いつも1人で寂しかった。 そんな心細い気持ちをいつも補ってくれたのは、隣家の護。そして彼の家族たち。 でも自分が本当に欲しかったものは…。 (23) 何度も貫かれたせいだろう、ベッドのシーツに血がついていた事に気づいたのは、翌日。床に捨てられていたシャツのボタンがちぎれていた事に気がついたのも、翌日。 いつの間にか母が家に戻っていた事に気づいたのも翌日だった。 「 何だか寝苦しかったわね」 だから昨夜はリビングのソファで寝たのだと母は言った。そうしてくしゃくしゃの髪のまま目の前に立ち尽くしている息子の方にゆっくりと目をやって続けた。 「 ひどい顔」 母の口調は素っ気無かった。半分閉じたままの目が雪也から逸らされる。母はふいと窓の外へ顔を向けた。 「 泊まったの?」 「 え……」 よく声が出たなというほど、雪也の喉は渇いていた。それでも何とか母の問いかけに反応すると、あとは割としゃっきりと意識が外へと戻って来た。 母・美奈子はそんな雪也に視線をやらないまま、再度訊ねた。 「 護ちゃんよ。昨夜あんたの部屋に泊まったのでしょ」 「 あ…うん」 そうだっただろうか。一瞬そう思いながらも雪也は曖昧なまま頷いた。 けれどぼんやりとしている雪也に追い討ちをかけるように母は続けた。 「 護ちゃん、部活の朝練があるとかであんたが寝ているうちに帰ったけど。またどうせ寂しいからって呼んだんでしょ。駄目よ、いつまでも護お兄ちゃんに甘えてばっかりじゃ。あんたももうすぐ高校生でしょ」 「 う、うん……」 「 学校帰ったらすぐまた来るって言っていたけど。護ちゃんも護ちゃんなのよねえ、必要以上にあんたにべったりなんだから」 「 そ、そんな事…」 「 まあ、いいわ。しょっちゅうお隣にお泊まりに行くよりも、たまにこっちに来てもらった方が私もあちらに気を遣わなくて良いしね」 「 ………」 母はそう言って大きなあくびをし、再びすうっと目をつむって朝の眠りに入ろうとした。雪也はそんな母の姿を見つめながら、この人がお隣の冴木家に気を遣った事が一度としてあっただろうかと、多少不満めいた気持ちを抱いた。 まあ、何にしても。 よくは覚えていないが、どうやら護は昨晩うちに泊まったらしい。恐らくは自分が呼んだのだろうが、それにしてもそんな事を忘れているなんて、一体どういう事だろう。 何故覚えていないのか…。 「 う……」 けれど昨夜の出来事を思い出そうとした瞬間、雪也はひどい吐き気を感じ、妙に重苦しい倦怠感に襲われた。身体全体が一気にだるくなり、直後に軽い目眩を覚えた。 「 ……雪也」 すると眠りに入ったはずの母が気分の悪そうな息子に声をかけてきた。 「 何だか昨夜は遅くまで起きていたみたいだし。まあ、どうせ護ちゃんと話し込んでいたか何かなのでしょうけど。今日1日くらいなら学校休んでもいいわよ」 「 え……?」 何を言われているのか分からずに、思わず雪也は問い返した。学校を休んで良いなどという事を、母は一度として言った事がなかった。自分は学校に行きたくても家が貧乏で大学まで行けなかった、だからお前はしっかり勉強するのよと母はいつも口をすっぱくして言っていたのだ。 それでも母は驚く息子に再度言った。 「 聞こえなかったの? 気分の悪い日くらい、部屋で寝てなさいって言ったのよ」 「 何で…?」 「 何で? 何でってあんた、気持ち悪くないの? 顔、真っ青よ」 「 うん……」 「 なら寝てなさいよ」 「 ………」 母はそう言ったきり、後はもう何も言おうとはしなかった。再び目を閉じ、もう雪也を見もしない。今日は仕事がないのだろうか。何となくそんな疑問も抱いたが、どうせ答えてはくれないだろうと諦め、雪也は部屋へ戻ろうと踵を返した。 けれど、瞬間。 「 信じられない」 怒りをこらえるようにそうつぶやいた声が。 「 え……」 不意に心臓を鷲掴みされたような感覚に陥り、雪也は咄嗟に振り返った。声の出先である母を見やる。あの怒りに満ちた声は。けれど一方で悲しみが入り混じったような声は何なのだろうかと、目を見開いて母の次の反応を待った。 けれど母はいつまで経っても目を開こうとはしなかった。 「 ………母さん?」 「 ………」 返事はなかった。 何かの独り言だろうか。雪也は何となく心に重く濁ったわだかまりを感じながらも、仕方なく部屋に戻った。 カーテンを開く気がしなくてそのままベッドにもつれこんだ。再び身体を横にしてしまうと、さっきはよく下まで行けたなと思うくらい、全身が気だるくて気分が悪くて、もうぴくりとも動けなくなった。何となく身体の中に妙な液体が侵入しているような、そんな体験した事のない感覚もあって、雪也はそれから逃れようと必死に目を閉じた。 視界を遮断する前に見てしまった、白いシーツに付着していた黒いシミがひどく気になった。 日が暮れて母が「デート」でいなくなるのと入れ替わりに、護がやってきた。 「 雪…っ。大丈夫か…?」 「 護……」 何だかひどく懐かしい感じがする。雪也は護の姿を見た瞬間、嬉しくて泣いてしまった。 「 護…っ」 どうしてだろう。昨夜も一緒にいたはずだし、そんなに離れていたわけではないのに。どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろうか。 「 今日ずっと気分悪かったんだな…。ごめんな、俺も一緒にいてやれば良かったな」 「 そんな事…」 たかが身体の具合が悪いくらいで護にまで学校を休ませるのは忍びない。それに護には自分などより新しい友達や彼女や、とにかく自分の知らない新しい生活が待っていて、毎日忙しい身なのだ。あまり我がままばかりも言っていられない。 それでも、やはりこうして護が傍にいてくれる事が嬉しかった。 「 何か食べた? それとも今日はずっと寝ていたのか?」 「 ……お昼に一回起きた。気持ち悪くて、シャワー浴びればすっきりするかもしれないって思ったから」 「 ……そうか」 「 でも…ずっと頭痛くて…」 「 ………」 雪也が何かを考え込むようにして俯くと、護はさっと蒼褪めた。雪也はそれに気がつかなかったのだけれど。 「 ねえ…何かね、護。僕、昨日の事なのにあんまりよく覚えてないんだ。思い出そうとすると頭が痛くなって…。何でかな、護、昨日いつ来てくれたの?」 「 ……すぐだよ……」 「 すぐっていつ? そ、それに…何かね、身体にヘンな痕がいっぱいついてるんだ…。な、何なのかな…お風呂場で鏡見てびっくりして…」 「 ………」 「 そ、それに、その事を考えようとすると涙が…で、出てくるんだ……」 今日1日、リビングに母はいたけれど、雪也はそれらの不安を母に訴える事ができなかった。けれど何故かずっと苦しくて痛くて、混乱した思考の中でどうして良いか分からなかった。 だから護を見た途端、弾けたように口を動かしていた。 「 すごく…だるいし。何だか昨日のこと考えるとすごく悲しくて。こ、怖い…。何でだろ、護、いてくれたんだよね? 昨夜、僕と一緒だったよね、ずっと?」 「 そうだよ」 護はそれにはすぐにきっぱりと言い切って、それからベッドの上の雪也に更に近寄ると、自分もそこに腰かけて優しく額を撫でてきた。雪也はしばしそんな優しい護の手の感触に浸り、心を落ち着けようと目をつむった。 すると今度は護が言った。 「 雪の身体がだるいのは…全部…俺のせいだから…」 「 え?」 はっとして目を開くと、そこにはぐっと唇を噛みながら苦しそうにしている護の姿があった。 「 どういう…事?」 「 俺がね…寂しい思いをしている雪につけこんでひどい事をしたんだ…。痛いことしちゃったんだ…。ごめんな、雪…ごめんな…」 「 護……?」 「 ごめんな、雪…」 護はそう言いながら、やがてぎゅっと雪也の身体を両腕で抱きしめ、しばらく離れなかった。雪也は何が何だか分からないままに目を見開き、そんな護の温かい温度を感じていた。 「 ……昨夜、僕が護を呼んだんだよね?」 「 ああ…でも悪いのは全部俺だから…」 「 何で? そんな事ないよ。何でそんな事言うの? 護が悪いわけないよ」 「 いや、俺のせいだよ。雪のこと放っておいて…。雪の気持ち考えてやれなくて…」 そして護はしきりに雪也に「ごめん」を繰り返した。雪也はそんな護に戸惑いながらも、しかし自分の内にあった痛みが徐々に和らいでくるのを感じた。 「 謝らないでよ、護…。僕、護の事すごく好きだから」 「 ……雪」 「 な…んだあ…。良かった、護と一緒だったんだよね? それなら僕…全然…平気だから」 「 ………ごめん、雪」 「 ううん」 雪也は必死に首を横に振りながら、自分からもぎゅっと護に抱きついた。 昨夜の痛みがこの人によって与えられたものならば、それは何も怖がる事ではなかったではないか。そうだ、確かに昨夜は護と一緒で、護は寂しいからと無理に家に呼んだ自分に応えてここまで来てくれた。そしてずっと一緒にいてくれたのだ。頼んだら、ずっと一緒にいてくれたのだ。 そう、思えたのだった。 |
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雪也が熱を出してから、三日が過ぎた。 「 まだ頭痛いの」 母・美奈子は極力雪也の自室に入る事を控えていたが、それでも仕事に行く前は我慢できないという風に必ずドアをノックし、それからベッドの上で荒い息を立てている息子の様子を伺ってきた。 「 熱下がらない? 薬飲んだ?」 自分が近寄ると息子がより一層苦しそうな顔をするのも一応は分かっているらしい。ドア付近で精一杯身体を伸ばし、母は仕事前の割にはひどく化粧気のない顔で生彩の欠いた声を出した。 「 ………平気だから」 無理に母に答えようとすると吐き気がしたが、さすがに寝込んで三日目。ぽつぽつとは返答ができるようになっていた。雪也はベッドから上体を起こす事もできなかったが、それでも何とか母の方を向き、それから掠れた声で更に返した。 「 仕事?」 「 うん…。本当は雪也がこんな熱出しているし、休みたいんだけど。今ちょっと手の離せない事があって」 「 いいよ」 いない方がいい、とはさすがに言えなかったが、それは母にも分かっているはずだった。らしくもなくしおらしいここ数日の母の態度を見ていれば分かる。母は明らかに後悔しているようだった。 酔った勢いとはいえ、雪也に過去の秘密を話してしまった事。 5年前、雪也は母の交際相手であった水嶋という男に自宅で無理やり犯されていた。 無論、雪也はその事実を自分自身で知っているはずであった。被害に遭ったのは雪也自身。だからあの事は美奈子に言われるまでもなく、雪也本人が知っている過去のはずだったのだ。 けれど雪也は忘れていた。 その事実は雪也の心の奥底にしまわれ、代わりに別の記憶が作られていた。あの夜、何故だか無性に寂しい気持ちでいた雪也を抱いてくれたのは、以前から好意を持っていた護だった。護は男と寝る性癖を持つわけでもないのに、我がままを言った自分の為に一晩一緒にいてくれた。優しくしてくれた。…そう思いこむことで、雪也はその時のおぞましい記憶を自分自身から隠し通す事ができていたのだ。 実際、はじめにその「作り話」のきっかけを作ったのは護だった。護はあの夜雪也と一緒にいたのは自分だと言い、雪也を無理に抱いたのも自分だと言った。雪也が己の作った話を信じるには、それだけで十分だった。 「 ねえ…やっぱり護ちゃん呼ぼうか」 「 いい」 尚も心配そうにドアの所から声をかける母に雪也はすかさず返答した。けれどいい加減我慢できなくなって、雪也は片腕で顔を隠して後はじっと沈黙した。早く母に部屋から出て行って欲しかった。 「 ……それじゃあ…なるべく早く帰ってくるからね」 母は消え入るような声でそう言った後、まるでひどい事をされた子供のようにすごすごと部屋を出て行ってしまった。それでも雪也はそんな母を哀れに思う事はできなかった。母がいなくなった後も、しばらく雪也は顔を隠したまま、依然下がらない身体の熱と戦い続けた。 母が水嶋に組み敷かれていた雪也の姿を見たのかは分からない。そんな事は雪也も訊けなかった。しかし美奈子は明らかにその事を知っており、護が雪也の為にその事実を隠し通そうとしている事も知っていた。 母は全て知っていたのだ。その事実だけで十分だった。 また母が何故護と息子の雪也を引き離そうとしたのか、しかし一方で徹底的に引き離せなかったのか。その理由も今の雪也には何となく分かるような気もしたし、分かりたくないような気もした。ただ、やはりその答えもどうでも良い事ではあった。 「 ………」 さすがに閉じ込めていた記憶が一気に浮かび上がってきて、雪也の精神も身体もすぐには立ち直れそうもなかった。事実を思い出して三日目、熱を出して三日目。雪也にはまだ起き上がる気力はなかった。 ただ目をつむっていたいと思った。 「 護……」 時々その名前を口にしてみた。…が、電話をしようとか、母が言うように家に呼ぼうとかいう気持ちは雪也にはしなかった。 母に言われていた言葉も効いていたのかもしれない。 いつまで甘えているつもりなの。 本当にそうだと思った。護は何も悪くない。ただ気弱で女々しい厄介な人間とたまたま隣に住んでいたというだけで一方的に慕われて迷惑を被って。してもいない強姦の罪まで着せられて、それでもまだずっとこちらの心配をさせられて。独占欲の強い美奈子に一体どんなことを言われて今に至ったのかも分からないが、それでも「一緒にいる」という子供の頃の約束をただずっと頑なに守ろうとしてくれた。その事のせいで彼の輝かしい人生を一体どれだけ無駄にさせてきたのだろうか。そう思うと、ひどく胸が痛んだ。護の雪也への愛は、雪也が護に対してずっと抱いていた「スキ」とか「アイシテル」とか、そんな言葉では括れない、もっと大きな想いのような気がした。だからこそ。 護に頼るのは駄目だと思った。それは卑怯だと思った。 「 護……」 それでも護の名前を時々つぶやく事で、雪也は自分の精神に均衡を保てるような気がした。 そして、もう一つ。 「 ………」 雪也はすっと片手を掲げてその手首につけられた物を見つめた。 それは涼一に誕生日のプレゼントで貰った腕時計だった。 「 ………綺麗」 規則正しく時を刻むその銀の秒針の音を聞いていると、何故か心が落ち着いた。ずっと横にはなっていたが、目をつむってそのまま眠りに落ちてしまうのは怖かった。眠って過去の事を夢に見るのが怖かった。だから完全に意識を断つことができずにいた。 それでも、涼一のこの時計を眺めていると何故かすっと静かな気持ちになれたのだ。 「 ………涼、一」 恐らくは涼一が雪也の身体に残してくれたあの熱が。 あれが自分を救ってくれているのだろうと雪也は思った。 自分の身体があの水嶋だけに蹂躙されたのではないという事実。あの忌まわしい過去は決して消せないけれど、セックスならもう何度もした。違う温度が、別の人間の肌の温もりが自分の記憶の中にはあった。それが雪也の中で確かに支えになっていたのだ。 「そんな事」がこんなにも今の自分にとってありがたいものに思えるなんて。 「 涼一…」 だから雪也は護の名前を呼ぶのと同じくらい、もしかするとそれ以上に涼一の名前も呼んでいた。口にしてみていた。するとあの我がままな、自分勝手な、ただこちらを翻弄するだけの涼一の顔や声や、何もかもが思い出されて、すっと力が抜けるのだった。 そうして最後に母のあの気弱そうな、ひどく小さくなった姿が思い返されて。 「 ………は」 雪也は息を大きく吐き出して、それからまたゆっくりと目をつむった。 今はまだ、それしかできなくて。 |
To be continued… |