温かい午後に |
雄途は根が真面目なので、やれと言われたことはとりあえずやる。 たとえ大嫌いな両親でも「大学へ行け」と言われたら行くものだと思ってそれなりの努力をするし、「どうせなら一流大学へ行け」と注文を付けられても、表立って反抗することはない。たぶん、逆らうだけの気力がもうないのだ。かなり長いこと、雄途は雄途なりの方法で親には散々抗ってきたが、そんな些細な抵抗に「これ以上ない」というほどヒステリックな反応を返すのが母という生き物だった。彼女がそうなったのは明らかにあの男―雄途の父―のせいだと思うのだが、こちらは母親以上に関わりたくない人物だ。 だから雄途は無駄な労力を費やすのはやめた。やれと言われたことをとりあえずでもやれば、当面の平和は保たれる。 そうやってもう17年も、雄途はきつく縛られた想いであの家にいる。 「お帰り」 雄途が学校から帰宅すると、台所には港だけがいた。まるで想像していなかったので雄途は面喰らったが、何より港のしていることが珍しくて、そちらを訊く方が優先された。 「何してるの」 「見れば分かるだろ。飯作ってんの」 港はたまねぎやベーコンが入ったフライパンに茹でたスパゲッティを放り込み、軽い手さばきでそれらを炒めていた。それから傍の水菜やめんつゆ、コショウなどを加え、さっと麺に絡ませている。 そのどこか慣れた手つきを雄途はまじまじと見つめた。港はただ有り合わせのもので適当に作っているだけなのかもしれないが、料理を全くしない雄途にしてみれば、港のこんな些細な生活力は十分尊敬に値した。 「おいしそう」 だから思わず本音が漏れたが、これに意外や港の当たりは柔らかかった。 「半分食べる?」 「いいの?」 「そんなもの欲しそうな目で見つめられちゃあね」 今日の港は機嫌が良いのか、いつもより優しい。 それが分かって雄途はすぐ有頂天になった。ただ、露骨に喜びを露わにするとあっという間に引かれてしまうので、慎重に、努めて平静を装いながら「着替えてくる」と自室へ上がった。 どうやら母は留守らしい。 大して交友範囲の広くない雄途らの母は、ほぼ1年中家にいる。だからこそ雄途の人生が自分の人生のようになって過干渉に拍車がかかるわけだが、最近はどうしたことか、家を空けることが多くなった。自治会の手伝いとか、昔の学友との同窓会、とか。雄途たち家族にしてみれば、母が家庭以外のところへ意識を向けてくれるのは何よりありがたいことだから、理由などどうでも良い。少しでも長くそういう日々が続けばいいと、雄途などは半ば祈るような気持ちでいるくらいだ。 普段、家にいる時は自室にこもるばかりの港が、ああして悠々とキッチンを占領しているのも、つまりはそのお陰だ。そのお陰で、雄途も港との穏やかな時間を共有できる。 「飲み物どうする」 「港と同じの」 いつものテーブル席に落ち着くと、目の前にはすでに2つの皿に分けられたスパゲティが綺麗に並べられていた。昼食には遅く、夕食には早い時間だが一向に構わない。思わずそれを凝視していると、背後からグラスを持った港が呆れたように言った。 「そんな大層なご馳走じゃないんですけど」 「え?」 「雄途君の目があまりにキラキラしてるから」 「だって、美味しそうだよ。あ…ありがとう」 こぽこぽと心地よい音が響いて、港が入れてくれた冷茶が添えられる。雄途は本当に嬉しくて、にこにこしながら礼を言った。港が向かいの席に座る。これも久しぶりだった。 堪らなく気分が高揚した。 「いただきます」 夢中で頬張ると、港はますます呆れたようになって「昼、食べてないの?」と訊いた。 雄途はすぐに頷いた。 「うん。昼は大体食べない」 「……何で。お母さんのお弁当は」 「クラスメイトで貧乏な奴がいるから、そいつにあげてる」 これは嘘ではなかった。 母親の料理など夕飯だけで十分だと、以前、こっそりゴミ捨て場に捨てようとしていたところを咎められ、以降、弁当はそのクラスメイトに譲ることになった。いつも雄途と成績上位を争うその女子生徒は、家庭の事情で勉学とアルバイトを両立させているという昨今では珍しい勤労学生だが、普段からとても明るく周囲の人気者であり、何かと外れ者になりがちな雄途にもよく声を掛けてくるような級友だった。 「それにしたって、何か買って食べればいいだろ」 事情を聞いた港は、「男が女に弁当あげるって珍しいな」と苦笑しつつも、昼食それ自体を取らないという雄途には当然眉をひそめた。 「だって別に食べたくない」 「今、猛烈な勢いで食べてるだろ」 「だって、これは港が作ったものだから」 「そういう我がままばっか言っているから、雄途君はいつまで経ってもガリガリなんだよ」 「……痩せ過ぎてると、抱きたくなくなる?」 「あ、失敗した、この会話なし。もう黙って食え」 港は軽く片手を挙げて雄途の視線ごとシャットアウトすると、自分も黙々とスパゲティをフォークに絡め始めた。雄途はすぐに「しまった」と思ったが、それでも、ペナルティが「この程度」で済んだことを奇跡のようだと思った。いつもなら港はもう席を立ってしまっているだろう。今日はよどほ機嫌が良いのだ。 それとも、こんな幸せが長く続くわけもないから、やはり何か悪いことの前触れだろうか? 「雄途君、その女の子とは付き合ったりしないの」 暫くしてから港がそう訊いた。顔は皿の方に落ちたままだ。表情からは何も読み取れない。 だから露骨にむっとした様子を見せたのは雄途だけだった。 「港がそんな風に言うなら、もう弁当あげるのやめる」 「そんなのはお前の勝手だけど、俺の意見としては、そういう友だちは大事にして欲しいね」 「どうして。だって、俺にとってはどうでもいい奴だ」 「そう思っていた奴が、後になって結構大事になる場合だってあるよ」 「ないよ、そんなの」 「今はそう思っていても、未来はどうか分からないって話。ともかく、人間関係は良くしておけ」 「何で…っ」 港がおちゃらけた言い方をやめて「普通」になる時、雄途は嬉しい気持ちにもなるが、同時に複雑にもなる。それは雄途の兄としての顔で、本当に雄途を想って言ってくれているというのが分かるから「嬉しい」のだが、一方で雄途が本当に求めている顔とは違うから、「複雑」になる。 否、兄の顔だろうが何だろうが、港が自分を受け入れてくれるのならば、雄途は何だって構わない。けれどこれまでの経験で考えれば、こういう時は大抵、港は雄途が望む形で傍にはいてくれない。優しいし想ってくれてはいるのだけれど、ゆらゆらと掴みどころなく距離を取られて、徐々に遠くへ行かれてしまう。 「……港以外の人間なんか要らない」 だから必死にしがみつこうと思って雄途はそう言った。ひどく低くくぐもった声だったから、聞こえにくかったかもしれない。でも、港には届いたはずだ。 案の定、港は手を止めて顔を上げた。 「雄途」 「や、やだッ! その呼び方やだッ! やっぱり、何か今から嫌なこと言う気だろ…!? だから今日、こんな優しいんだ、そうでしょ!?」 「何だよ。“雄途君”って呼ぶ時だって、子ども扱いしているから嫌だって怒る時あるくせに」 「だって今日、おかしい!」 「俺がお前に優しくしたらおかしいのかよ! だったらもうそれ返せ!」 「嫌だ!」 がばりと囲うようにして皿を隠した雄途は、しかしそんな冗談めいたオーバーな所作とはかけ離れた悲壮な顔をしていた。 港はそんな雄途に暫しぽかんとした後、心底困ったように目を伏せ、それから――…小さく笑った。 「…悪かったよ。まぁそうかもな。近年稀にみる安定感かもな…。自分でも分かるよ、今日は確かにいつもと違うね。雄途君が警戒するのも無理ないわ」 「何で…? あ、港、まさ、まさか、家、出てく、とか…!?」 思わず唇が震えて、雄途は自然たどたどしい口調で訊いた。母の外出が増えたといっても、この家が住みづらい所であることに変わりはない。夜は相変わらず暗い食卓で、雄途は成績のことばかり煩く言われるし、偶に父がいれば、港が突つかれて険悪な空気になる。 港はまだ学生と言っても、その気になればこの家を出ることはたやすいはずだ。むしろ母などは喜んでそれを受け入れるだろうし、すでに独立して新しい家庭を作った港の「実兄」である海などは、率先して港の引っ越しを手伝うだろう。 港がいなくなることが、雄途にとっては1番の恐怖だ。 「そうなの? お母さんが、何か言った?」 「言わないよ。最近まったく口きいてないし?」 「じゃあ…じゃ、海…兄さんが、何か言ってきたとか?」 「それはしょっちゅう言ってくるけど、いつものことだろ」 「しょっちゅう言ってくるの…」 率直に落ち込む雄途に港は苦笑した。 「あれはあの人の挨拶みたいなもんだよ。“何でいつまでもあんな所にいるんだ、何考えてんだ、出る気なら早く言え、幾らでも金出してやるから”ってさ」 海は実母を追い出して「新しい家庭」を築いた実父を最も恨んでいるが、その新しい家族である雄途の母、それに雄途のことも等しく嫌っている。だから唯一自分の「家族」と認める弟の港がいつまでも雄途たちといることが理解できないようだ。 港もそうだが、もともと海は長兄の雰囲気そのままにしっかり者で独立心も旺盛、1人だけでどんどん遠くへ行ける力を持っていた。両親に不満を抱きつつも、徹底的に逆らうパワーを持ちきれずに、その場に留まる雄途とは根本が違う。 「俺も……海兄さんと、港の、本当の弟だったら良かったのに」 ぽつりと呟いた雄途に、港が諌めるように言った。 「弟だろ」 けれど雄途は納得しない。緩く首を振ってそれを否定した。 「違う。少なくとも海兄さんはそう思ってない。俺も兄さんのことは昔から怖かったけど…憧れてたよ。でも、いじめられるだけいじめられて、遠くへ行っちゃった」 「別に遠くないよ。同じ都内に住んでるし。今度会いに行く?」 「港は行けるけど、俺は行けない。ウミとミナトは一緒になれるけど、ユウトなんて異質じゃん。全然関係ない」 「何かよく分かんない話になってんな」 「分かんなくないよ、簡単な話だよ。俺も2人の本当の兄弟だったら、同じような名前にされていたと思うよ」 「何? 海繋がりで? 例えば?」 「え……分かんないけど。……船、とかさ」 「フネって、お前。それじゃサザエさんのお母さんじゃん」 ぶっと吹きだして港が笑った。今度は雄途がぽかんとする番だった。何にしろ害のない港の笑顔は珍しい。しかも声を立てて笑うものだから雄途はすっかり意表を突かれ――。 そしてやっぱり悲しくなった。 「ねえ…今日、何か良いことあったの」 「ん…」 「外で。俺の知らない所で」 「雄途君だって、俺の知らない所で可愛いクラスメイトの女の子に弁当あげたりして、楽しいことしてるじゃん」 「楽しくない! それに、別に可愛くもないよ!」 「ひっで。女の子には優しくしろよ」 「港に言われたくない! そこら中で女泣かせてる港に!」 「おいおい…」 「俺のことも泣かせるくせに!」 思わずどんとテーブルを叩いた雄途に、港は今度こそ「降参した」という風になって「分かった分かった」と言った。何が分かったんだとさらに怒鳴り返してやりたかったけれど、雄途は自分も理不尽なのは分かっていたから次の言葉を紡げなかった。 何故って、港がご機嫌ならご機嫌で不安だなどと、それは勝手な言い分だろう。 「無視して冷たくしても泣いて、こうやって優しくしても泣いてじゃ、どうしていいか分かんないな」 案の定港はそう言ってから、ごまかすようにフォークを握る手を動かした。ただ、食事を再開しようとはしない。何かを考えている風だ。 雄途はそんな港をちらちらと見てから、自分は再び絡めた麺を口へ運んだ。じわりと心地の良い味が口内に広がる。普段空腹など感じた試しがないのに、港が自分にくれた料理だと思うと泣きたくなるほど美味しく感じた。 「港。また作ってよ」 「ん」 「ご飯」 「…お母さんがいない時ならな」 「家、出て行かない?」 努めて平静を装って訊いた。 港はすぐに答えなかったが、それでもややあって「うん」と返した。 そしてようやく顔を上げた。 「雄途君がここにいる限りは、俺もここにいるよ」 「本当?」 「うん」 今度はしっかり目が合った。雄途は心からほっとして、反射的に「俺、大学受かったら外出るから」と急くように告げた。 「絶対出る。だから、そしたら港もそこで暮らそう?」 「二人で?」 「うん。港と二人で、二人だけで暮らしたい、ずっと」 「何それ、プロポーズ?」 からかうように港は笑ってそう言ったが、雄途は至極真面目な顔で「うん」と頷いた。嫌がられるかもしれないと思ったが、今日の港の異質さを考えれば、これくらいの冒険はしても許されるのではないか、そう思えた。 予想通り、港はいつものような嫌な顔も陰鬱そうな様子も見せなかった。 ただこの時はもう雄途の顔は見ていなかったけれど。 「そうすると、雄途君が現役で合格出来たとして、あと1年か。長いのか短いのか…」 「すぐだよ。俺、絶対に受かるから。そしたら一緒に暮らしてくれる? いいんだよね? だってそういう言い方するんだもん、いいんだよね、港も?」 「さあね」 「何で!」 「1年先のことなんて分かんない」 適当な言い方をして港は立ち上がった。いつの間にか皿は空になっている。それと同じく空になったグラスを持って、港はシンクにそれらを運んだ。 「港」 雄途も立ち上がってそんな港の背に声を掛けたが、声は返ってこない。港の顔が見えず、彼が何を考えているのかが分からず、雄途はただ不安になった。 けれど再度何かを言おうと思った時に、港が先に口を開いた。 「最近、また描きたくなってきた、かも」 「……え?」 一瞬何を言われているのか分からず雄途は聞き返したのだが、港はややあってから同じことを繰り返した。 「絵だよ。描きたくなってきたかもしれない。分かんないもんだろ、もうどうでも良かったはずなのにな…実際、描き方なんて忘れちゃったよ」 「港、本当に?」 「さっき言ってた、当初はどうでもいいと思っていた人間関係のせい、だよ。同じ研究室に鬼頭って奴がいて、そいつがあんまりしつこいからグループ展を開くことにしたの。最初は絵じゃない何かでと思っていたけど……何か、描きたいんだよな」 「本当に? すごい、港!」 「何が凄いんだよ」 ようやく港が振り返った。あまりに雄途が興奮したような声を上げるから戸惑ったのだろう、実際港の顔は困惑していた。自分から言い出した話題なのに、港自身、まだそのことに面喰らっているのかもしれない。 けれど港の機嫌が良かったのは、確実に「そのせい」なのだ。 雄途はその「どうでもいい人のはずだった」港のまだ見ぬ友人に仄かな嫉妬を覚えつつも、それ以上に沸き立つ喜びを優先させて、港の前にまで歩み寄った。 「俺も、港の絵が見たいよ」 港が何も言わないので、その腕をぐっと掴んでもみた。 「何でずっと描かないのかって思ってた。部屋の中漁っても、スケッチブックずっと真っ白のままだったし…」 「勝手に漁んな」 「だって港が……」 「あー、煩い、煩い。雄途は煩い!」 港は喚くように言ってから再び踵を返した。そうして水道の蛇口をめいっぱい捻り、全てのことを誤魔化すように汚した食器を洗い始める。 雄途は振り払われた腕が忙しなく動いている様を見つめつつ、「港」と試しに呼んでみた。 返事はない。 ただ、その横顔はやはり穏やかだ。瞳の奥には確実にいつもの憂いが潜んでいるのが見えたけれど、少なくともこの時の港はとても静かで、すでに何を描こうか、そのイメージを膨らませようとしている節が見て取れた。 だからそれが嬉しくて、雄途はその背にそっと抱き着いた。 「邪魔」 すぐに港はそう言い放ったが、雄途が離れずにいると「雄途君」とまたトーンを下げた言い方になった。 「洗いにくいんですけど」 「うん」 「うんじゃないよ。離れて」 「やだ」 「言うこときかないと嫌いになるよ?」 「やだ」 「………でも、離れないんだ?」 あーあ、と言って港はくっと小さく笑った。雄途はそれが嬉しくてがばりと顔を上げると、「ねえ」と港の服の裾を引っ張った。港がちらと振り返る所作を見せたので、雄途はすかさず横に並んで「キス…」とねだった。 「やだよ、調子にのんな」 「したい!」 強請るように再度腕を掴んでせがむと、港はため息をつきながらも水を止めて雄途に望まれるままのキスをした。唇同士が軽く触れあっただけの、それは本当に一瞬のキスだったが、雄途は今までのどのキスよりも熱く感じて目元が潤んだ。 こんなに良いことが続くわけない、きっと何か悪いことの前触れだ。 心のどこかでは不幸体質な自分が常にそれを叫んでいる。不安を感じる。それはこれまでの生活で澱のように溜まった深く淀んだ傷のせいだ。けれども雄途はそれを極力表に出さないよう必死に抗いながら、港を見つめて、それからくっと抱き着いた。そう、自分にはもう親に逆らうパワーなど残っていない。でも、港と生きていく為に必要な力は出さなければならない、と、まだそうは思える。 「港」 だから雄途はその愛しい名前を呼んで港に縋り、心細いその背をその人が抱えてくれるのを待った。 その温もりが感じられるまで、決して離れないと決めながら。 |
後編へ |