錆びついた視線２１

　（２１）

　離れていたくなくて雪也は護にずっと寄り添っていた。電気を消したままのほの暗い部屋の隅で、雪也は護の肩に自らの身を預けていた。幼い頃にそれこそよくやっていたその時間は、しかしこんなに時を経てしまった今も雪也に変わらぬ安心感をくれた。

　適当に車を走らせた後、結局護は雪也を自分の住むアパートへ連れて行った。
　護は雪也を部屋に入れる前に「これでもかという程散らかっている」と焦った風に何度も言ったが、そこは涼一のあの部屋に比べれば何という事もない、至って「普通の部屋」だった。狭い六畳間の空間を狭く見せていた大部分の原因はそこら中に無造作に積まれた本のせいで、それも部屋の隅に置かれた本棚の代わりの小さなボックスと幾つかのダンボール箱が既にいっぱいになってしまったからだった。部屋の中央に置かれている卓袱台の上にもノートパソコンや英和辞書、幾つかの書籍で埋まっていたが、しかしそれ以外は実にすっきりと整理整頓ができていた。取り込んだ洗濯物も綺麗にたたまれていた。
　雪也はその部屋で一晩護の傍にいて目をつむっていた。護はそれまでの自分の生活の事を車内でしてくれたよりも更に詳しく聞かせてくれたし、それ以外にも色々な楽しい話をしてくれた。…が、雪也の事についてはもう何も訊いてこようとはしなかった。
　だから雪也も安心してそこにいられた。
　護が母・美奈子から言われたという事に関してはもう少しだけ聞きたいという気持ちも確かにあった。けれどそう思いつつも、雪也は護が口にした以上の事をもう聞く事ができなかった。それはこれ以上母の本心を知りたくないという恐怖心がその「知りたい」という気持ちに勝ったからだった。
　だから雪也はただ護の傍にいる事を欲した。
　本当は、それ以上の事も望んでいたのかもしれないが。
「雪…眠った？」
　そろそろ空が白み始めた頃、身じろぎもしなくなった雪也に護がそっと聞いた。優しい仕草で髪をなでてくれる護の所作が気持ち良かった。だから雪也はついぼんやりとしてしまっていたのだが、それでも護の問いには何とか答えられた。
「寝てないよ」
「今更だけど蒲団敷いて寝るか？　あんな時間に連れ出しちゃったもんな」
「俺が会いたいって…言ったんだから」
「 ………」
　雪也の言葉に護は何も言わなかったが、やがてちらと時計を見た後、昔を思い出すように目を細めた。
「雪が夜うちに来た日はさ、よく明け方一緒に森に行ったりしたよな」
「え？」
「覚えてない？　小学生の頃、太い切り株が根っこごと掘り返されていた場所があってさ。それを使って秘密基地とか作った事あっただろ。それで何故かそこには朝方しか行っちゃいけないルールとか作ったり…」
「ああ…うん」
「何であの時はあんな早い時間限定で遊んでいたんだろうな？」
　護の不思議そうな話しぶりに雪也は少しだけ黙りこくった後、ようやく困ったようになりながらも笑った。
「護こそ覚えてない？」
「何が？」
「どうしてそこに朝しか行っちゃいけないってルールを作ったか」
「？　うん？」
「 ………」
　それは雪也が護に提案した決まりごとだった。その時も理由を言ったのは一回きりだったけれど、護はその時雪也の言葉に困惑したような顔をしつつも、いつもの笑顔で「分かったよ」と言ってくれたのだった。
　誰も来ない朝方のあの森は、２人だけの時間だった。雪也の大切な時間だったのだ。
「なあ、何でだっけ？」
「いいよ、忘れたなら」
　雪也は護の問いにしらばっくれて再び笑った後ようやっとの思いで身体を起こし、ぐんと背中を正して伸びをした。
「雪？　どうする、寝るか？」
「 ………ううん」
　護の問いに雪也は首を振った。それから少しだけ目線を下にずらしてから言った。
「帰る」
　ここから駅まで歩いて行けば始発の電車も走り始める時間にはなるだろう。雪也はそれだけ言うと、戸惑う護にまた小さく笑ってみせた。
「このままいたら、ずっとここにいたくなっちゃうから…」
「雪……」
「だから今日はもう帰る。ありがとう…来てくれて」
「 ……じゃあ送るよ」
　護は一拍空けてからようやくそれだけを言った。雪也は少しだけ息が苦しくなって、そう申し出た護の顔を見る事ができなかった。
　それでも何とか言葉を継いだ。
「いいよ…。俺、一人で帰れるから」
「何で」
　遠慮がちに断る雪也に、護はやや強い口調で訊いてきた。
「え…？」
「何でそんな遠慮する？」
「え、んりょって……」
「雪、俺の事呼んだじゃないか」
「 ………」
　護は雪也同様自分も息を吸うのが苦しかったのか、ハアと大きく呼吸してから再び口をきった。
「雪が帰るって言うなら止めはしない。でも、ここはもう雪の場所だから」
「護…？」
　護の頑とした言い様に雪也は目を見開いた。目の前の幼馴染はひどく悲痛な顔をしていたが、揺らぎのない強い瞳を有していた。
「いつでも来たい時に来ていいんだ。いたいと思えばずっといていい。俺のことも呼んでいいんだ。会いたい時に呼んでいい」
「そんな事……」
「そういう約束だった」
　護はきっぱりと言ってから、再び大きく息を吐いた。やはりどこか苦しそうだった。それでも護は続けた。
「雪が望むなら俺は雪の傍にいるから。…逆に俺が不要の時は、俺の事は忘れていい」
「な……」
　何を言われているのかよく分からずに雪也が問おうとすると、しかし護は自分が先に口を継いだ。
「な、分かったか、雪？　鍵は持っているだろう？　あれな、ここの部屋の鍵なんだ」
「鍵…？」
「うん。誕生日プレゼントと一緒に入れておいたやつだよ。この部屋の鍵」
　護はそう言うと、後は車のキーを持って立ち上がった。それから再び頑迷に「お前が何と言おうと送っていくからな」と言って、護は未だその場に固まってしまっている雪也を見下ろした。
「 ……いきなり現れていきなり昔みたいになれない事なんて分かっている。でも、俺は雪の傍にいるって決めたんだから。……あの時から」
　そして護は雪也に背を向けたままぽつりとそれだけを言った。

『雪、お前は悪くない』
　あの時護は必死にそう言って、痛いくらいに抱きしめてくれた。
『俺も雪のこと大好きだから。だから泣くなよ』
　そしてあの日初めて護はひどくぎこちないと感じる、けれど温かいキスをしてくれた。
『俺が雪を守ってやるから…… 』
　何故、あの夜執拗に護に抱いて欲しいと自分は言ったのだろうか。何故あんなに泣き、そうして護はあんな風に一生懸命自分を慰めてくれていたのだろうか。
　思い出そうとすると頭が痛くなった。

　車が家の前にまで来ると、護はそのエンジンも止めて雪也の方に向き直った。
「今日は雪とたくさん話せて楽しかった」
「 ………うん」
「雪も？」
「うん」
「 ……良かった」
　護は安堵したようにそう言い、それからさらりと雪也の髪の毛を撫でた。そうしてゆっくりと車を降りる雪也の背中にもう一度声をかけた。
「いつでも電話して来いよ。あの部屋にも…鍵使って勝手に入っていいから」
　雪也はその言葉にうまく答える事ができなかった。護が言うところの部屋の鍵を、雪也は知らなかった。護が誕生日の時にくれたあの包みは、涼一と口論した際に何処かへやってしまっていた。恐らくは涼一が持っているのだろうが、しかしそれももう捨てられてしまったかもしれない。その可能性は高い気がした。
　けれど雪也はその事を護に言うのは憚られた。その話をすればどうしても涼一の事を言わないわけにはいかないから。
「 ……またな、雪」
　何も言わない雪也に、護は更に優しい声でそう言った。そうして再びエンジンをかけると車をＵターンさせ、雪也の元から去って行った。
「護…ッ！」
　車が遠ざかってから雪也は背けていた顔を再び通りの方へやり、もうとうに姿の見えなくなってしまった護の事を目で追った。変わらずに優しく自分を包んでくれた護が嬉しかった。いつでも来ていいと言ってくれた護が嬉しかった。あの時のままの護が再び現れてくれた事が信じられなかった。
「護……」
　けれど雪也は一方で心に重いものも感じていた。
　優しかったけれど、再び自分を受け入れてはくれたけれど、護は決して自分を抱こうとはしなかった。キスもしてくれなかった。我がままだと分かっているのに、それが寂しくて仕方なかった。
　それでも雪也はしばらくの間、通りの向こうをずっと眺めていた。ひどく泣きたい気持ちになった。
　何故か涙は出なかったのだけれど。

　家の中に入ると、そこには母の美奈子がいた。
「お帰り」
　母は泥酔していた。
「 ……いつから？」
　茫然として部屋の入口から雪也が声をかけると、先に口を開いて息子に出迎えの言葉を吐いた母は、ひどく据わった目をしたままいやに低い声で応えた。
「知らない」
「 ………」
「ゆぅきちゃん。ついで」
　びらびらのスカートが腿のあたりまでめくれているのにも構わず、ソファに深々とだらしなく身を預けていた美奈子はそう言って雪也にウイスキーの入ったグラスを掲げて見せた。テーブルの上に置いてあるそのウイスキーの瓶はまだ開けたばかりのようだったが、既に外で飲んできたことは明らかだった。化粧はごっそりと剥げ落ち、髪の毛も乱れきっている。ずっと不機嫌な酒を飲んでいたのだろう。雪也はそんな母をなるべく刺激しないようにしながらそっと傍に近寄り、ウイスキーの瓶を取った。
「早くついでぇ」
「 ……氷は」
「いらない」
「 ………」
「早く」
「 ……今日仕事は」
「行かない」
　いつもの事だが美奈子はどんなに酔った風でも、割舌は恐ろしく良かった。この人は本当に酔っ払っているのだろうかと疑いたくなるくらい、常にしゃっきりとした口のきき方をするのだ。それでも、こんな時の母がいつもより数段我がままになり、理不尽になり、凶暴になる事は嫌という程分かっていたから、雪也はただ逆らわずに差し出されたグラスにウイスキーを注いだ。そうする事がより最悪な事態を招こうが、雪也にそれ以外の選択肢は許されていなかったのである。
「雪也も飲みな」
「 ………」
　母は一口やってから、すぐにそれを雪也に差し出した。雪也は母がいるソファのすぐ傍に立ち尽くしたまま、素直にそのグラスに口をつけた。ツンと鼻をつくキツイ香りがして、雪也は心の中だけで顔をしかめた。
「だらしないね」
　しかし雪也が一切のアルコールを受け付けないという事を知っている母はすぐにそう言ってからバカにしたように鼻で笑い、それからつまらなそうに外の景色を見やった。随分明るくなった外からは、その朝の光が２人のいるリビングにまで細く眩しく差し込んできていた。
「いい年して、これくらいもっと勢いよく飲みなさいよ。あんた、男でしょ？」
「 ………」
「子供だってすいすい飲んじゃっていたわよ」
「 ………？」
　何の事やら分からずに雪也が怪訝な顔をすると、母は再び薄っすらと半目状態になって、その定まらない視点で戸惑う息子の姿を見据えてきた。
「あんた、知っていた？　この先の二条の子」
「え……」
「あの子。昔のあんたにそっくりね」
「誰……」
「白いドレスの子よ。びっくりした。夢でも見ているのかと思ったわ」
　母・美奈子はそう言ってから何やら急に腹立たしくなってきたようで、フンと鼻を鳴らして再び雪也からグラスを奪い返すと、自分が一気にそれを空けた。しかしそれきり母は「うさぎ」の事らしき少女については口をつぐみ、あとは雪也からも視線を逸らして、何やらぶつぶつと独り言をつぶやき始めた。
「あの男…ふざけんじゃないよ、人の事バカにして…。何だかんだいい顔して、調子に乗って、自分とこの商売がうまくいったらハイさようなら、よ。どんだけ金ふんだくられたか。訴えてやろうか。それとも誰か雇って痛い目見せてやろうか」
　口にする度その怒りは増すのだろう、母の顔色は段々と悪くなっていった。ぎゅうっと両手で握り締めたやや大きめのウイスキーグラスは、気のせいかそれのせいで震えているように見えた。
　雪也がその場から動けずにただ黙っていると、母は尚もひとしきりそのほんの数時間前に浮かれて言っていた「結婚するかもしれない」男の悪口を喋り続けた。
「大体あの年で独身なんてヘンだと思った。よく考えるとセックスも下手だったし、オンナは駄目な部類の奴だったのかもしれない。珍しくないものね、そんな男。特に私の周りはそんな男ばっかりだもの。昔っから、ヘンな男しか集まらないものね」
　私ってホントついてないわ。
　美奈子はムキになったように強い口調でそう言ってから、ようやく雪也の存在を思い出したようになって顔を上げた。その息子を見やる目は、ひどく冷めていて濁っていて、生気がなかった。

　そんな錆びついた視線を向け、母は言った。

「何見てんのよ」
　雪也はすぐに反応を返す事ができなかった。
「何見てんのよ」
「あ……」
「何？　何が言いたいの？　何かあるならハッキリ言って。あたしは！　あんたの！　そういうそういうもごもごぐちゃぐちゃしたところが嫌なのよ、駄目なのよ！　イライラするの、男のくせに女みたいで！！」
　遂に母はヒステリックに叫び出し、グラスを雪也に投げつけた。雪也はそれをかろうじて胸のところで受け止めたが、固いグラスが身体に当たった衝撃は軽くはなかった。
　そんな雪也には構わず、母は尚も続けた。
「あんた、ホントは女なのよ。女で産まれてくるはずだったのよ。それがどこでどうしたか間違っちゃった。だからあんたは女のあたしよりもずっと男にモテるんだものね！」

　シンジラレナイ…！

「 ……ッ！」
　その時、不意に激しい痛みが雪也を襲った。
　母の甲高い悲鳴のような罵りの声を聞いた瞬間、以前言われた「何か」が脳裏をよぎり、雪也は頭を抱えてその場に座りこんだ。
「い…たい……！」
　ズキズキとするその痛みはより激しさを増し、それと同時に過去にあった映像が微かに雪也の頭の中に浮かび上がってきた。
　以前の家。自室。暗い。閉ざされた空間。何かひどい事が起きた。1人きりでは抱えられない、とても嫌な事が起きた。それを誰かに、否、あの時は母に助けて欲しいと思ったのに、それはやはり叶わない事だったのだ。
「どうして…母さんはいつもそうやって俺に当たる…？」
　痛みの中でうめくように、雪也はその時そう言っていた。うずくまり、顔を向けていなかったからだろうか、傍にいる母に比較的抵抗なく雪也はそう訊く事ができていた。
「俺が…何した……？」
「 ……そうやって自分だけ可哀想な人を演じるの、やめて」
　母・美奈子の低い声がすぐ上から降ってきた。雪也はその台詞を耳に入れながら、そう言えば涼一にもそんな事を言われたなとぼんやりと思った。やはり自分が悪いのだろうか。こんな風に痛い気持ちになるのは。苦しくなるのは。
「母さんが寂しい時、あんたは護ちゃんと仲良くやっていたんでしょ」
　追い討ちをかけるように冷たい言葉が投げかけられた。
「 ……もういい大人のくせに、まだあの子に甘えるの。まだあの子に背負わせるの」
「何…？」
　くぐもったその声で、母の様子がより一層おかしくなったのを雪也は感じた。未だ止まない頭痛を押して顔をあげると、そこにはすっかり血の気の失せた母の姿があった。
「あんたはね、護ちゃんとセックスなんてしてないの。そう思い込みたかっただけなの」
　瞬間美奈子は喉を詰まらせたのか、げほげほと咳き込んだ。…が、間もなく息を整えると今度は逆にすうっと落ち着いた表情になって、母は薄い笑みすら張り付かせて静かな目で雪也を見つめた。
　そうして言った。

　あの夜あんたが寝た相手は―。

Ｔｏ　ｂｅ　ｃｏｎｔｉｎｕｅｄ…

戻る／２２へ