(24)



  母の美奈子が出掛けた後も、雪也は夢なのか現実なのか分からない状態の中を何度も行き来し、彷徨っていた。だからふと目を開いた時に認めた護の姿にも、まだ夢の中で幻でも見ているのかと思った。
「 ……雪」
  雪也は護のその声を聞いても、まだ夢だと思った。
「 熱…は、下がったみたいだな」
  声と同時に降りてきた優しくて温かい掌の感触にも、まだ実感が湧かなかった。
「 護……」
  だからこそ、その名を気安く口にできたのだけれど。
「 護……」
「 雪…いるよ。俺はここにいる」
「 あ…」
「 傍にいるよ」
  決意のこもった凛としたその言葉で、ようやく雪也はそれが現実であると分かった。目を見開いた途端、それほど眩しくもないはずの電灯の光が痛いくらいに頭の上に降りかかってきた。雪也は咄嗟に目を閉じた。
  傍にいる護の気配は、確かに感じ取っていたけれど。
「 どうして…」
  呼んではいけない、頼ってはいけないと思っていたのに、やはり無意識に求めてしまっていたのだろうか。ぼんやりとそんな風に考えていると、護が静かな声で言った。
「 美奈子おばさんから電話があったんだ。おばさん、雪が熱あるのに自分は今日帰りが遅くなってしまうからって。だから代わりに傍にいてやって欲しいって」
「 そ…」
  そんな、と言おうとして、けれど雪也は喉を詰まらせて咳き込んだ。すかさず護が傍にあった冷たいお茶をグラスに注いで寄越してきたけれど、雪也はそれを受け取らずに急いで上体を起こした。
「 そんなの…! 護の都合も考えないで…っ」
「 何言ってんだよ。俺は別に平気だよ」
「 迷惑だよ」
「 雪が?」
「 何…言って、護が…っ」
  それでもうまく声を出せなかった。あまりにも長く寝入っていたからだろうか。雪也はもう一度げほげほと咳き込んでから、仕方なく護が差し出したグラスを手に取ってそれを口に含んだ。冷たい飲物がカラカラだった喉元をあっという間に潤してくれた。
「 ……っ」
「 おいしいだろ」
  護が目を細めてそう言うのを、雪也は視線を逸らせたまま聞いていた。
  護に頼ってはいけない。そう思っているのに、帰ってもらわなければと思っているのに、傍にいてもらえる事が嬉しい。そんな風に思ってはいけないのに、どうしても胸が高鳴る。温かい気持ちになる。そんな風に思ってはいけないのに。
「 雪。熱は下がったけど、まだ今夜一晩はゆっくり眠った方がいい。俺、ついていてやるから横になれよ」
「 …………護」
  雪也の葛藤には構わずに、護は平然とそう言って優しく微笑した。そして何もかも先回りして護は雪也に言った。
「 雪、変な気回すなよ。俺がしたくてしている事なんだから。来たくてここに来たんだから。美奈子おばさんに呼ばれたからじゃない」
「 ………」
「 でも本当は雪に呼んで欲しかったけど」
「 !」
  はっとして顔をあげると、そこにはやはり何ら変わらない護の穏やかな顔があった。こうして見ると、護はやはり少し変わったように見えた。あの時も大きくて優しくて何もかも包み込んでくれるような安心感があったけれど、今はその昔よりも遥かにゆったりとしていて落ち着きがあるような感じがした。
  だから雪也は、護を帰さなければと一方では思っているのに、訊いてしまっていた。
「 護……」
「 ん?」
「 護はこの5年間…幸せだった…?」
「 ………」
  護はすぐに答えなかった。雪也にはその沈黙が痛かった。
  雪也のせいで護は随分と己の人生を無駄にしてしまっている。いくらこの数年間は別々の道を歩んでいたと言っても、もし本当にこの5年間が護にとって自由なものだったならば、彼は今こうしてここにはいないだろう。雪也を引きずり、美奈子を引きずり、多くの出来事を引きずっていたからこそ、護は今こうして雪也の傍にいる。…そんな護がこの問いに対して幸せだったと答えられるはずはなかったが、それでも雪也はその事を 訊かずにはおれなかった。
「 ……幸せだったとは言い切れないかな」
  護が言った。
「 ………」
  さすがに当人から直接そう言われるのはショックだった。雪也はぐっと唇を噛み、何も発せられずに俯いた。
  けれど護はその先をすぐに続けた。
「 だって雪がいなかったから」
「 え……」
  雪也が驚いて弾かれたように顔をあげると、護は少しだけ寂しそうな顔をして笑った。
「 だって自分の目の届かないところにいる奴のこと、ずっと気を揉んでいるなんて…。いくら能天気な俺だってさすがに気の滅入る時もあったよ。雪の心配するのは、俺の趣味みたいなものだから」
「 趣、味…?」
「 そうだよ」
「 そんなの……」
  護は自分の負担を軽くしようとしてそんな言い方をしている。そう思ったから、雪也は不服そうに表情を翳らせ、再び護から視線を逸らした。けれど護は尚も続けた。
「 なあ、雪。お前は俺を何だと思っている? 俺はさ、聖人じゃないんだ。好きでもない奴のことずっと想っていられるほどお人よしじゃないよ。自分にとって大事だと思わない奴の人生、背負いたいなんて思わない」
  そう言った護の顔は、少しだけ冷淡なものに見えた。どことなく自分自身を卑下するような笑みも見え隠れしていた。
「 雪が考えていることなんて全部分かる。でも、それは全部外れだ」
「 でも…」
「 雪。お前が何を思い出したのか、俺は知らない。美奈子おばさんが何か言っていたけど…俺は知らない。全部間違いだ」
「 え……」
  雪也は訳が分からずに怪訝な顔を向けた。護の頑とした顔がそこにはあって、何を言ってもそれは揺らぎそうにもなかった。
  それでも雪也はそれが最後まで自分のことを守ろうとしている護の優しさに見えて仕方なかった。雪也は再び下を向いてぽつりと言った。
「 護は絶対言ってくれないんだろうね…。あの夜のこと」
「 ………」
「 俺が全部思い出したって言っても…絶対…」
「 あの夜、お前と一緒にいたのは俺だけだよ、雪」
  護の言葉に雪也はズキンと胸が痛んだ。そして不意にその奥がちりちりと燃えて何かが弾けたような気がした。この期に及んでそんな事を言い張る護が悲しいほどに可笑しかった。雪也は皮肉な笑みを浮かべ、自嘲気味に声を出した。
「 でも護は…俺を抱いてない」
「 ………」
「 抱けなかったでしょ」
「 だから?」
  思い切って言った台詞をあっという間に返された。雪也がぎくっとなって顔をあげると、そこにはやはり冷めた目をした護の顔があった。
「 じゃあ、今から抱いてやろうか」
「 護……?」
「 さすがにあの時みたいなガキじゃない。それで雪を手に入れられるなら喜んで」
「 ま………」
「 それで雪を安心させられるなら、喜んで」
「 ………」
  護がじっと視線を送ってくるのを感じながら、雪也は顔をあげられなかった。今この強い眼差しとぶつかったら、ただ流されるままにこの人に甘えて倒れかかって昔と同じになってしまうだろうと思った。この人の意思など全部無視して、全部自分のためだけに動いてしまう。そうすることは簡単だった。だってこの人はそれを全部受け止めてくれるのだから。
  でも。
「 ……そんなの」
  そんなのは、嫌だったから。
「 そんな風に……言うんだね」
  ようやっとそれだけを言えた。本当にそれだけ。
  けれどその瞬間、護の雪也を見つめる空気に張り詰めたものはなくなった。
「 言うよ」
  そしてゆっくりとそんな声が返ってきて。
「 それで、雪の答えは?」
「 ………」
「 俺と一緒にいる?」
「 護と…?」
  訊かれて一瞬息が詰まったけれど、雪也は思い切って護のことを見上げた。やはり動じない、強い眼差しがそこにはあった。雪也はその光に吸い込まれそうになりながら、それでも目を逸らさずに今思っていることだけをそっと言った。
「 俺…もっと強くなりたいな…」
「 ………」
「 護にちゃんと胸張れるくらいに…」
「 ……なれるよ」
  優しさに満ちた声が間もなく雪也の元には返ってきた。そうして護は、ほっと安堵したような雪也の頭をそっと撫でてきた。
「 ………」
  自分はいつまでも子供扱いだ。雪也は何だか可笑しくなったが、それでも護のこちらを見る目とその手がやはりとても嬉しかった。

  護が言った。
「 雪、俺はいつだって雪の傍にいるから。だから安心して好きにしていいんだ。好きなこといっぱいするといい。……お前はもっと大きくなれるよ」
  護は昔も自分にそれに近いことを言ってくれたことがあった。ふっとそれを思い出して、雪也は何だか無性に泣きたい気持ちになった。けれど、変わりに少しだけ笑んでみせた。護に弱い自分ばかりを見せてはいけないと思った。


*


  その日は朝から雨が降っていたが、それでも家にいようとは思わなかった。雪也は大学へ行った。
「 うわあ、桐野じゃん。久しぶり!」
  教室に入った途端、そう言って雪也に声を掛けてきたのは藤堂だった。相変わらずでっぷりとしたTシャツにボサボサの髪型、無精髭。酒の臭いも少しだけした。
  ひどく懐かしい気持ちがした。
「 一体何してたんだよ? バイト?」
「 うん」
「 そうなのか? 涼一も知らないって言うしさ」
  そう言って自分の隣に座る藤堂を横目で見ながら、雪也はその人物の名に反応して目を見開いた。
「 剣…どうしてる?」
「 やっぱり会ってなかったのか。もういい加減にしてくれよ。俺はお前のお陰でやっとあいつの不機嫌時の相手しなくて済んだって喜んでいたのに、お前がいないとホント全部クるからな。もうほとほとウンザリ」
  藤堂はそう言いながら憮然として続けた。
「 でもまあ…あの例の彼女と別れたって騒動の時よりは静かなもんだけどな」
「 ………」
  雪也が何も答えられずにいると、藤堂はふいと視線を窓の方へ向けてから実に切なそうな顔をした。
「 でもどうしちゃったのかな。あいつらしくないって言うか。いや、俺は別にいいんだよ。あいつがそれで幸せならさ。親友だからな。相手も素晴らしい人だし…」
「 何の話…?」
「 ………きっと彼女のお陰であいつも落ち込んだ気分盛り上げているんだろうし」
「 藤堂…?」
  怪訝な顔をする雪也に、藤堂はやっとまともに顔を向けてからハアと息を吐き出した。そして不意に教室の前方から入ってきた2人の人物に目を止めて、顎でそれを指し示した。
「 つまりはさ、ああいうこと」
「 え………」
  雪也が言われた方…黒板のある前方に視線を向けると、そこには構内のマドンナ・ユカリと。
  涼一の姿があった。
「 ………剣」
「 あのすげえ惚れていた彼女とは結局本当に別れたんだな。あいつは何も言わないけど…最近、いつも一緒だよ、あいつら」
「 ………」
  雪也は藤堂の声を何となく耳に入れながら、黙って涼一たちのいる方へ視線をやっていた。大教室には段々と人が入ってきており、雰囲気も騒然としている。だから遠くからの雪也や藤堂の視線など、何という事もないはずであった。
  けれど。
「 あー…あいつって本当鋭いよなあ、こっち見た。おーい」
  藤堂が最初に手を挙げて、自分たちの方へ視線を向けた涼一に声をあげた。自分の好きな女性と一緒にいる親友に複雑な気持ちもあるだろうに、藤堂はどことなく達観したような柔らかい笑みで涼一に手を振っていた。
「 あ、あいつびっくりしている。桐野、お前が突然来るから」
「 うん……」
  涼一の視線は、確実に雪也に注がれていた。確かに雪也の存在に驚愕しているような表情だった。しかしそれも一瞬で、涼一の視線に気づいたユカリが何事か話しかけこちらを向いた時には、もういつもの平然とした様子に戻っていた。
  そして涼一はユカリと仲良く前方の席に腰をおろした。
「 いいなあ…でもお似合いだよなあ…でもいいなあ…」
  ぶつぶつと口許でそうつぶやく藤堂の声は、けれど雪也の耳には届いていなかった。ただ自分の視線の先にいる涼一の姿だけを雪也は眺めていた。
  「あの日」から涼一とは話していない。
  迎えに来ると言って別れたあの時から、何故か涼一は雪也に一切の連絡をしてこなかった。一度母の美奈子が電話を受け取ったと言い、「用があるから今日は来られない」という伝言を受け取ってはいたが、それでもそれ以降一度の音沙汰もないことを、さすがに不審に思っていた。
  雪也は講義の間中、一度はこちらを見るも後は素っ気無く前を向いてしまった涼一の顔をただぼんやりと思い返していた。涼一は自分と一緒にいることをやめようと思っているのかもしれない。何となくそれが分かったが、何故か心は静かだった。


  講義が終わると雪也はすぐに席を立った。藤堂がサークルに顔を出せとしつこく迫ってきたが、用事があるからと適当なことを言って抜け出した。さすがに他の大勢の仲間たちと会う気分にはまだなれなかった。涼一と繋がりのある彼らと会えば、どうしても涼一の話題も出る。それはやはり嫌だと思った。

  好きな事をしていいから。

  護はそう言ってくれた。今度こそ、ゆっくりで良いから自分は何かをしなければいけないと雪也は思った。新しい何か。これから自分の新しい生活は始まるのだから。
  ぶらぶらとあてもなく構内を歩き、それから図書館へ向かった。別段読みたい本があったわけでもなかったが、まだ家に帰る気はしなかったし、それでいて静かな空間にいたいという欲求もあった。だからそこが1番ふさわしい場所に思えた。
  中に入り、整然と並ぶ本棚の列を一歩一歩進んだ。様々な分野ごとに分けられたその書物群は、自分が読みたいジャンルさえあればすぐに「ここです」と指し示してくれているようになっていた。それでも雪也には自分が立ち止まるべき棚を見つけることができなかった。だから1番隅の棚に行くまで足を止めることはなかった。
  最後の棚は歴史のコーナーだった。埃臭い分厚い書物が目に沁みた。何故かは分からないけれど、それを手に取ろうという気もしないのに、一つの題名が書かれた本をただじっと眺めた。ゆっくりと過ぎる時間にやはりどこかが何かが痛むのを感じた。
「 それ読みたいの」
  その時、背後から急に声が降りかかってきた。
  涼一だった。
「 届かない? 取る?」
「 つ……」
  驚いてその場に固まっていると、逆に涼一は何ということもないように隣に並んで、雪也が見ていたらしい先に視線を泳がせた。少し上を向くその横顔は、やはり端整で綺麗だと雪也は思った。
「 驚くなよ。後つけてきたに決まっているだろ」
「 俺の……?」
「 他に誰がいるの」
  涼一はまたもすぐに答えてから、雪也の方は向かずに言った。
「 久しぶり」
「 う…うん……」
  本当にそうだ。そう思うと、何となく胸が締め付けられるような気持ちがした。思えば大学に入ってからはそれこそ一緒にいない時はないというくらい、涼一とはいつも共にいたから、こんな風に別々にいることに雪也は慣れていなかった。
  もしかすると、構内を独りで歩くことにも。
「 俺、女と付き合ってみようかなと思って」
  唐突に涼一が言った。雪也が黙っていると涼一は先を続けた。
「 お前が来なかった間、あの女…さっきいただろ、あいつがすげえうるさくつきまとってきてさ。まあ、俺みたいな奴だな。彼女と別れたなら自分と付き合えばだってさ。変わっているだろ」
「 うん…」
「 だろ。丁度俺もお前とは…もう…ここまでかなって、思っていたし」
「 え……」
「 ………」
  涼一の顔を見た。涼一は静かだった。
「 ああ、そういえばあの時、来られないって連絡だけしてそのままにして悪かったな。何かさ…気が変わっちゃってさ…。どうでもよくなっちゃったんだな。ほら、俺って飽きっぽいだろう。熱しやすく冷めやすいっていうか。あん時は何か…妙にムキになってたっていうか」
  涼一はハハハと笑ってから、ここでようやく雪也を見やった。けれど雪也の顔を見た途端、涼一から笑顔は消え、また視線は逸らされた。
「 ま…そういうわけだからさ…」
「 ムキに…?」
「 そ。ただの意地だよ。ばっかみてえ…」
「 ………」

「 …ところでここしばらく顔出さなかったけど。お前は何してたんだ?」
「 ……熱が出て……」
「 え……」
  くぐもった涼一の声に、雪也は何だかたまらなくなって俯いた。首を横に振ってから、「大した事なかったんだけど」と付け足した。
「 ……そうなのか。それで護…さん、に来てもらった?」
「 うん…。来てくれた」
「 ………そうか」
  涼一は何も言わなかった。雪也もそれ以上のことは何も言わなかった。
「 じゃあ…俺、帰るわ」
「 え……」
「 あ、そうだ。これ返そうと思って」
  涼一は戸惑う雪也には構わずに、思い出したという風になって手にしていたらしい物をすっと差し出した。
  それは部屋の鍵だった。
「 護さん家のだろ」
「 これ……」
「 俺の車の中に落っこちていたやつ。誕生日プレゼントってやつ…」
「 ………」
  雪也が黙ってその手にした鍵に視線を向けていると、しばらくの間その光景をじっと見ていた涼一が言った。
「 本当はあの人のプレゼントって他にもあったんだ。でも…ごめん、それはないや」
  その言葉の意味が分からずに雪也が顔をあげると、涼一は既に背を向けていた。声は振り向かれることなく、そのままの体勢で投げられた。
「 そのプレゼントは俺が誤って壊しちゃったんだ。悪い」
「 剣……」
「 それじゃあ」
  涼一は雪也の声をかき消すようにして、その場から去って行った。雪也はそんな涼一の後ろ姿をただ眺めるだけだった。
  手の中に護のアパートの鍵を握りしめたまま。



To be continued…



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