雪也は口数の少ない子供だった。また、とても引っ込み思案だった。
  母親の美奈子はそんな息子とは対照的にお喋りで、とにかく積極的。自ら人々の輪にどんどん入っていけるタイプだった。だからだろうか、美奈子は雪也の控えめなところというか、人見知りの激しさにはイライラする事が多かったようで、酔っている時などは手をあげたりする事もままあった。
「 あんたみたいなのが男だなんて。情けない。せめて女の子だったらまだ可愛げもあっただろうに」
  それが美奈子の口癖だった。雪也はそんな時の母親が恐ろしくて仕方なかった。普段は自分の悪口など言わないし、割と明るく優しいところのある人であったから、尚のこと酒が入って別人になった時とのギャップに戸惑った。さすがに今はもう慣れてしまったが、幼い頃に感じたあのどうしようもない感情だけは、時々ふっと蘇って心密かに震えたりした。
  だから1人の夜は、寂しかったけれど安心でもあった。

『 雪。怖くないか? 』

  それに当時は、雪也の事を心配して様子を見に来てくれる隣人がいた。

『 あ、風邪引いているのか? 駄目じゃないか、そういう時はうちに来いって言っただろう? 』

  とても優しくて兄みたいな人だった。年齢はそれほど離れてはいなかったが、小さい雪也にしてみれば、その存在はとても大きくて頼りになった。1人の暗い部屋がどうしても駄目だと感じた時は、だから雪也はその人の家へと駆け込んで、その人のいるベッドにもぐりこんだりしたのだった。

『 雪、心細くなったら言えよ。ずっと一緒にいてやるからな 』

  その人の声と手の温もりが、雪也は大好きだった。



  (7)



  講義が終わったとほぼ同時に、藤堂の尻ポケットにあった携帯が鳴った。
「 うわ、まさか涼一じゃねえだろうな…」
  隣にいた藤堂は心底げんなりした様子でそれを取ったが、すぐにいつもの人当たりの良い声になると、「はいはい」と言って笑ってからすぐにそれを切った。そうして、ほらみた事かと言わんばかりの顔をして雪也に向き直り、苦笑した。
「 お前、卑怯だぞ」
「 ?」
  何の事やら分からずに雪也が首をかしげると、藤堂はちらちらと視線を向けながら、「携帯。どこに持ってるんだ?」と問い質してきた。
「 携帯?」
「 今のやっぱり涼一からだった。お前が携帯の電源切っているって」
「 あ……」
「 お前なあ、そりゃ、そんなつまらん愚痴聞かされたくないって言うのは分かるけど、そりゃズルイ。絶対ズルイぞ。持ってきてるんだろ? つけといてやれよー電源」
「 ………」
「 でないとまた俺が犠牲になっちまうんだから」
  藤堂はそう言った後、雪也の肩をぽんぽんと叩いた。そうして、どことなく楽しそうに言った。
「 ま、今日はあいつの事はお前に任せた」
  雪也はそんな藤堂に対して何も返す事ができなかった。


  講堂を離れ、キャンパス内にある檜の傍のベンチに腰を下ろし、雪也は鞄から携帯を取り出してじっとそれを見つめた。涼一には電源を切っておくなと言われたけれど、あんな風に嫌がらせをされるくらいなら、後で何と言われようと、もう言う事をきくのは嫌だと思った。だから切ったままにしておいたのだ。
「 ………」
  それでも気にはなっていた。こんな事をしてまた涼一は更に自分にとって不快な事をしてくる、または言ってくるのではないか、それなら多少訳の分からない電話が鳴ったとしても適当に相手をしておけばいいのではないか…。けれどそう考える半面一方でこうも思う。いや、やはりそれはおかしい。自分たちは別れた、しかも向こうから一方的にそれを切り出してきたくせに、どうしてそんな風にあいつの言うなりにばかりならなければならないのだろうか、どうしてあいつの行動にいちいち神経を使わなければならないのか。大体そんな風にいつまでも振り回されていては、益々調子に乗られてこれからも好い様に利用されてしまうのではないだろうか。
  悶々とした思いが雪也の中でぐるぐると駆け巡った。こうなる前にもっと涼一に対して自己主張ができれば良かったのだろうが、雪也はどうしても自分の思いをうまく言葉にする事ができなかった。

『 あんたって子は、どうしてそうなの 』

  母親の美奈子が呆れたように言う。その声を、表情を、雪也は嫌というほど聞いてきたし、目にしてきた。今また涼一がそんな母親とだぶってみえる。

『 お前って何でそうなわけ? 』

  雪也は電源の切った携帯を再びそのまま鞄にしまうと、思い切ったようになって立ち上がった。


*


  涼一の実家は東京にある。大学からもさほど離れていない位置にあると言っていたが、そこへ行った事は、雪也は一度もなかった。ただ、家から通える距離なのに何故1人暮らしをしているのかと訊いた時、涼一は「家が嫌だから」と一言素っ気無く応えた。

  そんな涼一の1人暮らしの部屋は、一介の大学生にしてはかなり贅沢なものと言えた。大学から近い事は勿論、駅からも近い。オートロック式の高層マンションの最上階からは、周囲の街並みを一通り眺められた。日当たりも良い。築2年、2DKの冷暖房完備、風呂トイレ別。部屋に置いてあるインテリアはあまり多くはなかったが、その簡素さがその空間をより一層広く清潔に見せていた。
  そして極めつけは駐車場完備。
  以前初めてその涼一の部屋を訪れた時、雪也はお金の事を訊かずにはおれなかった。涼一はアルバイトをしているような節も見られなかったし、実際何もしていないと言っていたから。
「 うち、金持ちだから」
  涼一はその時はただそれだけを言って、口の端だけで笑った。
  そしてそれ以降、雪也は涼一のマンションへ足繁く通うようになった。付き合うようになってからは勿論、涼一に告白される前からそこへはよく呼ばれて、別段何をするでもなく相手の話をただ延々と聞いたり、時々食事を作ってやったりもした。元々家で家事全般をこなしていたから、雪也はそういう事に抵抗がなかった。涼一はそんな家庭的な雪也にひどく感動していたようだったし、付き合うようになってからはより一層そこでの涼一の生活は雪也が面倒を見るようになっていた。食事や掃除は勿論、洗濯や時々はアイロン掛けまで。涼一の住む場所のゴミの収集日すら、雪也は本人よりも正確に把握していた。
「 雪って絶対良い嫁さんになる。俺、ちゃんともらってやるから」
  冗談とも本気ともつかない台詞を、涼一はよく吐いた。
  そして雪也はそんな涼一から求められればそのままなし崩し的にベッドへ直行した。セックスはほとんど、涼一のその部屋でした。


  雪也がそんな涼一のマンションに辿り着いたのは、もう大分陽も傾きかけた頃だった。


  決心はしたものの、いざ自分から涼一の所へ行くと、自然と身体が緊張した。それでも何とか意を決して、雪也は表の扉の前でインターホンを鳴らした。
  反応は思いのほか早く返ってきた。
『 はい 』
  不機嫌な声だった。予想はしていたものの、雪也は心の中でそっとため息をついた。
「 俺…雪也だけど……」
『 ……… 』
  すぐに声は返ってこなかった。二拍ほど置いた後、一言。
『 誰 』
  冷たい声だ。雪也はまたげっそりとしながら、姿の見えない相手に必死に声を出した。
「 話があるんだけど」
『 ………なら携帯切ってんじゃねェよ 』
「 授業中だったから」
『 それ以外だって切っていただろ 』
「 ………」
  一体どれくらいの間隔でこちらにかけ続けていたのだろうかと思いながら、雪也は返す言葉を見つけられずに沈黙した。けれどそのすぐ後にがちりと音が鳴り、表のドアのロックが外されたのが分かった。雪也はすぐにその扉に手をかけた。
  エレベーターを降りて少し歩いた、1番端の部屋が涼一の住居だ。再びインターホンを押すと、「開いてる」とすぐにそこから声がした。雪也は迷いが出てこないうちにドアノブに手をかけた。よく来ている、慣れた場所のはずなのに、やはりドキドキした。
  涼一は玄関先に突っ立って、雪也を待ち構えるような格好で腕組をしていた。
「 あ………」
  ずっと寝ていたのだろうか、涼一は白いTシャツに部屋着用のズボンという格好で、おまけにいつもきちんとしている髪の毛もぼさぼさだった。寝起きを邪魔されたという風だ。
「 寝てた…?」
「 見れば分かるだろ」
  涼一は素っ気無く言った後、再び何かを言おうとして口を開きかけた…が、何を思ったのか、それを思い止めたようになると、くるりと踵を返した。
  雪也はそんな涼一の後を追って部屋に上がりこんだ。
「 頭痛ェ……」
  涼一のだるそうな声と共にリビングに足を踏み入れる。
「 ………」
  一週間ぶりくらいの涼一の部屋は、惨憺たる状況だった。
  飲みちらしたビールの缶はそのまま、栓を抜いて全部空けてしまったウイスキーの瓶も床に転がったまま。酒のつまみに雑誌に、コンビニで買ったのだろう、もろもろの食べ物も汚くそこらへんに散らばっている。中央に置かれたガラスのテーブルに一体何の意味があるのだろうかというほどの散乱ぶりだ。
「 ……何じろじろ見てんだよ」
  涼一が驚いたような顔をしている雪也に言った。それから再び自分が座っていたのだろう場所にすとんと腰を落とし、飲みかけだったらしい缶ビールに手をかけた。もっとも時間の経ってしまったものだったのだろう、まずそうな顔をして涼一はすぐにそれを置くと、ぷいとどこを見るでもなく視線を窓の方へと逸らした。
「 飲んでたの?」
「 見れば分かるだろ」
「 藤堂が心配してた」
「 あ? あいつから聞いたんなら尚更俺が飲んでいた事なんか知ってるだろうが。いちいち訊くんじゃねえよ。それに心配? 何それ?」
「 ………知らないよ」
  雪也は言ってから再び辺りを見回して、ふと傍に転がっていた体温計に目を落とした。
「 熱、あるの?」
「 あ…? 何で……」
「 それ」
  雪也が気づいた物を指差すと、涼一はより一層不機嫌な顔をしてから「別に」とだけ言った。それからちらっと雪也を見やり、イライラしたように声を荒げた。
「 いつまでもそんな所に突っ立ってないで座れよ。気になるだろ」
「 ……うん」
「 それ何?」
  そして今度は涼一が雪也に不審の声をあげた。雪也は大学へ行く時に持っていく鞄の他にも、近くにあるスーパーの袋を手に下げていたのだ。
「 あ、これ…。剣が二日酔いだって聞いたから」
「 ……だから?」
「 野菜スープ作ろうかと思って」
「 ………」
  雪也のその発言に涼一はさすがに動揺したような顔をした。自分は雪也に対してひどい事ばかり言っているというのに、まさかその相手がわざわざそんな事をしに来るとは、如何な涼一と言えども想像していなかったのだろう。
  もっとも付き合っていた当時、雪也は涼一が飲み過ぎた日の翌日は必ず野菜スープを作っていた。それはいつの間にか習慣化していた。
「 バカじゃねえの……」
  涼一が言った。
「 わざわざそんな事する為に来たんじゃないだろ」
「 違うけど…」
「 だったら恩着せがましくそんな事しようとするなよ。何考えてんだよ」
「 でもどうせ行ったら作れって言われると思ったから。来てまたスーパーへ行くのは嫌だったし、それなら最初から買っておいた方がいいだろ」
「 なっ……」
  雪也の言いように珍しく涼一の方が絶句した。そんな涼一を雪也は黙って見やった後、鞄から携帯と鍵を出してテーブルに置いた。涼一がはっとしたような顔を向ける。
「 ……何だよ」
「 これ、返す」
「 返すって何だよ」
「 返すから返すって言ってるんだよ。携帯も鍵も剣の物だろ」
「 ……いらねえよ」
  涼一はぶすくれた顔のままそっぽを向いた。雪也は眉をひそめてテーブルに置いたこの部屋のキーを見つめた。
「 俺が持っていたら変だよ」
「 何で」
「 もうここに来る事はないだろうし」
「 何で」
「 ……何でじゃない」
  精一杯強気の姿勢で雪也はそう言い、それから深呼吸の意味でふうっと息を吐いた。
「 持っていられないよ。ここには来ないよ。剣が呼んでも、もう来ない」
「 ………誰が呼ぶかよ」
  くぐもった声が聞こえた。雪也は心の中でその台詞に安堵して、「それじゃあ尚更いらないだろ」と続ける事ができた。
「 それに、もしこの部屋の何かが失くなったりしたらお前俺を疑うだろ。俺が勝手に入ってきてるんじゃないかとか勘ぐるだろ。そんなの、俺は嫌だから」
「 ………」
「 携帯だって使わないよ」
「 ……何で」
「 だから、何でじゃないって!」
  さすがに腹立たしくなって雪也は声を大にして言った。けれど相手は全く動じず、ただ俯いたままこちらの話を聞いているのかいないのか、手持ち無沙汰のような仕草で傍の缶ビールを指で触っていた。雪也はそんな涼一を見つめた後、仕方なく立ち上がった。
「 何処行く」
  涼一が顔を上げずに言った。それは帰る事など許さないというような実に厳しい言い様だった。雪也は依然として胸にざわついたものを抱えながら、「台所だよ」と言った。
「 野菜スープ飲むだろ」
「 ………」
「 作って帰るよ」
  涼一の返答はなかった。雪也は相手の反応を待つのはやめ、傍に置いておいたスーパーの袋を持ってキッチンへ移動した。
  この部屋の住人よりも勝手知ったる台所は、しかしたかが一週間でひどく乱れていた。流しには洗われないまま無造作に置かれたコップ、それにカップめんなどの残骸が残っている。
「 汚いな、もう…」
  思わずそんな台詞が唇から漏れた。幸い涼一には聞かれなかったようで、何も言われずに済んだが、ここも片付けていかねばならないだろうなと雪也は何ともなしに思った。


「 雪〜頭痛い〜」
  涼一はそれほどアルコールに強いというわけでもないのに、時々不意に自身の酒量をわきまえず、めちゃくちゃに飲む事があった。
「 うう、ぼーっとする。だるいし。雪、看病してよ」
「 自分が悪いんだろ」
  二日酔いの時の涼一は普段以上に甘えん坊になった。必要以上に擦り付いてきたり、強引に抱き寄せてきたり。そうしてまるで人形を扱うような所作で雪也の身体のあちこちを撫でる事もあった。
「 も…! ちょ…っと、やめ…っ!」
「 やだ」
「 嫌だじゃないよ。まだ酔っ払ってんの…!」
「 酔ってないよ。俺は酒飲んでも酔っ払いはしない」
  涼一はそう言って笑ってから、頬を寄せられてただ困惑する恋人を楽しそうに見やった。
「 俺、どんなに飲んでも理性とかって絶対なくならないから。だから苦労するんだよな」
「 え?」
「 何でもない。な、雪。じゃあ、あれ作って。雪の得意の野菜スープ」
  そうして涼一はそれから最低一日は雪也の事を自分の部屋に拘束した。


「 できたよ」
  台所の片づけを済ませた後、雪也は作ったばかりのスープを皿に注ぎ、涼一のところへ持っていった。
「 かなり熱いから」
「 ………知ってる」
  涼一はつまらなそうに言ってから、黙って目の前に置かれたスープを見つめた。それからガチャリと派手な音を立てて傍に添えられたスプーンを取ると、黙々とそれを口に運び始めた。
「 ………」
  雪也はそんな涼一の姿をただじっと見つめた。
  いつもはいちいち感動しながら食べてくれる涼一も、関係が破錠した今は当たり前だが無言である。
「 ………おいしい?」
  涼一は応えなかった。ただちらりと雪也を見ただけだ。
  それでも雪也はそんな涼一にどこかでひどく安心していた。あれほどここに来る事に怯えと覚悟を要していた気持ちも今は消えている。涼一が応えない事などどうでも良かった。それよりも、やはりこんな風に自分が作った物を口にしてくれる涼一を自分は心底憎む事はできないのだと雪也は感じていた。もし涼一が本当に自分の事が嫌いなら、いくら習慣となっていた事とはいえこんな風に面と向かって食事などするだろうかと思うのだ。きっと自分は涼一に対して腹の立つ事をしたのだろうし、元々飽きられるだけの人間なのだから仕方ないとは思うが、険悪になったまま別れてしまうのはやはり嫌だった。けれどもしかするとこれですっきりとした形でさよならができるかもしれない。そんな仄かな希望すら、雪也には湧いてきていた。
  雪也は涼一の事をただ見やった。
「 ……何見てんだよ」
  一通りスープを飲み終えてしまうと、涼一がようやく口を開いた。
「 人が食っているとこ、そんな風にじろじろ見るなよ。食いにくいだろ」
「 ごめん」
「 謝るくらいならやるなって」
  無表情で涼一は言った後、乱暴な所作でスプーンを皿に放り投げると、すっと冷めた目をして雪也を見やった。
  そして言った。
「 じゃあ、来いよ」
「 え?」
  何を言われているのか分からずに問い直すと、涼一は意地の悪い顔をして笑った。
「 何とぼけてんだよ。抱いてやるって言ってんだよ。その為に来たんだろ?」
「 は……?」
  突然何を言い出すのか。
  言われた事にただ呆然としていると、涼一の方は突然身体を寄せ、そんな雪也の両肩をぐっと強く掴むとそのまま強引に押し倒してきた。
「 つ…ッ!」
「 バカじゃねェの。鍵だの携帯だの…食い物だのさ…。何だかんだ理由つけて、結局は俺のとこに来たかっただけだろ」
「 ……ッ!」
  ひどく悪意の感じられる言葉だった。雪也は声を出す事ができなかった。
「 だからさ…望み通りヤッてやるって言ってんだよ」
「 ……!」
「 感動で声も出ない?」
  刃のように尖った声が耳に痛かった。それでも雪也はもう何も言えなかった。


  黙っていることで誤解されるのは、もう嫌なのに。



To be continued…



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