泣き虫ロボット     


―1―



「まったく気持ち悪い奴だよなぁ。いつも砺波(となみ)のこと、ねっとりした目で見つめててさぁ」
  初めてその陰口を聞いてしまった時、雅(みやび)は心臓が飛び出るのじゃないかと思う程に驚いた。
「まぁこんな学校だし? 砺波にハートマーク飛ばしてるキモイ男子高校生クンは後を絶たないわけだけどな…ははっ! けど、あれだけはないだろ!」
  1つ上の上級生たちが部室で嘲るような笑い声を飛ばしている。その中には話題の中心である「砺波先輩」もいるようだったが、雅がいるドアの外からそれを正確に伺う事は出来なかった。
  けれど、耳を澄ます必要もなかった。無意識のうちドアに手を触れた瞬間、その当人の声がはっきりと聞こえてきたから。
「誰の事言ってんだ。いっぱいい過ぎて分かんねェ」
  あのぶっきらぼうでいつでも不機嫌そうな声。それは間違いなく立科(たてしな)砺波本人だった。
  雅は胸の鼓動を更に速めつつ、背中にいやな汗を浮かべた。
「とぼけるなって。あの藤村ミヤビだよ。顔もその名前とおんなじで、女みたいな奴」
「あのひょろっとしたとこが、またキショイよなぁ」
  その発言を受けて集団から一際高い笑声が起こり―…、雅はぎゅっと目を瞑った。

  何だ、やっぱり自分のことだったのか。

「知らねェよ、そんな奴」
  その上、追い討ちとはこの事だ。当の砺波が全く関心ない声でそんな風に言った。
「名前なんかいちいち覚えてねェし」
  雅はその台詞にぎくりとして目を見開いたが、血の気が引いているせいかその場に立っているのもやっとだ。逃げ出す事は出来なかった。
「えっ、お前あいつには結構話しかけたりしてるじゃん。お前レベルでは割と優しめな態度だったし。ひっでぇ、名前覚えてなかったのかよ!」
「そこまで眼中なかったとは!」
「雅ちゃん、カワイソウ〜。あれは絶対お前に惚れてるクチなのにさぁ!」
  ケラケラと尚も続く上級生たちの笑い声。「可哀想」なんて全くうわべだけだ。彼らの容赦ない言葉の数々に雅の胸はキシキシと痛む。
  でも、本当にそうだ。雅ははっと息を吐いて、普段の部活風景を思い浮かべた。
  部で顔を合わせると、砺波は雅にいつも親切な指導をしてくれた。ぶっきらぼうで言葉は乱暴だけれどアドバイスは的確だし、見本と称してあの大きな掌が次々と難解なコードを組み合わせて1つの部品を作り上げていく様はいっそ芸術的ですらあった。雅はそんな砺波に素直に尊敬の念を覚え夢中になっていたから、他の同級生たちよりもつい積極的に話しかけていた。また、砺波もそれに対しあからさま邪険にする様子は見られなかった。
  だからもう、名前くらいは覚えてくれていると思ったのに。
  けれど砺波の氷のように冷たい声が耳にツキンと響く。
「俺は不細工には興味ねーよ。大体あの1年連中、どいつもこいつもバカばっかじゃねーか。話あわせてやんの、凄ェ疲れる」
  元々口の悪い先輩だなあとは思っていた。「テレビ」での印象が強かったから、さすがに最初はショックが大きかったけれど、それも彼の鋭い眼差しと整った顔から発せられたものだと思えば悪い気持ちはしない。
  それでも、さすがに「不細工」、「バカばっかり」とはあんまりだ。雅の恋心は花と散った。
  人の評判なんて全く当てにならない。無愛想だけれど「硬派で優しい」と評判の立科砺波先輩がこんなに残酷な人だったなんて。
「とにかく、いつまでもくだらない話すんのやめろ」
  砺波のぴしゃりとした声が部室に響く。
「それにいつも言ってるだろうが、俺がここに籍置くのだって、あのオタク部長に借りを返す迄の事だ。大会にも出る気なんかねェし」
「まあいいんじゃないの。どうせ一生懸命やってるの、そのオタク部長さんだけだし?」
「そうそう。大体、今ドキロボットはねえよ。キモオタ扱いされてモテねーったらないね」
「俺らも部費が高いからいるようなもんだしな」
「ホントホント!」
  もう帰ろうぜと次々椅子を蹴る音が聞こえてきた事で雅はようやくハッとし、急いでその場を後にした。石化して動かないと思っていた足もこの時は思いの他俊敏に動いた。努めて音を立てないよう早足で廊下の角を曲がり、階段を駆け下りる。部室に忘れてきてしまったノートは明日の朝早くに取りに行けばいい。……否、最早ノートの事などどうでも良い。気付けば視界はぼんやりと涙でぼやけて見えなくなっていた。こんな事で泣くなんてバカ気ているのに。
「ううっ…」
  それでもやっぱり自分が情けなくなって、雅は泣いてしまった。
  本当にバカみたいだ。浮かれていた自分は頭に「大」がつく程のバカ野郎だ。
  折角憧れの立科砺波のいる高校に入れたのに、何もかもが台無しになった。





  雅は子どもの頃から機械に興味があり、中でもロボット作りの事となると学校は勿論、食事や睡眠も忘れてしまうくらいのめり込んでしまう、所謂「オタク」に豹変した。
  お陰で同級生らと外で元気良く遊ぶといった習慣も少なく、小学校の頃から友だちという友だちが出来ない。毎年学年が変わる度、クラスに1人はいるプラモデルが趣味の同級生と親しくはなるのだが、そんな「同士」も雅の“オタク度”には敵わず、気付けば教室でもいつも一人になってしまった。

「それなら、ロボット選手権に出るくらいの有名高校に行けばいいよ!」

  そんな雅を心配して、両親や妹が提案したのがそれだった。
  これまでは雅の情熱を理解してくれる人間が「たまたま」周囲にいなかったが、実際世間は広いのだ。世の中にはロボット作りを競う世界大会なんてものもあるし、日本でもその手の大会出場を目指して毎年凌ぎを削るような凄い高校が幾つも存在している。そういう学校へ行けば、雅にもきっと友だちの一人や二人は出来る。それに思う存分ロボットの事だけ考えて生活出来るのだ、こんなに素晴らしい事もないだろう―…と。
  家族が一生懸命雅に合った学校探しをしてくれた事を雅はとてもありがたく思っている。受験勉強は大変だったけれど、そして家族が望んだ「本命」のロボット高校には行けなかったけれど、こんなに温かい家族がいるのだから、友人が出来なくても別に大丈夫だと思えたくらいだ。
  けれど。

「あ、お兄ちゃん、お帰りー。今日、早かったねえ」
「うん」
  もう大分老朽化が進んでいる公団住宅の4階にある自宅。錆びれたドアを力任せに引くと、中から途端明るい声が聞こえてきた。妹の麻奈(まな)だ。雅とは7つも年が離れているが、とても大人びていて優しく頼りになる少女だった。
「今日は部活早くに終わったの?」
「うん…。部長が用があるって帰っちゃったから、自主練みたいになって」
「ふうん? やっぱ全国大会目指してない高校だとヌルイねえ。お兄ちゃん、そんなので物足りるのー? 同士は見つかった?」
「まだ入学して一ヶ月くらいだし。分かんないよ」
  適当に誤魔化して、雅はリビングのソファに寝転びテレビを見ている妹を避けるようにして洗面台へ向かった。麻奈に落ち込んだところは見せられない。ましてや、滑り止めとはいえ、雅がロボット工学が学べる私立高校を受験する為に「私は頑張ってお金の掛からない都立に入るから、お兄ちゃんは好きな所に行っていいよ」なんて言ってくれた妹に、「今日凄く嫌な事があったから、やっぱりもう今の部活辞めたい」だなんて、口が裂けても言えない。
  大体にして、雅の第一志望校は今の学校なのだ。両親にも妹にも言えなかったが、全国レベルのロボット部がある某国立高校をわざと落ちて今のところに入ったのは、全て雅の我がままだった。
  全ては砺波と同じ高校に入りたかったが為。
  雅は中学受験の時期、ロボット選手権の模様をテレビで見ていた際、「期待の新星」と紹介されていた砺波を見て一目惚れをした。だから今のクラブに絶対入りたいと思った。自宅から近くて滑り止めには良いと両親も賛成してくれたが、如何せん当初の目的とは違って実績のないクラブである。おまけに当初の本命よりは格段に劣っているし、学費も高い。だから「やっぱりここを第一希望にしたい」とはどうしても言い出せなかった。
  言い出せないままに、雅は卑怯な手で今の高校に入学した。妹の麻奈にだって好きな進路を選ばせたいと思っていたくせに。
  それなのに、入部一ヶ月で上級生たちからは勿論、当の憧れの砺波からも「気持ち悪い奴」認定されてしまうとは……己の勝手が招いた天罰としか言いようがなかった。
「お兄ちゃーん。ポテチあるよー? 食べるー?」
「いいよ。麻奈が全部食べて」
  洗面所から慌てて声をあげ、雅はその勢いのままバシャバシャと冷水で顔を洗った。
  明日からどんな顔で砺波を見れば良いのか。いや、砺波だけじゃない、自分の事を嘲た目で見る上級生たちがいる場所で、純粋に大好きなロボット造りに励む事が出来るのだろうか?
  無理だ、そんな真似到底出来ない。
(でも部活辞めるって聞いたら……麻奈やお父さんたち、どう思うかな…)
  水滴なのか涙なのかも分からない滴が頬を伝うのを鏡で見ながら、雅は「女みたい」とバカにされた自らの顔をくしゃりと歪めた。





  翌日、雅が教室で退部届けを書いていると、同じクラスの時田が「おっ、お前も部活辞めるのかあ」と嬉しそうな顔で近づいてきた。
「え? お前もって…?」
  驚いて雅が顔を上げると、時田は「あいつも、向こうの奴も」とさり気なく顎でしゃくりながら人懐こい目をしてくるくると笑った。
「希望に燃えて入学後すぐに部活に入るのはいいけどさぁ、大体挫折して辞め始めるのも一ヶ月くらい経った今頃なわけよ。その点、俺は部活動なんてものには中学の頃とうに見切りをつけてるからバイト三昧。お前もどう? 俺がやってるとこ、紹介してやんよ? 今、人手不足なんだよなあ」
「バイトか…」
  “ロボット造り”そのものに挫折したと思われるのは本意ではなかったが、時田の誘いは魅力的だった。実際家族に部活を辞める事を言い出せない手前、その本来は部活に費やしているであろう時間をどうにか潰さねばならない。本当は図書室かどこかに篭もって独りでもロボット研究に打ち込みたいところだが、そもそも学校にはいたくない。いずれ家族には本当の事を打ち明けるにしろ、今暫くはこの場所そのものから、砺波を思い出す全てのものから雅は逃げ出したい気持ちだった。
「どんなバイト?」
  だから興味本位で問い返したのだが、時田はそれに嬉しそうな顔を浮かべた。
「ファミレス。場合によって中入ったり、外で注文聞いたり」
「難しい?」
「慣れるまではな。けど、そんなんすぐ覚えるよ。それに、藤村は頭いいんだろ? 機械工学部だったよな、入ってたの」
「う…ん…」
「あそこって厳しいつか、“難しい”から、一ヶ月どころか入って1週間で辞める奴とかもいたじゃん。お前はもった方なんじゃないの? 何かあそこって立科さんだっけ? テレビにも出た有名人がいるから、何かと面倒そうだし」
「面倒?」
  雅が首をかしげると、時田は軽く肩を竦めた。
「取り巻き多いだろ? 男子校でああいうのって本当あるんだなー? 気持ち悪くねえ? 俺さ、ホモとかって本当理解出来ないから! 本命落ちてこんな男子校来ちゃったけど、マジ後悔してんの。だから、入学したらすぐバイト始めて外に出会い見つけようって思ったわけ。まだその出会いはねーけど」
「時田…面白いし、カッコイイから、彼女なんてすぐ見つかりそうだけど…」
「はあ? ……ははっ」
  雅の言葉に時田は一瞬ポカンとした後、どこか照れたような笑いを浮かべた。
「お前みたいなキレーな顔の奴に誉められると、何か凄ェ調子狂うなあ。つか、厭味か?って気持ちにもなるが」
「え、どこが?」
「どこがじゃねえよ。お前、マジで気をつけた方がいいぜ? 中学の頃とかもモテただろ? 女だけじゃなくて男とかにもさ」
「え、ええ……? そんなわけないよ……」
  そんな事は初めて言われた。
  雅は正直に面食らって激しく首を振った。時田は「謙遜するなよー」と苦笑していたけれど、雅にしてみれば時田の発言こそ意味が分からない。大体にして、昨日上級生たちからも陰でとはいえ、「気持ち悪い」と言われたばかりだ。中学の頃とて、オタクオタクとバカにされて、まともな友だちなど全然出来なかった。
  確かに、妹の麻奈や母親は「そのダサい眼鏡をコンタクトにして、髪もそんなボサボサじゃなくちゃんとしてくれれば問題ない! むしろモテまくる!」などと言って、高校入学前は嫌がる雅を無理矢理美容院に連れて行ったりもしたのだが。
「ま、何にしろバイトの事は考えとけよ。その気になったらすぐ連れて行くからさ」
「うん…ありがとう…」
  まともに友だちをつくった事のない雅は、こういう時にどういう反応をして良いか分からない。何とか笑顔を浮かべてはみたものの、時田はそんな雅を見て逃げるように去って行ってしまった。その為(やっぱり自分は駄目だな)と落ち込んでしまったが、それでもクラスメイトで親切に話しかけてきてくれる人間がまだいるだけ、この学校への希望を全て捨て去るのは早いかなと思い直す事も出来た。
(でも……)
  再び独りになり、雅は机の上の退部届けに目を落とした。
(今日これ渡せるかな…。部長さん、何て言うだろう?)
  2年連中にも揶揄されていた「独りだけ熱心な」3年生の痩せ細った顔を思い浮かべて、雅はそっと溜息をついた。砺波に憧れて入った部活だけれど、そこで出会えたあの部長の事も雅は尊敬していた。もっと仲良く話せる機会があれば、あの部長はきっと自分と話が合う。そんな風にも思っていたから、あの人に部活を辞めますというのは何とも言いづらいなと心はどんより重かった。





「藤村」
  そうこうしているうちに放課後となり、雅が下校しようと昇降口で靴に履き替えていると、背後から声を掛けてきた者がいた。
  それが誰かなどとは振り返らずとも分かる。その凛とした透き通った声は立科砺波のものだった。
「先輩…」
  恐る恐る振り返ると、そこにはやはりいつもにも増して仏頂面をした砺波の姿があった。
  思わずさっと顔が青くなったが、無視するわけにもいかないので雅は仕方なく身体ごと砺波の方を向いた。砺波にしてみれば別段話したくもない相手なのに、どうして声を掛けてきたのだろう、そういう疑問もあるにはあったが、思いつく事があるとすれば1つだった。
「何処へ行くんだ? 部室はそっちじゃないだろ」
  やっぱりだ。雅は小さく頷いた後、気付かれないようにそっと息を吐いた。
  帰りのHRの後に3年生の教室まで行ったが、生憎部長は用事があるとかで欠席だった。それで仕方なく用意した退部届けは鞄の中に入れ、雅は誰にも何も言わずに学校を出ようとしていたのだ。あの部長にはともかく、昨日集まっていた意地悪な2年生たちにわざわざ「今日休みます」と言いに行くのが嫌だったから。
「何黙ってるんだよ? サボりか?」
「あの…今日は…体調が…悪くて……」
「体調が…?」
  見え透いた嘘かなとも思ったが、砺波を前に昨日と同じく血の気が失せていくのは本当だった。砺波の顔を見ていたくない。この一ヶ月間、バカみたいに懐きまくって他の後輩たちよりでしゃばって話しかけていた…と、思う。無論、自分ではでしゃばっていたつもりなど毛頭ないのだが、上級生たちが特に自分の事を気持ち悪いと言っていたのだから、目立って砺波にくっついていたのは間違いないのだろう。
  だから居た堪れなかった。
  今こうして砺波と一緒にいるところを誰かに見られるのも嫌だった。
「あの…部長さんの所には行ったんですけど、今日休みと聞いたから」
「……なら俺に言っていけよ。メール、教えただろ?」
「え…?」
  雅は驚いて弾かれるように顔を上げた。
  確かに知り合って何日かした後、連絡用にと砺波からメルアドを貰っていたが、それを使った事は一度もなかった。大して親しくもないのに、また同じ部活で毎日会っているのに、いちいちメールを送るのも変だと考えていたからだ。大体砺波自身、形式上そうしただけで、実際雅からメールなど貰っても迷惑なだけだろう。
  それに不思議だった。昨日、砺波は雅の事など知らないという風に言っていたのに、メルアドを渡している事を覚えているなんて。気付かなかったが、砺波は全員の後輩に自分のアドレスを配っていたのだろうか?
「藤村」
「はっ…」
  ぼんやりとして声を出すのを遅らせていると、砺波の不機嫌そうな声と顔にぶつかった。
「……本当に具合悪いみたいだな。今度からはちゃんと言えよ? 家、送っていくぐらいはしてやるから」
「え? あの…」
  けれど途惑う雅に砺波の方は当然という顔をして自分も2年の下駄箱の方へ歩いて行き、そのまま雅と帰ろうとした。雅はぎょっとした。まさか本当に自分の具合が悪いと思って送ってくれようとしているのだろうか? それだけは絶対に絶対にやめてほしい! 何故そんな風に「いい人」を演じる必要があるのか? 面倒臭いなら放っておいてくれればいいのに。
  一緒にいて陰口を叩かれたりバカにされるのは自分なのに!
  砺波だって、後になって仲間たちと「藤村がバカみたいに浮かれて俺に送られた」なんて話すに違いない。
「い、いいです…っ」
  だから雅は焦って素っ頓狂な声をあげ、こちらに近づいてきた砺波に叫んだ。
  砺波はそれで思い切り怪訝な顔をしていたものの、雅に向かう足は緩めず、遂には目の前にまで来てしまう。
「何がいいんだよ?」
「送ってくれなくて大丈夫ですっ。僕んち近いですし…先輩は部活があるから!」
「別にいいんだよ、あんなもん。毎日出なくて」
「あんなもん…?」
  ロボット造りをバカにされたような気がして雅は思わずむっとしてしまったが、それに対してより一層むっとしたのは当の砺波だった。
  そうして何故か舌打ちしてから、意味もなく雅の髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き混ぜると、「冗談だよ」とまるで冗談じゃないみたいに口を尖らせた。
「今日は部長もいないだろ…。設計してたRUの動力部もあの人いないとどうにもならないし。だから今日は帰ったって支障はない」
「……でも」
「ちっ! でも、何だよッ!?」
「ぼ、僕は独りで帰れるので!」
  いよいよ本気で怒り出したような砺波に震え、雅は飛びあがらん程に怯えて駆け出した。
  失礼しますと言う声は恐らく相手には届いていない。一瞬、猛然とダッシュした雅を止めようとした砺波の手が肩先に触れたようにも思ったが、それも構ってはいられない。雅は脇目も振らずに全力疾走した。具合の悪い人間がそんな風に走れるのか?とツッコミが入ってもおかしくはないくらい、それはもう脱兎の如く。
「はあはあ…っ」
  元々体力がないから、駅までそうしただけでもうクラクラと眩暈がした。少し休憩しようと思ってホームに降り立つとすぐにベンチに腰掛け、鞄に入れていたお茶のペットボトルを取り出す。温くなっていて美味しくはなかったが、それでもカラカラの喉を潤してくれるのには十分だった。
「何で…っ」
  だから人心地ついた後、雅はまたじわりと涙が出そうになってしまった。
  雅の事など知らないと言って、頭の悪い奴扱いまでしておいて。どうしてあんな風に親切にしてくるのか。……その偽りの嘘があったからこそ、この一ヶ月間、雅はとても幸せだったわけだけれど。
  でも所詮は全部嘘っぱちだ。これだから人間なんて家族以外みんな信じられない。いつどこで裏切られるか分かったものじゃない。
(テレビで見た砺波先輩は本当にカッコ良かったのに……)
  未だ肩で息をしながらそう思った雅は、明日には絶対に退部届けを出そう、そうして時田が誘ってくれたアルバイトの面接を受けてみようと思うのだった。





「えっ、嘘だろ雅君っ。部活辞めちゃうなんて、嘘だよな?」
「すみません……」
  翌日、今度こそと訪れた部長のいるクラスの前の廊下で、雅はしょんぼりと項垂れた。
  機械工学部部長の東沢宗司郎(ひがしざわ そうしろう)は、中学時代の雅に似ている。大き過ぎる黒縁眼鏡を掛けて、髪の毛はボサボサで肩まで伸びている。痩せた身体に学生服が如何にも似合っておらず、今にも倒れそうな青白い顔。おまけに雅と違うのは無精髭もぽつぽつと汚く浮き出ているところだ。研究者然としていると言えば聞こえは良いが、仄かに匂う体臭からして、明らかに風呂にも入っておらず、「興味のある事以外には全くの無頓着男」と言えた。
  それでも雅は部長を尊敬していた。彼のロボットに対する熱い想いが、普段然程接する事がなくとも何となく感じ取れたから。
「雅君が辞めたら困るよっ」
  悲愴な声で東沢は言った。
「あの部、3年は俺しかいないし、2年はやる気ない砺波と、砺波の取り巻き連中だけ! 1年だって、2年のいびりと砺波の冷血漢のせいでどんどん辞めてっちゃってるし。でも、雅君だけは残ってくれると思ってた。だってロボットに対する愛情は俺と同じものを持ってるって感じてたから!」
「そ、それは…僕も……」
  こんなに熱く引きとめてくれるなんて思っても見なかったせいか、雅はじんとしてまたしても泣きそうになった。いつも部活の時は砺波が雅の指導担当みたいになっていたから、本格的にこの部長とロボット談義を繰り広げた事はなかったが、今にしてみればそれが猛烈に惜しい。部活は辞めても、個人的には先輩として慕わせてもらえないだろうか、そんな都合の良い事まで考えてしまう。
「まさか砺波は雅君までいじめたとか?」
  辞める決意が固い様子の雅を見て、東沢が絶望に満ちた声で言う。雅は慌てて首を振った。
  あの部室での上級生たちの会話を雅は誰にも言うつもりはなかった。そんな事を言っても下手に浮かれて砺波を慕っていた自分の愚かさを暴露するだけだし、今後の工学部を考えた時には自分などより砺波の方こそが必要だから。何でも砺波はこの部長に「借り」とやらがあって、その為何やかやと宥めすかした部長によって籍だけ入れられているらしいが、彼のメカニック知識は群を抜いており、実力も本物だ。部長の折角の努力を雅は無にしたくなかった。
「砺波先輩は…何も関係ないです。良くしてくれてましたから」
  雅が言うと、東沢もこれにはうんうん頷いて同意した。
「そうだよね? あいつ、雅君には特別親切にしていたと思うよ。いつもは面倒臭がって後輩の指導なんて絶対断るはずだよ。それに、雅君だけを特別にしてたら角が立つだろうからって、珍しく気を遣って他の後輩にも話し掛けたり涙ぐましい努力してたし」
「は、はあ…?」
  部長は良い人だけれど、時々勘違いな人だ。
  そんな感想を抱きながら、それでも雅は無理矢理に昨日書いた退部届けを押し付けると、きっぱりと言った。
「ロボット造りが嫌いになったわけじゃないです、絶対に。でも僕、バイトしなくちゃならなくなったので…。だから、すみません!」
「えっ、それって……じゃあ経済的な理由なの? 確かにうちは学費もそう安くはないけど…」
  何事か考え込んだようになった東沢にこれ幸いと、雅は無駄に何度も頷いた。
「これまでも独学で色々やってたし。自分でやれる範囲で頑張るので…それじゃ、ありがとうございました!」
「えっ、み、雅君!」
  東沢が引きとめるのも構わず、雅はまたしても昨日と同じ猛烈ダッシュをしてその場を逃げのびた。これでいい。これで自分はもう砺波とも、あの機械工学部とも関係なくなった。別に部活を辞めたくらいで自分のロボットへの情熱が失せるわけではない。
  とにかく砺波と離れたい。雅の想いはそれだけだった。




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タイトルに特に意味はありません…。