(31)



  どうやって受話器を元に戻したのかは分からないが、気がつくと雪也は母親との会話を自らの手で断ってしまっていた。
「 ……っ」
  荒く息をついた後、自然にどっと冷や汗が噴き出した。泥酔しているとは言え、母の切羽詰まったような声が耳にこびりついて離れなかった。
「 うさぎちゃん!」
  しかしそんな雪也の耳に突如キンとした那智の叫び声が聞こえ、同時に身体に何かがごつんと当たる感触がした。よろめきこそしなかったが、それで雪也が我に返ると、うさぎが玄関の方へ走って行くのが目に入った。風呂上りの濡れた髪の毛は誰に拭かれる事もなく、未だバラバラのままだった。
「 うさぎちゃん、待って!」
  その後、すぐに那智が手にバスタオルを握り締めたまま真っ青な顔で居間から飛び出て来た。次いで叔母や創、涼一が廊下に集まってきて、興奮したような状態で外に出て行ってしまったうさぎの事を那智に問い質した。
「 私…私、とにかくびっくりしちゃって…。何も言えなくなっていたらうさぎちゃんが…うさぎちゃん…」
  那智は泣き出しそうな顔でわなわなとそう言い、それからいてもたってもいられないというようになってうさぎに続き外に飛び出て行った。叔母もさすがに顔色ない様子だったが、創の飄々とした顔を見るといきなりふっと怒ったようになって声を荒げた。
「 創! あんた、何でうさぎちゃんが男の子だって事黙ってた!」
「 別に黙っていたわけじゃないけど」
「 お前、あいつが男だって知っていたのかよ!」
  これには涼一もむっとしたようになって不快な声を出した。どうやらうさぎが男だという事を創だけは知っていたようだった。那智も知っているかと思われたが、あの様子では今日初めて知ったらしい。もしうさぎが雪也たちにした事と同じような所作で那智にそれをバラしたのなら、彼女が動揺するのも当然と思われた。
「 とにかくもう遅いし。那智姉さんも何だか混乱していたようだから、探しに行ってくるよ」
「 当たり前よ! 早く行ってきなさい!」
  叔母はそう言って甥を叱咤した後、「お父さんも呼んでこなくちゃあ」と、急いで寝室の方へと駆けて行った。それでも創は依然として落ち着いた様子を示していたが、居間に掛けてあった上着を羽織ると那智に続いて玄関から外へ出て行った。
「 俺らも探すか?」
  涼一が雪也に言った。らしくもなく、涼一はうさぎの事をひどく気にしているようだった。雪也はそんな涼一に頷いて見せはしたものの、その場で石のように動けなくなってしまっていた。
  まだ、母の声が耳元で木霊し続けていたから。
「 雪…? どうした…?」
  そんな雪也の態度に涼一ははっとなって、途端暗い表情になると低い声で訊いてきた。
「 お袋さん…何か言ったのか?」
「 ………」
「 雪」
「 あ…いや……」
「 嘘つけよ。何だ、どうしたんだよ?」
  涼一はなかなか口を開こうとしない雪也に業を煮やしたようになりながらも、しかしどうする事もできずただ傍に立ち尽くしていた。雪也はそんな涼一の影を近くに感じながらも、依然胸の内で母の言葉を反芻し、やがて口を開いた。
「 俺…帰る……」
「 は?」
  涼一の素っ頓狂な声で、雪也の気持ちは却ってより高まった。途端に身体が動くようになり、雪也はさっと歩き出すと荷物の置いてある客間に向かって足早に移動を始めた。
「 お、おい、雪…!」
  背後から慌てて追いかけてくる涼一。そんな涼一には構わずに雪也は客間に入ると、そのまま部屋に出していた着替えなどを自分の持ってきた鞄に急いで詰め始めた。
「 おい、雪。お前何してんだよ…!」
「 俺、帰るから…」
「 だから何言ってんだよ! 何だよ、それ!」
「 帰らなきゃ…」
「 だからどうしたんだって訊いてんだろ! やめろって!」
  涼一は心底怒ったような顔になり、手を動かしている雪也の腕を掴むと着替えを詰めていた鞄もわざともう片方の手で横へと放り投げた。それに対して雪也がカッとなって手を伸ばそうとするのも、涼一は強い力で抑えこんでしまった。
「 やめろって言ってんだろ! 何だよ突然帰るってのは!」
「 だから帰らなきゃいけなくなったんだよ!」
「 落ち着けって! お袋さん何て言ったんだよ? 何かあったのか? 病気とか?」
「 ……そんなんじゃ…ないけど…っ!」
「 じゃあ何なんだよ! 単なる我がままかよ? お前がいなくて寂しいから戻って来いって? そうなのか?」
「 違う…っ!」
  涼一のイライラしたような声に、雪也自身も苛立ってどうしようもなくなり、無理に拘束から逃れようともがいた。遠くに飛ばされた鞄を取り戻そうと手を伸ばしたが、逆に涼一に突き飛ばされ、怒鳴り散らされた。
「 ふざけんな! いい加減にしろ、何なんだよお前は!」
「 涼一には関係ないだろ!」
「 関係ない!?」
  涼一は雪也のその声により一層頭にきたようになり、がばりと雪也に覆い被さるように近づくとその顎を片手でついと掴んだ。そして顔を接近させるとぎらついた眼で雪也の事を睨みつけた。
「 俺の言った通りだろ…。お前…お前こそがあの女に依存しているんだ。そんなにあいつの言う事聞いてないと落ち着かないのか? そんなにあいつの顔色伺ってご機嫌とってないと不安なのか? 一体あの女がこれまでお前に何をしてくれたって言うんだよ? 何もしてくれやしないだろ?」
「 煩い…っ」
「 煩い? 本当の事言われて返す言葉がないんだろ? なあ? お前がそんなだからあの女だって調子に乗っていつまでも勝手な事ばっか言うんだよ! お前をいつまでも縛っておこうとするんだよ!」
「 涼一に…!」
  何が分かる、と言おうとして、けれど雪也はそのまま唇を塞がれた。
「 う…んぅ…!」
  突然の口付けに、力強いその所作に雪也は目眩を感じた。強引に涼一の唇が迫ってきたかと思うや否や、中を舐られ熱い熱を送られた。雪也は途端に泣き出しそうな気持ちになり、小刻みに身体を震わせた。今はただここから離れたくて、涼一を突き放したくて、混乱するままに雪也はめちゃくちゃに暴れた。
「 や…めろ…!」
  そうして渾身の力で尚も迫る涼一を突き飛ばすと、雪也はそのまま鞄から畳に転がってしまっていた財布だけを持って廊下に飛び出した。もう荷物などいらない。金さえあれば帰れるのだ。だからこのまま涼一から逃げて東京に帰ろうと思った。
「 雪!」
  めいっぱい叫ぶ涼一の声から逃げるように雪也は走った。玄関口で、恐らくうさぎを探しに行った叔父たちを見送ったのだろう、創たちの祖父と顔を遭わせたが、雪也は努めて顔を見せないようにしてそのまま外に飛び出した。


  涼一にはあっという間に追いつかれた。
「 待てって言っているだろ!」
  しかし涼一は、今度は雪也を強引に押さえつけようとはしなかった。人気のない、真っ暗な細い道を歩き続ける雪也の背後から、涼一はただ声を投げかけた。
「 こんな遅く…電車なんか走っているわけないだろ」
「 ………」
「 どうやって帰る気だよ」
「 ………」
「 何処行く気だよ」
「 ……駅」
  本当は自分でもどうして良いか分からなかった。ただ戻らなければ。そう思っただけで、こんな時間に、こんな過疎地でどのような手段で帰ったものか、雪也にはまるで考えがなかった。
  それでも涼一に何も考えなく歩いていると思われるのが嫌で、仕方なく雪也はそれだけを口にした。…もっともそんな返答はすぐに涼一に捨てられてしまったのだが。
「 だから駅に行ったって電車なんか走ってないだろ」
「 ……それでも」
  あそこにじっとしてはいられなかった。
  母の知らない家、母の知らない友人、母の知らない土地。その場に身を置いて、静かな気持ちでいる自分。涼一たちと穏やかな空気に身を委ねている自分がひどくズルイような気がした。
  だから。
「 なあ、雪」
  歩きながら背後の涼一が声をかけた。もう怒っていないのか、それとも怒鳴り疲れたのか、涼一の声はいつもの澄んだ綺麗なものに戻っていた。
「 雪」
  それでも足を止めない雪也に、涼一はもう一度名前を呼んでから言った。
「 俺、お前のお袋に言ったんだ。お前のこと好きだって」
「 え……?」
  突然の涼一の告白に雪也は驚いて歩を止めた。振り返ると、そこには暗闇の中でも月の光に照らされた涼一の顔がはっきりと映し出されていた。その顔はやはり綺麗だと雪也は思った。
「 雪のこと好きだから…だからお前と暮らしたいって。あの日。お前を迎えに行くと言った日。俺、お前の留守の時にお前のお袋さんにそう言った」
「 涼一…」
「 その時にお前と護の事聞いた。護の…お前への気持ちとかも…前よりずっと分かったと思った」
  そう言った涼一はひどく苦しそうで、そしてやはりひどく悔しそうだった。
  2人が立つ場所は海から程近い公道で、静かな波の音も耳をそばだてずともよく聞こえた。だからどちらかが黙りこむとその音はより大きなものとなって2人の耳に響いてきた。そして視界がはっきりしない分、そこから流れてくる潮の香りも雪也にはより強く感じられた。鼻先がツンとした。
  涼一の方もそんな雪也と同じ感触がしているのだろうか、海岸線の方へ顔を向けながら続けた。
「 俺、何か…堪らなくなったんだ。俺は護みたいに何年もお前に会わないで我慢するなんてできねえよ。あいつはバカだと思う。けど…お前とお前のお袋の事も考えて…全部自分のせいにしたあいつには…敵わないって思った」
「 涼……」
「 俺、自分が誰かに負けたって思う事って今までなかったからさ。すげえショックで」
「 ………」
  涼一はどこまで知っているのだろうか。
  頭によぎったのはそんな思いだったが、それを確かめることは怖くて雪也にはできなかった。
  雪也は涼一には、初めての相手は護だと告げていた。その時は雪也自身そうだと信じていたし、その誤った記憶があったからこそ自分は今までやってこられた。しかし実際は護のしてくれた事はそれ以上に大きいものだった。母の元恋人である水嶋に無理やり犯されたあの時の雪也に、護は「全部なかった事」だと嘘をついてずっと傍にいてくれた。そして護は雪也を無理に抱いたのは自分なのだと言った。思い込ませてくれた。あの時の温かい記憶は雪也の胸に今も尚鮮明に残っていた。
  涼一はそのどこまでを母から聞いているのだろうか。
  水嶋のことは知っているのだろうか。
「 涼…」
「 ………お前のお袋」
  雪也には言わせず、涼一は視線を逸らしたまま言った。
「 きっとお前が護に頼りっぱなしになったのが面白くなかったんだ。お前がこのままどんどんあいつにもたれかかるのを見たくなかったんだ。だから…引っ越した。お前だって分かっていただろ?」
「 ………」
「 引越しの日、どうして護がお前を見送らなかったのか聞いたのか? どうして今までお前に会いに来なかったのか聞いたのか?」
  涼一は堰き止めていたものがどっと押し寄せてきたようになって早口で後を継いだ。
「 全部お前のお袋が護にそうさせていたんだぜ? お前たちを会わせないように嘘までついてさ…。護には、お前が会いたくないと言っているから会わせられないなんて言ってさ。お前、知っていたかよ?」
「 ………」
  涼一に答える術を雪也は持たなかった。ただその事は後日護と会った時に聞いてもう知ってはいた。改めて第三者から聞かされるとそのショックはより強くなったが。

  母は引越しのあの日、自分には護も忙しいから見送りには来られないのだろうなどと言っていた。雪也はそんな母の淡々とした言葉を聞きながら、きっと護と会う事はもうないのだろうと寂しさと諦めの入り混じった想いであの時をやり過ごした。
  涼一が後を継いだ。
「 でも…でもさ、お前のお袋…一方でお前には護が必要なんだっていうのはやっぱり分かっていたんだな。護を完全にお前から引き離す事はできなくて、お前が20歳になったら会ってもいいなんて条件つけてさ…。お前から護を奪っておいて、それでも護の奴を解放もしなかった。いざとなったらお前に返そうと思っていたんだってよ…物じゃないだぜ?」
「 ………」
「 けど護は護で素直にそんな馬鹿げた言いつけ守って、約束の日にお前がまだ苦しんでないかどうかってちゃんと会いに来て…。それでいてお前に俺がいるって分かったらあっさり手を引こうとして…。何なんだよ、すげえムカつく。けど…お前のお袋にはもっと…ムカついた」
  涼一はそこまで一気に言ってしまうとハアッと大きく息を吐き出し、沈黙した。
「 ………」
  雪也もそんな涼一をただ見やる事しかできなかった。

  あの夜、突然自分の目の前に現れた護の姿を雪也は思い出していた。久しぶりに会ったのに、驚きと喜びで声が出ないでいる自分に、まず謝りたかったと告げた護。傷つけてごめんと謝った護。彼は何もしていない。ただ自分を救ってくれただけであるのに、それは表に出さずに何もかもを背負いこもうとして、そうして変わらず優しくしてくれた。雪也にはそれがひどく嬉しくて懐かしくて、護を思うだけで胸が苦しくなった。 そして本当の記憶を取り戻してからは、また違う意味での苦しさが全身を襲い、護の優しさに逃げて縋りつきたくなる反面、それを戒めようとする気持ちにも挟まれて居た堪れなくなった。
「 ……俺が雪を好きだって言ったら、お前には護がいるから駄目だってさ」
  不意に涼一が言った。雪也がハッとして改めて涼一を見ると、向こうはもう当にこちらを見ていた。
「 母さんが?」
「 俺にはそう言ったよ。…まあ、本当にあの人がお前と護の仲を許すとは…思えないけどな」
「 涼一は……」
「 だから俺は」
  雪也の声を遮って涼一は言った。
「 お前を迎えに行けなかった。お前の過去とか…護の事とか聞かされて…駄目だ、敵わないって思ったから」
「 過去って……」
「 ………」
  涼一は答えなかったが、恐らく母は言ったのだろうと雪也は瞬時に悟り、唇を噛んだ。だからこそ涼一は雪也の心の葛藤にも気づき、自分から距離を取ろうとしたのだろう。
  自分からは聞こうともしていなかった、涼一のあの日迎えに来なかった理由がこんな形で突然明かされて、雪也はやはり何と言って良いか分からなかった。

  再び2人の間に沈黙が走った。
  しかしその時、ふと涼一が怪訝な顔をして海岸の方へと視線をやった。それで雪也もつられたように同じ方向へ目をやると、瞬時波の音と混じって何やら獣の叫び声のようなものが聞こえてきた。ここから少し下って行くと砂浜に下りる階段があるが、声はそちらからしたようだ。しばらく耳を澄ますと、再度聞こえた。今度は低く唸るような、それでいてひどく切ない声だった。
「 ……うさぎか?」
  涼一が言った。同時にもう動いて涼一は砂浜の方へと駆けて行った。一瞬戸惑ったが、雪也もその後を追った。
  近づくと声はより一層はっきりと聞こえた。
「 嫌だ! 嫌だ! もう嫌だ!」
  絞り出すようにそう言っているうさぎの声。続いてわんわんとめちゃくちゃに泣き出す声が聞こえた。雪也が涼一に続き階段の途中まで下りて行って目を凝らすと、数メートル先で創に縋り付きながら自らの髪の毛をしきりに引っ張っているうさぎの姿が月明かりの下くっきりと見えた。
「 いらないんだ! こんなもの!」
  泣きながらうさぎはそう言い、再度長い髪の毛を引っ張っていた。創の表情は雪也がいる位置からはよく見えなかったが、それでも暴れるうさぎを力強く抱いてやっているのは目に入った。そしてうさぎの所作を片手で止めるとその手首を掴んだまま創は言った。
「 綺麗な髪だ。いらないなんて、そんな事はない」
「 嫌だ! こんなの、長いの、女みたいだもん!」
「 それでもお前が選んだ事だろう」
「 違う! 母様がやれと言ったからやっていただけだ! こんなの嫌だ!」
  うさぎの訴えは悲痛なものだった。それで雪也の胸もズンと何かに打ちのめされた。
 
  『 可愛いからやって。 』

  嫌だと言う自分に、母はしきりに女の子のドレスを着せたがった。
  あの水嶋の粘着質な、自分を見るいやらしい眼が思い出された。
「 みんなヘンな眼で見る! 大嫌いだ! 女に思われるのももう嫌だ!」
「 じゃあやめればいい」
  創の口調はどこか冷淡だった。雪也の首筋には玉の汗が浮かんだ。
「 意地悪! 創の意地悪! どうしてそんな事言う!」
「 お前が嫌がっているから言ってやったんだよ。やめればいい。何をどうしたところでお前はお前だ。俺は何とも思わないよ」
「 違う違う! やめられないの! 創の意地悪―!」
「 じゃあ何と言えばいい」
「 ……涼一」
「 雪?」
  うさぎと創のやり取りに血の気の引く思いがして、雪也は思わず自分の前方に立つ涼一に声を掛けていた。既に視界が不明瞭になり、気分の悪さに吐き気を感じた。涼一はそんな雪也の様子に気づいて心配そうな顔を向け肩を掴んでくれたが、雪也はそれを力ない手で払うと、よろよろと階段を上り、元来た道を戻ろうとした。
「 ゆ、雪…? どうした、大丈夫か?」
「 ………しい」
「 え? 何だ、何言った?」
  雪也は自分が涼一を呼んだくせに、もうそうやって声を掛けてくれる涼一には振り返りもせずに、ただよろよろとうさぎたちの傍から離れ、公道に戻って訳も分からず歩を進めた。
「 待てよ、雪! お前…ふらついてんじゃないか、ちょっと待てって!」
  涼一が尚も言って、今度はすぐに追いつくと雪也の身体をぎゅっと捕まえてきた。けれど雪也はそんな涼一から逃れようとして、けれどうまくいかなくて、足をもつれさせるとそのまま前のめりに倒れてしまった。
「 雪…っ!?」
「 ……苦しい」
  ようやくそれだけを言うと、雪也は膝をつき両手も地面に着いてハアハアと息を吐いた。頭痛がし、周囲がぐるぐると回り始めた。そして次々と思い出したくもない過去の映像が痛む脳内を巡り出した。

  クルシイ。イタイ。サビシイ。

「 ただ……いて欲しかっただけなんだ…」
「 雪…?」
  涼一は自分も傍に屈み込むと、うわ言のように言葉を押し出す雪也に不安の声を上げた。雪也はそれに構わず、まるで何かに迫られ急かされるようになって必死に声を出し続けた。
「 他の誰でもない…俺は…母さんに一緒にいて欲しかったんだ…。母さんに笑って誉めてもらいたかったんだ…。それが好きだったんだ…。だから…だけど…嫌だった…あんな格好…本当はしたくなかったのに…」
  あんな格好。どうして。そう思っていたのに、似合うと言われて自慢だと言われて拒めなかった。あの頃から母と自分との関係は、既に何かが壊れてしまっていると。
  気づいていたのに。

「 やめたかったのに…嫌だったのに…でも、できなくて…。一緒にいて欲しかったから…」
「 雪!」
  誰に向かって言っていたわけでもない、ただ無我夢中であの時言いたかった言葉を吐いていた雪也に、背後からそう呼ぶ声がした。
「 雪、俺がいてやる! 一緒にいてやるから!」
「 ………」
  声は必死にそう言い、ぎゅっと強く背中から抱きしめてくれた。重い。そう思ったけれど、それ以上にその相手の身体から発せられる熱はとても温かかった。
「 りょ…いち……」
  だから名前を呼んだ。抱きしめてくれた人の名を。

「 俺が傍にいる! 俺がお前と一緒にいる。俺を選べ! 俺はお前にそんな想いはさせない!」
「 俺は…母さんに……」
  後ろから抱え込むように自分を抱きしめる涼一の手に触れながら、雪也はぼろぼろと涙をこぼしつつそれだけを言った。けれど背後からは涼一の怒ったような切羽詰まったような声が更に降り注いだ。
「 煩い! もう言うな…っ。頼むから…俺がお前にやるから…。お前には俺しかいない。俺といろ。お前は俺を選べばいい」
「 俺…俺は……」
「 お前が捨てていたら俺だって…。なあ、なら何でお前はずっと…それをしている?」
「 え…?」
  何を言われているのか分からなかった。
  しかしふっと身体からの拘束が取れて、涼一は雪也の目の前に改めて膝をつくと、雪也の手首をこつんと叩いた。それでもその所作の意味が分からず、雪也は涼一が指し示したものに視線を落として「あ…っ」と声を出した。
  それは涼一があの日にくれた雪也への誕生日プレゼント…綺麗な音を刻む腕時計だった。
「 これ……」
「 久しぶりに大学でお前を見た時…お前がそれをしてくれていて…俺がどんなに嬉しかったか、お前には分からない。お前なんかに分からない」
  涼一は言った。
「 何度も忘れようとして、諦めようとして、なのにそれが目につく度に俺は…バカみたいに揺らいだ。お前はそんな事気づかないでいつもそれをしていた。この旅行にも…誘ってくれた」
「 …………」
「 お前は護じゃなくてこの俺を誘ってくれた。俺に来いって言ってくれた。そうだろ」
「 どうして…か…。俺…自分でも考えてた…。でも分からなくて…」
「 今は分からなくてもいい」
  雪也が考え込もうとする前に涼一は言った。そしてもう一度、今度は正面から雪也を両腕で思い切り抱きしめ、今まで聞いた事もないくらいの切ない声で言った。
「 一緒にいろ。俺といろ。言え、雪! 俺と一緒にいたいって。言えよ!」
「 一緒に……」
「 雪、好きだ…!」
  どうしてそんなに言ってくれるのか、雪也には分からなかった。未だに分からなかった。付き合った当初から、そもそも初めて出会った時から、どうして自分に声をかけ、こうもしつこく一緒にいようとしているのか。涼一の考えている事がちっとも分からなかった。
  涼一は「お前が俺を見ようとしないからだ」と怒っていたけれど。
「 こんなに…自分の事ばっかりなのに…?」
「 それでも好きだ」
「 りょ……」
「 雪、好きだ。だから言え、雪」
「 ………一緒に」
  いつもいつも寂しかった。母はいつも自分以外の別の男と共にいる事に喜びを見出していた。思い出した時にだけ構ってくれた。本当はずっと一緒にいたかったのに。だから熱が欲しかった。自分以外の誰か。家族以外の誰か。
  ずっと一緒にいてくれる人。愛してくれる人。抱いてくれる人。
  熱をくれる人。

「 一緒に…いたい…」
  声が、出た。
「 一緒にいたい…」
  涙がこぼれた。こんな言葉を、こんな想いを口にして母はきっと怒るだろう。
  でも。
「 一緒にいたいよ…涼一…」
  抱きしめてくれる腕に応じて雪也もゆっくりとその背に手を回した。そうしてそっとそう言うと、顔の見えない涼一の肩先がぴくりと震えたのが…そして抱きしめてくる腕により力がかかったのが…分かった。



To be continued…



戻る32へ