（１９） 母の美奈子は雪也が作った夕食をものの１０分ほどでたいらげると、「疲れた」と言ってそのまま寝室に閉じこもってしまった。涼一のこと、護のことは何も教えてはくれなかった。母は何か知っているはずであるのに、加えて雪也自身からも雪也の気持ちなど訊きたい事があるはずなのに、その事に関してはもう一言も触れようとしなかった。食事の最中はただ忙しい仕事の話や世間のニュース、それに今付き合っている恋人の仕事の話などを母はしていた。 だから雪也もしつこく訊く事はできなかった。 洗い物を終えた後二階に上がって自室に向かうと、隣にある母の寝室からは実に楽しそうな笑い声が聞こえてきた。母は自分の携帯電話で誰かと話をしているようだった。そういえば、食事中にも話題に上った恋人…以前の「デート」の相手とは奇跡的にまだ続いているとの事だから、きっと今はその男と話をしているのだろうと思った。雪也は少しだけ足を止めてそんな母がいる寝室のドアを見つめていたが、やがてゆっくりとした足取りで自分の部屋へと向かった。 アルバイトのない夜の時間は退屈だった。 何も考えたくないから、そしてもしかするといつかはこの家を出ようと考えていたから、自分はアルバイトを続けていたのではないか…今になって雪也はそう思う。それまではどうして別段お金に困っているわけでもない状況の中、わざわざ深夜帯のあの仕事をしようと思ったのかよく分かっていなかった。あの職場はシフトも不定期で、雪也が何も言わないのを良い事に、好き勝手な時間に勤務させられる事も度々だった。その都度涼一からは「そんなバイトはやめろ」と怒られていたし、母からも「あんたの予定が決まっていないと私が困る」と嫌な顔をされていた。それでも、あのバイトを辞める気持ちにはなれなかった。 どこか。 居場所が欲しかったのかもしれない。家ではない、学校ではない、何処でもない、「何処か」。 そんな場所が。 『 ここで暮らそう 』 ベッドにどさりと横たわって、雪也は涼一がそう言った時の顔を思い出していた。そうして、ふと尻ポケットから出して手にしていた携帯をすっと眺めた。 着信はない。 『 一緒に暮らそう 』 あの時涼一は自分にそう言ってくれたけれど、何故か今日は来られないと言う。一体どうしたのだろうか。電話で母には一緒に暮らす事を話したようだが、その時に美奈子に何か言われたのだろうか。それは十分考えられる事だったけれど、だからといってそれで簡単に引き下がってしまう涼一とも思えなかった。 それとも…と雪也は思う。 やはり自分と一緒に暮らしたいなど、一時の気の迷いだったのか。 そもそもこんな風に煮えきらず、護との事も振り切れないと言っている自分と共に暮らす事で、一体涼一にどんなメリットがあると言うのか。ただ苦しいだけで、ただ居た堪れないだけで、きっと涼一は毎日イライラしてしまう事になる。母と電話でどんな話をしたのかは分からないが、これで良かったのかもしれないと雪也は思った。 ふうとため息をついて、それでも雪也は再び携帯を眺めた。やはりそれはしんと黙りこくって雪也の手の中にあった。 「 雪也」 その時、ドアの向こうで母の美奈子が呼ぶ声がした。 「 雪也、ちょっと来て」 はっとして慌てて起き上がり、雪也は急いで携帯をベッドに置くとそのままの勢いで部屋を出て母の寝室に向かった。そんな美奈子も丁度自室を出ようとしているところだったのだが、いつ身支度したのか、彼女は先刻までとはうって変わってすっかり外出モードの格好に切り替わっていた。 「 ちょっと出てくるわね」 母は雪也の顔を見るなり一言そう言った。 「 何処へ…？」 「 デートよ。決まっているでしょ」 母・美奈子は楽しそうに笑って見せてから、「ちょっとこれ上げて」と自力では届かない背中のファスナーを雪也に指し示すべく、くるりと後ろを向いた。雪也が言われるままにそれをきゅっと上げると、母は再びバタバタと忙しなく歩いて階段を下り、それから「戸締りお願いね」と言いながら玄関に向かって行った。雪也も何となくその後を追った。 「 ああ、それから。明日は帰らないから。あんたも出掛けるのなら夕飯の準備とかはいらないから」 「 え？」 「 もしかしたら明後日も帰らないかもしれないから」 「 そんなに…？」 「 何かね」 ここで母はぴたりと動きを止め、慌てて整えた髪の毛をもう一度確認するように手で撫でた後、脇に挟んでいたバッグを開けて中から白い紙きれを取り出した。そうして、何でもない事のように続けた。 「 もしかすると今度は本当に結婚するかもしれない。あんたも覚えておいてね」 「 え……」 「 今度の人は、ホンモノって感じがするのよ。あんたの父親以来かな、当たりは」 「 ………」 「 で、これ」 美奈子はそう言って、ただ立ち尽くす雪也に、手にした紙きれをすっと渡した。雪也が何だか分からないうちにそれを受け取ると、美奈子はまた平然とした表情で言った。 「 電話番号だから。掛けたけりゃ好きにしなさい」 「 何？」 「 護ちゃんの今の住んでいる所」 「 え？」 母の言った意味がよく分からずに雪也はぎょっとして目を見開いた。 「 だから。護ちゃんの今の住んでいる所だって。私はあんまり良いとは思わないわよ。あんたが護ちゃんと会うの。護ちゃんは今じゃあ、あんたとは関係ない世界で幸せに生きているのだし、あんたと関わる事でまた大袈裟に悩んだりしても悪いしね。でも、本当に誕生日の時来たみたいだから」 「 な、何言ってるの…？」 「 私は私で今の彼氏と楽しくやっているから、あんたも護ちゃんと会ってきていいわよ。でも明々後日には帰るから。その時にはいてね。ご飯作ってもらわなきゃ困るから」 「 ちょ…母さん……」 「 それじゃあ、行ってきます！」 母の美奈子は戸惑う雪也には全く構う風もなく、それだけを言うとさっさと出て行ってしまった。雪也は呆然としたまましばらくその場を動く事ができなかったが、それでも無意識のうちに受け取ったメモの切れ端へ視線を落とした。 そこには数字の羅列と、あとは一言。 マモル、と。 母の乱雑な字があった。 |
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母が突然引越しをすると言った時は、今までにないくらい雪也は抵抗した。これまでの雪也は母に面と向かって逆らった事など一度としてなかったし、言われた事は従順にこなす「いい子」でいる自覚も十分にあった。 それでも、ある日突然「ここから離れる」と言った母の台詞だけは、すんなりと受け入れる事はできなかった。 護と離れたくなかった。 「 ここは雪也、あんたにとってあまり良い環境じゃないわ」 確か引越しの前に母の美奈子はそんな事を言い、どことなく血走った目をして雪也の事を睨みつけた。どうしてもここにいたいと言う雪也の事を何度か平手打ちし、そうして「何を言っても無駄よ。諦めなさい」と言ったのだった。 今思うと、母はあの時既に自分が護と寝た事を勘付いていたのかもしれない。そしてそんな息子に嫌悪したのだと思う。 「あの夜」の事は実は記憶の曖昧な雪也だが、無理に頼んで護に抱いてもらった時、今までのひどく不安で押し潰されそうだった気持ちが和らいだ事だけは確かだった。それは勿論完全な「安心」などではなかったけれど、それでも一時の慰めには十分なものだった。どうしてあの日に限って護に泣きつき、そういう経緯に至ったのかは定かではないが、恐らく母親からまた何かされて、堪らず逃げ込んだのだろうと思う。それを護は黙って抱きしめて自分の良いようにしてくれた。温めてくれた。それは雪也にはとても有り難い事だったし、忘れ得ない思い出だった。 『 お前は何も心配することないから… 』 護はそう言って雪也の事を強く抱きしめてくれた。ただ、思い出そうとしてもそれしか浮かんでこない。泣いて苦しんで護に縋っていた自分。それを受け止めてくれた護。その映像しか浮かんではこないのだけれど。 「 護ちゃん、見送りには来られないって。あの子も色々と忙しいんだから、我がまま言うのはやめなさい」 引越しの日、母はそう言って雪也を無理やり車の助手席に乗せると、早々に１０年程も住んでいた場所を後にした。車の窓越し、寂しそうに笑って手を振る護の母と祖母の顔だけが雪也の滲んだ視界にいつまでも浮かんでいた。 あの時から、既に。 母は自分と護が会う事を護に禁じたのではないだろうか。雪也は今になってようやくその考えに至り、そしてその事実に愕然とした。 |
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電話は２コールもしないうちに取られた。 『 はい、もしもし』 明るい、屈託のない声だった。瞬時に護だと雪也には分かったが、すぐに掛けた割にはいざ本人の声を聞くと、やはり何と言って切り出して良いか分からずに沈黙してしまった。 『 もしもし？』 護の不審な声が返される。雪也はそれでも躊躇した。あんな風に突然再会して、そしてあんな風に突然涼一と共に傍を離れて。護は自分の事をどういう風に思っただろうかと今更心配になった。母に電話番号のメモを渡された時は悩む間もなく掛けてしまったというのに、一体どうしてそんな事をしてしまったのかといざとなって焦ってしまった。 『 もしもし？』 けれど、再度そう問い返された時、雪也は思わず声を出してしまっていた。 「 あ…あの…！」 『 え……』 雪也の声に、相手は明らかに動揺したような声を漏らした。そうしてしばしの沈黙の後、恐る恐るといった声が掛けられた。 『 雪……？』 「 ………」 『 雪か？』 「 う、うん……」 『 雪！』 明らかに驚いたような声、そして嬉しそうな声が聞こえた。雪也が必死に受話器に耳を当ててその声を聞いていると、更にその待ち焦がれていた声は続いた。 『 どうしてこの番号？ あ、美奈子おばさんが…？』 「 うん」 『 ………そうか』 何事か考えていたのだろうか、護は一瞬沈黙した後そう言った。 『 今、美奈子おばさん、そこにいるのか？』 「 ………」 『 雪？』 「 あ…ッ！」 つい声を出すのが遅れた。雪也は慌てた。 「 い、いない…。今日は帰らないからって…。それで、出掛ける前に電話番号のメモくれて…」 『 ……約束、守ってくれたんだ』 「 約束？」 意味が分からずに問い返すと、護は電話口の向こう側で笑ったようだった。 『 俺が雪の20才の誕生日を忘れないでちゃんと会いに行ったら、俺の電話番号も住んでいる所も雪に教えてくれるって。そう…約束していたから』 「 どうして……」 『 ……それまでは会っちゃいけない約束だったから』 「 どうして！」 『 ………』 強い口調で問い返した雪也に、護はしばらく答えようとしなかった。 けれどやがて一言。 『 雪…会いたいな…』 「 ！」 『 駄目か？ 今から会いに行ったら駄目かな？』 「 そん…」 そんなの、と言おうとして雪也は喉を詰まらせた。途端にどきりと胸が鳴り、どう答えて良いか分からずに雪也は言葉を失くしてしまった。 返答は一つに決まっているのに。 『 あ、でも……』 けれど瞬間護の困惑するような声が雪也の耳にかけられた。 『 あの人が怒るかな？ あの…この間の人』 「 え……」 『 雪の恋人って人』 「 あ……」 言われて雪也は涼一のことを思い出し、再び声に詰まった。もう二度と会うなと言われた。頼まれた。それに対して自分は分かったからと答えたし、涼一と一緒に住む事にも了承してしまった。 涼一は今日、迎えには来なかったけれど。 『 もし会うのがまずいなら今言うよ。ずっと訊きたかったから』 護は黙りこむ雪也を待たずに先を続けた。それで雪也もはっと我に返って護の声に耳を済ませた。 護は言った。 『 雪、今幸せ？』 それはあの昔と変わらぬ優しく静かな声だった。ゆっくりと、雪也が驚かないように本当にゆっくりと聞いてくれるあの訊き方。 『 辛い事ないか？ 大丈夫か？』 「 あ………」 思わず受話器を握る手が震え、雪也はがくがくと身体を震わせた。どうしてかその身体の震えは止まる事がなかった。受話器を持たないもう片方の手で腕を抱えてその動きを制しようとしたけれど、どうしても駄目だった。 『 もう昔の話だし。雪は忘れちゃったかもしれないけど、俺、お前と約束していただろう。ちゃんと傍にいてやるからって。それなのに…あんな風に別れるしかなくて、本当にごめん』 「 ま……」 『 雪、傷ついてないかってずっと心配だった。やっぱり何度か会いに行こうとも思ったりしたんだ。でも今更俺が行って、雪、もしかしたら新しい所でうまくやっているかもしれないしとかぐだぐだと思ったり…』 「 護……」 『 でも本当…雪、大きくなっているから驚いた。バカな話だけど、俺の中で雪はあの時の、別れたまんまの中学生の雪だったんだよな。本当バカだけど…あの日会って、雪が変わっているの見て、俺―』 「 護…！」 『 え？』 護の堰を切ったような話を思わず止めて、雪也は叫んでいた。自分の中で何かがぷつんと音を立てて切れたような気がした。 「 護…護…」 『 雪……？』 「 あ…あ……ぃ……」 『 え？』 「 会い……」 『 雪？』 「 会いたい……」 その言葉を口にした時、雪也の頭の中に存在するものは最早護だけだった。 「 会いたいよ……」 『 雪……』 ずっとずっとそれが自分の望みだったから。それを抑えて忘れようとした自分に、不意に訪れたその機会だったから。だからそう言っていた。気づいた時にはそう言っていた。 「 会いたい…」 『 雪…』 「 会いたい…ッ！」 押し殺した声で再度雪也がそう言うと、しっかりとした護の声がすぐに返ってきた。 『 雪。俺、今家だけど。これからお前の家に行くから』 「 護…ッ」 『 すぐ行くから。な、待ってろ。すぐ行くから』 護はそう言った。そうして、すぐに電話は切れた。雪也はその相手の声が途切れた電話を、しかししばらくの間ずっと握り締めていた。どうしてか置く事はできなかったから。 ナニヲイッテ…ユキ…。 あの夜、どうしてかすごく悲しかった。気が狂いそうなくらいどうしようもなくて、護に縋りついた。ただあの夜は…。そう、あの時は確か護の家ではなかった。 自分の部屋で、１人で泣いていて。 護が息せき切って部屋にやってきてくれて。 キタナイ、キタナイ……。 そう、確か自分はそんな事を言って泣きじゃくっていた。違う、そんな事はないと必死に言ってくれる護に抱きつきながら、それでも首を振って同じ事ばかり連呼していた。 汚い、と。 そうして頼んだ。護に抱いて欲しいと頼んだ。護は最初無理だと、できないと言っていたけれど…。 「 頭が…痛い……」 不意に蘇ってきた記憶の断片に、雪也は戸惑って頭を抑えた。ズキズキとする痛みにがくりと身体の均衡を失って、手にしていた受話器をぽろりと落とした。どうしてしまったのかよく分からなかった。 ただ、何故か。 不意に迫り来る不安な影を雪也は払う事ができずにいた。 「 護……会いたいよ……」 だから早く護に会いたいと、来て欲しいとただそれだけを願った。 |
| Ｔｏ ｂｅ ｃｏｎｔｉｎｕｅｄ… |