(27)



「 マジかよ…遅ェな……」
  イライラしたような涼一の声に、雪也は心配そうな視線を助手席から送った。
  自分たちの前を先導する形で走っている那智たちの車は制限速度を下回る事はなかったが、それを上回るという事もなかった。ぴたりと守られたその一定の速度は、道路交通法上何の問題もないはずであったが、涼一や周囲を走る他のドライバーたちからは明らかにヒンシュクを買っているようだった。
「 創って免許持ってないの? 何であの人に運転させているわけ?」
「 ……分からないけど」
「 ちっ、面倒臭ェ……」
  毒を吐く涼一の隣にいて、雪也は多少窮屈な思いを強いられた。自分から涼一を誘っておいて、自身、創たちの行く所が分かっていない。そんなバカな話があるかと涼一は怒ったけれど、それはもっともだと雪也も分かってはいた。行き先くらい訊ねるのが当然だし、場所によっては着る物とて変わってくるだろうから、旅行の準備をする上でせめて北か南かくらいは知っておきたいと思うのが普通の感覚であろう。それでも雪也は敢えて創にそれを問う事をしなかった。創の親戚の家。それだけ知っていれば後は却って他の事は何も知りたくないくらいだった。
  雪也はただ、知らない何処かへ行きたかったのだ。遠くへ。
  家ではない、何処か。
「 このまま逸れたら……」
「 え?」
  その時、不意に涼一がそんな事を口走った。驚いて弾かれたように顔を上げた雪也に、涼一はちらとだけ視線を送ってきたけれど、すぐに前を向いて「冗談だよ」とやや腹を立てたように言った。そしてごまかすように早口で後を継いできた。
「 でもお前、よく行きたいって思ったな。人ン家の親戚の家なんて、気兼ねするばかりじゃん。雪はそういうの嫌だと思っていた」
「 あ…うん」
「 何で? 創だから?」
  そう言った涼一の声にはやはり棘があったが、雪也は敢えて流す事にしてただ首を横に振った。それから涼一の追求から逃れるように車外へと視線を向けた。幸い、涼一はそれ以上何も訊いてはこなかった。
  車は北へ向かっていた。

  数時間後、料金所を超えたすぐ先のパーキングエリアで、雪也たちは一旦休憩を取る事にした。時間は昼を少し過ぎたあたりだった。よろよろとした様子で那智が運転する車は混雑している駐車場の一角に何とか停車を果たし、エンジンの切れる音と共にガクンと一声鳴いてから沈黙した。そんな那智たちの車の向かいに涼一はすんなりと自分の車を停めたのだが、すぐに運転席から降りると開口一番創に向かって怒鳴り声を上げた。
「 次はお前が運転しろよな!」
  そんな涼一の声に雪也も慌てて車を降りた。涼一の言葉で那智がまた異様に精神を擦り減らすのではないかとそれがまず気になった。しかし当の那智は運転席に座ったままで、なかなか降りては来なかった。代わりに勢いよくドアを開けて外に飛び出たのはうさぎで、その後ゆっくりとした動作で創が車を降りてきて雪也たちを見やった。
「 確かに高速に入ってからは少し怖かったな」
  眼鏡の縁を指で上げながら創は実に飄々とした様子で言った。涼一はそんな創の態度に余計むっとしたようになり、つかつかと歩み寄るとますます声を荒げて言った。
「 少しなんてもんじゃねえよ! スピード狂より性質悪ィよ、あんだけノロイと! 後ろから追突されてまず殺られるのは俺らなんだからな!」
「 まあ、そういきりたつなよ。ここ数年運転していなかった人間がここまで走っただけでも大したものだろ。誉めてやってくれ」
「 知るか!」
「 りょ、涼一…ッ」
  未だ運転席から出て来ない那智を心配して雪也がようやく割って入ると、涼一はぐっと怒りを抑えて黙りこくった。それでもフンと鼻を鳴らすと、そのまま荒っぽい足取りで売店の方へ1人歩いて行ってしまう。雪也はオロオロしながら、そんな涼一と創の傍でただ困惑した。
「 君も大変だな」
  創が半ば同情したように言った。
「 2人の車中は楽しかった?」
「 え…べ、別にそれは……」
  創には自分たちの関係を話した事はなかったが、もう当にバレている感じではあった。それでも雪也はどこまでを創に言って良いやら分からず、ただ口ごもった。創はそんな雪也には構わずに手にしていた地図帳を丸めてそれを助手席に放り込むと、ふうと息を吐いてから売店の方へ視線をやった。
「 君は何も言わないし、訊かないんだな」
「 え…?」
「 君たちの事も。俺がこれから君たちを何処へ連れて行こうとしているのかも」
「 し、親戚の家って…」
「 それしか言ってないだろう。普通、何県の何処町へ行くのかとか、訊かないか?」
「 ………」
  雪也が何と言って良いか分からずに黙りこくってしまうと、しかし創は平然としたまま、「まあそれはお互い様か」とつぶやいた。それから身体を屈めて、まだ運転席で固まっている那智に声を掛ける。
「 姉さん、いつまで石になっているつもりだい。トイレにでも行ってきたら? 少しは外の空気を吸った方がいいよ」
「 な、那智さん、平気…?」
  雪也もはっとなって一緒に創の背後から運転席を覗いた。車の中では、ハンドルを握ったままの那智がただ茫然としたまま運転席で固まっていた。
「 那智さん…?」
「 ああ、大丈夫だよ。別にこういう事になるの初めてじゃないし。しばらく放っておいてやってくれるかい」
「 で、でも……」
「 姉さんがこうなるのは予想がついていたし。でも、俺はこの人を外に出したかったんだ。だからいいんだ」
「 ………」
  創のどことなく頑とした口調に、雪也はやはり何も言う事ができなかった。那智という女性がどうしていつからこういった人間になったのか、雪也には知りようはずもなかったし、それを無理に創から訊こうという気持ちにもなれなかった。知り合ったばかりの自分がそんな事を訊いて良いものか、そういった判断もできなかったし。
「 また何かいらぬ事を考えているね」
「 え……」
  すると見透かしたようにまた創が言った。しかし問い返した雪也にはふいと顔を背けると、「うさぎは何処へ行ったのか…」とまるで詩を朗読するようにぽつりとつぶやいた。それで雪也もようやく顔を上げてパーキングエリアの周囲を見渡した。辺りは緑深い山々がくっきりと青い空を背景に浮かび上がり、出発当初見受けられた背の高いビル群も今はすっかり消え、見通しのよい平地の風景に様変わりしていた。
  雪也は息を大きく吐いた。
「 俺も何か買ってくるよ」
  店の方から涼一が戻って来るのと入れ替わりに、創がそう言って雪也の傍を離れて行った。雪也がその背中を眺めていると、戻って来た涼一がジャケットのポケットに入れていた缶コーヒーを雪也に渡しながらまたむっとしたように問い質してきた。
「 何話していた?」
「 何って、別に……」
  こういう答えでは涼一の怒りを助長するだけだと分かっているのに、雪也はついそう言ってしまった。案の定涼一はますますきっとした目を雪也に向けてきたが、それでももう片方の手に抱えていたホットドッグの一つを雪也に渡すと、自分もそれにかぶりついた。雪也はそんな涼一の様子を眺めてから同じようにそれを口にしようとして、ふと下からくる視線に気がつき、はっと目を見張った。
  いつの間にか、傍にうさぎが立ち尽くしてじっとこちらを見上げていたのだった。
「 あ……」
「 ん……」
  雪也の声と同時に、涼一も声を出してうさぎを見やった。うさぎはただじーっと雪也の方だけを何事か訴えるような瞳で見上げてきていた。
「 な、何……?」
「 何だ、このガキ」
「 それ!」
  うさぎは言うと、雪也が手にしているホットドッグを指差した。雪也ははっとして、たった今涼一から受け取ったそれを見て「ああ」と得心したように声を出した。
「 これ、欲しいの?」
「 それ!」
  うさぎはうんとも言わず、ただ同じ言葉を繰り返した。雪也がその大声に押されるようにしてホットドッグを差し出すと、うさぎは礼も言わずに乱暴な仕草でそれを奪い取り、そのままばくばくと獣のように食らいついた。
  これに驚いた声を上げたのは、やはり涼一だった。
「 な、何なんだコイツ! おい、それ返せ!」
  しかし涼一の言葉などまるで聞こえていないように、うさぎは雪也の傍でホットドッグをがつがつとほうばった。涼一はそれで余計にカッとなったようになり、自分の食べかけを雪也に押し付けると身体を屈めてうさぎを睨みつけた。
「 おい、ガキ! それはな、俺がコイツの為に買ったやつなんだよ! 何テメエが勝手に取って食ってんだッ!」
「 りょ、涼一…」
「 雪! お前も何フツーに渡してんだよ!」
「 だ、だって…お腹減ってたんだよ、きっと…」
「 知るかよ! このガキの保護者は創なんだろ? 奴に食わせてもらえばいいだろうが! しかもコイツ、礼の一つも言いやがらねえ! どういう躾されてんだ!」
「 ご、ごめん…」
「 だから何で雪が謝るんだっての!」
「 それ!」
  しかしうさぎは激昂している涼一には構わず、今度は涼一の食べかけのホットドッグまでを雪也の手から奪い取って、再びばくばくと豪快に口を動かし始めた。
「 あ、あー! こ、このクソガキ…!」
「 コーヒー!」
  そうしてうさぎは唖然としている涼一と雪也には構わず、缶コーヒーまで手に取るとダッと走って行って、そのまま涼一の車に乗り込んでしまった。
  これには涼一だけでなく、雪也の方も驚愕してしまった。うさぎが創以外の人間のテリトリーに入ってくるとは、さすがに思っていなかったから。

「 何なんだ、あのガキは! しかも何勝手に人の車に乗ってんだよ…! おい、待てこら!」
  しかし逸早く立ち直ったような涼一がうさぎを追いかけて行こうとしたのを見て、雪也は焦ったようにその腕を掴んだ。
「 涼一、ごめん! お、俺がお金払うから…!」
「 はあ?」
  これには涼一もぎょっとして足を止めた。
「 バカか? 何でお前がそんな事言うんだよ!?」
  何故雪也がうさぎを庇おうとするのか、涼一には理解の範囲を越えているようだった。突然現れた不可思議な少女。雪也に涼一がぎっとなって振り返った。雪也は何と言って良いか分からずに一瞬だけ躊躇したが、このまま涼一に怒られているのも嫌だったので割とすぐに答えを出した。
「 俺…あの子の事、放っておけないんだ」
「 は……?」
  やはり意味が分からないというように、涼一は眉をひそめた。しかし思い詰めたような雪也の言葉に、涼一はさすがに荒く継いでいた息を潜め、静かになった。
  雪也は後を続けた。
「 う、うまく言えない…ごめん。だけど俺…あの子の事、初めて見た時から他人みたいな気がしなかった…。俺…俺、自分を見ているみたいで…」
「 ………あいつが?」
  涼一はますます訳が分からないという顔をしたが、そう言った雪也を見てからもう一度視線をうさぎの方へとやった。あの子供と雪也と何が一緒なのかと考えあぐねているようだった。
「 だから涼一、俺、今の分のお金払うから…!」
「 ……いらねえよ」
「 でも……」
「 煩ェな、分かったよ! 雪がそう言うならいいよ、もう! けど…うまく言えないなら、ちゃんと言えるようになったら言えよ…ちゃんと」
「 涼一…」
「 ………」
  涼一の台詞にほっとしたものを感じて雪也が肩の力を抜くと、不意に背後から人の気配がしたと思ったと同時に、創がやってきて声をかけてきた。
「 それじゃあ、万事うまくいったところで先を急ごうか?」
「 あ…っ」
「 お前は突然現れるなよ…」
  胡散臭い目をしてそう言った涼一に、創はここで初めて楽しそうに笑った。
「 今度は俺が運転するよ。夜中に着くのは嫌だしね。今爺さん家に連絡を入れたんだけど、夕飯も用意して待っててくれているみたいだ。俺は姉さんと違って飛ばす方だから、しっかりついてきてくれ」
  そう言って不敵に笑った創は、その後本当に涼一が呆れるくらいのスピードで車を飛ばし続けたのだった。

*

  雪也はずっと内陸暮らしで基本的に海とは無縁な生活をしてきており、だからこそ水のある景色への欲求は人よりも強い方だった。
  車外の景色から日本海が臨めるあたりになると、雪也はもう何も耳に入らなくなるくらいにその景色に没頭した。窓を全開に開けると鼻にツンとくる潮風が顔いっぱいに向かってきて、それだけで気持ち良かった。

「 こら、後ろ! そんなに顔を出すと危ないだろうが!」
  ふと、そう言って怒鳴る涼一に雪也が不審な顔をして後部座席を振り返ると、うさぎも同じようにして身体を乗り出さんばかりの勢いで海の香りを嗅いでいた。雪也は自然、顔をほころばせた。夕映えに煌く海面はとても美しかった。
  それから数十分ほど海岸線沿いを真っ直ぐ突っ走っていたが、不意に前方を行っていた創たちの車が停まった。
「 何だ…?」
  涼一が不審な顔をしながら同じく路肩に車を停めると、しばらくして前の車の助手席から那智が勢いよくドアを開け、外に飛び出てきた。それからだっと駆けて下の砂浜へと向かって行く。その後に創が降りて来て、後ろにいる涼一たちに「ちょっと休憩」と声をかけてきた。
「 ごめん。飛ばし過ぎた。姉さんを少し休ませたい」
  創は車を降りてきた雪也たちにそれだけを言うと、自分も砂浜への階段をゆっくりとした足取りで下りて行った。うさぎがそんな創の後に続く。雪也と涼一はぽかんとしていたが、やがてどちらともなく彼らの後を追った。
  那智は砂浜にぽつんと腰をおろし、膝を抱えてじっと目の前の海を眺めていた。その背後に創が立ってそんな従姉を眺めていたが、後からやってきたうさぎがぎゅっとそんな創の手を握ると、黙ってうさぎの事を見下ろした。
「 おい、どうかしたのか?」
  こんな時、雪也は訊いても良いものかと躊躇するのであるが、涼一は違った。ズンズンと先を歩いて行って、那智を顎でしゃくると創に向かって不審の声を上げた。雪也はそんな涼一を止めるべきか悩んだが、創が察したように目でそれを制してきたので咄嗟に口をつぐんだ。
「 疲れたんだよ。ずっと車に乗っていたしね」
「 酔ったわけ?」
「 多分ね」
「 お前、飛ばしすぎ。さっきは遅過ぎてイライラしたけど、今はヒヤヒヤした。俺は基本的に安全運転だから」
「 みたいだね。意外にも」
「 どういう意味だよ!」
  創の言葉に涼一はむっとしたようになったが、後ろに立つ雪也を振り返って「俺の運転、怖くないだろ?」などと律儀に訊ねてきた。雪也が頷くと、満足そうに笑う。その涼一の笑顔は何だか子供のようだった。
  那智はそんな4人の存在にはまるで興味がないように、ただぼんやりとした様子で目前の海に視線をやっていた。少しだけ乱れた髪の毛が風に揺れてばたばたと後ろに流れている。那智の背中は、創が言うようにやはり疲れているように見えた。ただそれが本当に「長い間車に乗っていたから」なのかどうかは、定かではなかった。
「 そこらへんを散歩してくるよ」
  創は雪也たちにそう言うと、うさぎの手を引いたまま那智がいる場所から離れて波打ち際へ向かって歩き始めた。うさぎは心なしか跳ねるように足を動かし、そんな創に従った。
「 なあ」
  その時、涼一が創たちに目をやりながら雪也に言った。
「 あいつらって何なの」
  それは別段害のあるような口ぶりではなかった。雪也が涼一を見やると、やはりそこにある目に悪意のあるものは混じっていなかった。
「 あの那智って人もうさぎってガキも。創もそうだな。何か…おかしな奴らだよな」
「 うん……」
  だから雪也も素直に頷いて、それぞれの場所にいる創たちを見つめた。
「 うさぎってのも、創たちの親戚か何か?」
「 ううん…。近所の家の子なんだ。すごく大きな屋敷の子」
「 へえ…。雪も前から知っていたのか?」
「 ううん。俺は…自分の近所の事なんかまるで知らなかった。知ろうともしていなかったし……」
  そう言って俯く雪也に、涼一はしばらく真面目な顔をしたまま押し黙っていた。それから、ふっと顔を上げると何気ない口調で言った。
「 お前は付き合っていた俺の事だって知ろうとしていなかったんだしな。これで近所の人間関係に詳しかったら傷つくぜ」
「 え…」
  驚いて顔を上げると、涼一は少しだけ笑って見せてから、「本当の事だろ」と半ばふざけたように言った。雪也は何も言えずに黙って下を向いた。
  太陽はどんどん海の中へと沈んで行った。赤く映えていた波の色が薄ぼんやりと暗くなっていくのが分かった。それが少しだけ寂しくて、風も冷たくなるのを感じて、雪也はぶるりと身体を震わせた。
「 寒いか?」
  すると涼一が自分のジャケットを脱いで雪也に羽織らせた。雪也は一瞬戸惑ったが、ひどく優しい目をしている涼一を見ると、もう断る事ができなくてただ「ありがとう」とだけ言った。
  しばらくは2人、立ち尽くしたまま目の前の海を眺めていた。規則正しく聞こえる波のざわめきに雪也は次第に心が静かになるのを感じた。目を閉じてその音を聞いていると、何だかいつまでもそうしていたい気持ちになった。
「 雪」
  だから、だろうか。
  不意に呼ばれ、その瞬間右の手に感じた、自分のそれを握る感触に。
「 涼一…?」
  雪也は戸惑いつつも、逆らう事をしなかった。始めは遠慮がちに触れられ、しかしやがてぎゅっと握られたその涼一の手の温もりに、雪也は目を閉じたまま甘んじた。
  雪也たちははただ黙って、夕闇の砂浜で手を握り合っていた。



To be continued…



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