(3)



  そのレンタルビデオショップは、雪也の自宅から歩いて5分もしない所にあった。
「 知らなかった…」
  埃と錆に塗れたオンボロな看板には、「ビデオショップ・淦(あか)」という殴り書きがされていた。もっともその文字も、店内から漏れる光がなければほとんど見えない感じである。
  深夜のバイトは搬入なども多く、仕事明けはいつもくたくただ。だから家には早く帰りたいはずだった。 おまけに今夜は涼一からひどい言葉も浴びせられた。外は雨が降っている。とてもではないが、「ビデオでも借りて映画でも」という気分ではなかった。
  それでも雪也はその店を見つけてしまった。
  雪也の自宅は、国道に沿ってあるバイト先のコンビニエンスストアからもののニ十分で着ける場所にある。大通りをしばらく真っ直ぐ歩いた後、小さな橋を渡って突き当たりにある酒屋を右に曲がり、そこから未だ舗装がされていない砂利道を下って到着だ。
  出会い頭に見つけたビデオ店は、その大通りから少し外れた細い通りの1番奥にぽつねんと建っていた。その袋小路から仄かに漏れる光は、何故かその日の雪也の目についた。

  今まで自分の帰り道以外の道を覗いた事などなかったのに。
「 営業しているのかな…」
  電気はついているが、「24時間営業」という表示もない。第一、こんな目立たない所に普通の住居と肩を並べて存在していても、殆どの人間には気づかれないだろう。商売など成り立つのだろうかと他人事ながらに気になった。
  雪也がガラリとガラス戸を開けて店の中に足を踏み入れると、外からは全く聞こえなかったが、店内は映画「スティング」にも使われていたピアノ曲が軽快に流れていた。
「 ………」
  深夜に流す曲ではないような気がした。おまけにこの汚い店と静かな住宅街にはまるで似つかわしくない選曲だ。あまりの違和感に雪也は自分が今どこにいるのかという事を一瞬忘れそうになった。
  狭いその空間には、映画のビデオカセットが置かれた棚が三列ほど窮屈そうに立っていた。右側の棚から順に「今週の人気コーナー」、アクション、SF、ホラー、ドラマ、恋愛、アニメ、アダルト…という風に丁寧にジャンル分けされている。子供が最も立ち寄るだろうアニメコーナーの横がアダルトビデオのコーナーとは変わっていると何となく思ったが、雪也はそれでもゆっくりと店内を回り、全ての棚に一通り目を通した。
「 外の降り、激しいですか?」
  その時、入口からは1番奥に当たるカウンターから、不意に店員らしき人物がいきなり声をかけてきた。
「 今日も天気予報は外れだ」
「 え……?」
  店員の二言目はどうやら独り言だったようだ。雪也の遅い反応に、相手は何の反応も示さなかった。
  店の看板同様オンボロのカウンターにはレジが一つと空のビデオケースが幾つか山積みされていた。そこにパイプ椅子を置いて座っていた人物は、ここはバイトなのだろうか、年は雪也と同じくらいの青年だった。縁の黒い眼鏡をかけ、短いが寝癖のひどいぼさぼさの黒髪。細身の身体に神経質そうな顔立ちは、現代の若者というよりは暗い部屋に閉じこもって何かに興じる研究員という印象を雪也に与えた。格好は至って普通の、ジーンズに白のパーカーという姿だったのだが。
「 何か探している物あります?」
  青年は呆けたように自分の方を見ている雪也を見やり、眼鏡の縁をくいと指で上げてから言った。その口調は丁寧ではあったが、どことなくぶっきらぼうな感じでもあった。
「 あ…いえ……」
  雪也は慌てて首を横に振り、ごまかすように視線を棚へと移した。普段人の事などじろじろ見る方ではないのに、何故かこの時は青年の事をじっと見やってしまっていた。どことなく雰囲気が普通の人と違うような気がしたからかもしれない。
「 うちに来るの初めてですね」
  青年は言った。
「 会員カード、無料で作りますよ」
「 あの……」
  割と気さくに声をかけてくれると分かり、雪也は心なしかほっとした。
「 ここの店っていつからここにあるんですか」
「 いつから? そうだな、7年前位からかな」
「 え…そんなに」
  思わず正直な感想を漏らしてしまうと、相手はここで初めて目を細めて笑った。気難しそうな顔をしているのに、笑うと柔らかい感じがする。雪也は青年の眼鏡の奥で笑う目にまた思わず惹きつけられた。
「 君が越してくる前からあるって事になるね」
「 え……?」
  青年の言葉に雪也は驚いて聞き返した。青年はそれでまた可笑しそうに笑った。
「 今まで気づかなかった?」
「 ………貴方は何で俺の事?」
  こんな時間のこんな時に偶然見つけて入った店。どことなく怪しい様相を呈している場所なだけに、急に警戒心を抱いて雪也は身体を硬くした。
  しかしそんな雪也の問いに、青年はあっさりと答えた。
「 だって近所じゃないですか。もし俺たちが小学生だったら、きっと夏休みのラジオ体操も一緒にやっていた」
「 ラジ―」
「 同じ地区だ」
「 ………」
  確かにこの店と自分の家とは本当に近い。しかし雪也はこの町に越してきたのが高校一年になってからだったので、近所との付き合いはないに等しかった。高校も大学も都心の方まで出て行って通っていたから、所謂「幼馴染」的な存在はこの町にはいなかったのだ。
「 檜通りのコンビニでバイトもしているでしょ。俺、あそこで結構メシ買ったりする」
「 そうなんですか……」
「 そうなんです」
  青年はいやにそう丁寧に反復してから、手にしていた文庫本をばたりと閉じた。それから改めて雪也の事をまじまじと見やった。
「 服部創(はっとり はじめ)です。君は?」
「 え…だって知ってるんじゃ……」
「 名前は知らない。近所って事しか」
「 あ…ああ……」
  雪也は何故かしどろもどろになりながら、これまたどうしてかは分からないがバカ丁寧に頭まで下げて挨拶してしまった。
「 俺…桐野雪也」
「 桐野君。よろしく」
「 よろしく……」
  そうして服部と名乗った青年は、一通りの挨拶を済ませると、後はもう雪也に興味をなくしたようになって再び本を開いてそちらに目を通し始めた。雪也は何となく置いてきぼりをくったようになり、それをごまかすように棚に目を向けた。
  映画はここ1年、まともに観ていなかった。
  雪也自身は割と好きなのだが、涼一が嫌いだったから自然と観る機会が減ってしまっていたのだ。


『 映画って2時間ずっと黙って座ってなきゃいけないだろ。退屈だよ 』
  涼一はきっぱりとそう言い、雪也の手から映画のチケットを奪い取った。
  雪也が持っていたそれは、今夏ナンバーワンのヒット作品の指定席券だった。用事で行けなくなってしまったからとバイト先の店長が雪也にくれたものだったのだが、それを観に行こうと涼一を誘った時、先の言葉を投げ捨てられたのだ。

『 こんなのは人にあげてさ。それより、どっか他の所に遊びに行こうぜ 』
『 でも俺…… 』
『 何だよ、雪。だって映画なんて観ていたら、その間俺たち全然喋れないじゃんか。雪は俺と会話していたくないわけ? 黙ってこういうの観ていた方が楽なの? 』
  とんだ言いがかりだったが、涼一は映画を観に行きたいという雪也をただ責め続け、結局貰ったチケットも勝手に藤堂にあげてしまったのだった。
  いつだって涼一は勝手だったのだ。


「 それで最後まであんな一方的で……」
「 何の話?」
  はっとしてカウンターへ顔を向けると、服部青年が真っ直ぐな視線を送ってきていた。思わず頭の中で思っていた事を口にしてしまった事に雪也が焦って口許でもごもごとやっていると、服部青年はすぐに「ああ、いいよ」と片手を振った。
「 別に言いたくない事なら言わなくても。ただ声に出すから聞いて欲しいのかと思って」
「 ………」
「 それより特に観たい物がないのなら、俺が何か適当に見繕おうか」
「 あ、でも……」
「 初来訪者さんだから、一本無料サービスするよ」
「 え……?」
  大丈夫なのだろうかそんな気前の良い事をして、と大きなお世話というような事を雪也は咄嗟に思ったが、服部青年はすぐにそんな相手の心意を読み取ったようで、憮然とした顔をして見せた。
「 うちの店、確かにボロイけどね。これでもレアな品、結構揃えているんだよ。だから遠方から来るお得意さんとかもいるし。余計な気遣いは無用だよ」
「 ど、どうして考えている事分かった…?」
「 顔を見れば分かるよ」
  服部青年はあっさりとそう言ってから、すっくと立ち上がって背後にある棚に向かった。涼一と同じくらいの背丈だなと雪也はぼんやりと思った。
「 今の君にはこんなのどうかな」
  そうして服部青年は無地のケースを黙ってカウンターに置いた。雪也が近づいて不審な顔をしていると、相手は無機的な顔を向けたまま、再びくいと眼鏡の縁を指であげた。
「 面白いと思うよ、結構」
「 何て映画?」
「 タダなんだから黙って持っていきなよ。グロいホラーとか拷問系のやつってわけじゃないから」
「 ………」
  それでも雪也が躊躇したようにそのケースを手に取ろうかどうしようか迷っていると、不意に背後のガラス戸がガラリと開いて外から誰かが入って来る音がした。
「 ……ああ、いらっしゃい」
  服部青年が常連客に向けるような慣れた眼をそちらへ向けた。
  雪也が何となくそれに流されるようにして振り返ると、そこにはあの白いワンピースを着た少女が立っていた。



*



「 こんなマイナーな授業取るのかよ」

  寝不足のまま、半ばぼうっとした頭で大学の講義に向かった雪也に、突然涼一は声をかけてきた。
「 ………」
  いきなりの事で咄嗟に声は出なかった。
  雪也たちが顔を合わせたのは、「ヨーロッパ史概論」という講義が行われる大教室だった。この講義は主に文学部の生徒が取るもので、雪也たち法学部の生徒はあまり、というか殆ど受講しない科目であった。よほどヨーロッパに興味がある者ならばともかく、単位が取りやすいという点を除けば大して受講する意図の分からない講義といえた。
  2年が始まってからまだ大して経っていないから、誰がどんな講義を受講しているのかはよく分からない。 仲の良い者は相談してそれなりに同じ講義を取ったりもするのだろうが、少なくとも今の雪也たちがこの講義を仲良く取る理由はどこにもなかった。
「 お前、真似したんじゃないだろうな。俺が取るやつ」
「 何で…」
  言いかけて、思わず雪也は口を閉ざした。大学で会っても、もう話しかけるなと言ったのは涼一の方だ。雪也はふいと顔を逸らし、わざと窓から見える空に視線を移した。
  けれど思い切り気分を損ねたような声がすぐに横から発せられた。
「 あのさ、露骨に避けるなよ。みんな変に思うだろうが」
「 ……え?」
  突然言われた言葉の意味がよく分からず、思わず問い返してしまうと、ちゃっかり雪也の隣に座っている元恋人は、ますます不快な顔をして声を荒げた。
「 だから。いきなり俺らが全く話さなくなったら、周囲が色々うるさく勘ぐってくるだろ。だから適度には喋ってやるから、お前も口裏合わせろよな」
「 ………」
「 分かったのかよ?」
「 何もそんな事しなくても」
「 あ?」
  雪也の反論の言葉に、またしても涼一は不機嫌そうな声を出して眉をひそめた。それでも雪也は負けじと後を継いだ。
「 俺、だからこういう、みんなと違う授業なるべく取るようにしたし…。それにあのサークルにも、もう行かないから」
「 ………何で」
  怒りをこらえている時の涼一のくぐもった声。
  一年間、付き合ったのだ、涼一の感情の起伏については誰よりもよく知っているつもりだった。それでも雪也は何故涼一はこんなに自分に対して不機嫌になるのかが分からなかった。
  こんなに。
  こんなに何もかも言う事をきいて、好いようにしてやっているのに。
「 …元々、テニスとかに興味なかったし」
  何とか言葉を出すと、反撃の声はすぐに返ってきた。

「 あいつらとはもう付き合わなくていいの」
「 ……構内で会えば普通に喋るし」
「 ……俺とは?」
「 だって話しかけるなって―」
「 だから! いきなり全く話さなくなるのはマズイだろって言ってるんだよ! 俺はな、お前と違って誰とでも仲良しこよしができる人で通ってるんだよ。いくらお前にムカついてて愛想つかしたって言ったって、いきなり無視するなんて性格悪いって感じだろ!」
「 ………」
  いつもの事とはいえ、無茶苦茶だ。
  心密かにそう思いながら、雪也は涼一に気づかれぬように心の中だけでため息をついた。
「 じゃあどうすればいいんだよ」
「 ……別に。だから適度には俺といろって言ってる」
「 ……嫌だよ」
「 はあ!?」
  さすがの大声に、周囲の何人かが振り返って2人を見やった。大教室はざわついているとはいえ、やはり涼一の容姿は周りを惹きつけるのだろう。既に面識のない文学部の女子学生がひそひそと何やら楽しそうな噂話をし始めている。
  せっかくこれから新しい生活を始めようとしているのに。
「 おい、聞いてんのかよ?」
「 あ……」
  はっとして顔を上げると、そこには依然イライラしたような涼一の顔があった。
「 ……だから。何が嫌なのかって訊いてんだろ」
「 俺、剣みたいに器用じゃないから」
「 だから?」
「 だから…そんな割り切って適当に喋るとか、そういうのは……」
「 できなきゃできないなりに努力とかすればいいだろう」
「 ………」
  当たり前の事だろ、と言わんばかりの口調だった。雪也はそれで今度は思い切り―無意識のうちにだが―ため息をついてしまった。
  それは勿論、このお偉い元恋人の怒りの琴線に触れたのだが。
「 何か文句あるのか、雪」
「 ………」
「 ため息なんかつきやがって、それはこっちだっての。お前のせいでこんな面倒な事になってるんだからな」
「 ……面倒」
「 そうだよ。俺だってお前となんかこれっぽっちも話していたくなんかないんだよ」
「 ………」
「 昨日だってな…アイツがいきなりコンビニ行こうとか言うから行っただけだぜ。勘違いするなよ」
「 してないよ…」
  どっと疲れを感じて雪也はそう応えるのが精一杯だった。大体、昨夜の事など思い出したくもない。あんなにひどい事を言われて、向こうは平気な顔をして、もう新しい出会いを求めようとしていて。
  それに対して自分がやっている事といえば、こんな風に涼一やサークル仲間から離れようと興味もない他学部の講義を取ったり。
  一晩中、タダで借りられた映画を観るくらいのもので。
「 ……昨日」
「 え」
  また突然涼一から意識を遮断していた雪也は、はっとし慌てて声を上げた。しかし今度は幸い、そんな雪也に涼一は気づかなかったようだ。どことなく落ち着かないような仕草で、手にしていたシャーペンを指でくるくると回しながら早口で言った。
「 雨、結構降ってたな」
「 え…? あ、うん…」
「 いつくらいに帰ったんだよ?」
「 え、家?」
  涼一は無言でその問いを肯定して見せた。雪也は昨夜の事を反芻しながら、レンタルビデオ店に寄っていたせいで帰りは随分遅くなったと簡単に告げた。
「 ビデオ屋? そんなのあの辺りにあったか?」
  涼一の不審な声に、雪也も頷きながら昨夜の偶然を淡々と話した。
「 俺も初めて気がついたけど、実はすごく近所にあったんだ。すごくオンボロのビデオ店なんだけど、俺と同じくらいの年の人が、家の手伝いか何かでレジの所にいて。今の俺にはこんなのがいいってタダでビデオ貸してくれたんだ」
「 タダで? 大体何だよ。今のお前にはいいって。ソイツ、お前の何を知っているって言うんだよ」
  面白くなさそうに涼一は言った。
「 そういえば…そうだけど。でも、バイト明けだったから疲れているように見えたのかな。その借りた映画、めちゃくちゃなコメディ映画だったよ。割と面白かった」
「 フン」
  自分から訊いたくせに、涼一はどうでもいいと言う風になって鼻を鳴らし、それからカチカチとシャーペンの芯を出しいれしながら低い声で言った。
「 何だよ。客の顔色見て映画を勧めるビデオ店か? アヤシイ店。そこ、ホント大丈夫なのかよ」
「 別にボラれたって事ないし…タダだったし」
「 そういう事言ってんじゃない。……まあ、いいや。行けば分かる。俺もそこ行く。連れて行けよ」
「 え?」
  一体何を言い出すのだろうか。
  そう思わずにはいられなかったが、雪也は再度問いただすので精一杯だった。やはりそれは涼一の事を苛立たせてしまうだけだったのだが。
  元恋人は依然偉そうにこう言うだけだった。
「 俺もそこへ行ってやるって言ってるんだよ。今の俺に合った映画、選んでもらおうじゃん」



To be continued…



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