子供の頃からよく殴られていた。
「 何であんたってば、そうなのかしらねえ!」
  何が気に食わないのか、母の美奈子は酔いのひどい時は必ず雪也に絡み、そして手をあげた。それがエスカレートすると足が出る事もしばしばだった。
「 痛い…ッ」
  うずくまって丸くなり、身体を庇うようにして微かに懇願の声を漏らしても、母からの反応は皆無だった。狙ったように下腹部の同じ場所に鈍い衝撃が走る。そんな時、雪也はただ低くうめくしかなかった。薄っすらと開いた視界の先には、恐ろしい形相で自分を睨みつけ、意味不明な言葉を吐きながらめちゃくちゃに暴れまくる母の姿があった。
 
  ヤメテ、ヤメテ。
 
  声にならない声で何度も叫ぶが、それが届いたと思う事は一度もなかった。実際、暴力が途中で止んだ夜というのも一度もなかった。
「 雪也…水。水ちょうだい」
  そしてそんな風に荒れた日の翌朝、母は決まって気分が悪そうだった。
「 頭痛い…。苦しい。どうしよう、雪也…早く水ぅ…」
  母は大袈裟にそんな事を言いながら、頭を抱えて息子である雪也に甘えた声を出した。昨夜自分がした事は何も覚えていないのか、それともただとぼけているのか、母はいつもと同じ、もしくはそれ以上の態度で息子である雪也に縋り、そして介抱してもらいたがるのだった。


  (34)



「 母さん…何を…」
  包丁を手にした母・美奈子を前に、雪也はただ茫然として掠れた声を出した。
  焦点の定まらない目、わなわなと震える身体、そしてそんな母の手元にはキラリと光る鋭利な刃物が握られ、それは真っ直ぐこちらに向けられていた。咄嗟に、本気だろうかという思いが頭をよぎった。暴れられたり足蹴にされたり、時には近くにあった物を闇雲に投げつけられた事ならこれまでにも何度かあった。
  けれど「殺される」と思った事はなかった。
  自分が母を必要としているのと同じように、母も自分を必要としている。その思いは雪也にとって願望ではなく、半ば確信に近いものだった。だからどんなに傷つけられても、どんなに憎まれても、心のどこかではそれは全て「違う」のだという思いがあった。
  こんな事は全部嘘だと。
「 どうして……」
  だから母の悲壮感漂う顔、向けられた刃先、全てが嘘っぽく冗談にしか見えなかった。否、冗談だと信じたかった。
  けれどそれでも、嘘だと思ってはいても、驚きからかその場を動く事はできなかった。
「 何しているの、母さん…」
  声を出さない母に再度雪也は声をかけた。身体が固まっている代わりに声は割と続けて出す事ができた。何かしていないと、声くらい掛けていないと、このままでは自分と母の関係は本当に終わってしまうと思った。
「 それ…離してよ…」
  母の手にした包丁に目をやりながら雪也は言った。怯えた声にはならなかった。ただやはり心の内に止めている震えは、今にも外に飛び出てしまいそうではあった。
「 駄目よ」
  その時、ようやく母が口を開いた。
「 これ離したら、あんたは何処かへ行っちゃうんでしょう? あたしの事、置いて行っちゃうんでしょう?」
「 そんな事……」
「 ここまで育ててあげたのに、こんなに愛してあげたのに、その恩も忘れてあんたはどっかへ行っちゃうのよ。自分を好いてくれる男のところへ行っちゃうのよ。そうでしょ? あたしを1人ぼっちにしてどっかへ行っちゃうのよね…。あんたのお父さんと一緒」
「 母さん…」
  雪也は母を呼んだきり、後の言葉をどう繋いで良いか分からなくなってしまった。内から篭もる居た堪れない感情に押し潰されそうになった。

  どうしようもない気持ち。

  ここまで育ててあげたのに、とか。
  あんたを愛している、とか。
  今まで一体何回聞いた言葉か分からない。素面の時でも母はよくそういった事を言った。「1人で大きくなった顔しないで」とか、「老後は必ず面倒見なさいよ」とか。「可愛い一人息子のためなら」という台詞もあったかもしれない。それはいつも安物の酒を買うように気楽に母の唇から漏れ出た。だから雪也はいつしかそう言った声をただ聞き流し、実感のこもらないただの「音」としてしか捕らえなくなってしまっていた。どこかで本当の言葉を待っているくせに、それを本気で欲する事すら忘れてしまった。求める事をしなくなった。いつしか自分が何を1番欲しているのかも、分からなくなっていた。
  それでも母の声だけは聞こえていて。
「 あんたなんて産まなきゃ良かった」
  じりと間合いを詰めて、母は包丁を向けたまま雪也にそう言った。
「 こんなに苦しい思いばっかりして、あたしは後悔ばっかりしてきた」
  雪也が黙っていると、母の美奈子はますます血走った目をして口の端を皮肉っぽく上げた。
「 あんたのその惨めったらしい顔を見る度に、不幸そうな顔を見る度に、あたしは自分ばっかり、自分ばっかり…責められているって感じがしてしょうがなかったんだよ。情けなくて自分が嫌になったんだ。どんどん腹が立ってね。どんどん堪らなくなったんだ。そういう気持ち、あんた考えた事ある? 母さんのそういう気持ち、考えた事あるの? 自分ばっかり不幸そうな顔はやめて!」

  自分ばっかりカワイソウって面にも……

  涼一にも言われたっけ。
  そんな事を思い出している場合ではないはずなのに、雪也は咄嗟にそんな事を心の中で思った。あれはいつだったか。急に涼一に呼び出されて、「お前とはこれっきり」と言い渡された夜だった。自分ばかりカワイソウって面はやめろ、お前のそんな態度にいい加減イライラしていたのだと、涼一はそう言った。涼一はあんなに自分の事を好いてくれていたのに、それに応えようとしていなかった自分。涼一とも自分自身とも向き合わず、何をも感じていないように、想いを全部仕舞いこんでただ生きていた。そうして、知らず知らずのうちに涼一を傷つけていた。
  それは母に対しても同じだったのだろうと思う。
「 何を黙っているの。何か言いなよ、何か言い返してみなさい! そうやってうじうじ考え込むのはやめな! 男でしょう、何度も言わせるんじゃあない!」
「 ………」
「 それであの男の所に逃げ込んでハイおしまいって、そんな事許さないよ! そんなムシの良い話があるもんか!」
  唾を飛ばし、髪の毛を振り乱して母はそう叫んだ。ゼエゼエと息をつき、届かない範囲ながら手にしていた包丁を一二度、初めて振り回した。
  それによって発生した風が空を切って雪也の前髪を軽く飛ばした。
  雪也はそんな母の所作をただ黙って見つめた。母の一つ一つの言葉が胸に染み込んできた。いつの間にかとても静かな気持ちになっていた。
「 ……だからって俺は謝らない」
  だから。
  そんな言葉が自分の口から漏れるなんて考えてもみなかった。
「 俺、母さんに謝らない。母さんがどんなに傷ついていたって…俺が母さんにとってどんなに悪い息子だったとしたって…俺は、絶対謝らないから…」
「 ………そう言うの」
  ぴくりと肩先を揺らし、母は低い声でつぶやくように雪也に言った。別段雪也の台詞に驚いたような様子は見られなかった。
「 男の子でしょうって、母さんはすぐそう言った。そればっかり言った。でもそんなの関係ない…それが何なんだっていつも思ってた。母さんは俺を叱ったりバカにしたりするくせに、都合の良い時だけ俺を誉めて…女の格好だって無理やりさせた。俺は嫌だったのに、母さんは何回もさせた。俺の事なんか構わないで…好きな人の事ばかりで…。母さんはすぐに何処かへ行って、家じゃいつも1人で…嫌だったんだ。置いていかれていたのは俺だって、いつも思ってた。俺が情けないって…俺が駄目な息子だって言うんなら…だったら母さんは、母さんのくせに…ちっとも俺を愛してくれなかったじゃないか」
「 ……よくも…そんな事を……」
「 でも俺は」
  ぎりと唇を噛む母には構わず、雪也は真っ直ぐな視線を向けて言った。
  ずっと言いたかった言葉。
「 それでも俺は…それでも、俺は母さんの事がすごく好きだったんだ」
「 う…嘘言わないで!」
  けれど雪也が言った瞬間、ヒステリックに母の美奈子はそう叫び声を上げた。包丁を振り上げ、そうして今までで1番殺気立った表情を閃かせた。
「 母さんを好きだって!? お前が!? よくもそんな白々しい…バカみたいな事を言う!  そうか、殺されるのが怖いからそう言うのか! これから新しい男と幸せになろうって時に刺されて死にたくないから口からでまかせを言うのか! そうなのか! そうなんだろう!」
「 違う」
「 煩いよ! この親不孝者! お前なんか、お前なんか…!」
「 母さんが俺を嫌いでも…俺は、母さんに傍にいて欲しかったんだ」
「 ううぅ〜! 煩い煩い! 黙りなさい、雪也!」
  何かの糸が切れたように、母・美奈子は刃物を振り回し聞き取りにくいうめき声をあげながら雪也に向かってきた。しかしその場から一歩も動かずにいた雪也の身体にその刃先が当たる事はなかった。肩先を掠め、衣服に少し触れた感触はしたが、母の攻撃は全て空回りしていた。
「 あたしはね…ただ幸せになりたかっただけなのよ!」
  涙声になりながら母は必死な様子で雪也に向かってそう言った。
「 お前の父さんに捨てられて、色々な男に捨てられて! あたしは! ただ! 誰かにいて欲しかっただけなの! 誰かといたかっただけなの! 小さいお前を抱えて、不安だったんだ。お前はいつもぐずぐずして…冴木の家に甘え放題で、あたしが仕事で疲れて帰った時も護ちゃんたちと楽しそうにやっていた。お前はいつだってあたしを置いてきぼりにしていたんだよ」
「 ………母さん」
「 お前なんかどうせそのうちどっかへ行っちゃうんだよ。どんなに大切に育てたって、どっかへ行っちゃう。お前の為に頑張ったあたしを置いて、どっかへ行っちゃうくせに、あたしが幸せになる為に何かしようとすると、お前は独りぼっちだって泣くのか? 勝手な事を言うんじゃないよ!」
「 行かないよ……」
  泣いている母を見ていると、先刻まで泣き出したい想いだった自分の気持ちは一方でどんどんと冷めていった。ようやくの思いで一歩足を前に出すと、反対に母は包丁の刃先は向けながらも一歩後退した。
「 傍にいて欲しかっただって…? 嘘ばっかり…あんなに…殴ったのに…」
「 それ…渡して…」
  雪也はそっと手を差し出して母が握る包丁を暗に指し示した。母は更に一歩後退した。
「 あたしの男のせいでお前は…あんな目にだって遭ったんだ」
「 母さん…渡してよ」
「 護ちゃんとだって引き離した…。あた…あたしは…取られたくなかった…から…」
「 母さん…渡し…」
「 お前を…取られたくなかったから…」
「 母さ……」
「 取られたくなかったから!」
  その時、母は何かに押されるように刃を雪也に向かって突き出していた。雪也が動いた事に反射的に手が反応を返したのかもしれなかった。
「 あ……ッ!」
「 きゃあああっ!」
  母の美奈子は自分自身が動かした手の動き、我が子に向かって突き出した包丁に自身で叫び声をあげていた。雪也も逃げ出す事ができなかった。ただ向かってくる光るものだけが視界に映って。
  母の引き裂かれそうな叫び声だけが聞こえて。

  それでも「刺さる」と思ったその瞬間は思わず目を閉じていた。そして次に感じるだろう、刃物が自らの肉に突き刺さる痛みを想像して雪也はぎゅっと身体に力を込めた。
  その痛みはいつまで経っても襲ってはこなかったのだが。

「 あ……」
「 ああ…あああああ!」
  壊れたような母の声と、不意に被さった黒い影に雪也は目を見開いて絶句した。
「 ………ッ」
  一瞬、目の前にいる母の顔も見えなかった。その影はとても大きくて自分をすっぽり隠してしまうほど広い背中をしていたから。
「 何…してんですか…!」
  茫然としてしまったのは一体どれくらいの間だったのか。
  その影の声が言った。怒りのこもった低い声で。
「 あんたが刺したいのは…こいつじゃないだろ…!」
「 涼…一……」
  ようやっとその名前を呼ぶと、涼一はちらと振り返って雪也を見つめ、「ごめん」と一言謝った。そして美奈子から弾き落とした包丁を拾うと不意に苦しそうに顔を歪めた。はっとして涼一が抑えた腕を見ると、そこから赤い血がじくじくと流れ出しているのが衣服ごしに見えた。
「 りょ…! 涼一…ッ!」
  美奈子が差し出す包丁から雪也を庇おうとして、涼一は自らの左腕を刃先に晒してしまったのだった。みるみるうちに衣服は血で滲み、涼一の顔色もさっと蒼褪めていく。雪也は思わず涼一のその肩先に手を伸ばし、恐る恐るそれに触れようとして自分も顔色を失った。
「 涼一…涼一…ッ」
「 大丈夫だよ…掠っただけだから…」
  涼一は無理に笑って見せてから「ごめんな」ともう一度謝った。車で家の前まで送ったはいいが、この先は自分だけで良いという雪也がどうしても心配で、帰る事ができなかったのだと涼一は言った。そして涼一は、自分はきっといてはいけないのだろうと頭では分かっていたのだが、それでも傍にいたかったのだと雪也に告げた。
「 俺…勝手だからさ…。お前のお袋さんと一緒で…」
「 涼一……」
  雪也はそんな涼一の台詞にふっと力の抜ける思いがして、不意にぽろりと涙をこぼした。堪えていたものがざっと流れ出てきた感じだった。それからゆっくりと母の美奈子へ視線を向けた。
  母はげっそりとやつれたような顔をして、ただその場に立ち尽くしていた。座り込まないのが不思議なほどに、その場に佇み動かなかった。
  雪也はそんな母の前に歩み寄り、言った。
「 母さん…母さんが嫌だって言っても…」
  そっと手を取った。先刻まで刃物を握っていたその手は妙に汗ばんでいて、じめじめとしていた。
  そしてとても熱かった。
「 俺は…俺も勝手だから…母さんがどう言っても俺は涼一と一緒にいるし…。俺は…謝らない。…好きにやるよ。好きに生きる。それに……だから……」
  そうして雪也は一拍置き、ハアと息を吐いてから言った。
「 母さんの老後は…俺が見るからね」
  びくりと母の身体が震えるのが見えた。
「 母さんがこの先どんな人と一緒になっても…」
  この期に及んでそんな事しか言えない自分。でも不意に思い浮かんだ言葉はそれだけで。雪也はそれからじっと美奈子を見つめ、それから涼一を振り返り見た。
  涼一は雪也の言葉に半ば呆れたような苦笑を閃かせていたが、しかし何も言わなかった。ただ雪也を見つめるその目はとても優しいものだった。
「 う…う、う…う、う……」
  やがて母はその場に座り込んで、小さな子供のようにひくひくと泣き出した。顔を覆ってただ小さくうめくように泣き続けた。


*


「 本当に病院に行かなくて平気…?」

  母を寝室に寝かしつけてから雪也はリビングのソファに涼一を座らせて怪我の手当てをしながら言った。手当てと言っても自宅で出来る処置など簡単な範囲を出ないし、やはり不安だった。けれどそんな雪也に涼一は明るい笑顔を見せて頷いた。
「 平気だって。掠っただけじゃん。こんな怪我、外で遊んでいたらしょっちゅうする」
「 嘘」
  わざとらしい軽口に眉をひそめながら、けれど一方で雪也はそんな涼一の優しい気持ちがただ嬉しかった。だから精一杯自分も笑って見せて、包帯の上から傷口にそっと触れ、「ごめん…」と謝った。
「 あれ、もう謝らないんじゃなかったの」
  すると涼一はやや抗議めいた口調でそう言った。雪也が怪訝な顔をすると、涼一は目を細めておかしそうに笑った。
「 言ってただろ。もう謝らないって」
「 あれは母さんに…」
「 俺にもやめろよ」
  ぴしゃりと言って、涼一は自分の腕に触れている雪也の手に自分の手の平を重ねた。
「 あれ…あの言葉はさ…きっと言って良かったと思う。俺は…その、まだ本当にお前とお前のお袋さんの事分かっているってわけじゃないんだろうけど…。でも、あれはきっと嬉しかったと思う。俺なら嬉しい」
「 嬉しい…?」
「 うん。すげえ嬉しい」
  涼一は尚もにっこりと笑って、それから傷ついた方の腕を厭いもせずにがばりと動かすと、ソファに座る自分の足元に座り込んでいた雪也の事を力任せに抱きしめてきた。
「 ちょ…涼一…?」
「 でも…さっきは本当怖かった」
「 あ……」
「 死ぬかと思った」
「 ごめ…あ……」
  謝るなと言われたばかりだったのでどうしたものかと躊躇していると、涼一は先を見越したようにもう一度微笑んで首を横に振った。
「 俺が怪我した事じゃない。雪が誤って刺されたらどうしようって、もうあの瞬間パニックだよ。頭真っ白になった」
「 え…?」
「 寿命縮んだ」
  その台詞の後、更にぎゅっと力強く背中を捕まれて、雪也は涼一の顔を戸惑ったように見上げた。
  瞬間、はっとなる。
「 ………涼一」
「 あー…悪い。俺…本当、気、小さいからさ」
  その時の驚きが蘇ったのだろうか、涼一はやや蒼白になりながらとても苦しそうな顔をしていた。そんな恋人の顔を見つめ、雪也自身も麻痺していた恐怖ではない別の感覚が浮かび上がるのを感じた。母に殺される事が怖かったのではない、母のあの追い詰められた顔を見るのが雪也にはただ辛かったのだ。
  けれど雪也はその不安だった気持ちを再び内に抑え込むと、翳りのある表情を見せた涼一に自分から縋りつき、その腕に唇を当てた。
「 雪…?」
  涼一の驚いた声が聞こえた。雪也は答えず、ただ目をつむったまま涼一に寄り添った。それで涼一も静かになり、しんと静まった部屋の中でただ雪也の事を抱きしめ続けた。
  夜明けまではまだしばらくあった。けれど2人にとってそれは苦痛な時間にはなりえなかった。



To be continued…



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