(35)



  七月。
  今年は梅雨明けも早く、今日は例年にない夏の陽気だと朝のラジオが言っていた。
「 雪! ごめん、遅れた!」
  以前からそこにあったらしい小さな珈琲専門店。樹木の香りを感じさせる店内には観葉植物や淡い色彩の絵画が控えめに飾られている。入口からすぐのカウンター越しに見える陳列棚からは、色取り取りの陶器が行儀良く並べられており、客はその中から気に入ったカップを選んでコーヒーを淹れてもらう事ができた。
  雪也はその店の窓際の席に座り、自分が選んだコーヒーカップからたゆたう煙を何となく眺めていた。テーブルの上には一応現在行われている前期の試験対策ノートが開かれていたが、それに目を落とす気にはどうにもなれなかった。
  客は雪也1人。静かな音楽が店内を満たしていて、何となく夢見心地になる。
「 雪、ホント悪い! 待ったか?」
「 あ…」
  だから慌てたようにそう言って店に駆け込んできた護に、雪也は多少意表をつかれたようになった。それでもすぐに気を取り戻して首を横に振ると、大して待ってはいない事を示すようにおっとりと笑んで見せた。
  護の在籍する大学はこの店からすぐ近くにある。彼もここの若い女主人とは顔見知りであるようだった。グラスを磨く彼女に気軽な挨拶を交わしてから、護は雪也のいる席に腰を下ろした。
「 うわ、もうこんな時間か。本当ごめん。大分待っただろう?」
「 全然」
  雪也は過ぎるほどに申し訳なさそうな顔をする護が何だかおかしくて、目を細めてもう一度笑って見せた。
「 こっちこそごめん。護、今大変だもんね。忙しいんでしょ?」
「 はは…まあ、うちの先生は変わり者だから相手するのは大変だけどな。けど、本当はあっちへ行っちゃえばどうとでもなるところもあるんだけど」
「 アメリカ行くの…何日だっけ?」
「 明後日」
  そう言ってから、護はようやく呼吸が整ってきたのだろう、ふうと大きく息を吐いた。恐らくここまで来るのに全力で走ってきたに違いなかった。
「 あの人は資料だ何だ、全部俺任せだからさ。助手使わないで俺ばっかりこき使うんだから。上にいったら益々大変になりそう」
「 そうなんだ」
「 まったく、子供みたいな人だよ。俺は世話係ばっかり」
  そう言いつつも、護の顔はそうしている事が何だかとても楽しいと訴えているように見えた。それから雪也に向かって「土産、何がいい?」と気さくに訊ね、すかさず「あ、何でもいいなんて言うなよ?」と先読みしたようにいたずらっぽい視線を向けた。
  護が大学でしている研究とやらがどんなものなのか、何度説明してもらっても雪也にはよく理解する事ができなかった。けれど護はその研究を極める為に来年は大学院に進むようで、この頃はずっと忙しそうだった。また、この夏は師事していた教授と共に、以前留学していた先の大学で、懇意にしている共同研究スタッフとの勉強会に参加するのだと言う。護は夏が終わる頃には帰ってくると軽く言っているが、この調子ではいつ戻ってくるか分からないなと雪也は何となく思った。
「 雪はもうすぐ夏休みだろ? でもそのノート見る限りじゃ、今試験中?」
「 うん。前半サボっていたから、ちょっと怖い」
「 ははは…。ゴールデンウイーク明けからは真面目にやってたんだから、大丈夫さ」
  優しい口調で護はそう言って励ます。それから少しだけからかうような目をして続けた。
「 涼一は助けてくれないの? 殆ど同じ講義履修しているだろ?」
「 うん。この後一緒に勉強する約束している」
「 あー…何だ。やっぱりそうなんだ」
  雪也の少しだけ言いよどみながらもそう言った台詞に護はただ苦笑したのだが、その時コーヒーを運んできた女店主には「残念」と、何やら含みのあるような顔で囁きかけた。雪也が怪訝な顔をして首をかしげると、護は再び楽しそうな笑顔を閃かせて冗談口調で言った。
「 雪に会うの久しぶりだからさ。俺が教えてやろうと思ってたのに」
「 え…そうなの?」
「 うん」
  護は優しく微笑したままどこかとぼけた顔でそう答えたのだが、テーブルに置かれたコーヒーを口にやってから、「怒られついでに」とつぶやいた。
「 え? …何?」
  雪也が不審な顔で問い質すと護はすぐに口を割った。
「 ふ…この間、涼一に怒られたばっかりだからさ。『俺の知らない所で雪と2人っきりで会うな! 会うなら俺を介して会え!』 だからな。それでまた喧嘩」
「 え…知らなかった」
「 そうだろうとも」
  わざと眉をひそめて困ったような顔をした護は、けれどそれを真に受けて心配そうにしている雪也を見るとすぐに声を立てて笑った。
「 まあ、でも。今日俺が雪と会うって知っているのに、お前について来なかったのは偉い。だからな…雪も少しずつでいいから、あいつを教育していけよ」
「 きょ、教育って…」
「 ああ、そう言えば美奈子おばさんからも電話貰ったよ」
  戸惑う雪也には構わず護は平然と話題を変え、思い出したようにそう言った。
「 あの人もまた涼一と喧嘩したんだな。文句言うやら俺に当たるやらで散々だった。俺が外国行くだ、研究が忙しいだ言っているから、雪をあんなのに取られるんだって息巻いてさ。一方的に喋って、一方的に電話切るし。それでいて、土産もしっかり頼まれた」
「 そ、そうなんだ…。あ、ありがと…愚痴聞いてくれて」
  雪也の言葉に護は特に声を返さなかったが、代わりにいつも以上の優しい笑みを向けた。それから護はすっと視線を窓の外へやってから目を細めた。
「 もう夏だな…。雪は休み、何か計画あるのか?」
「 あ…うん。涼一と…連休の時に知り合った創の叔父さんたちに会いに行くんだ。……母さんは新しい恋人とハワイに行くって言っているし」
「 そうか。良かった」
「 ………」
  あっさりと、けれど重みのある口調でそう言う護に、雪也はしばし沈黙してただ視線を向けた。
  静かな店内。
  心地よい音楽が2人の耳に流れ込んでくる。窓から差し込む光も温かい。
「 あの…護」
  しばらくして雪也はようやく思い立ったようになって口を開いた。
「 ん…?」
「 ずっと言いたかったんだ。その…ありがとうって」
「 何だよ急に」
  改まったような雪也に心底意表をつかれたようになり、護は困ったように笑った。けれど雪也はそれで逆にどんどん何かに背中を押されるような気持ちになった。
「 うまく言えない…俺、バカだな。今日会ったらこれ言おうあれ言おうって決めていたのに…でも…」
「 うん。うまく言えないなら、言える時に言えばいいさ」
  護の相変わらず全てを受け入れるかのような台詞に、けれど雪也はゆっくりと首を振った。
「 ううん…。でも、これだけは…。俺、うまく言えないけど…けど、護は、俺の家族だから」
「 ん……」
「 すごく安心なんだ。護がいてくれるっていうだけで。だけど…だから、俺、護に心配かけないようにするから。だから護も安心して、好きな事しに行って」
「 心配させろよ」
  可笑しそうにそう言って、護はけれど次には心底嬉しそうに笑った。それから不意に上体を乗り出すと、雪也の腕をさっと取り、驚く相手には構わず手首につけられている時計―涼一から雪也に贈られた物―を、コツンと指でつついた。
「 俺はな、いつだって雪が心配なんだよ。雪がちゃんとしてようがしてまいがさ。それに、これをお前にやった奴がまた心配だしな。でも…だからって俺は、自分の好きな事は好きな事で、ちゃあんとやるよ」
「 護……」
「 家族ってそういうものかも」
  そして護は再び笑い、「土産、楽しみにしてろな」と軽快な口調で言った。


*


  レンタルビデオショップ「淦」の本日のBGMは、那智が店番をしているというのが瞬時に分かる、ディズニーアニメ「美女と野獣」のテーマソングだった。暑い日和に多少似つかわしくないと思われる重厚でメルヘンチックな音楽がゆったりとしたテンポで店内を満たしている。雪也は、これはこれで嫌いな雰囲気ではないなと思った。
  しかし、那智がいると思われたカウンター越しに居座って本を読んでいたのは創だった。雪也はそれで多少度肝を抜かれた気持ちになったのだが、未だこちらに顔を向けない創に近づくとすぐに声を掛けた。
「 こんちは」
「 ……ああ」
  創は未だ本から目を離さなかったが、雪也に返事をすると「姉さん!」と奥にいるらしい那智に声を掛けた。那智はなかなか出てこなかったが、雪也は彼女がいるだろう店内の奥には一瞬だけ目を向け、後は再び傍の創に視線を落とした。
「 どうしたの、珍しいね。こういうの流しているの」
「 気分」
  創は再び素っ気無くそう答えてから、ようやくぱたんと本を閉じた。それから「うーん」と何事か考え込むような声を出した。
「 何?」
  雪也が訊くと、創は顎だけでそんな相手に椅子を勧めてから、再び「うーん」と唸って閉じた本の表紙を指差した。
「 どうにもこうにも、久しぶりに感動したね」
「 本?」
「 そう」
「 どんな本?」
「 話していいの?」
「 う……」
  乗り出したようにそう言った創に雪也が困ったように固まると、創は見越したような目をしてからふんと鼻を鳴らした。つい先日、創が「久しぶりに感動した」という映画を雪也は軽い気持ちでどんな内容だったのかと訊ねたのだが、その時は数時間店内に拘束されて、その日一緒に食事をする約束をしていた涼一をひどく怒らせたという事があったのだった。無論、創も後に涼一にえらく怒鳴られたようだったが、この時はお互いがあの時の事を瞬時に思い出したようだった。
「 まあ、俺は彼に何を言われようと一向に構わないんだけどね。今日は先手を打たれているから仕方ない」
「 先手?」
「 そう。護さんと会う後に君は絶対店に寄るだろうから、5分で帰せって。電話があってねえ。那智姉さんが取ったもんだから…姉さんかなり怯えていたよ。言う事を守らないと自分が剣君に叱られると言って」
「 そんな…」
「 そういうわけで、すぐに選んであげるよ。映画、借りたいんだろ?」
「 あ、うん。今日は涼一と観るから」
「 ふーん。あの人も君と一緒におとなしく映画を観るようになった?」
「 も、元々そういう奴なんだよ」
「 そう」
  まるで信用していないという風に創は軽く声を返したが、すっと立ち上がると雪也を置いて一人陳列棚の方へと歩いて行った。雪也はそんな創の背中を追ってから、不意に奥の方でした物音にはっとして再び視線を前方へ向けた。
  ガチャリとドアが開き、奥からはうさぎが飛び出してきた。創の声で雪也が来た事は知っていたのだろう、だっと駆けてくるとそのまま雪也の傍に寄り、物言いたげな大きな瞳をじっと真っ直ぐに向けてきた。
「 どうしたの、ヒロト」
「 ………」
  まだそれほど口数は多くない。それでも随分変わったな、と心の中だけで思う。
  うさぎは、今ではどこからどう見てもすっかり「男の子」だった。あの長く結わえられていた黒い髪の毛は肩に届かないほどにばっさりと切られ、ただ「白」という印象しかなかった服装は、今はまるきり正反対に真っ黒なシャツ、真っ黒な長ズボンという格好へと様変わりしていた。雪也が知る限り、うさぎはここ数週間ほど黒い服しか着ていない。創に聞くでもなく、本人に聞くでもなく、近所がしていた噂で二条の家の事情は雪也も何となく知っていた。うさぎの母親の心の病気は思ったよりも重く、今は入院していること。それと同時にうさぎは女の子の格好をやめたこと。そして、時々ではあるが、気が向くと学校に行くようになったことなど。
  そんな中で、何故うさぎが好んで黒い服を着るのか、雪也には何となく分かるような気がしていた。
「 それ、可愛いね」
  雪也がうさぎのシャツの襟元を正してやりながらその格好を誉めると、うさぎは少しだけ柔らかな表情をして見せた。それからぎゅっと雪也に抱きつき、続いてドアから那智がやってくるとさっと離れて、今度は創の方へ駆けて行った。
「 ヒ、ヒロト君…」
  那智はうさぎの後をハアハアと息を切らせながら追いかけてきたようだったが、雪也の存在に気づくと憔悴しながらも何とか笑って挨拶してきた。
「 ああ…桐野さん、いらっしゃい」
「 こんにちは、那智さん」
「 はあ…ヒロト君、すばしっこくて。私が作ったパンケーキを全部1人でたいらげてしまって…。お腹壊すって言っているのに、走りながら全部食べちゃって…はあ。すごい…」
「 姉さんがとろい。少しは外に出て運動しないとね」
  これにはすかさず創が声を挟んだ。旅行から戻ってきてからこっち、創は以前よりも更に従姉に対して厳しくなったのではないかと雪也は思っていた。
「 わ、分かっているよ…!」
  けれど反面、那智も大分言い返せるようにはなってきているようだ。また、彼女も最近では涼一ともたくさんの話ができるようになっているらしかった。那智は「剣さんが合わせてくれている」などと言っているが。
「 姉さん、言っておくけどね。夏休みの爺さん家へ行く計画に、姉さんの運転はまた入っているからね」
「 えっ!!」
  創はすっとぼけた顔でそう言いながら、唖然とする那智や自分にまとわりつくうさぎには構わず、棚からすっと取り出したビデオのケースを雪也に見せた。そうして「これにしなよ」と言って再びカウンターに戻り、それをそのまま雪也に渡した。
「 今日はサービス」
「 え? いいの?」
「 お茶、飲んで行く?」
「 だ…! 駄目よ、創! 今日は剣さんが桐野さんを5分で帰せって…!」
「 そんなの桐野君の勝手だろ」
「 で、でも…!」
「 どうする?」
「 うん…。でも、今日は帰るよ」
「 ああ、そう」
  その答えは予想していたのか、創はあっさりそう言ってから、未だ自分に縋りつくうさぎに視線を落として諌めるように言った。
「 そう睨むな。本当に望む事ならお前も口に出して言えよ」
  そう言う創のジーンズをぎゅっと掴んだまま、うさぎはじっと沈黙したきり微動だにしなかった。雪也が怪訝な顔をしてそんな2人を交互に見やっていると、やがて創が皮肉っぽい笑顔を閃かせて言った。
「 こいつはね、君に帰って欲しくないんだよ」
「 え…?」
「 今日も何回も電話掛けたもんな」
「 電話?」
「 創! うるさい!」
「 ああ、そうかい」
「 電話って…?」
  雪也が聞くと、うさぎはぎろっと大きな目を一瞬だけ向けると、後は傍で未だ息を切らせている那智を突き飛ばして、そのまま部屋の奥へと行ってしまった。
「 ヒロト…どうしたの?」
  雪也が訊ねると創はしらっとして答えた。
「 前、那智姉さんが話したんじゃなかったっけ? あいつって話したいと思った相手にはイタ電するんだよな。今日、また君の家にしたらしいよ」
「 え…?」
「 モテる人は辛いね」
「 そ、そうなんだ。知らなかった…今日は家にいなかったから」
  雪也がもう姿の見えなくなってしまったうさぎを追うようにドアの方へと目をやっていると、そんな姿をじっと見ていた創は少しだけ嬉しそうに口の端を上げた。
「 まあ、そういうわけだよ。だから時々はあいつとも遊んでやってくれよな。勿論、俺や那智姉さんとも」
「 あ、遊ぶって…」
「 ああ、そうしてくれたら、代わりに時々は俺も剣君と遊んであげるから」
「 え…ええ…?」
「 そうすれば君も随分楽じゃない?」
「 は…」
  創の言いようがおかしくて雪也は思わず噴き出してしまった。すると続いて創も楽しそうに笑った。うさぎに突き飛ばされ、尻餅をついてしまっていた那智はそんな2人を見上げながら不思議そうな顔をしていたが、やがて自分も控えめにくすりと笑った。
  それから軽く夏の計画の話をして。借りたビデオを抱えて。創や那智に「それじゃ、また」と挨拶をして。
  雪也はレンタルビデオショップ「淦」を後にした。
  涼一との約束の時間までには余裕を持って家に帰り着けそうだった。


*


  玄関のドアを開いて中に入るなり、雪也はどたどたと階段を駆け下りてくる母の美奈子と遭遇した。相変わらずの派手な化粧、衣服に身を包んでいる。
「 あら、お帰り!」
  そんな母は息子である雪也の顔を一瞬だけちらと見た後、靴箱をバタンと開け、「あーどれも汚いッ!」と不満そうに叫んだ。それからたくさんあるうちの一つを選ぶと当然のように雪也の目の前に突き出し、「今すぐ磨いて!」と言い捨てて、自分はそのままトイレに駆け込んでしまった。
「 磨いてって…」
  雪也はハアとため息をついたものの、すぐに慣れた手つきでその場に屈むと、これからデートであろう母の為にバラの飾りがついたヒールの高い靴を丁寧にごしごしと磨いた。
「 今日、遅いから! 帰り遅いから! でも帰るから!」
  身支度を完璧に整えた母・美奈子は、まるで小さい子供に言い聞かせるようにそう言った。そうしてマニキュアの塗られた人差し指の爪先を雪也の鼻先に押し付けんばかりの勢いでぴっと差し出し、言い放った。
「 ちゃんと電話もするからね! あの男を泊めちゃ駄目だからね!」
「 涼一、今日泊まるって言ってるんだけど…」
  雪也が恐る恐る言うと、母は思い切りむっとしたようになって声を荒げた。
「 あの男は! あたしが今日デートだって知っているのよね! だから狙ったように来るわけよ。雪也もねえ、試験勉強くらい自分の力でやりなさいよ。そんな事で調子に乗られたら堪らないでしょうが」
「 ……時間に遅れるよ?」
「 大丈夫よ、今度の奴は母さんに惚れまくっているんだから、ちょっとくらい待たせたって。そうそう、待たせるっていうのは恋愛する上で最大のコツね。あんたもほいほいあの男の言うなりにばっかりなっちゃ駄目なんだからね! 甘やかせたり言う事聞いてばっかりってのも向こうは調子に乗るから!」
「 そんな事ないよ、涼一は…」
「 あーあ。世間の母親って、大体がみんな嫌な姑にはなりたくないって思っているはずなのに。私だってそう思っているのに。どうしてもそうなっちゃうってのは、きっと相手が悪いからなのよ。そうなのよ、しょうがないのよね」
「 か……」
「 あ、やばい。そろそろ行かないと本当に遅れる。それじゃあね、雪也! またね!」
「 ………」
  嵐のようにまくしたて、母の美奈子は愛車を飛ばして去って行った。雪也はそんな母の車が走り去った方向を半ば呆然としてしばし眺めやった。

  が、その時。

「 ……無茶苦茶言うな、あのババア……」
「 涼一!」
  いつからそこにいたのか、表門の所から呆れたようにそう言ってこちらにやってきた涼一に、雪也は驚いた声を上げた。
「 ったく、全部聞こえているってんだよ…。この間の事をまだ根に持ってやがる。ちょっと高い酒瓶割って捨ててやったってだけで…」
「 涼一、車は? いつからいたの?」
  自分の元にやって来ても未だにぶつぶつ文句を言う涼一に構わず、雪也は尚も問い質した。
「 とっくにいたよ。けど、ババアの車があるの見えたから、俺の車はこの先のとこに路駐してある。もう来たって分かったらまた何言われるか分からないし」
「 そ、そうなんだ…」
「 って事で、雪。行こう」
「 え?」
  突然、自分から踵を返して元来た門の方へと歩いて行く涼一に、雪也はぽかんとして問い返した。涼一はくるりと振り返ってそんな雪也を見ると、当たり前だというような顔をして答えた。
「 しつこく電話されるのもうざいだろ。試験勉強も上映会も俺の部屋でやろうぜ。雪は支度いらないから、鍵閉めて。ほら、早く」
「 は、早くって…でも…」
「 雪」
  気にするなと言外に言われ、雪也は一瞬は躊躇したものの、結局言われた通りに鍵を閉めた。ふと、家の電話を留守録にしておくべきかと思った…が、背後で尚も急かす涼一の声が耳に入ると、もうその考えはあっという間に吹き飛んでしまった。雪也は手にしていた鍵をそのままズボンのポケットにしまった。
「 あの…さ…」
  そうして待っている涼一の元へと素直に寄って行った雪也に、不意に戸惑いがちの声が聞こえた。
「 元気だった?」
「 え? 何?」
「 ……護。元気だったかって」
「 え? 護? あ、うん。すごく元気だったよ」
「 楽しかった?」
「 あ…うん」
「 ………」
「 ……俺、すごく楽しかった」
「 ………」
  涼一は自分の表情は雪也に見せず、それを聞くと黙ったまま先をすたすたと歩き始めた。けれどやがてちらと振り返って、雪也が抱えている鞄に視線をやった。
「 淦にも寄ったんだろ」
「 うん」
「 ビデオ、創が選んだ?」
「 うん。今日はサービスだって。タダで貸してくれた」
「 あいつはお前にはいつもタダだろうが」
「 いつもじゃないよ」
「 ふん」
  これには涼一はあからさまに面白くなさそうな顔をしたが、しかしすぐに視線を前に戻すと、何を思ったのか急に全力で走り出した。驚いて足を止めてしまった雪也には構わず、涼一はただ一心不乱に進んで行き、やがて雪也との距離を数十メートルと離した時、不意に振り返った。
  そして。
「 雪!」
「 涼一…?」
  突然大声をあげて自分を呼ぶ涼一に、雪也は面食らってその姿を凝視した。

「 雪!」

  涼一はもう一度雪也を呼んだ。雪也はもう一度目を凝らして涼一の姿を見やった。
  遠くではっきりと顔が見えるわけではない。けれど雪也にはその時の涼一の顔がはっきり見えたと思った。
  涼一は思い切りの笑顔を見せていた。

「 雪! 行こう!」

  そして涼一はそう叫び、自分の車が置いてある場所へ向かって再び全力で走り始めた。
「 涼一…」
  雪也はそんな恋人の背中を見つめ、ぽつとその名をつぶやいた。
「 ……うん!」
  そうしてふっとこみあげる笑みをそのままに、自分も急いで彼の後を追って走り出した。



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