いつものやつ、なら



「け、慶介……」
  出掛ける直前、恐る恐るという風に声を掛けてきたその男。
「………」
  慶介は玄関のドアに手を掛けたままの格好であからさまため息をついてしまった。もうあとはこの扉を開けて外へ行くだけだったのに。この「ロクデナシ」が仕事で貫徹したとぼやきながら寝室に閉じこもったのはつい1時間程前で、本来なら顔を見ずに1日を過ごせる算段だった。
  やはり夏樹の事となると敏いな、と思う。
「……お父さん」
  それでも慶介は仕方なく振り返り、その相手―自分の父親である男―に、思い切り不遜な表情で返事をした。
「何か御用ですか」
「そ、その棘のある言い方…! いい加減、やめてくんないかなぁ…!」
「普通ですよ」
  素っ気無く答えたものの、慶介は仕方がないという顔でその「一応」の父親へきちんと向き直ってやった。あまり苛めると面倒臭い事に泣き出してしまうし、それをされた後はこれがまたしつこい程に後々までクドクドネチネチ絡んでくるから、さすがの慶介もどこかで折れるより他なかった。また、そういう「意外に陰湿」な所が、紛れもなく自分の親だと実感してしまうから腹立たしい。
「あ、あのさぁ、あのさぁ……」
  神経質に身体を揺らしながら言いたい事を口元でもごもご濁す父に、慶介はぴくりと形の良い眉を動かした。自分は何と心の広い人間かと思う。何せこんなおぞましい男と一つ屋根の下で18年間も暮らしてきたのだから。

  慶介の父・公晴(きみはる)は35才という若さだが、見た目と言動は更にその実年齢を大きく下回る。「玩具メーカーに勤めているから子どもっぽい」などと言う気は慶介としてもサラサラないのだが、本人が冗談めかして「心はピーターパン」などと素で言い放つと、思い切り足蹴にしたくなる一方で、「そうかもしれない」と思わざるを得ないから堪らなかった。
  黒々とした髪をどこぞのお坊ちゃんのように綺麗にまとめ、スーツを着ても七五三かと見紛う程の小柄な体格。声もやや高い。はっきり言って「キモチワルイ」のだが、突飛なアイディアやそれを商品化出来る才能と器用さに富んだ父は、その手の業界では知る人ぞ知る「天才発明家」らしかった。

  しかし、慶介はこの父親の事が大嫌いだ。
  ただ、そういった本音の部分と表に出す態度とを分けるのは得意中の得意である。今にもウルウルと涙ぐみそうな相手を前に、慶介はわざとニコヤカに接してやった。
「何か話があるなら帰ってから聞きますよ。今日は急いでいますので」
「だ、だからまずさ。その話し方をやめよう? なっ? そうしないと、お、お父さんとしてもこう〜…、怖い慶ちゃんの前だとさっ。うまいこと話が出来ないというかね…!」
「僕が丁寧なのは元からですよ。上品なお父さんとお母さんに似たんでしょうね。―…話が出来ないなら出来ないで僕は構いません。行ってきます」
「またっ! また、夏樹君の所に泊まるんだろう!?」
「……だったら何です?」
  この男から夏樹の名前が出るのも嫌だ。怖気が走る。
  そう思いながらも努めて冷静なフリをして一瞥すると、相手は切羽詰まったような、やはり泣き出しそうな声で縋るようにまくしたてた。
「前から頼んでるじゃないかっ。夏樹君に、早くこの家へ戻るよう説得してくれって! そ、それを自分ばっかり夏樹君の所に通いまくって、ご飯作って洗濯して!? まんまと夏樹君に懐かれてる…! け、慶ちゃんのなー、魂胆は、ミエミエだぞ!」
「一体何の話をしてるんです。僕にはさっぱり分かりません」
  慶介はフンと鼻先で哂った後、必死の形相をする父を格下に対するような目線で見下ろした。慶介の高身長もすっと整った切れ長の眼元も、恐らくはモデル張りに美しくスタイルの良い母親譲りであろう。この気色の悪い男に似なくて良かったとは、心底思うところである。
  その自分に血が近いと思う母が「夏樹君ってキュートなところがうちのダーリンと似てるよねー」と言った時は、我が親ながら殴ろうかと思った事もあるが。

  大体、夏樹に似ている男が「あんな真似」をするか。

「お父さん」
  慶介は万人が震え上がらんばかりの冷たい声で言い放った。
「貴方も甥っ子に欲情するなんて不毛な真似はやめて、偶には休暇でも取って奥さんの所にでも行って下さい。あの人も寂しがってますよきっと」
「……仕事が忙しくてね」
  ボソボソとそんな事を言う父に慶介はすうと目を細めて射るような鋭い視線を向けた。案の定それだけで父はコソコソとリビングへ逃げ戻ってしまったのだが、やはり去り際扉の陰から言い含めるように口を出す事だけは諦めなかった。
「とにかく! 夏樹君には、《あの事》は誤解だからって言ってくれ! 戻ってきてくれたら、夏樹君の好きな物何でも買ってあげるから、とも言っておいて!!」
「……言うか馬鹿が」
「何!? 何か言った!? また酷いことを呟いたでしょう!?」
「いいえ。それじゃ、もう本当に行きますよ」
  もう顔を見るのも声を聞くのも嫌だったので、慶介は遂に踵を返すと忌々しい自宅を後にした。
  早く可愛い夏樹の顔が見たかった。





  慶介が従弟である夏樹を「そういう目」で見始めたのは、夏樹の父親である公信が失踪した事がきっかけだった。
  父である公晴の弟―つまりは慶介の叔父である彼は、何を思ったのか、まだ中学生の一人息子・夏樹を残して突然「家出」をしてしまった。
  外見は公晴とは似ても似つかない、スラリと背の高い美丈夫である。頼もしい感じがして仕事もバリバリとこなす、慶介にとってはこれぞ理想の父親という感じの人だったのだが、「どこか頭がおかしい」という意味では、結局公晴とさほど変わりがなかったようだ。
  夏樹にしてみれば母は病気で他界し、兄弟も祖父母もいない身の上とあっては、頼れる者は公信だけだ。親戚筋と言っても、慶介や公晴は夏樹ともそれなりに面識はあれど「それだけ」で、実際あまり近しい存在ではなかった。公晴は結構な仕事人間で、同じく外国で仕事をしている妻にすら殆ど連絡を取らない男だったし、慶介は慶介で自身の生活が楽しかったから、年下の従弟を構う暇などなかった。元々人間関係は「広く浅く」がモットーである。親が親という事もあり、「血の繋がった他人」である親戚付き合いなど、ほぼ皆無と言って良い状態だったのだ。
  ただ、僅かな金銭を公晴に託して公信が消えたと聞かされた時は、慶介もさすがに「じゃあ息子の夏樹はどうしたんだ」と気になった。確かにそれほど親しい仲ではなかったが、「いつも素直で可愛い従弟」くらいの意識はあったし、その夏樹はまだ義務教育も終えていない。慶介は自身が無責任でおかしな両親に育てられたせいもあって、突如として孤独な立場に追いやられた従弟の事は十二分に同情・共感出来た。

「慶ちゃん…っ。おと…お父さんっ…どっか…い、行っちゃって…」

  最初慶介が夏樹の元へ駆けつけた時は、夏樹自身まだ事情を飲み込めていなかったのか、割と平然とした顔をしていた。
  けれど慶介が「大丈夫か」と心配そうな声を掛けてその肩に触れた時、無意識に堰き止めていたものが溢れ出てきたのか、夏樹は途端ぽろぽろと泣き出して、慶介の胸に飛び込んできた。

「急に…何か、変だったんだ…っ。ひっ…父さ…ひっ…仕事、クビになったって…言ってて…! し…死ん…死んじゃったら、どうしよう…?」

  必死に父がいなくなるまでの事を語ろうとする夏樹は健気で憐れで、慶介の庇護欲を煽るのには十分だった。子どもだとは思っていたけれど、こんなに小さかっただろうか、こんなに泣く子だったろうかと思うと、そうならざるを得なかった経緯に何やら心内に靄が掛かった。夏樹は父の自殺をしきりと心配していたけれど、こんなに可愛い子どもを置いて勝手に蒸発した叔父など、「何処ででも野たれ死にすれば良い」としか思えなかった。
  慶介は自分にとって害だと思う人間には容赦なかったが、基本的には人当たりも良いし優しい男である。だから、この時も自分に縋りつく夏樹の事はきちんと面倒見てやらなければと思った。

  夏樹が慶介の前で大泣きしたのは、結局その時だけだったのだけれど。

「慶ちゃん、また来たの? もう俺ひとりで平気だってば」
  はじめこそ慶介の家にいた夏樹だが、慶介の父親が突発的に及んだ「凶行」が原因で、夏樹は正真正銘一人だけの暮らしを始めた。勿論そういった諸々の手はずを整えてやったのは慶介と夫の愚行を知った慶介の母・小夜里(さより)だが、本当はもっと良いマンションに住まわせてやりたかったのに、「ここでいい」と頑固に夏樹が選んだのは、お世辞にも綺麗とは呼べない、古ぼけたアパートの一室だった。
  食事も洗濯も家事の一切合財を一人でやるというのは並大抵の事ではない。おまけに家族を失い、親戚筋もおかしな奴しかいないとあっては、普通なら誰でも絶望するだろう。
  けれど夏樹はそれこそ一生懸命その新しい生活に順応しようとし、折に触れ手伝いと称してアパートへ押しかける慶介をやんわりと断り、「大丈夫だから」と繰り返した。
  そんな押し問答を繰り返していくうち、慶介は自分が夏樹の為に世話を焼いているのではなく、自分がしたいからそうしているのだという事に気がついた。
  これまで年下に触手が伸びた事はなかったので途惑いはあったが、夏樹と接しているうちにそういった感情も驚く程に薄れていった。それどころか夏樹のひたむきな可愛らしさを眺めていると、何故こんなにも近くにいたこの存在の貴重さに今まで気づかなかったのかと、己の不覚さを激しく詰りたい想いに駆られた。
  慶介は3つ下の従弟である夏樹に夢中だった。
  だからこの夏樹を如何にして自分のものにするか、最近ではそればかり考えるようになっていた。





「あ、慶ちゃん! 遅いよっ」
  渡されていた合鍵を使ってノックもなしにアパートの扉を開けると、台所からさっと顔を覗かせた夏樹がぶすくれた声をあげた。
  慶介はそんな夏樹に、父に見せた顔とはまるで違う柔らかな表情を向けて「ごめんごめん」と謝った。
「出掛けにエロ猿に捕まっちゃってさ。買い物もしてたし」
「え? えろ…猿? 何、こんな街中に猿なんかいるの? 山から下りてきたやつ?」
「そうそう」
  適当に返事をして慶介は頷き、その後もその話を聞きたそうな夏樹は敢えて無視して、スーパーの買い物袋を台所へ運んだ。 
「お、一人で大分進めてたね」
「んーん。焼くところはやっぱりまだ怖いから、慶ちゃんが来るの待ってた。あ、でも!  形は割とうまくいったと思うんだ!」
「うんうん、本当だ。どんどん上達してる。なっちゃん才能あるよ」
  床に料理の本が開かれたまま落ちているのを視界の隅に捉えながら、慶介は夏樹が必死になって作ったであろう餃子を見てニコリと笑った。
  最近夏樹は料理を覚えたいと言って、ハンバーグやカレーなどから始め、今は餃子にハマっている。皮を買ってきては中身の具も魚介や野菜などその都度変え、味付けも工夫するなど、やたらと作っては「餃子パーティ」をしたがるのだ。
  これまで夕飯は慶介が作るか、夏樹が一人の時はもっぱら弁当屋が常だったのだが、最近はこうして一緒に台所に立つ事が増えた。それを何の変化なのだと訝しむ気持ちはあったが、毎日楽しそうな夏樹の顔を見ると、まあいいかと思ってしまう。
「じゃあ焼くのは俺がやるから、なっちゃんは俺が買って来たもの冷蔵庫入れて。お茶とかも向こうに運んでおいて」
「うん。お茶碗も運ぶね」
  そう、最近夏樹はやたらと素直だった。根っこの部分が「そう」だとはとうに知っている事なのだが、つい最近まではわざと意地を張って「あんまり構わないでよ」とか「慶ちゃん煩い」等々言っていたのに、この頃は「今日は何時に来られる?」などとわざわざ訊いてきたりするものだから。
  だから、夏樹のそんな始終ニコニコした様子を見ると、慶介はついつい自分も浮かれてしまう。そんな己に苦笑せずにはいられないが、正直こんなに毎日が楽しいと思った事はなかったので、まあ何でも良いかと深く考える事を放棄してしまう。
「わー、スゲー。おいしそー!」
  ジュウジュウと食欲をそそる音と匂いに頬を紅潮させ、夏樹は焼きあがった餃子を皿に盛る慶介を嬉しそうに見上げてきた。慶介はそれにいつもの微笑みで返した後、それらも食卓に運ぶよう指示した。
  そしてそれにもすぐさま頷く素直な夏樹を眺めながら、「ああ、こんな可愛い新妻が欲しいな」と半ば真剣に思案した。 



 

後編へ…