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  レンタルビデオショップ「淦」のその日のBGMは、映画「奇跡の旅」の挿入歌だった。那智はその映画で10回は泣いたと言い、それを観た事がないという雪也には「自分が貸すから是非観てくれ」と、彼女にしては珍しくしつこく食いさがった。昼下がり、店内に創の姿はまだなかったが、店番の那智は雪也にコーヒーを淹れ、それから「今あの子も呼びますね」などと言ってわざわざ創の自宅へ電話を掛けたりもした。
「 創に言われているのです。桐野さんが来たら知らせてくれって」
  恐縮したような雪也の様子を察したのか、那智はゆったりとした笑みを向けるとそう言った。
「 きっと創も桐野さんとお喋りがしたいのです。あの子、最近家族以外の人間と会話していないと思います。大学にも行っていないみたいですし」
「 え?」
  那智の言葉に雪也が不審な顔をして首をかしげると、創の従姉である彼女はカウンターに盆ごと置いたコーヒーに目をやりながら答えた。
「 あの子、面白い映画や本などを見つけるといつもそうなるのです。逆に大学で興味のあるものを見つけると店には近寄らなくなります」
「 へえ…バイトにも来なくなるんですか?」
「 元々あの子がここの店番を頻繁にやるようになったのは最近の事なのですよ」
  那智は意味ありげにそう言って笑ってから雪也に「どうぞ」と未だ手付かずのコーヒーを勧めた。雪也が礼を言ってそれを口に含むと、自分ももう一つのカップに手を伸ばした。そんな彼女は創曰く「ひどく情緒不安定な人」という事だったが、こうして面と向かい合っている分には実に普通の女性だと雪也は思った。
  雪也が「淦」に足を踏み入れたのは、随分久しぶりだった。少なくとも雪也はそう感じていたし、それは最初に出迎えてくれた那智も同じようだった。雪也が店に顔を出した途端、彼女は「久しぶりです、桐野さん!」と半ば大袈裟に感嘆したような声を出し、あたふたとしながら創に電話を掛けようとして、傍のコードにつまずきかけたりもした。
  色々な事があったせいで大学の講義にあまり出席していなかった雪也は、ここ最近は随分と真面目に「学生」をやっていた。その為「淦」にはすっかり足が遠のいていた。創に会いたいという気持ちはあったし、この店が放つ独特の雰囲気に触れて落ち着きたいという願望も実際はとても強かった。しかし「いつでも来いよ」と言ってくれた護の所へなかなか行けないのと同じように、創やこの店のような「安心できる人・安心できる場所」へ行く事は、逃げや甘えなのではないかと思えてしまって、雪也はどうしても気軽に足を向ける事ができなかった。
  それでもゴールデンウイークを間近に控えた頃、必修の授業にも一区切りがついた事から、雪也は思い切って「淦」を訪れたのだった。
「 桐野さん、連休中は何か計画があるのですか」
  那智の何気ない質問に雪也ははっとなってから首を振った。
「 特に何も。きっとバイトを続けていたらずっと働いていたんだろうけど、辞めちゃったし。サークルで新歓合宿があるからって誘われたけど、行く気しないし」
「 そうなのですか。それじゃあ、おうちでのんびりですかね」
「 ええ、まあ…」
  言葉を濁しながら、雪也は更にごまかすようにコーヒーに口をつけた。
  家になどいても落ち着けるはずがなかった。何故か最近の母はデートもせずに、仕事も早く切り上げてきては雪也との時間を作りたがった。さすがに夕食の支度は未だ雪也に任せっきりではあったが、いい肉を貰ったと言っては目が飛び出るような食材を持って帰ってきたり、どこぞの有名店のケーキを買ってきたと言っては、雪也にそれを食べさせようとした。

  今更この人は何がしたいのだろうか。
  冷たいと自身で思いながら、心のどこかでそんな事を思ってしまっている自分がいた。母が酔っ払って当たってこない事は確かにありがたかったが、どうせいつまでも保たないだろうそんな彼女の「母親ごっこ」を見るにつけ、雪也は家にいることが段々と苦痛で仕様がなくなっていた。
  そうかと言って護のアパートに行こうという気にも、やはり雪也はなれなかった。護は時々電話をくれ、とりとめもない話をしては雪也の近況を伺ったり、たまに食事に行こうと誘ってくれたりもしたが、ただ純粋にそれを喜んで護に甘える事は雪也にはできなかった。何かが雪也にそうする事をためらわせていた。
「 あのう、桐野さん」
「 えっ」
  思わずぼうっと考え事をしていた雪也に、那智が隣で心配そうに声をかけてきた。雪也が再び我に返ったようになって視線を向けると、那智は申し訳なさそうになって俯いた。
「 あ、あの、何か煩く話しかけてしまっていたでしょうか、私」
「 え?」
「 桐野さん、つまらないのではないかと思いまして」
「 い、いえ…そんな事…」
  慌てる雪也に、那智はそれ以上にオドオドびくびくして更に恐縮したように身を縮めた。小さく細い身体がより一層貧相に見えた。
「 は、創ももうすぐ来ると思いますから…待っていて下さいね。でも、私などと一緒にいてもつまらないですよね」
「 そんな事ないですよ」
  本心から言ったが、那智は納得していないのだろう、勢いよく首を横に振ると下を向いたまま情けないような笑顔を張り付かせて言った。
「 いえいえ、私はいつもそうなのです。どうにも気の利いた事が言えなくて…。いつも一緒にいる人を不快にさせてしまいます」
「 ……考え過ぎですよ」
  言いながら雪也は、しかし何故こうまでこの人は卑屈になるのだろうと思わずにはいられなかった。
  那智は続けた。
「 私…いつからか、いつでも不安になっていたのです。いつでも誰かの視線が気になる…。相手の思っている事が気になる…。相手は私をどう思っているのだろうか、私の言った事に不快になっていやしないだろうか…。嫌われるのが怖くていつも人にあわせていました。でもそういうこと、やってもやっても不安は消えませんでした。また考えれば考えるほど怖くなって…不安は大きくなって…。いい年をして、外に出る事ができなくなってしまったのです」
「 那智さん……?」
  雪也に語っているようでもない、まるで独り言のような那智のつぶやきに雪也は眉をひそめた。それでも彼女から目を離せなかったのは何故だろう。もしかすると、どこかで自分と通じるものを感じていたからかもしれなかった。


「 あなたは人の目を気にしますか」


「 え……」
「 あっ…」
  戸惑ったようになって問い返した雪也に、那智はこの時初めてはっと我に返ったようになって顔を上げた。
「 す、すみません…。私、どうしたのでしょうね」
「 いえ…」
「 すみません。桐野さんには何だかお話がしやすくて。調子に乗ってしまいました」
「 いいですよ、別に」
  努めて優しくそう言ったが、那智は少しだけ涙ぐんだようにすらなりながら「すみません」を繰り返した。しかし雪也が困惑しきってどうしたものかと考えている時、突然店の電話が鳴った。
「 あ……」
  それは恐らく雪也にも那智にもありがたい第三者からの「音」だった。
「 はい、レンタルビデオショップ淦でございます」
  那智がカウンター後ろの棚に置いてある電話に向かって丁寧な口調を発した。
「もしもし…?」
  しかし那智の様子に雪也は首をかしげた。電話の主は何も発してこないようだった。那智は何度か「もしもし」と繰り返したが、やがて静かに受話器を置いた。
「 いたずらですか」
  雪也が訊くと那智は少しだけ電話を見つめたまま動かなかったが、やがて「いえ」と短く否定の言葉を吐いた。
「 きっと、うさぎちゃんです」
「 え?」
  急に出てきたその名前に雪也が戸惑うと、カウンターの席に戻って来た那智がやや複雑な面持ちで口を開いた。
「 よくあるのです。創はうさぎちゃんだと言っています」
「 どうして…?」
「 創は悪い意味ではないと言っています。うさぎちゃんは…話したいと思った相手にしか電話はしないと言っていましたから」
「 はあ…」
  そういえば最近はあの白い少女を全然見ない、と雪也は何ともなしに思った。最後に見たのはいつだったか…。そうだ、護を待って家の前に立っていた時に突然現れた、あれ以来見ていないのだと思った。
「 うさぎちゃんのお母さん、病気がひどいらしいです」
  那智の言葉に雪也はぎくりとして視線を彼女に向けた。那智はまるでうさぎの痛みを自分のもののように感じているのか、苦しそうな顔で続けた。
「 最近ではお屋敷の庭にもあまり顔を出さないって。ずっとお部屋で臥せっているみたいなのです」
「 ……そうなんですか」
「 だからかうさぎちゃん、最近はお店の方にもあまり顔を出してくれないのです。創の家にはよく電話も掛けてきているようですけれど。私の所には来てくれません。私、うさぎちゃんのことは自分の妹のように思っているところがあるので、何だか寂しいです」
「 え」
  妹、という言葉に雪也は敏感に反応した。
  過去の自分を思い出したきっかけはあの白いドレスを着たうさぎだった。母も護も、うさぎに過去の雪也を見て驚愕していた。
  だからだろうか、何となくもしかするとうさぎは男の子なのではないかと雪也は疑っていた。

「 あの…うさぎって…」
「 え?」
  しかし雪也がそのことを訊こうとした瞬間、不意に店の引き戸が開いて外から創が現れた。彼は白いポロシャツにジーンズというラフな格好で、手には数冊の書物を抱えていた。
「 桐野君、来たね」
「 うん」
「 明るい日差しの下を歩いたのは何だか久しぶりだ。腐りかけた身体が息を吹き返したみたいになったよ」
「 そんなに家に篭っていたの?」
「 まあね」
  創はあっさりと言ってから眼鏡の縁を指で上げ、それから那智を見て薄く笑った。
「 姉さんも少し顔色が良い。桐野君が来てくれたから元気になったのかな」
「 は、創…!」
  どことなく頬を赤らめて創を呼ぶ那智は、しかしオロオロとした後、「お茶菓子を持ってくるから」と言って奥の部屋へと消えてしまった。そんな従姉の後ろ姿をくすくすと見やってから、創は改めて雪也に「久しぶり」と言った。
「 俺たち、いつもこんな挨拶ばかりだな」
「 そうだね」
「 君が来ないからだよ」
「 ……ごめん」
  雪也は自然とそんな風に謝って、それから先刻まで那智が座っていた椅子に腰をおろす創を見やった。あまり詳しい事を訊いた事はなかったが、確か創は自分よりも一つ年上という程度のはずだった。それなのにこうして見る彼は本当に大人だなと雪也は思った。
「 また何かくだらない事を考えているね」
  創は見透かしたようにそう言ってから、「さてと」と向き直って雪也に言った。
「 君がこれまで何をしていたかは、まあおいおい訊ねるとして。それよりも良い時に来てくれたなと思っていたんだ。君、ゴールデンウイークは何か予定があるかい」
「 え?」
「 連休だよ。大学生というのは良い身分だよね。一体どれほど休ませてくれるというのか。ちなみに俺のところは10連休。教授がここぞとばかりに外国へ研究旅行とやらに行くというので、しばらく講義も休講になるんだ」
「 ……俺のところはそんなには」
「 そう。でも幾日かは休めるんだろ?」
「 まあ…」
「 どこか行かないか」
「 え?」
  あまりにも突然の誘いに雪也は面食らってもう一度訊き返した。それでも創は相変わらず平然としていて、「どこか行こうと言ったんだよ」と繰り返した。
「 まあ、君の都合が良ければの話だけどね」
「 何処へ?」
「 あまり考えてはいないんだが、まあ金のかからない所と今更旅館の予約なんて面倒な事をしたくないのとで、俺の親戚の家が濃厚かな」
「 はあ…」
「 うさぎがね」
  そして唐突に創は言った。
「 少しマズイ事になっているんだ。ああ、でもそんなに大袈裟に考えないで欲しいんだけど。それでも、少しの間だけでもあの家からは離してやった方がいいかなと思ってね。それはまあ、あの家の家長さんの希望でもある」
「 うさぎが…どうしたの?」
「 ………」
  創は答えなかった。丁度那智がガタリと扉を押して創のコーヒーと、それからまた「親戚が送ってくれた」という手作りクッキーを持ってやって来たからというのもあった。創はそんな従姉の姿を何気なく見てから、ふと思い立ったように口を開いた。
「 姉さんも行く?」
「 え、何処に?」
  突然話しかけられて那智は驚いたようになって身体を揺らした。盆の上のコーヒーが波うちだったのが見えた。
「 大勢の方が爺さんも喜ぶだろうし。うさぎも喜ぶし。姉さん自身も、たまには外の空気を吸った方がいいしね」
「 な、何のこと…?」
  この家以外の場所へ行くことに那智は抵抗があるのだろうか。彼女はさっと顔を強張らせて創を見つめた。創はそんな那智には構わずに今度はまた雪也の方を見た。
「 あ、何だったら君もあの人誘っていいよ。剣君、だっけ?」
「 え……」
「 俺が君を旅行に誘ったなんて知ったら、あの人この店に火をつけそうじゃないか」
「 そんな事……」
  涼一とは、もうあれ以来一言も口をきいていなかった。
  雪也は図書館で別れた涼一の後ろ姿を思い出し、不意に心の奥へとしまいこんでいた想いが浮かび上がってきたのを感じてズキリとした。
「 剣は行かないと思う…」
  沈んだような雪也の声に創は動じた風もなく、ただ探る目を向けてきた。
「 ふーん。…で、君は行ける?」
「 あの…親に訊いてみて…」
「 は? あ、そう。うん分かった。じゃあ行けるようなら教えてよ。出発するのは3日後だから」
「 きゅ、急じゃない、創!」
  これには那智が驚いたように声をあげたが、創は何事もないかのようにしらっとして眼鏡を外し、そのレンズをハンカチで拭いていた。ガラスレンズの取れたその素顔は、意外にもどことなく子供っぽいような気が雪也にはした。何かを楽しみにしているような、それは実に穏やかな顔だった。

*

  美奈子は意外にも「気をつけてね」とだけ言い、あとは「1日に1回は電話を入れる事」「お土産を買ってくる事」の2つの事柄だけを雪也に約束させ、あとは創たちとの旅行をすんなりと許してくれた。そんな母の態度に雪也が拍子抜けした事は確かだったが、それでもこの事を切り出すまでに相当の時間と神経を費やしていたから、やはりその安堵は言葉では表現できないものがあった。
  そして出発と連休を明日に控えた最後の講義の日、雪也は涼一と同じ講義で顔を合わせた。
「 よ」
  それは雪也が最初の頃、涼一やその他の仲間たちと顔を会わせないようにする為に選んだ学部外の講義だった。神経質な表情の教授が独り言をつぶやくように展開していくその講義はお世辞にも面白いものとは言い難かったが、それでも単位は単位と雪也は生真面目に出席を重ねていた。涼一の方は一度顔を出したきりもう来ていなかったから出るのをやめたのかと思っていたが、しかしその日は気が向いたのか、ふらりと1人でその講義に顔を出してきたのだった。
「 久しぶり」
  涼一はそう言って雪也の隣に腰をおろした。最近は同じ教室で顔を合わせても涼一はユカリと前方の席に座っていたから、後方に座る雪也とは目を合わす事もなかった。勿論講義後、話をする事もなくなっていた。藤堂あたりが少し気にしたように「喧嘩でもしたか」と訊いてきたけれど、雪也もそして涼一も「別に」以外の台詞でその事に答えてはいなかった。
  涼一が雪也と距離を取ろうとしている事はもう確実だった。だから、こうして話しかけてきた涼一に雪也は面食らって意表をつかれて、しばらく声を出す事ができなかった。雪也はただ頷く事しかできなかった。
「 ……これまでのノートある?」
  すると涼一は再度そう言って雪也に話しかけてきた。親しみを込めた風の話し方ではなかったが、それでも普通に会話をしようとしているようだった。雪也は前方の黒板を見やりながらそんな風に言ってきた涼一をちらりと見てから、「うん」と声を出した。
「 じゃあさ。この後ちょっとコピーさせて」
「 うん」
「 明日からの合宿、行かないだろ」
  そして涼一は突然そんな事を訊いてきた。雪也は怪訝な顔でそう言ってきた涼一の横顔を眺めた。サークルの新歓合宿に参加しないなどという事はとっくに藤堂に言ってあるし、涼一にも伝わっていたはずだと思っていた。今更何故そんな確認をするのか不思議だったが、とりあえず雪也は「行かないよ」と答えた。
  すると涼一はハアッと大きく息を吐いて、少々気分を害したような顔をした。
「 ハメられた」
「 え……?」
  その言葉の意味が分からずに雪也が首をかしげると、涼一は決まりの悪そうな顔をしながらちらとだけ視線を向けてきた。
「 ……藤堂の奴が、お前も行くと言ったって言うから……」
「 え?」
「 だから俺にも来いとか言って。2年で参加しないの俺だけだからとか何とか。ったく」
「 そうなんだ…」
「 あいつ、後で覚えてろ…」
  涼一はそうつぶやいてからもう一度ふうとため息をついて、それから今度はしっかりと雪也を見やった。その表情はどことなく安心した風だった。
  雪也もそれで涼一の隣にいる事にやっと落ち着けた気持ちになれた。

  だからつい訊いていた。
「 連休さ…。あの人とどっか行ったりするの」
「 誰」
「 あの…ユカリさん」
「 誰?」
「 え……」
  涼一のぶっきらぼうな言い方に雪也は戸惑って黙りこくった。しかし涼一の方こそ怪訝な顔をして雪也を眺め、少々憮然とした顔をしていた。
「 だって…よく一緒にいるじゃ…」
「 ああ、あいつか」
  しかし雪也が説明を付け加えると涼一はようやく得心したようになって頷き、「別に」と興味ないように言った。雪也はそんな涼一の態度に再び胸がズキンとするのを感じ、自然俯いてしまった。そしてそんな自身に問い掛けた。
  自分は今、一体何を考えたのか。
「 …あいつが誘ってきたら、行くかな」
  その時涼一が言った。雪也がさっと顔を上げると、涼一は真っ直ぐに前方を向いて、恐らくは耳に入れてもいないだろう、講義をしている教授の方を見つめていた。雪也は涼一のそんな横顔をただ見つめた。
  抑揚のない教授の声が広い教室内に静かに響き渡っていた。そんな空間の中、雪也はふとシャーペンを握る涼一の手元に目を落とした。涼一はそうやってペンを握っているくせに、鞄からルーズリーフの一枚すら机に出してはいなかった。



To be continued…



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