(32) 「 桐野君」 雪也が裏庭へ回ると、すぐに創も後を追いかけてきた。 「 一緒に行くよ」 「 あ…うん」 「 大丈夫。剣君には言ってきたから」 創はまだ何も言っていない雪也に勝手知ったるような態度でそう言い放ってから、「爺さんたち、今日はあっさり片付けられるんだろうな」と、身内を同情するような口調でつぶやいた。 今日の昼過ぎ、一足先に東京へ帰ると告げた雪也と涼一に対して、創は別段驚いた風もなく「そう」とだけ答え、「気をつけて」と付け足した。が、そんな創とは対照的に、那智や叔母夫婦らは2人が帰る事をとても残念がった。元々人懐こい人種なのだろう。それに叔父と祖父の2人は涼一という久しぶりに現れたチェスの好敵手を手放すのが非常に惜しいらしく、帰るまでは自分たちの相手をしろと、朝食後は面倒くさがる涼一を引っ張るようにしてさっさと書斎に閉じこもってしまったのだった。 一方、荷物の整理もし終えて手持ち無沙汰だった雪也に、庭から裏山の方へ散歩に出てみたらと言ったのは創だった。そんな創は、昨晩突然家を飛び出し、戻ってきてから熱を出してしまったうさぎに氷の替えを持って行くところだったのだが、後の事は叔母に頼んだのか、すぐに雪也の後を追ってきたのだった。 「 うさぎは平気?」 雪也が心配そうに訊くと、「やっと寝たよ」と創は仕方がないなというように軽く両肩を上げてみせた。 「 那智姉さんが落ち着いてきたと思ったら、とうとうあいつが爆発だろう? 本当、忙しない人たちだよ」 「 ………」 「 君らもね」 「 え?」 驚いて訊き返した雪也には構わず、創はさっさと歩を進めると、「こっちだよ」と言いながら立て付けの悪くなっている裏戸をガラリと開けて、鬱蒼と茂る森の中へと入って行った。それで雪也も慌ててその背中を追った。 創たち叔母夫婦の家と隣接しているそのちょっとした裏山は、明るい日差しの中でもやや暗く、しかし海から漂う潮と木々が放つ新鮮な空気とが交じり合ってとても落ち着く雰囲気を醸し出していた。雪也は段々と上り坂になって行く細い道を創の後について歩きながら、その緑の景色に目をやった。 「 ここをちょっと登った先から臨める景色がなかなか良くてさ」 息を切らせる事もなくスイスイと先を行く創がそう口を切った。 「 よく行くの?」 「 こっちに帰ってきたら一度はね。他に見るべきものもないし」 「 那智さんも?」 「 あの人はこういう所よりあの寺が好きなんだよな。今朝もまた出掛けて行ったよ。でも君らが帰る時間までには戻って来るって言っていたけど」 「 那智さんも大丈夫かな…?」 「 え? 何で?」 雪也の発言に驚いたようになって創が振り返った。雪也はその創の態度にこそ驚いてしまって、自分も多少身体を逸らせてから困惑したように答えた。 「 ほら…昨夜、うさぎの事で取り乱していたし…。今朝もやっぱり元気がなかったから」 「 いつもの事さ」 創はやや冷淡な口調で言った。歩く速度はもう元に戻っていた。創は続けた。 「 あの人はいつも人の倍悩んで苦しんで、余計な事を考えて。袋小路に入り込んでそこでウロウロして。戻って来たと思ったらまた入り込んで。そんな事ばかりしているよ。だからいちいち心配していたらキリがない」 「 ……うさぎの事、那智さんはずっと知らなかったの?」 「 そうみたいだな。知っているかと思っていたんだけど。まあ、普段のあの格好見ていたら、いちいちお前は男なのか女なのかなんて話はしないからね」 「 創はどうして知っていたの?」 「 うさぎの事を? まあ父親から聞いていたというのもあるが…そもそも本名が男の名前だからね」 「 え?」 戸惑ったように訊き返すと、創は少しだけ口の端を上げて歩きながら続けた。 「 あいつ寛兎って言うんだ」 「 ヒロト…?」 「 寛容の寛に、兎と書いてト、と読んで。ヒロト。でもあいつの母親はあいつの事をヒロトとは呼ばない。うさぎちゃん、うさぎちゃんって、最後の漢字だけであいつを呼ぶのさ」 「 ………」 「 あ、そこ枝が飛び出ているから気をつけなよ」 創は普段人など通らないのだろう、入り組んで道の跡も曖昧になって行く通りをどんどんと進みながら背後の雪也の歩調も気にしていた。雪也はなるべく遅れないよう、疲れを見せないよう、ひたすら創の後について歩いた。そして息が整うと話の続きを発した。 「 どうして…うさぎのお母さんは、あいつを女みたいに扱うの?」 「 うさぎが可愛いからだと言っているらしいけど」 創は即答してから、ちらとだけ雪也の事を振り返ってすぐにまた視線を前方に戻した。それからため息をついたのか、微かに肩を揺らした。 やがて2人は開けた場所に出て、そこから広がる風景を眺め、しばしその場に立ち尽くした。大して登ったという気もしないのに、元々が丘陵付近に家が建てられていたせいか、そこから見下ろす景色は実に絶景だった。地平線の彼方にまで広がるかのような緑の田畑に、あの海岸線も一望できる。風が強く当たり、やや寒い気もしたが、その場に腰を下ろした創を尻目に、雪也は未だ傍の木に手を掛けて立ったまま、ぼうっとその景色を見やった。 「 好き? こういう眺め」 創の問いに、雪也はすぐに頷いた。 「 俺…元々海とか山とか…好きだし」 「 そうなの」 「 ずっと…行ってみたいって思ってた」 雪也が海を眺めながらそうつぶやくのを、創は不審の目で見やった。 「 今まで行った事なかったの?」 「 一回もって事はないけど…。子供の頃なんかはクラスの人がそういう話をしているのが結構羨ましかったな…。母親はそういうのに興味がないのか、絶対連れて行ってくれなかったし」 「 ふうん」 「 護…近所の友達と海水浴に行ってもいいかって訊いた時も…すごく怒られた」 「 はあ? ……それは、何でかな」 「 ………」 「 ……言いたくない?」 「 ううん」 雪也は首を振ってから、はっと息を吐いた。 「 そんな事はないよ。……俺があの人たちと出掛けたら、自分が1人で寂しいじゃないかって、あの人…母さんは言っていた。だから俺もそういう母さんの怒った顔というか…必死な顔を見ると、じゃあ仕方ないなってすぐに諦めがついたんだ。やりたいと思った事も…行きたいと思った所も…すぐに、まあいいやって」 「 ふうん」 「 でも…本当は、連れて行って欲しいって言えば……」 言いかけてやめた雪也を創は何かを探るようにじっと見つめていたが、やがて考えるのをやめたのか、すっと自分も下方の景色へと視線を落とした。 「 那智姉さんのことだけど」 そんな時がどれほど続いたのか、突然唐突に声を出したのは創だった。自分の傍に立ち尽くす雪也を見る事なく彼は言った。 「 寺に行ったって言っただろう? あの人ね、井戸の所に行っているんだよ」 「 え…あの姿見の井戸…? また…?」 「 そう。君たち、あの時来なかったよね。まあ覗いてみたところで、やっぱり自分の未来なんて見えなかったけどね。それにあれじゃあ、たとえ0時に行ったとしても絶対に何も見られなかっただろうね。最近はあそこを覗く人がいなかったのか、蜘蛛の巣は張る、葉やゴミなんかも水面に浮かんでいるしで…まったく、手入れすればいいのに、あそこの住職も」 一昨日あそこへ見学に行った時、創は寺の管理をしているという女性と仲良く話をしていたから、住職ともきっと顔見知りなのだろう。彼の人の人柄を思い浮かべて楽しい事でもあるのか、創は目を細めて「ズボラなんだよ」と更に軽口を叩いた。 しかし雪也はあの時の恐怖と那智の事とを思い出し、とても一緒に笑う気持ちにはなれなかった。 「 ……何で那智さん…何度もそこへ行くのかな」 「 ん…」 「 そんな何もない井戸に…」 「 自分の未来を語りに行く為だよ」 「 え?」 創の発言の意味が分からず、雪也は眉を潜めた。創はそんな雪也の方はやはり見ず、傍に生えている草に触れながら地面を見つめたまま続けた。 「 あの人は昔からあの井戸には執着していてさ。実際、自分の未来を0時に確かめに行く度胸はないくせに、それでもあの場所には何か立派なご利益があると思ってるんだな。だから追い詰められたり苦しんだりしている時は、あそこへ行って決意表明だか何だかをしに行くんだよ。それで心を落ち着けるわけだ」 「 ………自分はこうしたい、とか…こうありたい、とか…?」 「 だろうね」 「 ………」 「 そんな事、古びた井戸に話してどうするんだよ。生きている同じ人間に話せばいいのにさ」 「 え……」 創は雪也が反応を返す前にぴしゃりとそう言ってしまってから、「それで」とようやくここで雪也を見やった。 「 君は那智姉さんとは違って、神がかり的な物に頼らずともすっきりする事ができるのかな。剣君に話せて少しは気が晴れた?」 「 え……」 「 何か…話したんだろ?」 創が静かな目で訊いてきた。そこには勿論冷やかしや興味本位な感情は見えず、雪也は少しばかり安心した。 昨夜、断固として家に帰ると言い張った雪也に、涼一は強く激しく抱きしめて「自分といろ」と言ってくれた。そして「好きだ」とも言ってくれた。それは涼一から既に何度も聞かされた言葉ではあった。それこそ、付き合い始めた約一年前から、涼一は雪也に何度も何度もそう言ってくれていたのだ。けれどその言葉が昨夜ほど雪也の心に響いた事はなかった。雪也にはいつでも自分に対する自信というものが欠如していたし、心のどこかでは常に「涼一は自分とは違う場所にいる人間」という意識があった。出会った頃からそうだった。話すのが好き、外に遊びに行くのが好き、思った事は何でもはっきり言う…。何もかもが自分とは正反対。価値観も違う。一体何をもってそんな人間が、誰にでも打ち解けられる完璧な存在が、いつまでもこんな自分と一緒にいるだろうか。そんな事ばかり考えていた。だから涼一に「お前とはこれっきり」と言われた時もやはりなとしか思わなかったし、「お前は俺の事なんかちっとも見ていない」と言われた時も、本当にその通りだと思った。自分に引け目ばかり感じて、そればかりで、涼一とまともに面と向かい合った事などなかったのではないかと、言われてようやく気がつく始末だった。自分のことばかりだった。 それなのに、それでも「好きだ」と言ってくれた涼一。 「 俺…話すのはうまくないから…」 創にぽつりとそう言う。それから雪也はようやく創の隣に腰を下ろすと、思い切ったように顔を上げて続けた。 「 でも、あの時は…思った事が勝手に口から出たんだ。少し…すっとした」 「 そう」 「 涼一…一生懸命聞いてくれて」 「 へえ。あの人、人の話なんか聞くのかい?」 創はここで初めて揶揄するように言ってから、半ば本気で意外だというような顔をしてみせた。それから「根に持ってるんだ」と冗談めいた表情で大袈裟に右手首を振ってみせた。これには雪也も苦笑してしまった。 雪也が涼一と家に戻った時、玄関先で彼らを出迎えたのは創一人だった。二人が帰って来た時には既に創以下、うさぎを探しに外へ出ていた那智や叔父らも帰宅していたのだが、今度は熱を出してしまったうさぎの看病に彼らはてんやわんや状態だった。だから雪也たちの帰宅に最初に気がついたのも創だけだったのだ。創は何やら憔悴しきったような雪也と、そんな雪也をしっかりと支える涼一に最初は多少驚いたような顔を向けたが、特に何も訊いてはこなかった。ただふらついているような雪也の姿を見て、手を貸そうかとだけ言った。けれどその瞬間、涼一がそんな創の手を強く払って言ったのだ。 「 雪に触るな」 それはいやにぎらついた、敵意の入り混じった眼光だった。そして面食らったようになっている創には構わず、涼一はそのまま雪也をかばうようにして客間へ入ってしまったのだった。雪也の方も創の事は気になりつつも、そんな涼一の手を振り解いて彼に話しかけるだけの気力がなかった。 「 ものすごい払われ方をした」 創は勿論わざとだろうが、もう一度手首を振って大袈裟な口調でそう言ってから、「すごいね」とつぶやいた。 「 いるんだなあ、ああいう人」 「 え?」 「 自分に正直と言うか。まあ我がままとも言うけど?」 「 ………うん」 創の言葉に悪意がないのが分かっていたので、雪也も素直に頷いた。 それから雪也はようやく創に口を開いた。 「 俺たち…ずっと付き合っていたんだ」 さすがに顔は見られなかったので、雪也はやや下方に視線を落としたまま続けた。 「 もう何となく勘付いていたとは思うけど…。でも、那智さんが聞いたらやっぱり驚くだろうね」 「 まあ、融通の利かない人だからね」 あっさりとした口調で創はそう言った。雪也はそんな創の方に一瞬だけ視線を動かしてから続けた。 「 でも、付き合っていたなんて、きっと形だけなんだ。俺、本当は全然涼一の事分かっていなかったし…全然ちゃんと見てなかったし…。でもそれは涼一だって同じ事だと思う。だって俺自身でさえ俺の事ちゃんと分かっていなかったんだから。分からないまま、違う自分見せていたかも」 「 でも、昨日は話せた?」 「 ……自分の事、少しだけ」 「 ふうん」 「 でも少しだけだけど…自分でも分かっていなかった想いだったから…。それに…あんな情けない部分見せたのに、それでも…好きだって」 「 そう」 「 驚かないの?」 あまりにも淡々とした態度の創が却って気になり、雪也は自分こそが驚いた表情をして隣にいる友人の顔を見やった。創はやはり淡々とした様子で、別段大した事を聞いた風もなく穏やかな口調で返してきた。 「 別に驚かないよ。世の中にはもっと驚くべき事がたくさんあるし。君は人に自分を表現するのが苦手で、もしかすると自分自身にすら自分を見せるのが苦手で。でもそんな君を理解してくれると言ってくれる剣君がいて。それを君は俺にノロけて見せたわけだよな」 「 の…」 「 好きだって言われて、嬉しかったんだろう?」 創はふっと害のない笑みを見せてから、優しく問い質すようにそう言った。それで雪也も一瞬は困惑したものの、「うん」と答えながら頷いた。 創はそんな雪也の態度に先刻より更に大きな笑顔を作ってみせた。 「 だから君は俺にこんな話をしてくれるわけだよ。人間、自分の幸せってのは、どうしたって人に聞かせたいものさ」 「 幸せ……」 ふっと胸の中の何かがちりちりとするのを雪也は感じた。 「 幸せ」 もう一度繰り返すと、創はうんと頷いた。 「 自分を好きだって言ってくれる人がいるって、幸せなことだよ」 創はしかしすぐに苦虫を噛み潰したような顔をした。そして手首を振ってから続けた。 「 まあその相手が…ちょっと我がままな人だと困る事も多いだろうけど、ね」 「 俺……我がままなのは、俺の方だから」 「 ん……?」 「 俺、俺もちゃんと涼一のこと好きだって言えるようになりたいなって…」 「 君、言ってないの?」 創は少しだけ驚いたような顔をして見せたが、すぐにその感情をしまってしまうと、「ああ、そう」と何とも間の抜けた声を出した。雪也は途端に恥ずかしい気持ちになりながら、再び俯きつつ声を出した。 「 俺、だからちゃんと帰ってちゃんと話す。これからは…もっとちゃんと話さないといけないと思ったから…さ」 「 ………」 「 ここに来られて良かった」 雪也がそう言った時、不意に自分たちが登ってきた後方から涼一の声が聞こえてきた。はっとして振り返ると、創が呆れたように腕にしている時計を見やった。 「 もう少し手加減してやってくれよ」 「 涼一…」 明らかにこちらに近づいてくるその声は、しきりに雪也の名前を呼んでいた。どうやって方角を定めているのか、とにかく真っ直ぐに近づいてくる。そして、その気配と雪也を呼ぶ声は徐々に大きくなっていった。 「 雪! いた!」 そして遂に創たちのいる開けた場所に現れた涼一は、息を切らせながらつかつかと歩み寄ると、雪也の隣に座る創を睨みつけた。 「 何で俺のいない間に雪とこんな所に来るんだよ、お前は!」 「 悪かったね」 創はすぐにそう言って謝ったのだが、涼一には逆にそれが面白くなかったのか、ますますむっとした顔をした。けれど雪也の隣に来ると、途端に今度は心配そうな顔を向けた。 「 何話してたんだよ? 俺がいない間にこんな遠くまで行く事ないだろ?」 「 別に遠くないんだけど」 「 うるせえな! お前が焦らす事するから、爺さんたちにすげえ悪い事してきたからな。全部お前のせいだって言っておいたぞ」 「 ああそうかい」 堪えきれなくなったのか、創はくくっと含み笑いをもらしてからさっと立ち上がると「先に行くよ」と言った。そして雪也にはやはり優しい表情で柔らかな口調を発した。 「 帰る前に話せて良かったよ。嬉しかった」 「 あ…うん」 「 いつか話してくれるって思っていたから」 「 創……」 「 ありがとう」 創はそう言って、「爺さんたちの検討会に参加するよ」と言って坂を下りて行ってしまった。雪也はしばらくその後ろ姿を見送っていたが、不意に視界が涼一の身体に遮断され、驚いたのと同時に傍に寄ってきたその声が頭にキンと降りかかった。 「 雪、あいつと何話していたんだよ!」 「 何って…」 どこから言おうかと考えている間に、せっかちな涼一の方は雪也が自分に話したくないと思っていると感じたのか、さっとその場にしゃがみこむと恨めしそうな目線を向けてきた。 そして相変わらずのまくしたて早口口調で言葉を切った。 「 俺に言えないことかよ? お前、昨日これからは俺に何でも言うって言っただろ! 俺と一緒にいるって言っただろ! それでいきなりこれか? 俺のいない間に違う奴と2人っきりになんかなるなよ! 何でそんな事が分からないわけ? お前、俺の事全然分かってないんだからな!」 「 うん。分からない…」 「 なっ…! お、お前、よくもそんなはっきりと…」 「 だから、分かるようになりたい…」 「 え……」 「 と…思う」 「 ………」 途切れ途切れながらも雪也がそう言って息を吐き、それからやっと微笑して見上げると、いつもは反応の素早い涼一が。 思い切り面食らった顔をして固まっていた。 「 涼一…?」 相手の様子に今度は雪也が困った顔を見せた。けれどこの言い方ではまずかっただろうかと思案している間に、もう雪也は今まで動かなかった涼一の腕に取られて引き寄せられていた。 「 りょ……」 「 ………」 涼一は特に何も言わなかった。けれど、強く抱きしめてくるその温かい温度は、昨日の晩に感じたあの嬉しい熱を再び感じさせてくれた。 カエッテキナサイ。 母の声が聞こえた。 雪也は目を閉じたまま、その声をかき消すようにぎゅっと涼一の腕にしがみついた。 今日の午後ここを出たら、家に帰り着く時間は夜も遅くになるだろう。けれど、その方がいい。その方が母は確実に家にいる。いや、今なら昼も夜も関係なく母は家にいるような気がするが。 涼一に言えたように、母にも自分の想いを話したい。雪也はそう思っていた。 少しだけでいいから。 |
To be continued… |