(20)



  待ちきれなくて家の前で突っ立っていた。
  いつ護が来るか見当もつかない。自分のこの家からどれだけ離れた所に住んでいるのかも知らない。護は今家にいて、これからすぐにこちらへ向かうと言ってくれたけれど、だからと言ってその「すぐ」がどれくらいの時間を指し示しているのか、雪也にはまるで予測できなかった。
  それでも、雪也は表門の前に立ち尽くしたまま、通りの向こうから護がやって来てくれるのをひたすら待った。
  その時。
「 あ……」
  白い影がゆらりと揺れた。
「 ……?」
  それは不安定な動きをしながら、それでも夜の闇の中、確実にこちらに近づいてきた。距離が縮まるにつれてそれは人の形を為し、その影は白いあのドレスなのだと雪也には認識できた。
「 うさぎ…?」
  半ば確信を持ちながらも恐る恐るそう問い質すと、段々と近づいてきたその影は一瞬ぴたりと止まった。しかしまたすぐに動き出すと、完全に姿を現したその少女―うさぎ―は傍に寄って来て自分よりも数段背の高い雪也をじっと見据えた。
「 どう…したの?」
  話しかけても返事がない事は分かっていた。それでも何も話さずにこの少女と面と向かい続けるのは辛過ぎた。うさぎは何やら自分を敵視しているようではあるが、それでも何を思ってかこうしてこちらに来て視線を向けてきている。話しかけないわけにはいかなかった。
「 今日は『淦』には行かないの?」
「 あんたは?」
「 え…っ」
  ぶっきらぼうに突然そう訊かれて、雪也は面食らい声を失った。それは相変わらずキンとしたよく通る大きな声だった。耳に痛いその声と、そして揺らぎない真っ直ぐな瞳は、どうしてか雪也の胸に重くのしかかった。
  うさぎの白い姿を見つめ続けるのは、何故かひどく苦しかった。
「 何しているの」
  戸惑う雪也にうさぎは再び訊ねてきた。
「 何って……」
  どう答えて良いか分からずに雪也は再び絶句した。しかしうさぎは雪也の返答を待っているのか、見上げた視線をそのままに、ただじっとしていた。
「 ……人を待っているんだ」
  ようやくそれだけを言うと、うさぎはぴくりと眉を動かしてからすっと視線を通りの向こうへと移した。雪也の家の通りは一方通行になっており、うさぎが来た方向からしか人が来る事はできなかった。もう一方の道は段差が高くて、近辺の住民が通り抜けるくらいの事はできたが、車やバイクなどが通る事は不可能だった。
  うさぎと雪也はしばらくの間、護が来るであろう方向へ黙って目をやっていた。雪也としては自分の気持ちをこうもざわつかせる不思議少女「うさぎ」をもう少し観察してみたいという気持ちがあったのだが、この少女が人に見られる事を誰よりも嫌がるであろう事を直感で理解もしていたから、この時は努めてうさぎの方を見ないようにしていた。
 
そんな時、不意にうさぎが口を開いた。
「 キレイって何だ?」
「 え…?」
  唐突に訊かれた事で雪也は再び意表をつかれ、即答する事ができなかった。
「 何だって言うと…?」
「 意味」
「 意味? 綺麗の意味?」
  うさぎは応えなかった。雪也の方を見てもいない。ただ無機的な、しかし意思の強そうな凛とした顔で通りの向こうを眺めている。
「 意味と言われても…。美しいって事…かな」
「 美しい?」
  ひどく怪訝な顔をして、うさぎは視線を雪也に向けてきた。雪也はそれで益々困惑したようになりながらも、頼りなげに頷いた。
「 う…ん。そう…思うんだけど」
「 美しいって何だ」
「 う、美しいって言うのは…綺麗って事で……」
「 ………」
「 とにかく二つとも良い意味だよ。そう…思うんだけど」
「 母様は、これを着ているとキレイだからって」
「 え…あ、その服?」
  雪也はうさぎが着ている白いドレスを指している事を察し、改めてその服をまじまじと見やった。最初に感じた印象そのまま、異国の人形に着せるような、薄いレースと上品な形のリボンがついた純白のドレス。うさぎは日中からあちこち歩き回っているようであったが、それでもその服には一切の汚れがなかった。
  しかしそのドレスは資産家のパーティやピアノの発表会などにならともかく、この郊外の町中で着るには不釣合い極まりない格好と言って良かった。
「 ……お母さんがそういうの好きなんだ?」
  雪也がそれだけを言うと、うさぎはここでようやくコクンと頷いてから、むっとしたような顔をして言った。
「 美しいわけない」
「 え?」
「 そんなの嘘だ」
「 ど…どうして……」
「 こんな格好、ヘンだ。どうしてさせるんだ」
  うさぎはまくしたてるようにぽんぽんとそれだけを言うと、雪也の事をキッと見上げた。しかしそれも一瞬で、それからまたふいとそっぽを向くとうさぎは再び通りの道をじっと眺めた。所在なくなった雪也もそれで仕方なく自分もそちらへと視線を向けた。
「 あ……!」
  けれどその瞬間、通りから1台の車が現れた。
「 ……・!」
  それはバイト先に護が乗り合わせてきた物と同じ、ダークグレーの車だった。ライトに照らされて一瞬目を細めたが、すかさず運転席に目をやるとやはりそこには護の顔がはっきりと見えた。
「 雪!」
  車中の人物―護―は、車を雪也の家の前に停めるとすぐに降りてきて、開口一番そう名前を呼んできた。それからだっと駆け寄ってから少し乱れた息を整え、焦ったように言った。
「 雪、ごめん。待ったか? 思ったより時間かかった…」
「 ………」
「 雪?」
「 あ!」
  一瞬茫然としてしまい言葉を失っていると、護が心配そうな瞳を向けてきた。雪也は慌てて首を横に振ると何とか笑おうと頬の突っ張った筋肉を上げてみた。
「 待ってないから…全然……」
「 そうか、それなら……ん……」
  ほっとしたような笑顔を見せた護は、しかしその後雪也のすぐ隣に立ってこちらを見やっている少女うさぎの存在に気づいてぎょっとしたような顔をした。
「 な…?」
「 あ、この子……近所の子で……」
  雪也がうさぎを見やりながら護に口を開くと、不意にひどく生暖かい風が三人を包んだ。その熱風は一瞬雪也の口を閉じさせ、それから茫然としている護の目を閉じさせ、更に無機的な表情のうさぎの背を押す追い風となった。
「 あ…!」
  うさぎは雪也たちの方はもう見ず、黙ってだっと踵を返すとそのまま去って行ってしまった。雪也は当初そんなうさぎに唖然としていたが、すぐに思い直したようになって護に視線を向けた。
「 あ…あの子、ちょっとおかしなところがあって…。神出鬼没というか」
「 ………あの子」
「 え?」
  雪也はこの時、初めて護の様子がおかしくなった事に気がついた。
「 あの子……」
「 ど…うしたの、護?」
  護は雪也の方は見ないまま、未だうさぎが去って行った方向を眺めやっていた。そんな護の表情は、驚きと戸惑いと。
  どこかしら恐怖の色を湛えていた。
「 護……?」
  その瞬間、雪也は自らの胸に沈んでいた不安の影がより一層大きくなるのを感じた。
  恐らく護はうさぎを見て、自分と「同じこと」を感じたのだ。

  うさぎを、見た事があると。

「 護…あの子の事、知っている?」
「 え…」
  ようやく我に返ったようになった護が、雪也の質問にぎょっとしたような顔を見せた。
「 知っているの…?」
「 何で……」
「 そう…思っただけだけど」
「 ………」
「 俺も…あの子、初めて見た時、何処かで会った事あるような気がしていたから」
  雪也がそう言うと、護は再び驚いたような顔を見せた。
  しかしすぐにその表情を消すと。
「 ごめん。知らない子だよ。ただ、こんな時間にあんな子がいるから驚いただけ…」
「 ………」
「 それより、雪」
  護はそう呼んでから、再び気を取り直したような笑顔になって言った。
「 本当に久しぶり」


*


  本来ならばわざわざ来てくれた護を家に入れるのが礼儀というものだったが、雪也にはそれがどうしてもできなかった。明後日まで帰らないと言った母の言葉が耳に残ってはいたものの、それでもあの気紛れな人がいつ何を思って家に戻ってくるか分からないと思った。その時に、護と母を会わせるのは嫌だった。
  雪也は我がままを言って護の車に乗せてもらった。
「 何処か行きたい所あるか?」
  護は音楽をかけてから車のエンジンをかけ、シートベルトを締めている雪也に柔らかい口調でそう問い掛けた。雪也が首を左右に振ってから「何処も」と答えると、護はそう言われる事は予想していたのか、静かに微笑して流れるような口調で言った。
「 じゃあ適当に走らせる。話できそうな所あったら停まるから」
「 うん」
「 じゃあ、行くな」
  護は行ってから、あてのないドライブの為のアクセルを踏んだ。
「 護は、今は…?」
  しばらくはお互い沈黙の2人だったが、最初に口を開いたのは雪也だった。黙っているのが勿体なくなったのだ。
「 前の所に住んでいないの…?」
「 美奈子おばさんから聞いてないのか?」
「 え…? う、うん…」
  雪也は戸惑って首を縦にった。そもそも母と護が今まで連絡を取り合っていた事も自分は知らなかったのだ。
  どこから訊いて良いのかと混乱している風の雪也に、護はちらとだけ視線を向けてから自分も困ったように笑った。
「 父親が会社を定年退職して郷里の田舎に家を買ったんだ。お袋は東京離れるのちょっと渋ったけど、随分一緒に暮らしていない夫婦だっただろ。最後は根負けで一緒に行った」
「 おばあさんは?」
「 ああ、勿論行ったよ、一緒に。まだまだ元気だよ、あの人」
「 そう…」
  あの優しかった人たちが健在と聞いただけで、雪也は心の中がぽっと温かくなるのを感じた。自然に笑みがこぼれる。あの人たちが自分の本当の家族だったらどれだけ良かっただろうと何度思ったかしれない。一方で、そんな風に考えるなど母に悪いという気持ちも抱くのであったが。
「 会いたいな…」
  それでもふっと出た雪也のその言葉に、護は殊のほか嬉しそうな顔をした。運転の為、視線は前を向いたままだったが、その表情は当初のぎこちなさを越えて徐々に生来の明るさを取り戻しているかのようだった。
「 お袋たちも時々雪の話はするよ。今どうしているんだろうって。今、雪は大学どうだ?」
「 どう…って?」
「 え? ……いや、楽しいかなって」
「 あ……うん……」
  護の事を訊きたいと思っているのに、逆に自分の事から訊かれてしまって雪也は困惑した。護に話せるような何かを自分はちっとも持っていないと思う。
  隠したい事ならたくさんあるけれど。
「 あんまり楽しくないのか?」
「 うん……」
  素直に言ってしまい、雪也はハッと後悔の顔を浮かべたが、護はこちらを向いていなかった。ただ、やはり曇りがかった顔になって心なしかハンドルを握る手により力が込められたようだった。
  けれど護はすぐに明るい声を出して雪也に言った。
「 あ、話、逸れたな。今俺が住んでいる所」
「 あ…うん」
  護はそれからぽつぽつと自分の今までの生活の話を雪也にした。護は雪也の家からさほど離れていない場所で月5万円のアパートを借りて都内の大学へ通っていた。ただつい最近までその大学が設けている制度を利用してアメリカへ留学していた為、日本には1年ほどいなかったのだと護は言った。そしてその間に両親が田舎へ越し、異国の生活が長かった事も相俟って完全に1人暮らしに慣れてしまった今は、料理が少しだけ上手くなったのだと照れくさそうに笑った。それから護は大学で研究しているというバイオの話を夢中になって話した。雪也には全く訳が分からなかったのだが。
「 スポーツは全然やらなくなっちゃった。冬にスキーに行くくらい」
  行く先不明な2人を乗せた車は、護の他愛のない話と共にすいすいと進んで行った。雪也はそれを黙って聞き、ひどく心が落ち着くのを感じた。ずっと会っていなかったとは思えない、護は普段からすぐ近くにいて、こうしていつも自分の気持ちを安らがせてくれていたような気がした。
  けれど話が一区切りついた時、護が唐突に言った。
「 それで雪は?」
「 え?」
「 近況報告」
「 あ………」
  訊かれないわけはないのだけれど、やはり不意に訊ねられても返答に困った。高校、大学と特に何をするでもなく、どちらかというと母やその他周囲の人間たちに流されながら無機的に生きてきたと思うから。護のように極めたいと思う何かがあるわけでもない、楽しい友人の話ができるわけでもない。将来の夢もない。
  何を話して良いか分からなかった。
「 特に何も……」
  だからそう言うしかなかった。つまらない奴だと護は呆れるだろうか。そう思われるのはとても怖い事だったが、それでも話したくない事まで話すのは嫌だった。
「 あの人は?」
  たとえば、涼一の事とか。
「 ……雪、あんまり話したくないのかもしれないけど」
  そうだ。涼一の事を護に話すのは嫌だと思う。
「 同じ大学なのか?」
「 ……うん」
「 そっか。それで雪は―」
「 護は!」
「 え?」
  訊ねようとしている声をかき消されて、護は驚いて言葉を消した。雪也の方はそれきり言葉を出せなくなってしまったのだが。
「 ………」
  護はちらちらとそんな雪也に視線をやっていたが、やがて走らせていた車を路肩につけ車を停めた。その横を何台かの車が通り抜けて行ったが、後続車はそれきりで、あとはしんと静かな2人だけの空間となった。

「 雪…」
  ようやく身体ごと雪也の方へと向けた護は、自分を呼んだきり黙りこくった相手をじっと見つめた。
「 ごめん、訊かれたくないなら……」
「 護は…何で突然会いに来てくれたの?」
「 え……」
  やっと言えたと雪也は思った。護がこうやって気遣ってくれるからだと思う。

「 母さんと約束していたって…何で?」
「 ………」
  護はすぐに答えようとしなかった。雪也は縋るような目を向けて、護の腕を掴んだ。
「 どうして…? いる所知っていたのなら、どうしてすぐ来てくれなかった…?」
「 雪……」
「 もう二度と会えないって思ってた……」
  そう言った瞬間、身体が震えるのを感じた。それは、本当はそんな恐ろしい事を信じてはいなかった、信じたくはなかったという現れのようだった。
「 美奈子おばさん…」
  その時、護が口を開いた。
「 当然だけど…やっぱり母親なんだから当然だけど。すごくショックだったんだよ。その…俺とお前の事」
「 え?」
  何の事か分からずに眉を潜めると、護は益々言いにくそうになりながらも視線を逸らせて言った。
「 あの後、俺に言ってきた。もう二度と雪には会わないでくれって。俺が雪をおかしくしたって。俺と出会わなければ…お前はちゃんと女の子を好きになれて…ちゃんと…男らしくなれたのにって」
「 何言っ……」
「 あの後、雪がすごく傷ついて泣いているって、塞ぎこんでいるって言われて…。俺、でも俺はそう言われても、あの時はもうお前と離れるわけにはいかないって勝手に思ってた。だから引き下がれなくて…引き下がりたくなくて…でも、俺たちの事、おばさんに話した雪の気持ちを考えると…」
「 何言ってるの…?」
「 何って…。雪、おばさんに言ったんだろ…。俺たちのこと…」
「 俺…言ってない…」
「 え?」
  雪也の愕然とした声に、護は思い詰めていたような顔をすっと上げて怪訝な顔をした。
「 雪?」
「 何で…母さんは俺と護のこと…?」
「 え…だって、おばさんはお前から聞いたって…」
  護が掠れた声で言った言葉に雪也はもう首を振っていた。
「 言ってない」
「 ……俺がお前のこと無理やり抱いたって、泣きながら…」
「 言ってない! そんな事!」
「 ゆ…」
「 言ってない! そんな事!」
「 雪…」
「 言ってない!!」
  そう叫ぶことしかできなかった。気づくと声を張り上げていた。護は驚いた顔のまま、ただそんな雪也のことを見つめており、雪也はただ声を荒げて護から目を逸らさずにいた。


  美奈子は見ていたのだろうか。護とセックスしていた自分を。信じられない息子の姿を、許されない息子の姿を見て、母はその怒りを護に向けたのだろうか。だから嘘をついた? 自分と護を近づけさせない為に。引き離す為に。母が自分たちの事に何となく勘付いていたという事はもう理解していたはずであるのに、再び湧き上がった言いようのない熱に、雪也は茫然とした。
  母の嘘に、物陰からあの夜を覗き見ていた母に。
  我慢ならなかった。




To be continued…



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