初恋 |
僕が水(スイ)と知り合ったのは大学生になって間もない18才の春だった。 田舎から単身東京の大学へやってきた僕は周囲に知り合いもなく、元来の人見知りもあってかなかなか構内で知り合いを作る事ができずにいた。水はそんな僕にとても良くしてくれ、同じ学部になったよしみだからと、安い定食屋や近所の本屋、それに都内沿線の上手な使い方なんてものまで教えてくれた。水は、自分は生まれも育ちも東京だし大学もエスカレーター式で高校からそのまま上がってきたから知り合いも多い、困った事があったら何でも聞いていいよ、と言ってくれた。僕は単純にそんな水の親切が嬉しかったし、その温かさが骨身に沁みたし、また安心もした。最初の警戒心こそ強いものの、元来僕は他人の親切に猛烈に弱い、寂しがり屋だった。そんな自分が嫌いなくせに、僕は水の優しさがありがたくて心地良くて、思い切って東京に出てきた事を本当に良かったと感じていた。 だけど水を恋愛対象として「好き」になってしまった事は間違いだった。 彼をただ困らせるだけだったから。 「 キミ。今日、行くから。鍵開けといて」 「 え…何時になる…?」 「 わかんね。寝てていいよ」 「 うん…」 「 じゃな」 「 あ……」 一方的に用件だけを言い去っていく水の背中を、僕はこうして一体何回見送った事だろう。 親切で明るくてカッコイイ、僕にとっては完璧な存在・水が、実は「どうしようもない奴」だと構内で仲間たちに噂されている事を知ったのは、彼と知り合って既に半年が経とうとしている秋頃の事だった。 「 なあ倉敷(くらしき)。お前、いい加減水と縁切った方がいいんじゃねえ?」 「 え?」 言おうかどうしようかと迷った風になりながら僕に近づいてきてそう言ったのは、同じく彼とエスカレーターでこの大学に入ってきた藤堂だった。彼は付属校出身の仲間たちの中でも特にリーダー的存在で、どっしりとしたその体格に無精髭、ラガーマンみたいな縞模様のシャツが目印のみんなの相談役だった。彼は入学当初から水以外の知り合いがいない僕に何かと気を配ってくれ、声を掛けてくれるような人だった。水とはそれほどの仲ではないけれど、「ああいうバカは放っておけないから」というのが彼の口癖でもあった。 そんな彼が講堂を出て行った水を確認した後、僕にそっと言ったのだ。 「 あいつ、前からあっちこっち女作って、その度何かトラブル起こしちゃ、誰かの家に逃げ込むんだよな。最近じゃ俺ら誰もあいつの相手しないから、それでお前に良いように頼ってくるだろ? ほら、お前1人暮らしだし。でも良くねえよ、やっぱ。変な事に巻き込まれてもお前迷惑じゃん。や、もう十分巻き込まれてるとは思うけどさ…」 「 僕は別に平気だよ。部屋泊めるだけだし…」 「 いや、だけどな…」 「 藤堂、そういう言い方じゃ全然通じないって」 「 相野…。何だよ…」 僕と藤堂の話を聞いていたのだろうか、突然横から「相野」と呼ばれた学生が近づいてきた。僕は一度も話した事のない人だ。 「 えーっと、倉敷って言ったっけ? あいつさ、他所でお前のことかなりぼろくそ言ってるぜ?」 「 え…」 「 相野! テメーよせよ!」 藤堂が声を荒げるのを相野は肩を竦めるだけで見事にかわした。 「 何で。ホントの事言ってあげた方が絶対いいって。倉敷さ、知ってる? あいつ、付き合ってる女とかにお前は何言っても逆らわないしマジで便利だって。んで、たぶんあいつ自分の事惚れてるから何でも言う事聞くんだろうって。なーなー、それってマジ? お前ってホモなの? 確か水もバイだって言うから、そのへんは問題ないんだろうけど…うちの学部、何かホモ多くね?」 「 マジで相野、テメーはやめろ!!」 「 わっ…。おい、何すんだよ!」 「 いいから来い! ごめんな、倉敷。気にするなよ! とにかく、な。まあ、あいつが最低なのはホントだ。あんま親しくしない方がいい! じゃな!」 「 引っ張るなって、藤堂!」 「 うるせー!」 引きずるように相野を連れて去っていく藤堂を僕はボー然として見つめた。水が他所で付き合っている女の子たちに僕の事をそんな風に言っているという事がやはりショックだったし、それを藤堂ら第三者から聞かされた事も悲しかった。 ただ、「やっぱり」という想いもあった。 水はいつか他人に僕の事を話してしまう、そんな気はしていたから。 「 なあキミ。俺とセックスする?」 ある日、いつものように深夜部屋に押し入ってきた水は、酔っ払った風な虚ろな眼で僕を見てそう言った。僕は急に言われたその言葉にどぎまぎして何も答えられなかったけれど、水が普段から自分に寄ってくる女の子や、時に僕らと同じ男とも寝ている事を知っていたから、それはとても冗談には聞こえなかった。自分でも瞬時にカッと顔が赤くなるのを感じた。 そんな僕に水は笑った。 「 何、恥ずかしい? キミも見る角度によっちゃ可愛い顔と言えない事もないからな。そういうのは、いい」 「 な…何言ってるんだよ…」 「 なあ。で? 俺とやる? やらない? 俺は別にどっちでもいいけど」 「 ………」 「 あ、でも好きとか愛してるとか、そういうのはなしな。そういう話になるならこの提案はこれで終わり。………どうする」 いつも体のいい寝泊り提供者というだけの存在。そんな僕がたとえ一晩でも大好きな水とセックスできるのなら、それはとても魅力的な誘いに思えた。そもそも僕は今まで誰とも付き合った事がないし、きっとそんな事は今後もないだろうと思っていた。その思いに理由なんかないけれど、それはきっと間違いのない予測だろうと思っていたのだ。 だから僕は水が気紛れでもそう言って僕を誘ってくれた事が嬉しかった。 「 うん…」 僕はおずおずと頷いた後、真っ直ぐこちらを見てくる水に「したい」とはっきり告げた。 「 ……ふうん」 すると水は意外だという顔を一瞬だけ見せたけれど、後はもう何かの作業をするような様子で、いきなり僕のことを押し倒した。そして僕を女のように抱いた。 正直あまりいいもんじゃなかった。 痛くて苦しくて、相手は水なのに異様に怖くて、不意に自分が何処にいるのかも分からないくらい、脳天から何かが突き刺さってくるみたいなぐらぐらとした眩暈にも襲われた。水がつけてきていた女の子の香水の匂いが鼻にきつかった。両足を開いたまま身体を揺さぶられて必死に歯を食いしばっている自分をバカだと思った。 中途半端に脱がされた自分の服の切れ端ばかりが視界の隅にこびりついた。 「 なあキミ。初めてだったんだろ?」 水は自分が一通り満足してイッた後、布団の上で煙草を吹かしながら僕に開口一番そう訊いた。 「 うん…」 僕が答えると水は暫くあってから「気持ち良かった?」と訊いた。 「 ……うん」 僕は水に背中を向けて壁側を向き、身体を丸めたままの格好で小さく小さく頷いた。僕はセックスというものがちっとも良いものでないと感じてしまっていたくせに、それでもその答えだけは迷わず口にした。 そうして肯定しておけば、水はもしかしたらまた僕を抱いてくれる事があるかもしれない。そう思ったから。 そうしたら僕は水とまた繋がる事ができる。近くにいられる。 そんな事を考えて、僕は水に「水のこと好きだから」という余計な一言までつけてそう返してしまった。 僕は水が好きだから、と。 「 ……そういうのはなしって言ったろ」 けれど水はそれには迷惑そうな声を出してはっとため息をつくと、あっと言う間に身体を起こして僕から距離を取ってしまった。台所でうがいをし始める水に僕がしまったと思った時にはもう遅くて、水はそれ以来僕に殊更冷たい態度を取るようになった。 幸いにして寝泊り提供者が他にいない日はまだ僕の所に来てくれるし、そしてセックスもしていってくれるけれど。 僕は希望に燃えて東京に出て来た時とは一転、実に不毛な学生生活を送り続けていた。 水という名前こそ珍しいと思ったけれど、彼はある夜唐突に「キミって変な名前」と僕の話題を持ち出した。その日も彼は酔っ払ったままの状態で僕のアパートに転がりこみ、そのままなし崩し的に僕の事を抱きしめてきた。愛情も好意もその行動の中に感じる事はできなかった。まるでここに泊めてもらう為の義務をこなしているみたいな、そんな型通りの行為だと思った。 そして、僕も。 「 キミって誰がつけたの。親?」 「 うん。母親」 僕がのろのろと気だるい身体を起こしてそう答えると、先に立って台所で牛乳を飲んでいた水は椅子に掛けてあったTシャツを僕に投げて寄越した。 「 あ…ありがと」 「 何でキミってつけたんだって?」 「 ん…」 「 理由くらいあるだろ」 「 ああ…」 僕は水から受け取ったTシャツを何となく眺めたまま、ぽつぽつと答えた。 「 くだらない理由だよ。父親が病院に来た時に寝ていた僕を抱き上げて『キミの名前、何て言うの?』って訊いたんだって。だから母はそのまま『キミよ』って」 「 何それ?」 水は唇の端をやや上げてから引きつったような笑みを向けた。僕はそんな水を見て自分もちょっとだけ笑ってから首を振った。 「 あてつけだったって。その人、別にちゃんと本宅持ってて、うちの母親は愛人だったから。一緒になってくれるって言ってたのに、結局僕が生まれた後は逃げるみたいにすぐ離れて行っちゃったって」 「 ……それって不幸な話?」 暫し沈黙した後そう言った水に僕は哂った。 「 別に。僕は不幸じゃないよ」 少し嘘かもしれないと思いながら、それでも僕は意地を張ってそう答えた。勝手に産んだくせに僕に対していつも恨みがましい事ばかり言っていた母親。そんな僕ら親子にいつもくだらない視線を向けてきた赤の他人。嫌いだった。 またそんな中、時々気紛れで親切にしてくれる人が現れると僕はバカみたいに喜んで擦り付いて、その人たちに依存した。 大嫌いだった。 「 どうりでなぁ。だからキミは甘え上手なんだ?」 水が言った。 「 キミがどう言おうがさ。それって結構可哀想な境遇じゃん。だからつまり、キミは染み付いちゃってんだよ。孤独ってものの恐怖がよく分かってるから、だから無意識に人に甘える癖がついてる。長年やってきたから、そのスキルもなかなか」 「 ……甘え上手に見える?」 「 見えるさ。だって―」 水はそう言いながら僕にどんどん近づいてきた。やばいと思ったけれど動けずにいると、水はそんな僕の傍に屈み込んでそのまま触れるだけのキスをくれた。 水の唇がやってくると僕の胸はいつでも急に苦しくなった。 「 ……ほら。こんな可愛い顔してんじゃん。猫だ猫」 「 猫…?」 「 そうだよ。僕は寂しくないよってフリして、その実すごく構ってもらいたいって類のさ」 「 ……猫って本来誰にも懐かないんだろ」 せいぜい抵抗したくて僕はぼそりとそう言った。水に自分の弱さをもろに突きつけられた気がして堪らなかった。いつでも水には何もかも晒してしまっていた自覚はあった。それでも、こんな所にまで踏み込んできて欲しくはなかった。 だって水の方は絶対に自分を見せないから。 「 キミ」 その時、水が僕の顎先を摘んだまま僕を呼んだ。何となくその声色に驚いて顔を上げると、彼は僕にいやに真面目な眼を向けて言った。 「 お前がとことん懐いてくる猫だったら俺はこんな構わねえよ。お前、丁度良いの」 「 丁度…?」 「 そ。女みたいにベタベタしないし、男の中じゃ俺好みの顔してるし。俺にはさ、そういうのが重要なんだわ。俺の中でキミって凄く大事」 「 何それ…」 「 俺なりに大事って話。これって結構嬉しい発言じゃない?」 「 どっ…」 どこが、と言おうとして、けれどその瞬間また水の甘いキスに封じられて、僕は声を出す事ができなくなった。 そしてその後、水は珍しくも僕に2度目を求めてきて、僕たちはその晩今までで最長のセックスをした。あまりに精力的な水についていけなくなって最後は気を失ってしまう程、それは激しくて熱いものだった。 『 キミ。俺はお前に好きとは言わない』 水は何かというと僕にそんな事を言った。 『 キミ。俺はお前を好きじゃない』 嘲笑うように言われた事もある。 「 いいよ…」 僕はその度そう言って、力なく笑って見せた。すると水は決まって「イイコだね」なんて言って僕の頭を子どもにするみたいに丁寧に撫でた。 そんなやりとりにまた1つ「バカだな」と呟く自分がいたけれど、また一方で水のその笑顔や手の温もりを「好きだな」なんて思う自分を否定できなかった。 実際僕は水が他の女の子と寝ようが、或いは男とも寝ていようが、特に煩い事を言うつもりはなかった。それが嫌じゃないと言えば嘘になったし、彼のつけてくる香水の中に以前と同じものがあった時なんかは、「誰かお気に入りができたのかな」なんて思って気持ちが落ち込んだりもした。そんな自分を情けない奴だと思っても、思ってしまう事を止められなかった。 「 俺って最低だろ。キミ」 水は帰り際、玄関口で靴を履きながら見送る僕によくそう言った。 「 うん…。そうだね」 そうして僕が決まってそう言うと、水は何故か妙に嬉しそうな顔をして笑った。 「 でも、捨てないでくれよな」 そんな言い方をするなんてズルイ。 そう思いながらも、僕はそんな時いつも水のその背中を追ってぎゅっと抱きしめたくなってしまった。おかしな話だった。いつも依存して抱きしめてもらっているのは僕の方だと言うのに、僕は水を抱きしめてやりたいと思ったのだ。 |
後編へ… |