 どうして…そんな風に親切に言ってくれるの?」 「 は?」 意味が分からないという風に首をかしげる創に、雪也は居た堪れないような顔をして言った。 「 俺…何にも話してないのに…。話せてないのに…」 「 ………」 「 俺、本当は話したくて…聞いてもらいたいって思って、店に行ったんだ…。自分でもどうしていいか分からなくて…。でもいざ行ってみたら、何だか何も話したくなくなった。自分の事も、家の事も、誰かに話すなんて恥だ…。そう、思った。友達になりたいなんてバカな事言ったのは俺なのに」 「 ……俺は別にバカな事だとは思ってないけど?」 「 でも俺…!」 「 別に気にする事ないよ。人間って、好きな人には親切になるものだろ。そんなの当たり前の事だろ?」 「 す……」 「 妙な誤解しないで欲しいけど」 創はにやりと笑ってから尚もぐいぐいと腕を引っ張るうさぎに「いい加減にしろ、お前!」と言った後、再び足を動かし始めた。そうして雪也の方はもう見ずに創は言った。 「 桐野君は考え過ぎだよ」 雪也は去って行く創とうさぎの後ろ姿を、ただ黙って眺め続けた。 |
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家に戻ると、リビングには母親の美奈子がいた。 「 あ……」 何故か母が帰ってくる事を失念していた雪也は思い切り面食らってその場に立ち尽くした。玄関は出かけた時と同様鍵が掛かっていたし、鬱屈とした気持ちのまま、何となく歩いてきてしまっていたから。 だから完全に意表をつかれた。 「 お帰り」 美奈子はそんな息子の動揺っぷりを理解しているのかいないのか、平然とした口調でそう言ってから、ソファに投げ出していた足を組んで手にしていた雑誌をぺらりとめくった。 「 いつ…帰ってきたの」 「 今日よ。疲れた〜。予定より話が長引いちゃってね」 雪也に視線を向けずに美奈子はそう言って愚痴をこぼした。いつもは外用に派手な服を着こなしている美奈子も、家でリラックスしている時はこれでもかというほどだらしない格好になる。使い古しのジャージに大きめのTシャツを着て、今は化粧も落としてそこにいる。酒は飲んでいないようだった。 「 ……夕飯は?」 心の中でほっと安堵しつつ、雪也はそれでもリビングに入って行く気がしなくて入口付近に立ち尽くしたままそう訊いた。そうして、そういえば冷蔵庫の中に何か食べられる物はあっただろうかと頭の隅でざっと数日前の記憶を手繰り寄せた。 「 勿論食べるわよ。食べるけど、あんた買い物は?」 「 え?」 母親の台詞に雪也はどきりとした。 「 帰ってきて何か食べたいなあと思ったんだけど何もないし。あんたいないから、買い物にでも行ったのかと思った。今日、これからバイト?」 「 あ…いや……」 「 何?」 口ごもる息子にようやく母は顔を上げて不審の目を向けた。それから雑誌をぱたりと閉じて、じろじろと雪也の事を眺めた。 「 手ぶらで何処行っていたの? 大学の帰りってわけでもなさそうだし」 「 あ…近所のレンタルビデオ屋…」 「 ええ…? …そうなの。この近くにそんなお店、あったんだ」 「 うん」 「 で? 何もいいのなかったの?」 「 え?」 「 だから。手ぶらだから」 「 ああ…うん」 「 ……ヘンな子」 ぎこちない雪也に美奈子は不服そうな顔をして、それでもこれ以上追求する気はないのか、ソファにごろりと横になった。「あーあ、疲れた」と一人ごちたその様子は、確かにとても疲弊している様子だった。 雪也はそれでようやくリビングに足を踏み入れた。 「 何か…作るよ」 「 そうして。お腹減ったから」 「 うん」 「 息子1人を食べさせるのは、大変なのよ。本当に…」 「 うん」 キッチンに回った雪也にそう声をかける美奈子。雪也は律儀に声を返しながら冷蔵庫を開けた。使えそうな物を一通り確認した後、とりあえずは米を研ごうと、炊飯器の近くへ行く。米を一合だけ入れて、水道の蛇口を捻った。 「 ねえ、雪也」 そんな雪也に尚も母から声が掛けられた。キッチンからはソファに寝そべっている美奈子の姿は見えない。おまけに蛇口から流れる水の音で、その声はどこかもっと遠くの方から聞こえてくるような感じだった。だからだろうか、雪也も少しだけ気を楽にした状態でそんな母親と接する事ができた。 「 何?」 「 さっき涼一君から電話あったわよ」 母親のそう言う声は、実にいつもと変わらない平然とした調子だった。 「 三十分くらい前かな。雪はいますかって。『雪』ってねえ…」 「 ………何」 「 ねえ、雪って呼び名、昔私があんたに呼ぶと、あんたスゴク怒ったの、覚えている? 自分は女の子じゃないんだから、男なんだからって、すごくすごく怒ったの」 「 母さ…」 「 でもさ、あんたは護ちゃんがそう呼ぶのは許容していたのよねえ。何で母親のあたしがそう呼ぶのは嫌がって、護ちゃんなら許せるわけ? やっぱり好きな人には自分の嫌な事でも我慢できるっていうか、何でも許せるっていうか、なのかしらね?」 水道の蛇口を止める事も忘れて、雪也は茫然としながら母の声を聞いていた。美奈子が自分たちの事を知っていたというのは、もうこの間の事で分かっていたが、それでもやはりこうあからさまに話を出されると狼狽せずにはいられなかった。 「 だから涼一君がそう呼んでいるの聞くと何だかヘンな気分だわ。だってあんた、涼一君の事はそれほどでもないのでしょ?」 「 何が……」 ようやく雪也は蛇口から流れ続ける水を止めた。きゅっと強く捻り、水音を完全に遮断する。幸い美奈子は横たわった身体はそのままに、顔を見て話すという事はしてこなかったから、雪也も聞き返しやすかった。 けれど母の美奈子は雪也の問いに初めて腹を立てたようになって言った。 「 何がって。何がじゃないでしょ。護ちゃんと涼一君、どっちが好きかと言ったら、あんたはやっぱり護ちゃんがいいのでしょうって事。護ちゃん、誕生日にちゃんと来たでしょ?」 「 ……っ!」 その美奈子の発言に、雪也はぎょっとして思わずだっとリビングのソファにいる母親の前へと駆け寄った。 「 どういう…事?」 「 あんただってもう二十歳だっていうのにね。護ちゃんの中では、あんたはずっと小さくて可愛い雪ちゃんのままなのよね、きっと。だからずーっと心配してる。義理固いというか何というか…。人生損するタイプね」 「 だから何の事!?」 堪らずに雪也は怒鳴りつけたが、それでも美奈子は依然変わらぬ表情のまま、どちらかというと眠たそうな目を向けてぼそりと言った。 「 どうでもいいけど、雪也。出て行くなんて許しませんよ」 「 ………!?」 「 何度も言うようだけど、涼一君。一緒に住むほどは好きじゃないでしょ」 「 な…っ」 「 それに涼一君の方だって」 美奈子は狭いソファの上、それでもごろりと身体を反転させて雪也に背中を向けた。 「 そんなにあんたを好きという風には見えないわよ。あれは意地になっているだけよ」 「 え……」 「 それが証拠に、今日は用があるから来られないって」 「 !」 「 迎えに来られないって」 母は相変わらずのトーンでそう声を出した後、けれどここで初めて可笑しそうに笑った。 |
To be continued… |