(5)



  付き合ってからは何度もされていたその口付けも、今はただ異様な違和感が残るだけだった。別れを宣告された後にこんな風にされる事など、もう考えてもいなかったから。
「 ………ッ」
  嫌がって顔を逸らそうとしたが、雪也は涼一に身体をがんじがらめにされて、ただ微かに身じろぐ事しかできなかった。何とか相手を押しのけようと手を動かしても、痛いほどにその手首を掴まれて、雪也は自由を失った。
「 つ…ッ…」
  唇を離された瞬間に名前を呼ぼうとしたが、それもまた失敗した。涼一は応える気などさらさらないと言う風に、ただ1人勝手に雪也の唇を貪った。何度も重ねては舌をも絡めとる。強引に割って入られた口腔内で涼一の熱を感じた。それでも再度嫌がって拒絶しようともがいたが、それもむなしい抵抗に終わった。ただ、口許からだらしなく唾液が流れ落ちるだけで。
  どうする事もできなかった。
「 きゃ…っ。見て…っ!」
  不意に、車外で若い女性の声が聞こえた。そちらへ視線をやる事はできなかったが、ガードレール沿いの歩道から何やら幾人かの人間がはしゃいでこちらを向いている様子は感じ取れた。
「 すごい、え、何、男同士?」
「 まさか!」
  他人に見られている。
  そう考えただけで雪也の思考は真っ白になった。それでも車外での視線が痛くて、とにかくこの場から逃れたくて、雪也は必死になって身体を動かし、涼一の所作に逆らい続けた。
  それでも涼一はなかなか離してくれなかった。
  誰に見られていようとも、誰に何を言われていようとも、全く意に介していないという風だった。
  雪也は涼一のこういうところが嫌で仕方なかった。



「 なあ雪。何で雪は俺たちの事みんなに言うの嫌なんだ?」
  当初涼一は自分たちが付き合っている事を人に知られても全く構わないと言った。2人で涼一のマンションにいた時、何がきっかけでそういう話になったのかは忘れたが、とにかく不意にそう訊かれた。
「 普通…嫌だと思うんだけど」
  雪也が眉をひそめてそう言うと、涼一はきょとんとした顔ですぐに返した。
「 何で」
「 何でって……」
「 俺は至って普通の人間だけど、別に嫌じゃないぜ」
「 だって俺たち男同士だよ」
  雪也が言うと、涼一は「はあ?」といやに素っ頓狂な声をあげ、それから少しだけ考え込むようにして腕を組んだ。
「 そんな事知っているけど。だから何」
「 だから……って。剣は時々おかしいよな。俺たちが付き合っているなんて、みんなに知られたら何言われるか分からないだろ。大学中にだって噂が立って、変に興味本位にじろじろ見られてさ…そんなの嫌じゃないか」
「 ふうん。やっぱりホモって大変なんだな」
  剣はそう言った後、「でも…」と何やらとても残念そうに言葉を継いだ。
「 そりゃあ俺だって知りもしない奴にぐだぐだ言われるのは面倒だしムカつくけどさ。雪はすごく綺麗だし可愛いし。ホントのところは、すっげえ自慢したい気分なんだけどな」
「 ………誰が可愛いんだよ」
  涼一のべた褒めには慣れてきたとはいえ、やはり妙な感じを抱かずにはいられなくて雪也はやや反発するようにそう言った。すると余裕の恋人はにっこりと笑ってから突然雪也を引き寄せると、強く強く抱きしめてそっと言った。
「 雪に決まっているだろ。俺、いつでもどこでも、雪には急にキスしたくなるもん」
  そうして涼一は戸惑う雪也には構わず、相変わらずの自分のペースで勝手気ままなキスの雨を降らせるのだった。
  そんな涼一のキスはとてもうまくて。



「 ……ソノ気になってんじゃねえよ」
  不意に唇を離した涼一は、バカにするようにそう言った。
「 ………」
  雪也が何も言えずに押し黙っていると、涼一はちらと車外の野次馬に目をやってからガードレール側―雪也のいる助手席の窓―を開き、それから「何ですか?」としらじらしく声を掛けた。至って平静な声がかけられた事で、好奇心丸出しの女性見物人たちは気まずそうな笑いを浮かべながらそそくさと去って行ったが、涼一はそんな彼女たちの背中には笑みを向けていたくせに、すっと雪也を見た時には、もう怒ったような顔をしていた。
「 勘違いするなよ」
  冷たい声だった。
「 お前ってすぐ本気になるからな」
  意地悪な口調だった。
「 何も……」
  言いかけたが、その瞬間、雪也は自らの頬に軽い衝撃を受けた。
  涼一が突然平手打ちをしてきたのだ。
「 ………ッ!」
  驚いて声を出せず、ただ横にいる涼一に視線をやった。相手は依然として苛立たしい表情を向けていたが、すぐにすっと姿勢を正すと前方を見やったまま素っ気無く言った。
「 降りろ」
「 え……」
  掠れた声で、相手に届いただろうかと雪也は思ったが、涼一は再度声を荒げて今出したばかりの台詞を繰り返してきた。
「 降りろ」
「 剣……?」
「 気色悪ィな。ちょっとキスしてやったくらいで感じていただろ、お前?」
「 そんな事……」
「 そのくせ嫌がっているフリなんかしやがって。誘ってきたのはお前だろ」
「 お、俺……ッ」
  自分がいつ涼一を誘ったというのだろうか。
  ただ強引に大学から連れ出され、ビデオショップにまで同行しろと命令された。その後も自宅はすぐ目の前だったというのに、近くまで送れと言われて車に乗っただけだ。何か話せと勝手な事を言われ、映画の話でいいかと訊けばそんな話は聞きたくないと駄々をこねる。
  そんな中、いきなり車を停めて、いきなりキスしてきたのは涼一ではないか。
  それなのに。
「 ………」 
  二の句が告げられずに、けれど何かを言い返してやりたくて、雪也は口を半分開けたままの状態でただ涼一を見つめた。そんな相手はもうこちらを見ない。ハンドルに片手をかけたまま、ただ前を向いている。そうして、雪也が降りるのを待っているようだった。
「 ……降りるよ」
  だから。
  仕方なく、そう言って雪也は助手席のドアに手をかけた。
「 ………」
  涼一は何も言わない。雪也がドアを開け、外に出ようと片足を踏み出したその時も何も発しようとはしなかった。
  けれど、突然。
「 のろのろしてんじゃねえよ!」
  涼一はそう口走ったかと思うといきなり自分の長い足をにゅっと出し、その叫んだ勢いのまま、今まさに車から降りようとしている雪也の尻を思い切り蹴飛ばした。
「 ………ッ!?」
  完全に意表をつかれた雪也は、涼一に蹴られた勢いそのままにもんどり打って車から転げ落ちた。力いっぱい蹴られ、弾き飛ばされるように歩道に押し出されてしまった為、膝と腕を硬いコンクリート面に思い切り叩きつけてしまった。またその際、バランスの悪い落ち方をしたせいで、足首をしこたま捻った。
  その時、幸いというか歩道を歩く人影はなかった。もっとも雪也はこの時は周囲に気を配る余裕などなかったから、誰がいようがどうという事もなかったかもしれない。突然の痛みにじんじんと苦痛を訴える身体を厭いもせずに、雪也は瞬時振り返って車内の涼一の方へと視線をやった。
  そこにはひどく冷めた顔をした元恋人の姿があった。

「 な…何するんだよ…ッ」
  ようやくそれだけ言えた。蹴飛ばされた瞬間はすぐにかっと血が昇って頭にきて、叫び出したい衝動に駆られた。怒鳴り散らしたいと思った。けれどもすぐに振り返って涼一を見た時には、雪也の心はもう乾いてしまっていた。だから弱々しい口調でしか声を出せなかった。
  どうしてそんな目で見る。
「 言っただろ。お前がイラつくって」
  涼一が言った。
「 ムカつくんだよ。調子に乗ってんじゃねえよ」
「 乗ってなんかない…っ」
  押し殺した声で言ったが、涼一には通用しなかった。
「 普通はフラれた相手の車になんか、誘われたって乗らねえよ。お前は期待していたんだよ。どっかで。俺がまたヨリを戻そうって言うかもしれないって」
「 ………そんな事」
「 思ってない? バカ言うな、お前は俺の事ばっかり見ている。お前は俺が好きなんだよ。未練あるんだろ?」
「 剣こそ…ッ」
「 俺? 俺が何だって言うんだよ? ほらお前、勘違いしている。ちょっと一緒にいてやっただけでこれだ。たち悪ィよ、お前みたいな勘違い野郎は。自分がモテるとでも思ってんのかよ? お前みたいな、何もないつまんない奴がさ」
「 ……何でそこまで」
「 ハッキリ言わないと分からないからだよ。そんな鈍感でバカなお前に、俺みたいな奴が1年も遊んでやったんだ。感謝しろよ」
「 最悪だ……」
  雪也がつぶやくように言うと、涼一は皮肉な笑みを浮かべて「それはお前だろ」とすかさず返してきた。
  そしてさっさと開かれたままの助手席のドアを閉めると、そのまま車を走らせて行ってしまった。こんな駅も近くにない、この辺りの地理にも詳しくない雪也を置いて。
「 最悪だよ……」
  雪也はもう一度つぶやいた。それから、改めて身体全身に受けた鈍い痛みに顔を歪ませた。



*


 

  捻挫とまではいかなかったが右足首を軽く痛めてしまい、雪也は次の日大学を休んだ。

  本当は必修の授業は休みたくはなかったのだが、足の怪我という理由以上に、昨日の今日で涼一と顔を合わせるのが嫌だった。必修の授業ではどんなに避けていたいと思っても顔を見なくてはならない。どんなに避けていても姿は自分の視界に入ってくるだろう。涼一の仲間たちも大勢いる。
  冗談ではない。
「 でも…来週は行かないと」
  自分自身に言い聞かせるように雪也は自室のベッドでそれだけをつぶやいたが、まだ昨日涼一にされた仕打ちに自分の中で心の整理がつけられずにいた。
  結局雪也はあれから足の痛みを押して何とか自力で最寄の駅まで歩き続け、そこから電車に乗って自宅に帰った。その後はもうただ泥のように眠り、朝まで目を覚まさなかったわけだが、その夢の中にまで涼一が出てきてああだこうだとひどい言葉を浴びせてくるものだから、とても寝た気にはなれなかった。しかも朝方、未だ不愉快な気持ちで悶々としている自分を、母親がいつものキンキン声で起こしにくるものだから、余計に鬱々とした気分になってしまった。
  それで雪也は昼を過ぎたあたりになっても、だらだらとベッドの上で別段読みたくもない本を読んでいた。
「 ………」
  そういえばそうやって今朝自分を無理やり起こした母親は、相手の男とうまくいっているのだろうかとぼんやり思う。



「 ちょっと雪也。あんたいつまで寝ているつもりなのよ」
  母親がそう言って雪也の部屋にノックもなく入ってきたのは、朝の6時を少し過ぎた頃だった。
「 昨日だって夕飯作っておいてくれてないんだもの。帰ったらアンタは寝ているし。かわいそうだと思って起こさなかったけど、もういい加減起きてよ。朝ご飯作って」
  慣れているとはいえ、忙しなくまくしたてるようなその口調に、雪也は自然と眉をひそめた。
  雪也の母親である美奈子は、細身の息子とは対象的にやや太めで、容貌も実に強気そうな、意思のはっきりとした顔立ちをしていた。太い眉に細い目。思った事を何でも発しそうなその口許には真っ赤な口紅が塗られている。また全体的に派手すぎる化粧は、既に彼女の素の表情を隠してしまい、また彼女の好みで選ばれるきらびやかな服装は、常に「飾っていたい」という彼女の虚栄心を表現しているようだった。
  そんな母親・美奈子は、軽くパーマがかった長い茶色の髪を丁寧に手で梳きながら、更に急かすような早口で雪也に言った。

「 前から言っていたでしょ。私、今日はデートなの。何も食べていかないで家を出るのは身体に悪いんだから。早く起きてって」
「 朝ご飯…棚にパン、あるし」
「 ちょっと。何よそれ。誰があんな高い授業料払ってアンタを大学にまで行かせてあげてると思ってんの? アンタは私に養われている身なのよ? そんな口はきちんと1人で食えるようになってから言ってちょうだい」
「 ………」
  母親に言い合いで勝った事など一度もなかった。
  それにこの母は雪也がとことんまで自分を無視しきれない事を知っている。雪也は仕方なくのそりと上体を起こした。母親の美奈子はそんな息子の方はもう一切構わず、どたどたと歩きながら部屋のカーテンをジャッジャッと派手な音を立てながら開けて行き、それからがらりと窓まで開けた。外は雨が降っているのか、どんよりとしていて暗かったし、おまけに窓が開かれたせいで冷たい風が流れこんできた。
「 絶好のデート日和だわ」
  それでも母親は悦に入った声でそう言うと、未だベッドから出ようとしない雪也の布団を問答無用でひっぺがした。
  雪也は未だきちんと歩けない足を引きずって、それから母親の為に朝食を作った。



  あれからまだ数時間ほどしか経っていないが、母が「恒例の」デートに失敗して昼過ぎくらいに帰ってくる事などザラだった。そんな時はいつも大抵憤慨して家のドアを蹴破らんばかりの勢いで帰ってくるわけなのだが、その失敗の理由はいつも相手の方にあると彼女は必死になって雪也に語って聞かせた。
「 いつも…母さんが無茶言うからだろ…」
  誰もいない部屋で、雪也はまた独りごちてしまった。
  しんとした部屋。
  音のない空間。
  ただ、自分が息を吸うだけ。
  もうずっとこうやって眠っていたいと思う。
「 ………面倒だ」
  何もかもがもうどうでもいいと思ってしまう。せっかく新しく始められると思っていたのに。
  その時、不意に家の電話が鳴った。
「 ………」
  母親の「駅まで迎えに来て」コールだろうか。それもいつもの事だったので雪也は一瞬表情を歪めたが、まさか出ないわけにもいかなかった。今日は一日中家にいると言ってしまっていたし、それで居留守を使ったとバレてはまた後で何を言われるか分かったものではない。
  仕方なくゆっくりとだが身体を起こし、雪也は2階専用の子機に手を伸ばした。
「 ……はい、桐野です」
  我ながら陰気な声だと思った。

『 陰気な声出してんじゃねえよ 』
 
  すると相手は、自分が思っていた事を口にした。
  一瞬、ドキンと胸が鳴った。
「 ………剣」
『 何休んでんだよ 』
  とんでもない事をしてくれたな、と言わんばかりの口調だった。
『 お陰で今日はあいつらに何でお前が来ないのかってそればっかり訊かれたぜ。俺がそんな事知っているわけないだろって言うわけにもいかないし。風邪引いたって適当言っておいたけど。そうやって心配してもらいたいわけだ、お前は 』
「 ……切るよ」
『 勝手な事するな 』
  子機の電源を切ろうとする雪也の耳に、すかさず涼一の怒った声が飛び込んできた。雪也はぐっと目を閉じ、昨日自分の事を思い切り蹴飛ばした涼一の顔を思い浮かべた。
『 携帯は電源切ったままだし? お前、それで俺に何か訴えているつもりなわけ? とにかくさ、お前のそのいつもと違う行動って限りなく俺には迷惑かかるんだよ。昨日の事でアタマに来てンのか何か知らないけど、俺は思った事言っただけだから 』
「 だったらそれでいいだろ…。俺は何とも思っていないから…」
  ガンガンと響いてくる頭痛に耐えながら、何とかそれだけを言った雪也は、ふとベッド脇に置いていた携帯に目をやった。そういえばずっと電源を消していたと気づいたのは、今まさにこの時だった。
「 携帯も…もう解約するから。訴えてるとかそういうの関係なく…もう必要ないし」
『 何で 』
  くぐもった声が受話器の向こうで聞こえた。
「 元々…剣としか話してなかったから、あれ…。剣が持てって言ったから持っていただけで」
『 だったら持っていればいいだろうが。俺がいつ解約していいって言った 』
「 言ってないけど、もう掛けてこないだろ」
『 何で 』
「 ………俺たちってもう別れたんだろ」
『 だから? 』
「 だから……もういいよ。とにかく、もう切るから」
『 待てって言ってんだろ 』
 ぴしゃりと涼一はそう言い、それからふうとため息をついた後、素っ気無く言った。
『 勝手に切ろうとするな。切るのは俺だ 』
  そうして涼一は、いきなりガチャリと一方的に電話を切った。雪也はただ唖然としてしまい、やはりまた開いた口が塞がらなかった。こんな風に良いように振り回される自分が嫌で仕方なかったが、それは果たして自分だけのせいなのだろうかと思わずにはいられなかった。
  あんなに勝手な人間なのに。
  何故、周囲の人間はあいつの嫌な部分に気づかないのだろうと、雪也はようやく悶々としていた気分を怒りの感情へと変えていった。
「 バカ…ッ」

  外はまだ雨が降っていた。



To be continued…



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