(9)



  涼一の射るような目から逃れたくて、でもできなくて。
  雪也はただ困惑したような表情を浮かべ、目の前の相手を見つめた。
「 答えろよ」
  そんな雪也に、涼一は容赦なく同じ台詞を叩き付けてきた。
「 好きなんだろ」
「 どうして…」
  声は出ただろうか。少しだけ不安に思ったけれど、自分の唇が震えながらでも動いたのが分かったので、雪也は縋るような思いで自分に覆い被さるような姿勢で迫ってくる涼一を見やった。
「 どうして今更そんな事……」
「 煩ェ。答えろって言ってんだろ」
  乱暴な口調だった。答えなければ解放してもらえそうもなかった。
「 ………もう」
  カラカラの喉から声を振り絞ると、息が詰まったようになって一瞬呼吸困難になった。雪也は一度小さく咳き込み、それから相手が怒り出さないうちにと慌てて言葉を続けた。
「 好きじゃ……」
  それでも最後まで言い切る事ができなかったのは何故だろう。
「 ………」
  それきり声を消してしまうと、涼一はより一層殺気立った表情を浮かべ、雪也の顎を強引に掴んで視線もろとも自分の方を向かせた。
「 好きじゃないのか。もう、忘れたのかよ。完全に」
「 剣……」
「 じゃあ…もしあいつがまたお前の前に現れても…お前はもう何とも思わないのかよ。『大好きな護お兄ちゃん 』 がお前に会いに来たとしても、お前は何とも思わないのか」
「 そんな事あるわけない……」
「 あったらどうするんだって訊いてんだよ!」
「 どうして剣がそんな事言うんだよ!」
  雪也は思わず叫んでいた。
「 関係ないだろ! お前には!」
  責め立てられて、乱暴にされて。
  それでも、雪也は涼一に刃向かう気持ちにはなれなかった。何を言うつもりもなかった。けれど「護」という青年は、本来雪也にとってはもう思い出してはいけない存在だった。だから別れ別れになってしまったあの日から、雪也は護への想いを自分なりに断ったつもりだったし、それが完全にできないまでも、忘れたフリはそれなりに出来たつもりだった。
  それなのに。
  その自分の心の奥底に押しやって無理やり忘れ去ろうとしていた感情を、雪也は今涼一によって力任せに掘り起こされたと思った。ひどく居た堪れなくなった。
「 どうだっていいじゃないか!」
「 何だと……」
  けれど目一杯怒鳴った後、雪也ははっとなって再び黙り込んだ。目の前の元恋人は雪也の荒げた声に一度は驚愕したものの、すぐにすっと怒りのこもった表情になり、厳しい眼をして真っ直ぐな視線を向けてきたのだ。
「 お前は…別の奴が好きなくせに、一年もの間俺と付き合ってきたんだぜ」
「 ………だから…好きじゃない…もう…会う事もないんだから……」
  途切れ途切れに言った言葉も、涼一には何も響きはしなかった。
「 『 会えないからもう好きじゃない 』 なんてバカな台詞、お前よく言えるな」
  涼一は心底軽蔑した目を向け、乱暴に雪也の顎を掴んでいた手を離した。興奮しているのだろうか、微かに肩で息をしている。
「 じゃあどうして…」
「 何だよ」
  涼一の厳しい口調に、けれど雪也は尋ねずにはいられなかった。
「 じゃあどうして剣は俺と付き合った…? 俺、ちゃんと言った。別に隠してなんかいない。あの人の事は剣にも話していたし、何度も言った。もう忘れたって。好きだったけど、もう会う事もないって。それなのに…思い出させるような事何回も言わせたのは剣じゃないか…!」
「 ………」
「 違う…?」
「 ………」
「 何で今更そんな事でこんな怒るのか分からない」
「 ………」
「 そのせいなの? 俺とはもうこれっきりって言ったのは…」
「 ………」
「 剣」
「 そうだよ」
  涼一は答えた。雪也は身体の力が一気に抜けるのを感じた。
「 だったら…」
  言いかけた時、雪也は再び涼一に拘束された。背後の壁に強引に身体を押し付けられて、衝撃で不意をつかれた拍子に無理やり口づけをされた。
「 い……ッ!」
  逆らおうとして顔を背けようとしたが、力強い涼一の前には為す術もなかった。無理やり顎を掬い取られた先で何度も何度も唇を重ねられ、その激しさ故に上唇まで噛まれた。
「 ん……う、ぅ……ッ!」
  弱々しく両手を動かし、涼一の腕を掴む。相手はびくともしなかった。執拗に唇を取られ続けて、雪也はもう乾いたはずの目じりから再び涙を滲ませた。
「 ぃや…や、だっ…」
  それでも何とか抵抗の言葉を吐くと。
「 煩ェよ!」
  また平手打ちが飛んできた。それで雪也は再び口を閉ざされた。

「 ……お前は」
  やがて。
  何も見えない暗闇の中で、涼一の押し殺したような声が聞こえた。それは近くにあるはずの声なのに、とても遠くから発せられたような声だった。
「 一度でもまともに俺を見た事があるか」
  ゆっくりと目を開くと、そこにはもう怒りを露にした涼一の顔はなかった。
  その顔は、むしろ―。
「 剣……?」
  呼んだ瞬間、たまっていた涙が頬を伝って落ちた。それでも構わず涼一を見つめていると、相手ははあと大きく息を吐き出してからやや震えた声で言った。
「 お前は俺の何を知っている?」
「 え……」
「 知らないだろ。お前は俺の事なんか何も知らないんだ。興味ないんだからな。お前は護君以外の人間の事なんてどうでもいいんだよ」
「 ………」
「 どっちが最低だか分かるか。お前だよ、お前本当に最低な奴だ。それで何そんな風に泣いている? まるで俺が全部悪いみたいな不幸面しやがって」
「 剣……」
「 その呼び方も。嫌なんだろう? 護以外の奴を名前で呼ぶの。だから俺の事もずっとそんな他人行儀な呼び方し続けたんだろう? それでお前は心で笑っていたんだよ。バカみたいに何度もお前の事好きだって言っていた俺の事を」
「 そんな事ない…」
  茫然としながら、それでも雪也は何とか言葉を吐き出した。
「 俺…そんな風に思ってお前と付き合っていたわけじゃない……」
「 ………お前、本当にムカつくよ」
「 …ッ」
  雪也はそう言う涼一に応える事ができなかった。

  涼一がそこまで考えていたなんて知らなかった。

  茫然として、ただ力なく首を振るしかなかった。違うと言いたいけれど言えない。そんな雪也とは対照的に、一度想いを曝け出した涼一は堰を切ったようにまくしたて始めた。
「 何だよ。何首振ってんだよ。違うって言いたいわけか? じゃあ訊くけどな、お前は俺を何だと思っていた? 体のいいセックスフレンドか? 寂しい夜を紛らわせてくれる都合のいい遊び相手か?」
「 そん……」
「 冗談じゃねェぞ…お前みたいな冴えない奴…。勘違いするのもいい加減にしろよ。お前みたいなつまらない奴、俺が付き合ってやってたんだ! 調子に乗りやがって、何様のつもりだよ!」
「 そんな事……」
「 あ? 聞こえねェんだよ、はっきり言え!」
「 そんな事、思ってない…!」
  搾り出すように精一杯声を張り上げた。ズキズキと痛む胸を、唇をかみ締める事で堪えると、その弾み、興奮からか喉の奥でひゅうと声にならない音が漏れた。それと同時に、雪也は望まない涙をまたどっと溢れさせてしまった。
  そんな雪也を見て涼一はヒステリックに叫んだ。
「 泣くなって言ってんだろ!」
「 ……ッ!」
  その声に雪也はびくりとして肩を震わせ、それから必死に片手で涙を拭った。
「 イライラさせやがって……」
  くぐもったようなその声に、雪也は怯えながらも視線を向けた。目の前の涼一は頬を紅潮させ、どことなく熱をもったような顔で、どこでもない遠い場所を見つめているような眼をしていた。その表情は雪也に自らの涙の存在を忘れさせた。
  泣いているのは涼一のような気がした。
  雪也は何も言えなくて、けれど苦しくて、ただ涼一を見つめるしかなかった。
  どうしてこんな風に傷ついている涼一に気づく事ができなかったのか。
  多分、涼一の言う通りなのだ。自分は今までこの剣涼一という男の事をまともに理解しようとした事はなかったと思う。最初から見ようとしていなかった。涼一は誰が見ても完璧な奴で、自分とは元々「世界の違う人間」、「不釣合いな相手」であると、はなから思い込んでいるところがあった。だから付き合いを始めてからも、これは涼一のただの気紛れで、そのうち飽きてしまうのだろうと思っていたし、そんな思いを持っていたからこそ、こちらも本気で付き合おうとはしていなかった。涼一を好きではなかったのとは違う。自分なりに好きだと思って付き合ってはいた。けれど、それは決して本気の付き合いではなかったのだ。いつもどこかで距離を取っていた。
「 でも俺、そういう付き合いしか……」
  独り言のはずなのに、雪也は思わずつぶやいていた。
  間違いだと分かっていても、相手にひどい事をしていると気づいても、自分にはそういう付き合い方しかできない。それが精一杯なのだと思う。
  何故なら。
  誰かに夢中になって、また離れなければならなくなるのが怖いから。
「 何だ…何か言ったかよ……」
  ふと我に返ったかのような涼一が、ぽつりと何事かを発した雪也に不審の目を向けた。それで雪也は茫然とした顔のまま相手を見上げ、知らず知らずに言っていた。
「 ごめん……」
  それは本当に、意識せずに生まれてきた言葉で。
「 ごめん……」
  相手の感情が再び怒りに満ちるのを感じたけれど、雪也は言わずにはおれなかった。
「 ごめん……」
「 何謝ってんだよ……」
  掠れた涼一の声に、雪也は再び涙が溢れてくるのを感じた。ただ謝るしかできなくて。けれどもう相手を見る事はできなくて。雪也は下を向いたまま必死にこぼれる涙を隠した。自分はいつだって言葉が足りないのだと思う。こういう風に思っているのに、こういう事を伝えたいのに、それをうまく表現できない。自分なりに相手を想っている、たったそれだけを言えば良いのに、その気持ちを伝える事はできない。
  だからいつもどこかで誤解される。
「 おい、何謝ってんだって言ってんだよ…」
  焦れたような涼一の声で、雪也はすうっと呼吸をしてから小声で言った。
「 ちゃんと……思っている事とか言えなかったから…」
「 は……」
「 だから……」
「 何だよ、その思っていた事ってのは」
「 俺……」
「 ………」
  それでも雪也はもう沈黙してしまった。
  今更「自分なりに涼一が好きだった」と言ったとして、それが一体何になるだろうと思う。色々な気持ちがごちゃごちゃになって、やはりうまく言えない。それにそんな言葉は最早もう何の意味も為さない。だから涼一に言う言葉はもう謝罪の台詞しかないのだと雪也は思った。
「 ………」
「 ………くそっ」
  涼一がつぶやくようにそう言って、ガンと雪也の寄りかかる壁を叩いた。その硬く握り締められた拳はやはり少しだけ震えていた。
  雪也はもう何も言えなかった。
  涼一も何も問い質さなかった。


  それから雪也は、寝室の壁に掛けられた時計の針の音だけを聞きながら、涼一のベッドの中、傷んだ身体を丸めてただ目をつむっていた。裸の身体を厭うようにタオルケットを身にくるみ、朝が来るのをひたすら待った。
  涼一は隣のリビングでどうしているのだろう。眠っているのだろうか。そんな事をふっと思ったが、それを確かめに立ち上がるのが怖くて、ベッドから出る事はできなかった。
  そしていつしか意識は遠のいた。


*


「 あんたのそのウジウジとした態度が本当に駄目なのよね、私」
  酒に酔うと絡む母親の美奈子は、傍で雪也に晩酌の相手をさせながらとろんとした目つきのままだらだらと話し続けた。
「 それにね、あんたの父親は元々娘が欲しいって言っていたのよ。あんたが産まれた時は、だからそりゃあもうショックでね。多分あの人と別れたのもそれが原因だったと思うわ」
  そんな事を自分に言われても困る。誰も好きであんたの息子に産まれてきたわけではないのに。
「 でも途中まではきっと当たっていたのよ。どこかで間違っちゃったのよね、きっと。だってあんたは性格も顔も女の子だもの。そのものだものね。まったく、余計なもんさえついてなきゃねえ…。いっその事、取っちゃったら?」
  吐き気がした。悪意に満ちたその台詞も、その後不意に強要してくる…「あの事」も。
  嫌で嫌で仕方ないのに、それでも逆らえなくて。
  いつもいつも泣いていた。
  いつもいつも逃げていた。

  『 雪 』

  あの人の傍だけが自分の逃げ場所。あの人だけが助けてくれる。
「 雪、俺のところにいろ。隠れていればいいよ。俺が守ってやるからな」
  そういえばあの時のあの人はいつも以上にひどく優しかった。とても温かったと思う。
  一体どうしてだったのか……。


*


  雪也がすっと目を覚ました時、枕もとには着替えとバスタオルが置いてあった。
「 ………」
  うっすらと開いた目をドアの方へ動かす。朝が来たのだ。鳥のさえずりと窓から漏れる明るい光が雪也の感覚を刺激する。隣の部屋から音はない。人の気配もしない。雪也は傍にあったバスタオルを羽織ってベッドからのそりと抜け出した。
  リビングへ出たが涼一はいなかった。
「 剣……」
  呼んだけれど返事はなかった。部屋の中央にあるガラスのテーブルに目をやると、そこには部屋の鍵と携帯がそのまま放置されていた。
「 ………」
  頭が痛い。眉を潜めてのろのろとダイニングへ向かい、蛇口をひねって水を出す。勢いよく流れるそれを、昨日自分が洗ったコップに注ぐ。一口飲んで、ひねったままの蛇口から未だ流れ続ける水を雪也はじっと眺めた。
  今日は。
  大学の講義が三コマ入っていて。
  夜はバイトがあって。
  ああ、そうだ。その前に母親の夕食を作る為に一度家に帰らなければ。おかずになるものが大してなかったから、スーパーへも寄らなければ。風呂場の洗剤が切れかけていたから、ついでにそれも買っておこう。
  バイトが終わったら、「淦」へ行こう。創に会いに行こう。
「 それから……」
  頭の中で考えていた事なのに思わず声を出してしまった事で、雪也はそんな自分自身に驚いて喉を詰まらせた。ごほごほと咳き込み、それからまた水を飲もうとして失敗した。
  コップは無造作に雪也の手から離れ、がちゃと派手な音を立てて流しに転がった。
「 ……ぅ…ッ」
  どうして悲しいのだろうと思う。どうして泣いているのだろうと思う。
  雪也は自分自身でも分からないままに、ただ嗚咽をもらしていた。その声を自分で聞きたくなかったから、より一層強く、水道の蛇口を捻った。
  水はザーザーと激しい音を出しながら、無造作に流れ続けていた。



To be continued…



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