(33) 走り始めて一時間もしないうちに「休憩してもいいか?」と言って、涼一は通りの路肩に車を停めた。 「 あそこに入ったらもう海も見納めだからさ」 自分たちがいる場所から数十メートル先に見える大きなトンネルを顎でしゃくり、涼一はそう言った。そして未だ交通量の少ない道路をすいと1人先に渡ると、「雪も来いよ」と軽快に言って、もうすっかり遠くになってしまった海岸線を指差した。まだ日は高く、太陽の光が燦々と降り注いでいたせいか、振り返ってこちらを見る涼一の指先は雪也には眩しくてよく見えなかった。 涼一は埃っぽくひしゃげた形のガードレールに腰かけた姿勢で、遥か前方に見える海を涼しげな顔で眺めていたが、雪也が自分の隣に来ると「俺、海って珍しい」とぽつりつぶやくように言った。 「 ガキの頃、あんまり行かなかったから」 そして涼一は続けざまそんな事を言った。雪也は多少驚いた気持ちでそう発した涼一の横顔をまじまじと見やった。 「 何で…?」 「 何でって?」 「 涼一、海とかよく行くんじゃなかったの?」 「 え? 何で?」 雪也の不思議そうな顔に今度は涼一が分からないといった顔を向けた。何故自分の発言に雪也がそんな風に驚くのか、と言った風な態度だった。だから雪也はそれで益々戸惑った風になったのだが、知り合った当初、涼一が自分を海だの山だの色々な所へ連れて行きたがった事、インドア派な自分に対して涼一はどう見てもアウトドア派に見えた事などを話し、涼一が海を見るのが珍しいなどと言うのは意外だと告げた。 「 涼一って…サーフィンとかジェットスキーが趣味なのかと思っていた」 「 あー…あはは。あれは趣味とかじゃなくて興味だな。ずっとやってみたいと思っていてやれなかったから、大学に入って好き勝手やってみたってだけだよ。まあ…だからアウトドア派って言うのは、その点間違いないと思うけど」 「 初めて? 大学に入ってから?」 「 そうだよ。俺、海とか山とか、ガキの頃は勿論、高校の時だって殆ど行かなかったもん。スキーはさ、中・高の行事で行ったから経験あるけど。高校でサーフィンとかは…。まあ普段は家にいる事が多かったな」 涼一は何でもない事のようにそう言って、「言った事なかったっけ」というような顔をして首をかしげた。雪也はそんな涼一のことを再度じっと眺めやりながら、それではどうして友人も多い、外に出る事も好きな涼一が大学に入るまでは家にいる事が多かったのだろうと当然のことながら疑問に思った。しかし雪也の癖というか習性というかはこの時にも見事に発揮され、果たしてそういう事を訊いても良いのだろうかどうだろうかと、逡巡して先の言葉に迷ってしまい、この時も口をつぐんでしまった。 しかしこの時の涼一にはそんな雪也の思いが分かったようだった。涼一は笑った。 「 俺がここまで話しているんだから。訊いてもいいに決まっているだろ?」 「 あ……」 「 それより、そうやって黙られるとさ、別に俺のことなんか興味ないのかなとか思うじゃん。そっちの方がよっぽどショックだって」 「 ………」 そう言えば那智も。 雪也は「あっ」となって那智があの時言っていた台詞を思い出した。そうやって訊いてくれる事が素直に嬉しいのだと、那智は確かにそう言っていた。それは必ずしも全ての人間に当てはまる事でもないのだろうが、あの時の事と今の涼一の台詞で、この時雪也は「何か」を一つ理解したような気がした。 「 俺、ガリ勉だったから」 涼一は言った。 「 思えば雪にはそれこそガキみたいに、遊ぼう遊ぼうばっかり言っていたけど…。あれだよ、それもこれも猛勉の反動ってやつ? 今までやってなかった事、一気にやってみたくなっちゃったんだよな、きっと」 しかし涼一のそんな台詞に雪也は再び怪訝に思って眉をひそめた。 「 何で? だって涼一って内部進学だから受験勉強なんかしなくても…」 「 んー…でも校内1位は当然として、全国模試でも一桁に入らなかったら内部進学は許さんって親に言われていたし。俺も付属の奴はバカって決め付けられているのも嫌だったから何かムキになった」 「 一桁…だったの?」 「 そうだよ。だって俺天才だもん」 涼一はわざとけろりとした顔でそう言ってから、しかしすぐに破顔すると声を立てて笑った。 「 でも雪、訊くのはそういうところじゃないだろ。親のこと訊けよ。どういう奴だって思わない? 別にさ、うちの大学、レベル低いわけでもないし、そんな厳しい条件つけなくてもいいじゃないかよって」 「 それより本当に一桁だったんなら、何でうちの大学に入っちゃったの?」 「 ……また見当違いな事訊くのな」 「 だって…普通に不思議だから」 「 それは」 涼一はここで一旦切ってから身体ごと雪也の方に向き直り、ひどく真面目な顔をして後の言葉を続けた。 「 雪と一緒の大学に入るため」 「 え?」 「 嘘」 雪也がぽかんとしていると涼一はすぐにそう言って、再び浮かしていた腰をガードレールに寄りかからせ、つまらなそうに空を仰いだ。 「 ……なんて答えだったら、雪も結構感動するんだろうにな」 「 そんな事…できるわけないよね」 「 うん。だってそもそも雪のこと知ったのは大学に入ってからだし」 「 ………」 「 まあ、雪と会えたのは俺の意地のお陰ってわけだ」 「 意地?」 「 うん」 涼一はそう言って頷いてから、少しだけ自分の両親の事を雪也に話した。父親も母親も、また近くに住んでいる祖父母も、周囲の人たち曰く「とても出来る人」である事、また普段から己にも他人にも「とても厳しい人」である事、それが涼一には特にキツイものである事など。 「 まあ、期待の表れだよな」 涼一はそうあっさりと言い放って、その通り期待に応える自分はやはり「出来る奴」なのだと茶化した口調でつけ加えた。そうして、今在籍しているこの付属の大学に上がる事が叶えば、自宅から離れているというのを言い訳に家を出られる事が分かっていた、だからそれまでは彼らの言う通りにしてやったのだと、涼一は今度は嘲るように笑って言った。それは両親や祖父母に対する嘲笑だったのか、それとも自分自身に向けられたものだったのか、それを判別する事は雪也にはできなかった。ただ、それでも涼一の一面を少しだけ垣間見れたような気はした。 思えば一年も一緒にいて、雪也は涼一の家族の話など一度もまともに聞いた事がなかった。また、海が珍しいと言った涼一自身のことも。それはもしかすると、今まで雪也が接した事のない、感じた事のない、自分と涼一の数少ない共通点かもしれなかったのに。 「 親が言う事、時々ふざけんなって思う事はあっても、俺って爆発するような事って一回もなかったんだ」 雪也が思案しているところに涼一は視線を向けず更に続けた。 「 反抗期ってやつ? 俺はないな、一度も。いちいち言い返すのが面倒くさかったのかもしれないし。……反抗するほどむかついてなかったのかもしれないし」 「 ふうん」 「 雪もないだろ?」 「 え?」 「 反抗期」 「 ………」 「 あのお袋さんじゃな」 害のない言い方だったから、雪也は素直にその言葉を聞くことができた。少しだけ笑って見せて、それから自分もようやく前方の海へと視線をやった。車の通りもないせいか、そしてそれほど風も吹いていなかったせいか、波の音が直接耳の中へと響いてくるような気がした。 「 雪」 その時涼一が呼んだ。 「 ………?」 呼ぶだけ呼び、特に先を続けようとしない涼一を不審に思い、雪也が視線を向けると、そこにはもう当にこちらを向いているひどく静かな表情があった。 「 どうしたの?」 戸惑いながら訊くと、涼一はそんな雪也よりも困った顔をして少しだけ笑って見せた。それから何度か首を振り、「うーん」と一瞬何かを考えているような仕草を見せたが、やがて再び視線を上げて言ってきた。 「 つまりはさ。俺は雪が初めてなんだ。こんな…怒ったり、自分を抑えられなくてどうしようもなくなったり…死にそうに辛かったのって」 涼一はそう言ってから、再び困惑したように笑った。 「 今までの俺って何だったんだろうな。どうでも良かったのかもしれない。何か…何かさ。どうでもいいんだよ、雪以外はさ…。自分がこんなにガキだったなんて、今まで知らなかった」 「 涼一……」 「 あ…まあ、これは…反抗期ってのとは微妙に違うんだろうけど」 慌てたようになってそう付け足す涼一に、雪也は何だか不意におかしくなってくすりと笑った。 「 ……俺って涼一にとって親みたいなものだったの?」 「 バカ、だからそれとは違うって!」 「 でも涼一、俺に食事の支度とか掃除も洗濯も…全部やらせてた」 「 そ、それは雪があんまりそういう事がうまいから…!」 「 時々、涼一が嫌いな物が入った食事作ると駄々こねた」 「 そ…んな事あったか?」 「 うん」 「 ごめん」 涼一がいやに神妙な顔をして素直に謝るものだから、雪也はいよいよおかしくなり、声を立てて笑ってしまった。自分はそう言う涼一が、けれど嬉しそうに自分の作った物を食べる姿や、冗談めかして「雪はいい奥さんになる。俺がちゃんと貰ってやるから」と言っていた涼一の台詞の一つ一つが、実は嬉しかったのだと思った。 それを口に出す事はできなかったのだけれど。 「 雪…雪のそうやって笑う顔、何だか久しぶりに見た」 その時、不意に涼一がそう言ってきて、雪也ははっとなった。急に恥ずかしくなり、思わず口をつぐんで下を向いた…けれど、すぐに強引に顔を上げさせられた。 「 ……雪」 ふっと目線が交錯した瞬間、唇を重ねられた。目を閉じてその口づけを静かに受け入れると、途端に自分自身の心臓の鼓動がとくとくと波打つのが聞こえた。 涼一のキスはとても優しく、そして熱いと思った。 |
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家に帰り着いたのは、やはり深夜帯になってからだった。都心部に入ると予想以上の渋滞に捕まり、車も思うように前へ進む事ができなかったのだ。雪也はその車内で一度自宅に電話を入れたが、それが母に取られることはなかった。 けれど玄関のドアには鍵が掛けられていなかった。雪也は手にしていたキーを握ったまま開けっ放しのドアを開いて中に入った。 母の美奈子はリビングのソファに寄り掛かってテレビを見ていた。 「 あら、お帰り」 母は部屋の入口に立ち尽くし自分の方を見ている息子をちらとだけ見やり、別段驚いた風もなくそう言ってから再び明るいブラウン管の方へと視線を移した。録画でもしていたのだろうか、母は深夜にやっているとは思えないホームドラマを見ていて、そんなテレビ画面からは雪也でも見た事のある有名な役者たちがぞろ騒々しく何やら口争いをしている最中だった。しかしその喧嘩の様子も、話の展開から言えばそれほど深刻なものでもないのか、母は彼らの真剣な言い争いを実に面白そうに眺めていた。 「 ふふ、本当、バカなのよねえ」 そして母は時々画面の役者に向かってそんな事をつぶやきながら、その合間合間、テーブルに置かれた甘栗をぽんぽんと口に放り込んでいた。 けれどそのテーブル上には、その甘栗以外、酒の入ったグラスも酒瓶自体も置かれてはいなかった。 「 母さん」 雪也は手にしていた荷物を傍に起き、二、三歩歩みよってからようやく声を掛けた。ドラマのお陰で部屋が妙な沈黙になっていない事も、雪也に声を出しやすくさせていた。 「 何度か…電話したんだけど」 「 え? ああ、そう? じゃあ、お風呂に入っていた時かしらね」 「 ……予定繰り上げて帰ってきたんだよ」 「 何で」 母はきょとんとした顔を一瞬だけ雪也に見せ、それからまたドラマに引き寄せられたようになって画面の方へ顔を向けてしまった。そしてまた、楽しそうにくすりと笑う。 雪也はじりじりとした気持ちになりながらも努めて静かな口調で続けた。 「 何でって、母さんが早く帰って来いって言ったんじゃないか」 「 ええ…?」 よく聞こえていない、今は話しかけないで欲しいという態度がありありと感じられたが、それでも雪也は辛抱強く母に向かって話を振った。 「 母さんが…行ってもいいって言うから、行ったんだよ。電話だって毎日したのに」 「 何、いたかったのならいれば良かったじゃないの。別に母さん、駄目だなんて言ってないでしょ」 「 言ったよ…」 「 え、何? ちょっとごめん、今これ見てるから、話なら後にしてちょうだいよ」 「 帰って来いって言ったじゃないか」 「 あっはは! 見てあのクミコっての! やっぱりフラれちゃった。主人公の引き立て役にしたって性格悪過ぎだわよ、あれは」 「 ……母さん、俺の話聞いてる?」 「 あーあ、でもあの男と主人公の女じゃ、何だか出来すぎなのよねえ…。まあ結局、有名なの同士くっつけとかなきゃってところなのかしらね」 「 母さん」 「 え? あら、雪也。あんた何そんな所にいつまでも突っ立っているのよ。大体何よ、さっきから。人がテレビ見ている時くらい静かにしてなさいよね」 母のよく通る声が雪也の耳にキンと痛く響いた。 この数日間、自分が留守をしていた割には部屋の中はそれほど汚れていないと雪也は思った。正直、旅行に出る前は帰ってきた時の惨状を予想して、雪也もそれなりの覚悟をしていたのだ。自分がいなければ母は食事の支度にしろ何にしろ、それなりにやろうとはするのだろうが、「やってやりっぱなし」といった事になる可能性が高いと思っていた。食事も作ってそのまま、洗濯も洗濯機を動かしてそのまま、風呂は全自動だから良いかとも思ったが、きっと風呂掃除が面倒でシャワーで済ますのではないかと、そんな事まで心配していたのだ。 しかしリビングから見える範囲だけでもキッチンが汚れている形跡はないし、洗濯物もパジャマやトレーナーといったものが綺麗にたたまれ傍の棚に収まっているのが見えた。植木にも水がやられていたようだ。 「 どうしたのよ、ぼうっとして。甘栗食べる?」 母が雪也に声を掛けた。そう言っている間にも自分1人で食べ尽くしてしまいそうな勢いで、母は大入り袋に入っている甘栗を次々にほうばっていた。 「 あ、喉渇いた。お茶でも飲もう。あんたも飲む?」 そして母はいつもならば雪也に「淹れて」と言うところを自分でそう言うとすっくと立ち上がり、代わりに雪也の両肩を抑えて「だから突っ立ってないで座りなさいって」と言って無理やり座らせると、入れ替わり自分はキッチンへ向かった。ドラマは丁度終わりの方だったのか、画面からは明るく軽快なエンディング曲が流れ、キャストのテロップが流れるように映し出されていた。 「 それにしてもあんたもヘンな時間に帰ってきたわねえ。何時に出たの、向こうを」 「 ……昼過ぎ」 「 何時間もかかるところなんだから、帰ってくるなら早朝とかに出ないと。渋滞に捕まったんじゃないの」 「 うん」 「 車でしょ? その創君ってのも結局予定を繰り上げて一緒に帰ってきたの?」 「 ううん…涼一と…」 「 はあ?」 冷蔵庫を開ける音と、母の驚いたような素っ頓狂な声が同時に聞こえ、背後でそれを聞いていた雪也はソファの上でびくりと肩を揺らした。 しかし母はすぐに元の平静な声に戻ると不思議そうに後を続けた。 「 何、涼一君も一緒にいたの、その旅行」 「 うん」 「 あら、そうなの。じゃあ創君は何なの」 「 何って……」 意味が分からずに雪也は問い返していた。しかし立場はまるっきり逆転していた。訊きたいのは、雪也の方であったはずなのに。 「 だから。創君が新しい恋人なのかと思っていたから」 「 ……何言ってるの」 「 だってそう思うじゃないの。涼一君は、違うでしょ」 ぽんぽんとそう言ってから、母は雪也に言わせず更に続けた。 「 せっかく護ちゃんと再会したのに、あんたがあんまり会いに行こうとしないから何なのかなって思っていたら、その創って子の名前が出たでしょう? だからてっきりその子が今の雪也のブームなのかなって。旅行に行きたいまで言い出すし。そんな事初めてだったし。あ、あんたも緑茶でいい?」 冷蔵庫に入っていた緑茶をグラスに入れている音が聞こえた。コポコポと小気味の良い水の音と母の軽快な台詞が交じり合う。雪也は背後でそれを耳にしながら、ぎゅっと目をつむった。 母に旅行に言って思った事、気がついた事をきちんと話したいのにうまく言えない。せっかく酔っていない時の母なのに。 「 で、何で涼一君も一緒だったわけ。あのコの事だから勝手についてきちゃったとか」 「 ……何でそんな事言うの」 母の言葉にぎょっとなって、雪也は閉じていた目を開くと眉をひそめた。 「 ……母さん、何で涼一の事そんな風に……」 「 分かるの。母さん、ああいうタイプのことは詳しいの。私の前では良い子だけど、普段は絶対すっごい妬きもちやきでしょ。あんたの事縛るタイプよ。そうじゃない?」 「 ………」 「 あんたが他の子と仲良くしたら面白くないし、あんたが自分の事構ってくれないって分かると拗ねて意地悪して振り向かせようとするでしょ。……あんたって人が良いというか要領が悪いというかで、すぐそういうのに目をつけられちゃうのよね」 「 ……そんなんじゃないよ」 「 そうじゃないの。だから普段からもっと自己主張しなきゃ駄目よって言っているのよ」 「 ……違う。そうじゃなくて…涼一は…そんな奴じゃない」 膝をぎゅっと掴んで下を向いたまま、雪也は押し殺したようにそう言った。後ろから母の息遣いが聞こえた。雪也の反論に、少々驚いているような空気が伝わってきた。 しばしの沈黙。 「 ……そう? そうかしらね」 母はようやくそう言った。 「 でも、涼一君はやめときなさいよ」 そして続けざまぴしゃりと言い切った。 雪也の中で抑えていた気持ちが弾けた。 「 どうして」 一瞬目眩を感じたが、何とか両足に力をこめてその場に留まると、雪也は立ち上がった勢いで母の方へ振り返って言葉を出していた。 「 誰を好きになろうが俺の勝手だろ」 「 雪也?」 おかしい。振り返っているはずなのに。カウンター越しにグラスや瓶が置いてあるせいだろうか、母の顔がよく見えない。雪也はそんな事をぼんやりと思いながら、定まらない視点の中で見えるはずの母の姿を必死に追っていた。 「 涼一は…母さんとは違うよ。俺のこと見てくれて、一緒にいてくれるって言ってくれた。母さんみたいに逃げないで、ちゃんと俺とも向き合って自分とも向き合って…ちゃんと物を言える人だよ。母さんとは違うよ」 「 何よ、それ…」 恐怖のせいなのか、自分自身で勝手に焦っているせいなのか、雪也の視界はますますぼやけたものになり、自分がどうやって立ち、どうやって口を開いてどこを見ているのか、まるで分からなくなっていた。 ただ必死だった。 「 護のことだって…母さんはずるいよ。俺は護を好きだけど、とても大切だけど、母さんが1番の家族には違いなかったのに…それなのにあんな風にして…護にも迷惑かけて…。そんなんで俺が護にこれ以上甘えられるわけがないって分かっていただろ?」 「 母さんはね…あんたのことを想って護ちゃんにも……」 「 そうじゃない、いいよもうその事は…。そうじゃなくて…今言いたいのは…俺がちゃんと言いたいのは…」 「 ねえ、雪也。それであんたは涼一君の所に行くの?」 「 え?」 「 一緒に住むの?」 「 何言っているんだよ。俺が、俺が言いたいのは…」 「 そんなの……」 ふと、母がゆらりと動いてこちらに向かうのが雪也には見えた。 冷や汗が出ている身体を、依然目眩を感じる身体を必死に支えて、雪也はこちらを見やっている母を凝視した。 「 母さん…?」 「 そんなの、駄目だからね」 「 か……」 母が酔っていないなどと、どうしてそう思ったのだろうか。 テーブルの上に酒瓶がなかったから。いつもの晩酌用のグラスがなかったから。 ただそれだけだった。 母は酔っていても大抵割舌はしっかりしているし、顔色もそれほど変わりがない。酒の臭いにも気がつかなかった。時折酔い潰れた母を抱きかかえてベッドに寝かせる際、酒臭い息を吹きかけられて嫌な思いをする事があったが、普段はそれほど意に介する範囲で臭いわけではない。無理にソファに座らされた時にも何も違和感を抱きはしなかった。 けれど気がつくべきだったのだ。酒瓶がなくなるほどに飲んだのではないかとか。グラスは酔った勢いで割ってしまったのではないかとか。 「 まったく、帰ってきた早々不愉快にさせてくれるわよ…」 母はそう言いながらも何だか泣き出しそうな顔をしていた。その表情を見て、ああ、やっぱりこの人は自分をずっと待っていたのだなと雪也は思った。 刃の鋭い包丁を手にこちらを向いている母の姿は、ひどく小さく弱々しいものに見えた。 |
To be continued… |