(6)



  深夜の0時を回っても、母の美奈子は帰って来なかった。
「 珍しい…」
  さすがに一日中ベッドでだらだらしている事に飽きた雪也はリビングで創が貸してくれたビデオを観ていたのだが、クレジットが流れる頃に時計の針が新しい日付を刻んだのを確認した時には自然と先の言葉が漏れた。そしてほんの少しだけ躊躇したものの、テープを巻き戻してそれをデッキから取り出すと、薄手のジャケットを羽織って家を出た。
  まだこの時期、昼は暖かいが夜は割と肌寒い。雪也は急に変わった温度差に軽く肩を震わせてから、玄関の鍵を閉めてレンタルショップ「淦」へ向かった。ビデオを返すという目的も勿論あったが、このまま家にいるのは耐えられそうになかった。また涼一から嫌がらせの電話がないとも限らないし、万が一帰宅してきた酔っ払いの母親を介抱する気にもなれない。外に出るのが1番だった。
  行き慣れたバイト先や駅への途中にあの店があることを今でも不思議に思いながら、雪也はまるで常連のような気持ちで一昨日訪れたばかりのそこを目指した。そして店の通りが見えた時、その場所に灯りが燈っている事を心底ありがたく思った。やや小走りになり、店の扉を勢い良く開ける。
  今日のBGMは「ドライビング・ミス・デイジー」だ。やはりこの陰気な店には似合わなかったが、それでもどことなく穏やかな空気に雪也はほっとした。
「 いらっしゃい」
  創だった。
「 あ…これ、どうもありがとう」
  声を掛けられると同時に雪也は真っ直ぐ創が座るカウンターへ向かい、開口一番そう言って借りたビデオを差し出した。創は軽く頷いてそれを受け取ると、一度だけケースからカセットを取り出し簡単なチェックを済ませた後、「どういたしまして」と言った。彼が雪也に映画の感想を求めてくる事はなかった。訊かれたらあれこれ言おうと思っていた雪也はそれで少々拍子抜けしたが、だからと言って自分から映画の話をする気持ちにはどうしてかなれなかった。まだこの創という人間に慣れていなかったからかもしれない。
「 昨日の昼に来たんだって?」
  そんな雪也に対して、創は全く別の話を振ってきた。
「 あ…うん」
  雪也が慌てて首を縦に振ると、創も軽く頷きそれに反応を返してから続けた。
「 姉さんが君たちに悪い事をしたから謝っておいてくれと言っていた」
「 あ、そんな。悪いのはこっちだったから」
「 別に君は悪くないだろ」
  創はそう言ってから何かを探る目を雪也に向けて、くいと眼鏡の縁を指で上げた。雪也が戸惑った顔を向けていると、創は不意に立ち上がって「何か飲む?」と出し抜け訊いてきた。
「 え?」
「 どうせね。こんな時間に来るお客さんなんかあんまりいないから。退屈していたんだ。ゆっくりしていきなよ」
「 あ…ありがとう」
「 君もそのつもりで来たんだろう?」
「 ………」
  雪也は声を詰まらせ、沈黙した。何故だかは分からないけれど、この創という青年には何もかもを読まれているような気がした。
  それは決して居心地の悪いものではなかったのだけれど。
「 カップ取ってくるから。その椅子使っていいよ」
  創はそう言ってカウンターの横に立て掛けてあるパイプ椅子を顎で示してから、カウンター奥にある部屋へと姿を消して行った。雪也はとんとんと相手のペースに乗せられながらも、確かに自分はビデオを返してそのまままた自宅に戻る気はなかったのだとこの時改めて自覚した。
  そして創に言われた通り、パイプ椅子に手をかけたその瞬間―。
「 ……ッ!?」
  ぎくりとして、雪也は動かしかけていた手を止めた。何ともなしに目の端に映った影。
  それを追うようにして振り返ると
、そこには「あの」少女がいた。
  創がいたカウンター内からは見えない位置。死角となっている右横の陳列棚の1番奥に、同じパイプ椅子を使って少女はちょこんと座っていたのだ。
「 ………」
  初めて見たあの時同様、真っ白なワンピース。そして今日は二つに結わえた髪に真っ赤な大きなリボンをつけて、少女はくるくるとした大きな目をじっと雪也の方に向け、ただ黙って座っていた。
「 君……」
  何故、こんな時間に。
  何故、こんな子供が。
  何故、こんな場所で。
  ビデオを借りに来た…にしては、あの壁際の場所は確かアダルトコーナーに1番近い。確かにアニメコーナーもそのすぐ隣だが、しかし少女が棚へ視線を向けている様子はなかった。創の知り合いだとしても、あんな遠くに椅子を置いてただ座っているのはどう考えても不自然だ。雪也は何だか背中に寒いものを感じ、けれど少女から目を離す事もできず、ただ同じように真っ直ぐな視線をそちらへ向けた。
  少女は雪也が自分の存在に気づいたにも関わらず、やはり微動だにしなかった。
  ただ、見つめてくるだけ。
「 こんな時間に…どうしたの?」
  雪也は思い切って声をかけてみた。
「 この店の…子…?」
  訊きながら、ゆっくりと近づく。少女は答えない。そして、動かない。
「 家の人、心配しない?」
  言いながらちくりと胸が痛んだ。よくよく考えれば、自分もこの少女の年齢の時は既に母親は「あんな」感じで、夜中などしょっちゅう家を空けていたからいつも1人だった。それで寂しくなって夜中隣の家へ逃げ込んだり、少し勇気がある日などは外へ散歩に出かけたり。夜歩きなどそれこそ頻繁にやっていたのだ。
  それでも、 「家の人」 が心配する事など一切なかった。向こうは気づいていないのだから。
「 ………」
  この子だってそういう家の子かもしれない。
「 映画好きなの?」
  向こうが何も言わないのに喋るなど、元々得意ではない。それでも雪也は珍しく食い下がり、少女に話しかけてみた。何故だかこの目の前の白い少女の声が聞けないと不安だった。存在を確かめたかったのかもしれない。
  それでも少女は何も発しなかった。
「 ………」
  けれど雪也が息を潜めるようにしながら遂に少女との距離を1メートルほどに縮めた時。
「 触らないで」
  少女は一言、そう言った。
「 え……?」
  戸惑い聞き返したが、しかし少女はもう何も言わなかった。ただ無機的な何も感じていないという目が一瞬、苦渋の目をしたと思った。
「 桐野君?」
  その時、カウンターの所で創が不思議そうに声をかけてきた。雪也がはっとしてそちらに振り返ると、コーヒーカップを2つ持った創が首をかしげながら「何しているの?」と問い質してきた。雪也は慌ててそちらへ早足で戻り、今いた場所を指差してこっそりと言った。
「 あの子…何処の家の子?」
「 あの子って?」
「 だからそこに座ってい―」
  しかし雪也が言いながら振り返った時には、もう少女の姿はなくなっていた。
「 え……?」
  ぎょっとして目を見張る。もう一度戻って置かれたパイプ椅子を何度も見やる。先刻まで少女はここに座っていたのに。
  どうして。
「 ……何か見えたのかな」
  創は実に嫌そうな顔をしてからカップを置いたが、「砂糖は? いる?」などとその表情に似つかわしくない呑気な質問を投げかけてきた。雪也は再び創の元へ戻り、焦ったように口を継いだ。
「 白い服着た小さい女の子が座っていたんだ。そこにいたんだよ、今まで。俺、全然そんなつもりなかったのに、俺が近づいたら『触らないで』って」
「 へえ。桐野君ってそういう趣味があったのか。意外だね」
「 そういう…って、何言って…!」
「 冗談だよ。女の子ね…びっくりして帰っちゃったんじゃないのかな」
「 でも今さっきまでそこに…!」
  雪也が納得できず尚も食い下がると、創は至って涼し気な顔をしたまま済ました顔でコーヒーをごくりと飲んだ。それから傍にあった雑誌をぱらぱらとめくる所作をしてから、「まあ…そこと入口は目と鼻の先だから」とだけつぶやいた。
「 知っている子…?」
「 何が」
「 今の子」
「 知らないよ。『今の子』とだけ言われても、僕は見ていないからね」
「 でも…あ! でもそういえばこの間も来ていたよ。俺が帰る時だ。君、『いらっしゃい』って言っていた!」
「 桐野君」
  創はそこで呆れたような顔をした。
「 何にこだわっているのか知らないけどさ。君が見たその子っていう存在を別に俺は疑っていないよ。何をムキになっているんだ? 突然姿を消したから? 無口で存在感の薄い妙な子だったから? 別にいいだろ、何だって」
  その口調はどことなく怒っているもののように、雪也には感じられた。それで雪也も言われてみれば何故自分はあの少女の事がこれほど気になったのだろうと思った。
  不自然だったからと言えば、きっとそうなのだろう。
  こんな深夜にあんな格好をした女の子が1人でフラフラしている事が不自然だった。話しかけても答えない、やっと話したかと思えばこちらを拒絶する言葉を一つ吐き、ほんの少し目を離した隙にいなくなってしまった。
  不気味に思った。違和感を抱いた。だから気になった。
  けれど、だからと言って自分がそれほどまでに気にしてムキになる必要などどこにもないのだ。本来は。
  創に指摘されたことで、雪也はようやく興奮していた息を整え、しんと黙り込んだ。
「 ……座りなよ」
  そんな雪也に創が代わりにパイプ椅子を置いて席を勧めてきた。
「 あ…どうも……」
  ぼそりとお礼を言い、座った。カウンターを挟んで創と向かい合わせになった雪也は、そこでようやくまともに相手の顔を見た。向こうは昨夜と同じように気難しそうな顔をしていたが、しかし今日はどことなく柔らかい雰囲気を感じないでもなかった。
  だからだろうかと雪也は思う。
  昨夜少し話しただけの相手の所に、自分が来てしまったのは。
「 知っているよ」
  突然、創が切り出した。
「 え…?」
  慌てて訊き返すと、創は何でもない事のように先を続けた。
「 『 この間の子 』 はね。常連だから」
「 え、じゃあ…!」
  驚いて声を発する雪也を創は黙って見つめていたが、やがてつまらなそうな顔をして言った。
「 でも知っているって言ってもね…。それは顔を知っているとか、住んでいる所とか。そういうレベル。それだけの事だよ。後は知らない」
「 ………」
「 向こうも言わないしね」
「 そう…なんだ」
「 大体この店に今言った以上の事、知る必要ないだろう?」
「 うん……」
「 だってここはビデオ屋だからね。ただの」
「 うん……」
「 だから俺は君のことも知らないよ」
  雪也が黙って創に視線を向けると、ここでようやく向こうは少しだけ笑って見せた。
「 知っているのは名前と顔と…住んでいる所くらいかな」
「 ………」
「 それ以上の事を知ったとしたら、俺たちは友達って事になるね」
  創は言ってから、まるで試すような目で雪也の事を見やった。雪也もそれで創の事を戸惑いつつも見つめ返した。
「 ……駄目かな」
  そして思わず口をついてそんな台詞が出た。何故だか、この一風変わった服部創という人間を知りたいと思い始めていたから。
「 迷惑?」
  すぐに返答がなかったので再度訊くと、創はカップに口をつけていた手を止めてまじまじと雪也の事を見つめ返してきた。
「 友達になるのがかい?」
「 うん」
「 なりたいの、君?」
「 多分」
「 ……ふーん」
  すると創はやはり無感動な目を向けたまま、「じゃあさ」とだけ言ってから、再びコーヒーカップに手をやり、素っ気無く言った。
「 何から話す?」
  雪也はその創の一言で、心底救われたような気持ちがした。
  自分からこんな風に誰かに近づこうとしたのは、本当に久しぶりだった。


*


  翌日、午前中の講義は全てサボってしまったが、雪也は午後の講義にだけは何とか顔を出す事ができた。見知ったサークル仲間の顔が何人かあったが、その中に涼一の姿はなかった。少しだけほっとした。まだ足も痛かったし。

「 よう、風邪引いてたんだってな。もう大丈夫なのかよ?」
  講義中に堂々と席を移動して話しかけてきたのは藤堂だった。ラガーマンのような横縞のたっぷりとしたTシャツにジーンズ姿の藤堂は一見すると若々しい大学生なのかもしれなかったが、如何せん酒臭く、髭も汚く伸びていた。朝手入れせずにやって来たのだろう。
「 あんなに遅くまでバイトしてんだもんなあ。それに雨降っていただろ? 家、近いとはいえ大変だなあってあの日も涼一と話してたんだぜ?」
「 そう」
  涼一が白々しく藤堂と話をあわせていた様子を思い浮かべて雪也は胸のむかつく思いがした。しかし敢えて自分から涼一の話を聞くのは嫌だった。何とかごまかそうとして雪也は無理に明るい声を出した。
「 昨日、飲んでいたの?」
「 あ、やっぱ分かるか? もう朝から最悪よ。色々な奴に臭いだの近寄るなだの散々言われてよォ」
  藤堂はそう言って苦虫を噛み潰したような顔をし、くんくんと自らの腕の臭いを嗅いだ。それからざらりとした顎を撫でてふうとため息をつく。
「 昨日また涼一と飲みだぜ? もう俺には自由はないのかって感じ。連日連夜だからな」
「 ……へえ」
  つまらない話を振ったと思ったが、もう遅かった。藤堂は縋るように雪也を見やり、まくしたてるように話し出した。
「 あいつ思いっきり引きずってんだよなあ。そのフラれた…ああ、フッたんだっけ? まあどっちでもいいや。その前付き合っていた奴の事をさあ。ほら、この間コンビニでこれから大介ン家でオンナと会うって言っただろう? あいつ、もうめちゃくちゃ」
  ウンザリしたように言う藤堂に、雪也は自分でもよせばいいと思いつつも聞き返してしまった。
「 めちゃくちゃって……?」
「 いや…。何か…さあ」
  しかし藤堂は自分からその話を振っておいて、何故かその後の言葉を継ぐ事をためらうような仕草をした。それから一度だけ講義をしている講師の方へと視線を向け、見てもいないノートに目を落とした後ようやっと口を開いた。
「 多分ああいうのを泥酔って言うんだろうな…。俺、あいつのああいう姿って初めて見たからさ」
「 ………」
「 やっぱりさ、予想通りだったわけよ。待っていた女共は俺なんか全然眼中なし。始めっから涼一狙い。しかしそれがまた露骨でよォ、俺から見てもこう…イヤ〜な感じのオンナ共だったわけだ。まあ俺はそういう系の女にも慣れているし、別段どうとも思わなかったし。第一、一応大介の彼女の友達だろ? うまくやっとこうって思ってたんだよ。勿論、涼一も最初は適当に交わしていたぜ? けどさ、あんまりにもそのうちの1人が馴れ馴れしくするもんだから、あいつキレちゃったんだよ」
「 え……?」
  雪也が驚きのせいで掠れた声しか出せずにいると、藤堂はそんな様子にうんうんと分かったように頷いて腕組みをした。
「 まあ、あんな女たちとはもう二度と会わないからいいとして。けど、さ。涼一があれほど女の子を拒絶する姿を俺は初めて見たね。『触んじゃねえよ、ブス!』だぜ。ホント、唐突にな」
「 ………」
「 よっぽど耐えてたんだろうなあ。いや普段のあいつならきっと面白くない事があったとしても最後まで我慢できるんだ、うん。俺だって少しはあいつの事分かっているつもりだよ。確かに…『ああいう』育ちだし、我がままなところもあるけどな…。加えて勝手なところもあるけどな…。まあ、それでも人当たりの良さは天下逸品だ。それが…なあ。その後も散々言ってさっさと帰りやがった」
「 …剣が」
「 これはさすがにマズイと思ってよ。で、昨日言ったらまた飲みだぜ。そんでまたぐちぐちぐちぐち何か言っていて。まあ、その半分以上がよく分からん話だったが。とにかくだな。結論としては、アイツは自分がフッたとかいう女の事をどうも病的に気にしているんだな」
「 だってあいつからフッて…」
「 嘘ついてんだろ。あれはぜってェフラれたんだって。お前聞いてないの? 俺は絶対お前なら何か知っていると思って、それで今日は朝から待っていたって言うのに、お前はこんな時間まで来ないし。ああ、でも風邪だったんだよな。仕方ないか。けど、どうせお前も後でアイツに掴まって愚痴られるぞ」
  藤堂はそう言ってから、気の毒にという顔をして雪也の背中をぽんと叩いた。雪也はそんな藤堂に返す言葉を見つける事ができなかった。


  単純に飽きられたのだと思っていた。
  だから雪也はいつ涼一が自分たちとの別れを切り出してきても、多分驚く事はないだろうと思っていたし、実際「お前とはこれっきり」と言い捨てられた時もその理由を訊こうとは思わなかった。さすがにあれほど態度を急変されるとは予想していなかったが、それでも自分たちが別れるという事は、いつか必ず起こる事なのだと雪也は心のどこかで思っているところがあった。きっとそれは涼一とてそうだっただろうと思う。
  だからこそ、雪也には分からなかった。
  何故自分からこの関係を終わらせようと言った涼一がそれほどまでに心を乱しているのかが。何故あれほどまでに苛立ち、怒りをぶつけてくるのかが。終わったのだから、もうそれでいいではないか。なのに涼一は離してくれない。ひどく残酷な態度でこちらに向かってくる。当たってくる。そんなものは気にしなければ良いと頭では分かっていても、雪也はどうしてもそうする事ができなかった。

  昨夜の創の言葉が思い返された。


「 余計な事を話すと余計な心配が増える」
  だから創は、自分はあまり話をするのが好きではないと言った。それは雪也も同じであったから、素直にその考えに賛成できた。
  けれど創はこうも言った。

「 だけど話さないと付き合いの短い人間には…いや時には長い人間にさえ誤解され、理解してもらえない事がある。面倒だね」
「 ……そういう目に遭った事ある?」
「 まあ、それなりに」
  創は雪也の問いに対ししれっとそう答えたものの、どことなく憮然とした顔もしていた。
  そして続けた。

「 でもそういう面倒だと思う事も…それはそれで必要な感情なのかもしれないね」



To be continued…



戻る7へ